第七話 夢を想えば⑮
結局、あの晩以降オリヴィアとイストがララ・ルーと顔を合わせることはなかった。年明けから一週間ほど経つと、「ララ・ルー・クラインの一団がベルラーシを離れて視察巡礼に戻った」という話が耳に入ったが、二人とも何も言わなかった。
年が明けると、十字軍遠征に関する噂も良く耳にするようになった。その内容は十字軍の連戦戦勝を伝えるもので、お祭り気分の抜け切らない人々は天に杯を掲げその勝利を祝った。
ただイストやオルギン、ジルドといった旅慣れた面々は、その噂の背後にある血生臭さを敏感に嗅ぎ取っていた。戦場における流血ではない。その外で起こる流血による、血生臭さである。
十字軍の兵糧が最初から不足しており、その不足分は現地調達でまかなうのが基本方針であるということは、少し情報に詳しい者なら誰でも知っている。そんな十字軍がアルテンシア半島の各地で連戦連勝しているとなれば、行く先々で略奪を働いているということは容易に想像がつく。そして血の猛った男たちがただの略奪だけで済むわけがないことも、また同様である。
「これ以上西に向かうのは、止めたほうがいいかもしれんな」
オルギンは混乱の中にこそ大きな商機が転がっている場合もあることは知っている。同時にリスクが大きいことも。彼は商人だが儲け最優先ではない。キャラバン隊のメンバーの安全を考えると、ここら辺りが潮時かもしれない。
「月が明けたら、進路を東にとる」
オルギンはそう決断した。すでにここベルラーシで結構な儲けを出している。リスクを犯して利益を出さねばならないほど、状況はひっ迫してはいない。
「じゃあ、護衛も月明けで終わりだな」
オルギンの決定を聞いたイストはそういった。ベルラーシはいくつかの巡礼道が交差する地点にある。当然ここからさらに東、つまり神聖四国へと巡礼道が伸びており、これを使えば比較的安全に東へと進路を取れる。もう護衛は必要ないであろう。
「結局、雑用の仕事のほうが多かったわね」
月が明けたら護衛の仕事を解約する、つまりイストたちと別れると聞いたオリヴィアは嘆息するようにそういった。イストは同じ孤児院の仲間で、顔の火傷痕を気にしなくていい相手だ。変に気を張らなくていい相手が身近からいなくなってしまうのは、やはり寂しいのだろう。素直に寂しいといわない辺りは、彼女らしいが。
「それも含めて護衛の仕事さ」
オリヴィアの表面だけの言葉に、イストもやはり表面だけの言葉で応じる。実際の別れまでにはもう少し時間があるし、なにより二人とも湿っぽい別れを演じるようなタチではなかった。
(義眼、早目に完成させておかないとだな………)
「妖精の瞳」と名付けたオリヴィア用の義眼は、すでに八割がた完成しており、あとは術式の最終調整と刻印を施すだけである。今はニーナが「狭間の庵」を使っているが、術式の見直しは工房にこもらずともできる。明後日か、その次の日の夜くらいには完成させられそうだと、イストは頭の中で計画を立てるのであった。
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アバサ・ロットの工房である「狭間の庵」は、腕輪に付けられた結晶体によって固定された亜空間の中にある。亜空間とは言っても、実空間の影響をまったく受けないわけではない。例えば、「狭間の庵」の中の明るさは、実空間の明るさ、つまり昼か夜かで随分と左右される。また、中の気温も同じであった。
静まり返った工房の中で、イストはただ一人目を閉じて集中力を高めていた。時刻はすでに夜半過ぎ。工房の中も真っ暗で、足元に置いた「新月の月明かり」がなければ、自分の手さえも闇に熔けて判別することはできないだろう。この時間を選んだのは意図的に、だ。刻印は最も集中力を要する作業で、可能な限り静かな環境で行いたかった。
そう、これから刻印を施し、魔道具「妖精の瞳」を完成させるのだ。
「さて、やるか」
目を開けたイストは、机の上におかれた小さな木箱をあけ、そして小さく苦笑をもらした。そこに収められているのは一個の義眼、つまり「妖精の瞳」の素体だ。箱の中に義眼、というより目玉が一つ収められている様子は見方によっては猟奇的で、分っていても苦笑をもらしてしまうのがこのごろの常であった。
