第七話 夢を想えば⑧
今回からクロノワサイドです。
クロノワは帝都ケーヒンスブルグを掌握した。掌握、と言ってもクロノワ本人の言葉を借りるならば、
「主のいない家に上がりこんだようなもの」
であって、そこに至るまでの過程において混乱はほとんどなかった、と言っていい。宮殿が焼け落ちたあの火事は大きな混乱ではなかったのか、と言われればまさにその通りなのだが、つまり皇后に与する派の政治的な抵抗がなかった、と言う意味である。
「まあ、あるはずがないですけどね」
そう、そのような抵抗などあるはずがない。なぜなら皇后はクロノワ自身の手によって切り捨てられているのだから。正式な葬儀は行われなかったが、彼女の死にざまとその遺体が埋葬されたことは帝都においては周知の事実であった。皇后が派閥のようなものを作っていたのか、それは分らないが盟主が死んだのだ、もしあったとしても瓦解するのにそう時間はかからないだろう。抵抗がなかったところを見ると、すでに瓦解しているのかもしれないが。
火事に関連して重要な書類も灰となりそれに伴う混乱は収束しておらず、また収束にはかなりの時間がかかると予測されているが、それはこの際別勘定だろう。
「ひとまずは安泰、と言ったところでしょうか」
この“ひとまず”が取れるか取れないか、それが目下最大の問題であろう。現在のアルジャーク帝国における権力争いの構造は極めて単純である。つまりクロノワ対レヴィナスの構図である。
これは「第一皇子対第二皇子」、あるいは「正室の子ども対妾の子ども」などと言い換えることができる。なんともありきたりで安っぽい構図だとクロノワとしては苦笑するしかない。
「まったく、どこの三流小説でしょうね」
対立の構図が単純である以上、やることも単純である。つまりレヴィナスを討つべく軍を進める、ただこの一点に尽きる。だがクロノワとその隷下にある十五万の軍勢は帝都ケーヒンスブルグで足止めをくっていた。理由は兵糧が足りなくなってきたからだ。
カレナリアのベネティアナ、モントルム南端のブレンス砦、総督府のあるオルクス、モントルム北端のダーヴェス砦、そしてアルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグ。これがクロノワたちの通ってきた道筋である。
南方遠征のために集められた物資のほとんどは輸送に船を使おうと考えていたため、そのための拠点である独立都市ヴェンツブルグに集まっている。少しずつ補給は受けてきたのだが、ヴェンツブルグに寄ることをしなかったため、ここに来て兵糧が底を突きはじめたのだ。
「兵糧が足りないまま動くのは下策もいいところです。ここは待ちの一手ですな」
アールヴェルツェに言われるまでもなく、そんなことはクロノワも重々承知している。それにベネティアナからケーヒンスブルグまで、かなり急いで行軍してきたのだ。激しい戦闘はなかったとはいえ、兵士たちも疲れが溜まっている。補給物資が届くまでの時間は、良い休息になるだろう。
しかし、下が休んでも上は休めないのは、巨大組織の宿命なのだろうか。焼け落ちた宮殿の変わりに大本営を置くべく丸ごと借り切った高級ホテルの一室に用意されたクロノワの執務室、その机の上に書類が次々と積み上げられていくのを見てクロノワは頬を引きつらせた。
(ストラトスが仕事をサボりたがる理由が分る気がしますね………)
軍が動いていようが帝位継承争いの真っ只中だろうが、人々は変わらず日々の暮らしを営んでいるのだ。そしてそのためには国家と言う組織を回転させねばならない。問題が起こらずとも、日々仕事は発生する。加えて今は非常事態だ。仕事の量が増えていることは想像に難くなく、その仕事が決済できる人間すなわちクロノワのところに集まるのは至極当然のことだろう。
こうしてクロノワが仕事に忙殺されている間、兵士たちのほとんどは休息していたわけであるが、それでも全員が、と言うわけではなかった。クロノワは配下の将軍であるイトラ・ヨクテエルに騎兵ばかり千ほど預けると、オムージュ領との境にあるリガ砦の様子を見に行かせた。もちろんリガ砦の旗色がまだ決まっていなければ、味方に引き込みたいという思惑がある。ちなみに彼の同僚であるレイシェル・クルーディはクロノワから書類仕事を押し付けられ、今は執務室にこもっている。
「駄目でした。リガ砦はレヴィナス殿下の側です」
戻ってきたイトラは簡潔にそう報告した。それを聞いてクロノワの執務室に集まった幕僚たちの表情が固くなる。
「さすがはアレクセイ・ガントール、手回しが早い」
