第九話 硝子の島 プロローグ
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これも読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
さて、今回から「第九話 硝子の島」が始まります。
第九話は最終話に向けた準備と布石、になる予定です。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
人を変えられるのは
人との出会いだけだという
ならば人との別れには
どんな意味があるのだろう
再び出会うために別れるのだ
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第九話 硝子の島
大陸暦1565年。この年の前後にかけてアルジャーク帝国はカレナリアとテムサニスという二カ国を併合した。そしてこの時期、歴史上に突如として「アルジャーク海軍」なるものが出現するのである。
作られた艦隊は二つ。カルフィスクを母港とする第一艦隊。そしてシラクサに配置された第二艦隊、またの名をシラクサ艦隊である。
規模が大きいのは第一艦隊である。しかし精鋭を集め、いわば即戦力の実戦部隊として作られたのはシラクサ艦隊のほうであった。
シラクサ艦隊の役目を一言で要約すれば、
「シラクサにおけるアルジャークの権益を守る」
ということになる。
海上での勢力拡大を狙うアルジャークにとって、シラクサはまさに海上戦略における要衝であり最前線であった。ここを守り、そして海上におけるアルジャークの足場を固めるためにシラクサ艦隊は作られたのである。
これらアルジャーク海軍の実態は、しかしお粗末なものであった。船舶から船員、仕官に至るまで、ほとんどその全てが旧カレナリア及び旧テムサニス両海軍を再編した軍隊だったのである。
しかし、これはある意味仕方がない。
この年から十年、いや二十年歴史を遡ってもそこにアルジャーク海軍などというものは存在せず、この時期にゼロから作り上げたものなのだから。
一般の水兵や海兵だけでも、揺れる船の上で戦わせたり艤装の操作を覚えさせるには、専門の訓練を積ませなければならない。まして士官や航海士となれば、その人材はアルジャークには皆無であったといっていい。
しかしだからと言って、旧カレナリア及び旧テムサニス両海軍を再編しただけの部隊では、その統制や忠誠に対して不安が残るのは間違いない。有り体に言えば一個艦隊が丸ごと反旗を翻してしまうかもしれない。特に、大陸から遠く離れたシラクサに駐留する第二艦隊に対してこの心配が大きかった。
この時期にシラクサ艦隊が本国に対して反旗を翻せば、アルジャークが、いやクロノワが推し進める海上戦略に十年、あるいはそれ以上の遅れが出てしまうことはまず間違いない。いや、それどころか計画が致命的なダメージを被ることさえ考えられた。
このような最悪の事態を回避するべく、シラクサ艦隊提督としていわば敵地に単身放り込まれたのが、エルカノ・オークリッドという男である。
このエルカノを艦隊の提督としてクロノワに推薦したのは、海軍の再編を任されていたアールヴェルツェ・ハーストレイトである。
エルカノを推薦した際にクロノワから「彼はどのような人物なのですか」と聞かれ、少し考え込んでからアールヴェルツェはこう答えたという。
「不思議な男です」
実際、不思議な男であった。まず間違っても切れ者や策士といったタイプではない。かといって直情的で豪快な性格でもない。
「彼は、なんと言うのかな。大きな人だよ」
こうエルカノのことを評したのは、彼と親交があったアレクセイ・ガンドールである。確かにエルカノは大柄な人物ではあったが、アレクセイが「大きい」といったのはむしろ彼の人間としての器のほうだろう。
言ってみればエルカノ・オークリッドという人物は、「大いなる虚無」であった。ただし陰性の虚無ではない。陽性の虚無である。彼がただそこにいるだけで、人々はなぜか清々しさを感じるのである。
逆境に追い込まれても悲観するということせず、かといって根拠がないほどに楽天家というわけでもない。
「私は運がいい人間だからね」
というのが彼の口癖であった。
まあエルカノという人間の分析はほどほどでよい。ともかくこのエルカノがシラクサ艦隊の提督となったのである。しかしながら彼はアルジャーク人であり、当然のことながら操船や航海術、艦隊運動や海上戦術などについてはまったくの素人である。どう考えても彼を補佐する人物が必要であった。