義眼は複数の合成石を組み合わせて作ったもので、材質の差に由来する硬度の差に目をつぶれば、かなり正確に人間の眼球を模している。磨き上げられた合成石の表面は滑らかで、これらならば眼孔に入れても不快感はないはずだ。
(ガラスを使えればもっと楽だったんだけどな………)
生憎とガラスは魔道具素材としては劣悪だ。「鷹の目」のように直接魔力を流さないような部分であれば使ってもよいのだが、義眼ではそうもいかない。
「さて」
そう呟いてから、イストは左手に指輪をつける。「見えざる手」という魔道具で、手を使わずに物を浮かせ動かすことができる。イストがオリーブオイルの入った大樽を浮かせて移動させたときに使った術式は、この魔道具のものだ。
「ほいっと」
イストが「見えざる手」に魔力を込める。すると義眼が宙に浮かび上がり、ちょうど彼の胸の位置の高さで静止した。この手の魔道具は消費魔力が大きいのだが、小さな義眼程度ならば負担は大きくはない。
奇しくも、義眼の瞳がイストを見つめている。いや、ただの義眼に見つめることなどできないのだが、どうにもそんな気がした。
義眼の瞳の色は深紅。この色と魔道具としての効果に、イストは自分なりのメッセージと皮肉、そしてほんの少しの優しさを込めたつもりだ。わざわざ口で説明する気はない。どう受け取るかはオリヴィア次第であろう。
「………」
イストは無言でもう一度目をつぶり、最後の集中を行う。それからゆっくりと目を開き宙に浮かぶ深紅の義眼を見据えると、右手に持った「光彩の杖」に魔力を込めた。すると義眼を中心にして、半径一メートル程度の魔法陣が展開された。
魔法陣に魔力を込め、刻印を開始する。さらにイストは「光彩の杖」を操作し、魔法陣を回転させる。軌跡が球を描くような回転の仕方だ。これによって刻印される術式の粗密がなくなり、魔力をスムーズに流すことができる。
その場からまったく動いていないにもかかわらず、イストの額には汗が浮かび始める。背中が引きつるように感じ、全身の感覚が過敏になっているにもかかわらず、世界から切り離されたかのように余計な情報が遮断される。
緊張はしている。しかし足は震えていない。ただ立っている感覚が曖昧だ。時間の流れもあやふやで、ほんの少ししか経っていないような気がするが、長時間こうしているような気もする。
魔法陣はゆっくりと回転している。
呼吸がうるさい。心臓の鼓動がうるさい。血液の流れる音がうるさい。
気を散すな。没頭しろ。
魔法陣の回転がさらにゆっくりになり、残光が尾を引いていく。
時間があやふやになった世界の中で、魔法陣がついに一回転する。イストはそれを確認してから魔法陣を消した。
大きく息をつく。あやふやだった時間の感覚が正常に戻り、心地よい達成感が体を包む。緊張が解けたことで体から熱が一気に噴き出し、汗が背中に流れた。
椅子に座ってから「見えざる手」を操作し、宙に浮いたままになっている義眼「妖精の瞳」を左手に収める。ほんの数瞬、イストはその深紅の義眼を眺め、そしてなぜか自嘲するような苦笑を浮かべた。
(随分と偉そうなことをする………)
この魔道具を作ったのは、オリヴィアに「あの夜のことを乗り越えて欲しい」とか「顔の火傷痕を受け入れて楽になって欲しい」とか、言い方は様々にあるだろうが、そういう気持ちがあったからだ。
それに対し自分はどうなのだろうか。あの夜のことを乗り越え、あの赤い悪夢を克服できるのだろうか。そういう未来を思い描けずにいるヤツが、それがどれだけ難しいことか誰よりも良く知っているはずのヤツが、随分と偉そうなことを願っているものだ。
「まあいいさ。人の願いはいつだってエゴの塊だ」
そんな皮肉げな文句を口走り、イストは自分の思考から逃れた。左手に持ったままになっていた「妖精の瞳」を木箱に戻し蓋をする。
(渡すときは、それっぽく包装しないとだな………)
そんなことを考えながら、イストは「狭間の庵」を出て実空間に戻る。風が冷たい。工房の中の気温は実空間の気温に影響されるが、風を起こすような機能ない。風と一緒に運ばれてくる夜の臭いが、イストに現実を色濃く印象づける。
「狭間の庵」の扉が消えると、イストはキャラバン隊の馬車のほうに向かって歩き出した。
