第九話 硝子の島③
――――共振結晶体。
その名前が出たとき、セロンのみならずニーナまでもが不可解そうな表情を浮かべた。それも当然だろう。共振結晶体という名前を聞いてその中身を正確に思い浮かべることができる人間は、イストを別にすれば彼の師匠であるオーヴァ・ベルセリウスくらいのもので、つまり一般にはまったく知られていない。
「………どういったものなのだ?その、共振結晶体というのは」
「読んで字の如くさ。『共振現象を利用した結晶体』だ」
そういわれても分らないだろうと知りつつ、イストはそう説明した。なにしろ「共振現象」の中身を知っているのは、世界広しといえどもやはりイストとオーヴァくらいのものであろう。
ある特定の二種類の合成石を粉末にして混ぜ合わせると、伝導率が飛びぬけて高くなる特定の割合をもつことがある。これがイストのいう「共振現象」である。
これはイストが見つけた現象ではない。今からだいたい二百年くらい前のアバサ・ロットが遊んでいたら発見してしまった現象だ。興味をそそられ少しばかり研究したらしいが、もともとアバサ・ロットは魔道具職人である。錬金術師の真似事はすぐに飽きてしまい、こうして共振結晶体に関するレポートは未完成のままお蔵入りしてしまった。
とはいえレポートは「狭間の庵」の資料室に残っている。以前、イストは資料室をあさっていたときにこのレポートを見つけ、読むだけ読んではいたのである。
そのレポートを読んですぐに、この共振結晶体を使えば魔ガラスを実用化できるのではないか、とイストは考えた。考えたが、実行には移さなかった。
この当時イストはまだ見習いとはいえ、魔道具職人の端くれである。共振現象を発見したアバサ・ロットと同じように、素材関連の事柄に興味はそそられなかった。そちらに時間を割くくらいなら、新しい魔道具を作りたかったのだ。
(作りたい魔道具に必要になってからでいいか………)
イストはそう考え、魔ガラスの実用化は先延ばしとなった。聞いたことはないが、恐らくは彼の師匠であるオーヴァも同じようなことを考えていたのであろう。
そして結局実用化されることなく、現在に至るわけである。今現在も必死になって魔ガラスの開発を行っている研究者や錬金術師たちが聞いたら呪い殺されそうな話だが、事実なのだからしょうがない。
ただこういった話を、イストはセロンにしなかった。彼が今聞きたいのはこういうことではあるまい。
「記録に残っている共振結晶体の伝導率は7.6。理想とされる8.0には届かないが、まあ今のところはこれでも十分じゃないのか」
ちなみに、この伝導率7.6の共振結晶体、実は魔道具の核として使用された。作ったのはもちろん共鳴現象を発見したアバサ・ロットで、
「多分暴走するだろうなぁ」
と思いつつも悪ふざけのノリで作り上げた。
果たして予想通りに魔道具は暴走した。魔導士がとある城の練兵場で魔道具を使おうとして魔力を込めた瞬間のことである。本人はほんの少しだけ魔力を込めたつもりだったのに、その魔道具は魔導士の魔力を致死的なレベルで根こそぎ食い尽くし、結果その魔力量に耐え切れず爆発した。そして城の分厚い城壁に大穴をあけたという。
作った本人は安全圏からそれを見物して爆笑。一部始終を日記に記録し、最後に「楽しかった」と書き添えた。
明らかに悪ふざけの域を超えた犯罪、いやもはやテロ行為だが、アバサ・ロットという人種のはた迷惑な一面を的確に表している事件と言えるだろう。
それはともかくとして。
ジルドとニーナは「紫雲」に来る前のイストの思わせぶりな言葉から、ある程度この流れが予想できていた。だから驚いてはいるが、心のどこかで「ああやっぱり」と思っていたりもする。しかしセロンは違った。
「それじゃあ………!」
イストの話を聞いたセロンが目を輝かせる。
「ああ、この共振結晶体を使えば、恐らく魔ガラスを実用化できる」
イストの言葉を聞いたセロンは、体を震わせる。その理由は、後からあとから湧き上がってくる歓喜だ。勢い良くテーブルに手をつき、セロンは身を乗り出した。
「是非、その共振結晶体を使わせて欲しい!」
「条件がある」
セロンの喜び方に苦笑しながら、イストはそういった。セロンはその言葉で少し冷静さを取り戻したが、それでも顔には喜色がありありと浮かんでいる。