エバン・ライザック、という人物をエルカノは選んだ。
エバン・ライザックはもともとカレナリアの子爵家に連なる家柄で、貴族の身分を証明する「フォン」のミドルネームを持っていた。しかしカレナリアがアルジャークに併合され貴族という身分が有名無実の存在となったとき、彼は自ら「フォン」のミドルネームを捨てた。
その理由を問われる度に彼は、
「縋りつくほど立派な名ではない」
と言って切り捨てたという。
実際、貴族とは言っても辺境の貧乏貴族でしかなかった彼にとって、血筋と生まれによって将来のほとんどが決まってしまうカレナリアの社会は窮屈でしかなかった。彼の血筋と生まれは彼の才能を生かしきることが出来ておらず、その点実力主義の風潮が強いアルジャークは彼にとって理想的な新天地であるといえた。
実際、彼はシラクサ艦隊の文字通り全てを取り仕切ることになる。
ここが、エルカノの人使いの妙であった。エルカノはエバン・ライザックという優秀な部下を見つけると、後は彼がやりやすい環境を作ることに専念し、仕事自体はエバンに全て任せたのである。
「とりあえずやりたい様にやりなさい。責任は私が取ります」
エルカノはそういって提督の印さえエバンに渡していたというのだから、その信頼の度合いが分る。
エルカノ・オークリッドとエバン・ライザックの二人の間には、こんな逸話が残されている。
エバンは自分を抜擢したエルカノが、一度船に乗ればなんの役にも立たない素人であることを知っていた。
「面倒だが提督教育をせねばならん」
そう考えたエバンは三百ページほどのレポートを作成し、「読んでおいてください」と言ってエルカノに渡した。
数日後、エバンがエルカノにレポートを読んだか確認するとエルカノは、「いいえ」といった。
さらに数日後、エバンがもう一度確認するとやはりエルカノは、やはり「いいえ」という。
さすがに眉毛を跳ね上げた部下を、エルカノは椅子に座ったまま穏やかに見上げてこういったと言う。
「私が海軍のことを分るようになると、皆さんお困りになるのではないかな。私は海軍のことが分らない。皆さんは分る。皆さんが決めたことを、私が承認する。それでいいではありませんか」
一見すれば無責任な言葉だが、用はそれだけエバンのことを信頼していたということであろう。この二人は万事この調子で、それは後にエルカノが海軍全体を監督する立場になっても変わらなかった。
ちなみにエバンが作成したレポートは、後にエルカノ(立案はもちろんエバンだ)が海軍士官学校を作った時にその教本として使われた。
エルカノ・オークリッドとエバン・ライザック。この二人がアルジャーク海軍の基礎を作り上げ、帝国を陸上だけでなく海上においても覇をとなえる強国たらしめたと言っていい。
この二人が始めてコンビを組んで仕事を始めたのがシラクサ艦隊であったわけだが、前述したようにこの艦隊の構成員のほとんどはカレナリア人とテムサニス人であった。両国とも併合された以上全員等しくアルジャーク人なのだが、そういう意識はこの頃まだ希薄である。よってアルジャーク人はエルカノ・オークリッドただ一人であった。
さて、このシラクサ艦隊にはカレナリア人でもなくテムサニス人でもなくましてやアルジャーク人でもない、なぜかカンタルク人が一人いた。そのカンタルク人の名をアズリア・クリークという。
さきのオルレアンのルードレン砦の戦いの際に捕虜になったカンタルク軍の仕官で、カンタルクの国王であるゲゼル・シャフトに見捨てられたために祖国に戻れなくなった彼女は、クロノワに誘われアルジャーク海軍に籍を置くようになったのである。
配属先が第二艦隊、つまりシラクサ駐留艦隊であることを知ったとき、アズリアは「飛ばされたか」と苦く笑ったものだが、実際に勤務を始めてみるとそんな考えはすぐに吹き飛んだ。
雰囲気が違うのである。左遷先につかわれるような、辺境の寄せ集め部隊では決してない。選りすぐりの精鋭のみが集められた艦隊であることを、アズリアはすぐに理解した。
アズリアが乗っている船は「カティ・サーク」という。船舶の種類や艤装についてはまだまだ勉強不足の彼女だが、この船に関しては純粋に「美しい船だ」と感心した。
「いい目をしてるじゃねえか」