軍務大臣ローデリッヒはレヴィナスではなくアルジャークの至宝と呼ばれる将軍の名前を挙げて、その素早い動きを褒めた。クロノワも彼の意見に賛成だ。レヴィナスの元で軍勢を集め、そして実際に動かしているのはアレクセイ・ガントールその人であろう。
「どう動くと思いますか」
「恐らくは短期決戦。数が揃い次第、リガ砦を越えて真っ直ぐここ帝都ケーヒンスブルグを目指してくるかと」
クロノワは視線だけでアールヴェルツェに続きを促した。つまりそう考える根拠を言え、ということだ。
「オムージュには、十万単位の軍勢を長期間養うだけの兵糧がありません」
オムージュ領の土地は肥沃な穀倉地帯である。それゆえアルジャーク帝国に併合されてからは、当然のことながら食料庫としての役割を期待されている。そのオムージュに兵糧がないとはどういうことなのか。
「今回の南方遠征のために用意した兵糧のほとんどは、オムージュ領から調達したものです」
つまりオムージュ領に備蓄されていた食糧はモントルム領に移動してきていることになる。しかし、それだけで備蓄が尽きるものだろうか。
「それだけではないでしょう」
口を開いたのはクロノワだ。
「遠征が始まる前から、オムージュ領からは大量の穀物が流出していました」
レヴィナスが建築計画を加速させるための資金源として放出したのだ。資金源としての売却と遠征、この二つが重なった結果、オムージュ領には大軍を長期間維持するだけの兵糧はない、とアールヴェルツェは判断したのだ。
「アレクセイ将軍がリガ砦を味方に引き込んだのは、我々がそこに籠もることを恐れてです」
リガ砦にクロノワの軍勢が入って籠城の構えを見せれば、その攻略には時間がかかるだろう。そしてレヴィナスはその時間をもたせるだけの兵糧を確保できない。
「兄上がリガ砦に籠城する可能性は?」
「下策です。ありえません」
兵糧が足りないのに籠城を選ぶ馬鹿はいないだろう。それにレヴィナスが足を止めるのならば、その間にクロノワは実効支配を開始して皇帝としての既成事実を作ることができる。少なくともアレクセイ将軍がそんな下策を打つとは考えられない。
「兵糧を求めてモントルム領を襲う、というのは?」
「………それはあり得ます。しかしその場合はすぐさま軍を南に差し向ければいいだけです」
アールヴェルツェの言葉にクロノワは頷いた。どのみちレヴィナスが最終的に目指すのはここ帝都ケーヒンスブルグである。ならばクロノワには相手の動きを見てから判断するだけの余裕がある。相手が動いたときにそれをすぐに感知できるよう、偵察と関係各所の連絡を密にするようにとクロノワは指示を出した。
(それにしても………)
ここまでの話の流れに、クロノワとしてはやはり違和感を覚える。それはこの場で初めて感じたものではなく、ここ最近ずっと感じているものだ。
「………陛下、どうかなさいましたか?」
クロノワの顔色の変化に気づき、水を向けたのはローデリッヒだ。クロノワは話そうか数瞬迷ったが、この機会に話してみることにした。
「なんというか、『現状兄上を討つ必要があるのか?』と思いまして」
これまでの出来事は、レヴィナスを皇帝にするためとはいえ全て皇后が行ったことである。皇后が帝都で謀略を張り巡らせている間、レヴィナスはと言えば遠くオムージュ領にいた。
つまり、これまでの皇后の行動にレヴィナスは一切関係していない。であればレヴィナスを討つべき理由とは一体何なのであろうか。
もちろんレヴィナスがクロノワを皇帝として認めるとは考えられず、であるならば一戦交えなければならないことは明白である。しかしそのことがあまりにも明白であるために、その前にすべき何かを忘れているような気がするのである。
「いずれ近いうちにこちらからお話しようとは思っておりましたが、ご自分でお気づきになられましたか。流石ですな」
出来の良い生徒を褒める教師のような表情でローデリッヒは頷いた。
「確かに現状レヴィナス殿下を討伐すべき大義名分はございませぬ」
皇后が皇帝の遺書、つまり最後の勅命を無視しようとしたことに関連して、レヴィナスが共謀していたという証拠(実際共謀などしていなかったのだが)はどこにもない。また血縁関係における連帯責任、という手は使えない。アルジャーク帝国の法は連座の罪を規定していないのだ。
リガ砦はオムージュ総督領の管轄ではないから、そのリガ砦を味方に引き込んだことが反逆の証だと言えなくもないが、今回は難しいだろう。レヴィナス側の主張としては、
「帝都ケーヒンスブルグにおける混乱の物理的影響がオムージュ領に及ぶのを防ぐため、リガ砦を一時的にアレクセイ・ガンドールの指揮下に置く」