「何でも言ってくれ。可能な限り善処する」
「まず共振結晶体だけど、実物はないからこれから合成することになる」
その実験ために多数の合成石が必要になる。そこに掛かる費用は必要経費として「紫雲」に出してもらいたい、とイストは言った。
「それは当然だな。ただし、領収書は取ってきてくれよ?」
水増し請求されてはたまったものではないからね、セロンは冗談めかして釘を刺した。イストも苦笑しながらそれに応じる。ただ彼の場合、金銭にこだわる性質ではないからあまり心配はないだろう。しかしそれゆえに金に糸目をつけず、研究費がかさんでしまう可能性はあるが。
もっとも、現時点ではセロンがそんなことを知る由もない。
「他に、必要な機材などはあるか?」
「いや、合成石さえ用意してもらえれば、あとは自前の設備がある」
もちろん亜空間内におさめられたアバサ・ロットの工房「狭間の庵」にある設備のことである。ただセロンはそのことを知らない。流れの魔道具職人と名乗ったイストがどこに専門的な設備を持っているのか疑問に思ったが、本人が大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろうと思い、それ以上は考えなかった。
「ああ、でもそうだな。『水盤計』は用意しておいたほうがいいな」
イストのいう「水盤計」とは、魔力伝導率を測定するための魔道具だ。一般的に伝導率を測定する際にはこの魔道具が用いられる。水盤に水を張りそこに測定するサンプルを沈めて魔力を込めると、針が動いてサンプルの伝導率を指示するのだ。
この魔道具は「水と比べてどれくらい魔力が流れやすいか、または流れにくいか」を調べるもので、そのため水の伝導率が1.0と定められているのだ。
「オレは自前のを持ってるけど、この工房にはないだろう?魔道具素材に手を出すなら、持っておいたほうがいい」
珍しいものでもないから商会に注文すれば簡単に手に入る、とイストは言った。確かに魔ガラスを開発しても、その伝導率を測定していなければ商品として売り出すことは出来ない。セロンもすぐに頷き「用意しておく」と答えた。
「それで、実験の結果が出るまで、どのくらいかかる?」
「多めに見積もっても、一ヶ月あれば大丈夫だろう」
「………随分早いな」
そういってセロンは少し不審そうな反応を見せたが、イストは笑ってこう答えた。
「大まかな資料は残っているしな。それに使えそうな共振結晶体を合成するだけで、仕組みを解明するわけじゃない。ま、時間がかかりそうなら、その時ちゃんと言うよ」
イストのその説明にセロンは一応の納得を見せた。
「それで、報酬の話だが………」
喜色を抑えて目に若干の鋭さを加え、セロンは最大の懸案について切り出した。ここでイストが求める報酬額や条件によって、今後の魔ガラス開発の進展が左右されると言っても過言ではない。
「報酬は三人分の衣食住の保障。以上」
「………は?」
イストが要求した“報酬”にセロンは絶句した。高いのではない。その逆で、「何か裏があるのではないか」と疑ってしまうほどに破格過ぎるのだ。
魔ガラスが実用化されればその市場規模はかつての聖銀にも匹敵するであろう、と言われている。つまり小国の国家予算並みの金が動くのだ。セロンはそのことを知らないだろうが、イストは知っている。にもかかわらず報酬が「三人分の衣食住の保障」では安すぎる。もはや無料と言ってもいいくらいだ。
「さっきも言ったけど、共振結晶体を準備するだけなら一ヶ月もあれば多分大丈夫だ。だけどオレはそのためにシラクサに来たわけじゃない」
イストはもともと、シラクサで“四つの法”の全体像を解明するつもりでいた。それ自体は別にシラクサでなくとも出来るのだが、ようはこちらが彼の目的であり、共振結晶体の合成はいわば余計なことであった。
「それで共振結晶体を合成した後も、衣食住を保障して欲しい。それが俺の求める報酬だ」
だいたい半年くらいかな、とイストは期間を告げた。
「………本当にそれでいいのか………?」
半年間、三人分の衣食住を保障する。それでもはっきりと破格過ぎる。セロンはどうにも納得できないような表情を見せたが、イストは笑いながら「いいよ」と答え、さらにこう付け加えた。