仲間の水兵や海兵たちは口々にそういった。あるいはこの感想のおかげで、アズリアは彼らに受け入れてもらえたのかもしれない。
軍隊という組織の中において女性は珍しい。それは万国共通で、シラクサ艦隊においても同じことが言える。しかしアズリアはカティ・サーク内で紅一点というわけではなかった。艦内の厨房を預かる料理人、ジーラ・スヴェンがいたからである。
髪の毛はショートカットで性格はカラリとしており、成人男性と比べても明らかに大きな背丈をしている。三十の半ばは過ぎているはずなのだが、本人は一貫して「年齢不詳」で通していた。
「三十を過ぎたら女は年をとらないのさ」
というのが彼女の持論である。ちなみに「既婚者で子持ち」という噂がある。
料理の腕は一流で、胃袋の握る立場上、艦内の男どもはジーラに頭が上がらない。そんな彼女がアズリアのことを大いに気に入っており、まるで娘か妹のように可愛がっていた。それもまたアズリアが比較的早い段階で船に馴染むことが出来た要因かもしれない。
さて海軍、それも艦隊に所属している以上、主な活動の場は海の上である。しかしだからと言って一年中海の上にいるわけではない。加えてシラクサ艦隊には純軍事的な役割だけでなく、政治的な役割も求められている。極端なことを言ってしまえば、この艦隊はただその場にいるということが最も重要な任務であった。
だから、というわけではないのだろうが、艦隊の半分は常に母港で投錨している。そしてアズリアの乗るカティ・サークも今はそんな船影の中にあった。
シラクサ艦隊の母港があるのは、シラクサの二つある島、つまりローシャン島とヘイロン島のうち、小さいほうであるヘイロン島である。母港、と言っても今はまだ建設中であり、桟橋も簡単なものしかない。そのため多くの船舶は沖のほうで投錨していた。
陸上の設備は急ピッチで建造されており、多くの水兵や海兵が土木作業に駆りだされていた。ただ兵舎などは後回しにされており、そのため兵士たちは一日の作業を終えるとそれぞれ自分の船に戻って休むのであった。
そんな中、真っ先に完成したのが艦隊の頭脳とも言うべき「司令棟」である。余談になるがこの司令棟は仮のものであり後に新造される。それはともかく、アズリアは今この司令棟に設けられた提督エルカノの執務室に呼び出されていた。
「アズリア・クリークです」
どうぞ、という返事が聞こえてから、アズリアは執務室の中に入った。さして広くもないその室内にいたのは、エルカノ一人であった。
「訓練のほうはどうですか?」
アズリアに席を勧めると、エルカノはまずそう切り出した。
「皆さんに良くしていただいています」
彼女は今、航海士としての訓練を積んでいる。今までとはまったく畑違いの分野でアズリアも悪戦苦闘していたが、もともとが優秀だしまた根気もある。着実に知識と技術を増やしていた。将来的には、海軍士官としての訓練も受けることになるかもしれない。
ちなみに魔導士としての訓練は、専ら自主練である。このシラクサ艦隊に魔導士はアズリア一人だけで、指導してくれる先達などいないのである。
もっとも、
「お前の場合、射て敵艦に当たればそれでいい」
などとエバン・ライザックが言うとおり、アズリアの魔導士としての役割は単純である。そのため自主練も射撃訓練がメインであった。
「実は君向きの案件があります」
「わたし向き、ですか………?」
「はい。『紫雲』というガラス工房を知っていますか?」
初耳であった。とはいえアズリアがシラクサに来てからまだ日が浅い。有名処というわけでもないし、知らないのも当然といえる。
「実は先日、そこの親方さんから魔道具素材について相談を受けまして」
相談を受けたとはいえ、エルカノ自身魔道具職人でもなければ魔導士でもない。それは相手も重々承知しており、実はエルカノに用があるわけではなかった。
「艦隊に一人、魔導士がおられるとうかがいました」
つまり用があるのはアズリア、というわけである。
「一度話がしたいとの事だったので、時間があるときにでも尋ねてみてください」
「わたしは魔導士であって、素材のほうは詳しくはないのですが………」
「先方は『それでもいい』と」
なんでも相手は随分と切羽詰った様子だったそうだ。いや、別に誰かと競っているわけではないのだろうが、用は行き詰ってしまい突破口を必死で探しているのだろう。
「………わかりました。お役に立てるかは分りませんが、次の休みにでも行ってみたいと思います」
「ではそのように」