「一杯飲むか」
無性に酒が飲みたかった。
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大陸暦1565年の一月も、あと残すところ一週間をきっている。月が開ければオルギン率いるキャラバン隊は、巡礼道を使って東へ向かう。つまりこれ以上の護衛は必要なく、イストたち三人はキャラバン隊と分かれることになる。
当初はオルギンとイスト、そしてオリヴィアの間だけの話でしかなかったのだが、別れが近くなるとこの話はキャラバン隊の他のメンバーにも伝わり、少し早い別れの言葉をかけてくれる者もいた。特にジルドは若い連中に簡単な剣の手ほどきをしていた為か、その関係で別れを惜しむ人数は多かったし、女性が少ないキャラバン隊の中で“潤い”になっていたニーナなども同様であった。
「一番人気がないのはイストみたいよ?」
オリヴィアは少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言い、幼馴染との別れを惜しんだ。互いに旅から旅への根無し草。一度別れれば次に会えるのは、さていつになるのか見当もつかない。
「金ばっかり追いかけていきおくれるなよ」
あるいはもう一生会えないかもしれない。イストもオリヴィアもそれは十分に分っていた。分ってはいるが、湿っぽくなるのはどうにもガラではない。軽口をたたいて笑いあっているのが、どうやら二人にとっては最適の距離感らしい。
さて、こうしてオリヴィアとイストの二人は別れを受け入れたわけであるが、二人が別れてしまうことに単純ならざる思いを持つ者もいた。コンクリフト・クルクマスである。
クリフの一方的な認識によれば、イスト・ヴァーレという男は彼にとって恋敵であった。つまり本来ならば、いなくなれば嬉しいはずの相手なのだが、ここで素直に喜べないのがクリフという人間であった。
クリフはオリヴィアのことが好きだ。三年前、一目見たその瞬間からその気持ちに変化はなく、また嘘偽りもないと断言できる。だがしかし自身の性格のせいか話しかけることもままならず、あまつさえ顔の火傷痕を盗み見てしまったがために、彼女との距離はさらに遠のいてしまった。
そんな望まずして停滞してしまった関係の中現れたのがイスト・ヴァーレであった。オリヴィアの幼馴染で流れの魔道具職人であるという彼は、いとも簡単に彼女の隣に居場所をつくってしまった。それはクリフがこの三年間望み続け、そしてかなえることができなかったことだ。
楽しそうに会話する二人を見ると、クリフはいつも胸が締め付けられるように感じる。オリヴィアの笑顔が、自分には向けられることがないという絶望。自分にはできないことを簡単にやってしまうイストへの、憎悪と羨望と嫉妬。そして見ていることしかできない自分への憤りと惨めさ。
(………だけど!だけどさ!)
けれども、あんな風に屈託なく笑うオリヴィアを見たのは、初めてだった。
イストたちが来る前、オリヴィアはいつもどこか陰のある笑い方をしていた。ふとした拍子に寂しげな表情を見せたり、独りになったときに疲れたようにため息をついたりすることがよくあった。
それが、イストが来てからはそれが少なくなった。決して完全になくなったわけではないが、劇的に少なくなったのだ。見ようによっては、“はしゃいでいる”ようにも見えなくもない。
雰囲気自体も随分と変わった気がする。以前はどこか余裕のない張り詰めた表情をすることがあったが、今は表情にも余裕がある。
クリフの贔屓目かもしれないが、素敵になった、と思う。
けれどもその変化を促したのは自分ではなくイストなわけで。それを思うとなんとも言えない惨めな、有り体に言ってしまえば負けたような気分になるのだ。
負けた。そうつまりクリフはイストに「負けた」と感じているのだ。オリヴィアにふさわしいのは自分ではなくイストのほうだと、そう思っているのだ。
そのイストがキャラバン隊を、オリヴィアのもとを去るという。
「なんでだよ!?なんで彼女を見捨てるんだ!?」
気づいたら、クリフはイストの胸ぐらをつかんで叫んでいた。一瞬自分の行動に疑問を感じはしたが、後から後から湧いてくる言葉にその疑問は押し流されていった。