「オレは魔道具職人だからな。金は魔道具作って稼ぐよ。それに共振現象を発見したのはオレじゃない。他人の功績で金を稼ぐのは、オレの趣味じゃない」
イストのその言葉は、気取って言ってる風ではなかった。イストはごく自然のこととしてそう考えているのだ。
「………その“他人の功績”を使って、私たちは大もうけしようとしているのだが?」
「いいんじゃないのか。それはそれで」
使える素材が増えるのはオレとしても嬉しいし、とイストは「無煙」を吹かしながら笑った。それに対しセロンの表情は苦いままだ。報酬の不平等さに納得しかねているのだろう。
「私は………、君と公平な関係でいたいんだ………」
その言葉にイストは苦笑した。自分に利がある話なのにそれで納得しないなんて「馬鹿だなぁ」と思う。しかしそういう人間こそイストは好きだし信頼するのだ。
「これはオレのわがままだよ。セロンさんが気にすることじゃない」
だから誰に憚ることもなく目の前のチャンスを拾えばいい。イストはそういった。
「………わかった。シラクサにいる限り、君たちの衣食住はこのセロンが責任を持って保障する」
「ん、よろしく」
話は、決まった。
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翡翠は四人家族である。両親の名前はセロンとシャロン。そして三つ下の弟である紫翠がいる。ちなみに「翡翠」と「紫翠」の字は、今は使われなくなって久しいシラクサの古い言葉だと言う。
父親であるセロンはガラス工房の「紫雲」を経営している。なかなか古い歴史を持つ工房で、最盛期にはかなりの儲けを出していたと聞く。
そのおかげなのか、ヒスイの家は随分と広い。その広い家に、最近セロンが三人の客人を連れてきた。なんでも工房で行う新しいガラス(魔ガラスというそうだ)の開発を手伝ってもらうのだと言う。
客人の名前はそれぞれ、イスト・ヴァーレ、ジルド・レイド、ニーナ・ミザリという。姓名を持つことからわかるように、三人とも大陸からの客人だ。
もっとも、実際に開発を手伝うのはイストだけだ。弟子であるはずのニーナでさえ、「自分の勉強してろ」と追い払われて手伝わせてもらえていない。完全に畑違いのジルドともなれば、手伝わせてもらえない以前に出来ることが皆無であった。
「衣食住はセロンさんが用意してくれるけど、遊ぶ金は自分で稼いでくれよ」
冗談交じりにイストからそういわれたジルドは、セロン宅の朝の手伝いを済ませると決まって街へ繰り出し日雇いの仕事で汗を流している。
「美味い酒を飲むためには、適当な労働が不可欠だ」
夕食の席で晩酌を楽しみながら、ジルドはそんなふうに持論を語った。聞き様によっては「酒を飲むために働いている」と取れなくもないが、働かずに酒ばかり飲んでいるような連中とは図太い一線を画している。それに彼が酒目的で働いているわけではないことは、イストやニーナが良く知っている。
ニーナのほうは、家にいることが多い。そのせいかよく家の仕事を手伝っていた。最初は客人ということでシャロンやヒスイも遠慮していたのだが、師匠であるイストが「こき使ってくれていいぞ」と言ってからは二人に混じって家事を手伝っている。
「働けごく潰し」
などと、イストは楽しそうにニーナに発破をかけている。そんな師匠に迷惑そうな顔をしながらも、ニーナは良く働いていた。
ヒスイとしてもニーナの働きはありがたかった。彼女の家は大きく、掃除だけでも一仕事である。いつもは母と二人で家事をしているのだが、それが三人になると随分と時間が短縮され楽だった。
ジルドなどもそうだがイストも手のかからない客で、それどころか男手が必要なときには積極的に手伝ってくれる。だから「見知らぬ客人が家にいる」という感覚はすぐになくなり、まるで気の置けない友人を家に泊めているように感じるようになった。
イストもジルドもお酒が好きで、セロンとよく晩酌を楽しんでいる。二人とも地酒のシラクサ酒を気に入ったらしく、イストなどは自分用のお猪口まで買ってきて用意していた。もちろん「紫雲」で作られたガラス製のお猪口である。
ちなみにシスイは母のシャロンに似たのかお酒が飲めない。むしろヒスイのほうがお酒には強い。もっとも宴会などの機会でもない限りは飲まないが。
こうしてシラクサでも生活を十分に楽しんでいるイストであったが、無論仕事も忘れてはいない。セロンとの話が決まったその日のうちに、彼は「狭間の庵」の資料室から共振結晶体に関するレポートを持ってきて読み返していた。
ヒスイもそのレポートを後ろから覗き込んでみたのだが、見たこともない文字で書かれており、まったく読むことができなかった。
「古代文字っていうんだ。こっちでは使われなかったのかな」
シラクサにも古い建物や記録は残っているが、その中でこの古代文字が使われているという話は聞いたことがない。むしろ、「翡翠」や「紫翠」といったシラクサ独特の文字が使われている。大昔に大陸で使われた古代文字は、すでに独自の文字体系を持っていたシラクサでは使われなかったのだろう。イストはそんなふうに分析した。
ちなみに今のシラクサで使われているのは、大陸と同じ常用文字である。大陸との交流が盛んになるにつれて文字を統一したほうが便利だったのだろう、という話をヒスイも聞いたことがある。
それはともかくとして。
数日かけてレポートの内容を頭に叩き込んだイストは、いよいよ実際に共振結晶体の合成を行うことにした。
「合成石を扱ってる店を教えて欲しいんだけど」
ある日、朝食の席でイストはそういった。
ちなみにシラクサの食事は、「箸」と呼ばれる道具を使って食べる。二本の棒を使って食べ物をはさみ口へと運ぶのだが、これがなかなか難しい。大陸式、つまりナイフ・フォーク・スプーンなどと比べると、指の動きが非常に複雑なのだ。
「………あ………」
ポロリ、とニーナの箸から野菜の煮つけが零れ落ち、開けた口が空振りする。しっかりと器を持っていたおかげで煮つけをテーブルに落とすことはなかったが、自分の口を逃れて器に戻った煮つけをニーナは恨めしげに睨んだ。それから箸を野菜に突き刺し、今度こそ口に運ぶ。ちなみにシラクサの食事は、素材の味を生かしたシンプルなものが多い。
「お前、まだ箸を満足に使えないのか」
「うう………。師匠だって最初は使えなかったくせにぃ………」
セロンの家での最初の食事の際、イストもまたニーナと同じような醜態をさらしたていた。しかし次の日には、その醜態が嘘のような巧みな箸さばきを見せたのだ。目を丸くして驚くニーナにイストは、
「徹夜で特訓した」
とこともなさげに言い、周囲を呆れつつも感心させたものである。ちなみにジルドは経験があるのか最初から上手に箸を使えていた。
「それで、合成石を扱っている店だったね………」
盛大に逸れた話を、苦笑しながらセロンが引き戻す。
「ああ、そろそろ共振結晶体の実験を始めようかと思ってね」
実験、と言ってもそう大したことをするわけではない。様々な合成石の組み合わせと比率を試しそのデータをまとめ、どの共振結晶体が最も魔ガラスに適しているかを判断するのだ。
もっとも、実際に判断を下すのは工房主のセロンになるだろう。イストがまとめたデータをもとに、コストや伝導率、あるいは共振結晶体を混ぜた際にガラスにどのような変化があるかも鑑みて、最終的な判断を下すことになる。
まあ、なんにしても共振結晶体を作るための合成石がないことには始まらない。イストは「狭間の庵」にかなりの数の合成石を保管しているが、今回それを使うつもりはない。別に惜しむつもりはないが、彼なりに考えあってのことだった。
「合成石もシラクサで生産しているヤツがいいよな?」
「………ああ、そうだな。そうしてもらえると助かる」
セロンは自分の目的を「シラクサにしかないガラス製品を作ること」と言った。であるならば開発している魔ガラスの原材料は、全てシラクサで用意できることが望ましい。仮に外からの素材が必要不可欠であれば、その素材の価格が引き上げられたり輸出が停止されたとき、魔ガラスの生産に致命的な打撃を被ることになってしまう。
このような腹のうちを、イストはセロンから聞いたことはない。聞いたことはないが、きっと同じようなことを考えていると思っていた。そしてその憶測は、セロンの表情を見る限り当たっていたのだろう。
「ヒスイ、イスト君を案内してあげてくれ。店を開けるのはそれからでいい」
「わかったわ」
ヒスイが父親の頼みを了解する。今日もシラクサの空は青い。外を出歩くのはきっと気持ちいいだろう。ヒスイはそう思った。