「あんたが来てからオリヴィアは随分変わったんだ。楽しそうだし幸せそうだし、良く笑うようにもなった。全部あんたが来てからだ。………悔しいけど、俺じゃあ何もできなかった。オリヴィアが好きなのはあんたなんだ。俺じゃあ無理なんだよ………。頼むから一緒にいてやってくれよ………」
言っているうちに情けなくなってきたのか、クリフの声はだんだんと萎んでき、胸ぐらをつかみあげる力も弱くなっていく。
「オレが来る前は、楽しそうでなければ幸せそうでもないし笑いもしなかった、ってことか?」
「………そうじゃないけどさ。ときどき凄く辛そうにするんだ………。ひとりになったときとかに」
このストーカーめ、と茶化したくなるのをグッと堪えてイストは問いを重ねる。
「なんで辛いのか分るか?」
「火傷の痕を見られたくないんだろ!?」
それぐらい分っているさ!とクリフは少し苛立った調子で答えた。だがイストはその答えにイラっときた。
「お前は何も分ってない」
その声は、思っていたよりもずっと冷たい声音だった。「ああ今オレはキレてるんだな」と頭の端っこで他人事のように考えながら、しかし口は勝手に言葉をつむいでいく。
「顔の火傷痕を見られたくない?んなこたガキでもわかる。なんで火傷痕を見られたくないのか、そこまで考えないのか?」
「それは………」
クリフが言葉を詰まらせる。その様子に、イストは自分が苛立つのをはっきりと自覚した。自分の衝動を押さえることをせず、クリフの胸ぐらをつかみ上げる。
「醜いって思われるのが嫌だから、目を背けられるのが嫌だから、必死になって隠してるんだろうがっ!」
隠して、隠し続けて疲れ果てて、それでも素顔をさらすことはできなくて。人の視線が怖い。醜いと思われるのが怖い。囁かれる言葉がすべて陰口に聞こえてしまう。街の中もそうだが、仲間であるはずのキャラバン隊のメンバーに対してさえも、そんなふうに感じてしまう。それがとても申し訳ない。
「オリヴィアがそういったのか………?」
クリフが呆然とした様子で尋ねてくる。
「見ていて気づかなかったのか?今まで何を見てきたんだ?」
イストの言葉は刺々しく、また冷たい。胸ぐらを放すと、クリフはその場に膝をついてうなだれた。悔しそうに奥歯を噛締め拳を握る。
「ああ、分らなかったよ………。だから、俺じゃあダメなんだ。頼むから一緒にいてやってくれよ。お願いだからさ………」
話が元に戻ってしまい、イストは苦笑した。苦笑したら、少し苛立ちが消えた。
「オレとアイツの仲がいいように見えるとしたら、それはきっとオレ達が同じ傷を持っているからだ。傷の舐めあいをしているようなもんさ」
その「同じ傷」というのは、イストとオリヴィアに共通する過去に由来するものなのだろう。オリヴィアの過去を知らないクリフは、そうとしか判断できなかった。
「今はまだいい。互いに気を使わない相手でいられる。だけどもう少し時間が経つと、今度は互いが疎ましくなってくる」
「同じ傷」を持っているから。相手の「傷」が見えるということは、自分の「傷」も見えているということなのだ。向き合うだけの気力と勇気、そして解決するアテがないから今まで放置してきたというのに、そんなものを毎日まざまざと見せ付けられるのだ。そのうちお互いに顔を合わせるのも嫌になってしまうのではないだろうか。
その上、どちらかがその傷を克服でもしたら、克服できないでいる方はなおさらいたたまれない。惨めな自分を嘆き、激しい自己嫌悪に陥るだろう。
「だからここらで別れるのがちょうどいいんだよ」
「だけど………っ!」
クリフは納得できない様子だ。しかしイストは「無煙」を吹かしながらそんな彼を、恐らくは意図的に無視して、小さな包装された包みを渡した。大きさは手のひらに収まるくらいだ。
「それ、オレたちと別れたらオリヴィアに渡しといてくれ」
「………自分で渡せばいいじゃないか」
そもそもイストがオリヴィアと別れること自体に賛成していないクリフは、苦々しい心のうちを隠そうともしない。が、その程度で怯むイストではなかった。
「お前さん、オリヴィアとまともに会話もできないんだろ?きっかけをくれてやるから、せいぜい有効利用しろよ?」
あそこで顔を真っ赤にしてしまったのは一生の不覚だ、と後にクリフは語ったという。