というものである。彼らの主張する「混乱の物理的影響」というやつが具体的にどういったものなのか定かではないが、アレクセイ将軍に与えられている権限ならば、リガ砦を一時的に指揮下に置くことは十分に可能であろう。しかも彼の後ろには皇太子たるレヴィナスがいるのだ。
「一度使者を立てるべきでしょうな」
クロノワを皇帝として認めるよう促す使者である。そしてローデリッヒはその使者として自分が赴くつもりだと言った。確かに使者として彼は適任であろう。クロノワが帝位につくその根拠はベルトロワの遺書であり、彼は実際にその遺書に署名をし、その内の一通を保管していたのだから。また軍務大臣という重職にある者がクロノワを皇帝として認めている、そのことを示すことにもなる。
「兄上が兵を挙げるまで待ちませんか?」
しかしその案にクロノワは乗り気ではなかった。レヴィナスがクロノワの帝位継承を認めるとは思えない。ならばそれを促すための使者の末路はただ一つ、死あるのみ、である。ローデリッヒの首が送り返されてくるその時の様子を想像して、クロノワは小さく身震いをした。
ならばレヴィナスの挙兵を待てばよいのではないか。一ヶ月もしないうちにレヴィナスは帝位奪還のための兵を挙げるだろう。そうなれば反逆というこの上ない大義名分を手にすることが出来る。それまで待てばよいのではないか。わざわざ死ぬと分っている使者を立てる必要はない。
「それでは陛下が帝位に関し、何かやましいところがある、と公言しているようなものです」
そうなればレヴィナスの軍の士気は上がり、クロノワの軍の士気は下がるだろう。そうでなくとも事の最初に汚点をつければ、その後の治世に禍根を残すことになる。つまり「彼は正統な皇帝ではない」と口撃する余地を敵に与えてしまうのだ。
「臣下を思いやり大切にするのは良いことです。しかし国という怪物はときに血を求めます。しかも一人の血を渋れば千人の血もって贖うことになる場合さえあります。命の計算をしなければならない、それが皇帝の責にございます」
穏やかに、教師が生徒を教えるようにしてローデリッヒは説いた。あるいはこれが最後の「講義」になると思っているのかもしれない。
「………戴冠式の際には、ローデリッヒ殿に冠を載せていただきたい」
クロノワの申し出にローデリッヒは目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。新たな皇帝の頭に冠を載せる。その名誉は一介の臣下には分不相応なものだ。しかし己の命を捨ててまでクロノワの帝位の正当性を確立しようとしてくれるローデリッヒに対し、クロノワとしてはこれくらいしか出来ることが思い浮かばないのだ。
「それはそれは。是非とも生きて帰って来なければなりませんな」
厳しい教師であるはずのローデリッヒがこの申し出を受け入れたのは、生きて帰ってくることはできないと分っていたからだろう。
ローデリッヒ・イラニールはこの二日後、オムージュ領のベルーカへ、レヴィナスのもとへ使者として旅立った。
結局、彼がケーヒンスブルグへ戻ってくることはなかった。その首が送り返されてくることさえなかったのだ。クロノワを皇帝として認めるようローデリッヒから進言され激怒したレヴィナスは、彼をその場で切り捨て、その遺体を犬に食わせたという。
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ローデリッヒがベルーカへ旅立ってからおよそ二週間後、補給部隊がケーヒンスブルグに到着した。その中には補給部隊を率いていた女騎士グレイス・キーアや、補給に関して全体の計画を立てていたフィリオ・マルキスもいた。
「リリーゼ嬢はご実家においてきました」
リリーゼはフィリオの部下として独立都市ヴェンツブルグで仕事をしていたが、フィリオやグレイスがケーヒンスブルグに向けて出立する際、同行することはさせず実家であるラクラシア家に残してきたという。
総督府のストラトスから現在の状況について一通りの説明を受け、「ケーヒンスブルグに補給物資を運んで欲しい」と言われたとき、フィリオはすぐさまクロノワとレヴィナスが帝位を賭けて戦う未来を予感した。
クロノワの側が勝つのであれば、なにも問題はない。しかし、もし負けたらどうなるだろうか。少なくとも、クロノワに味方した者たちに明るい未来はあるまい。
フィリオやグレイスにはその未来を受け入れる覚悟があり、また立場的にももはや引き返せないところにいる。フィリオはクロノワの側近だし、グレイスは彼がまだ日陰者であった時分から彼の味方であった。この帝位継承の争いに加わらなくとも、レヴィナスは彼らのことを「クロノワの味方」と判断し、その判断に基づいて扱うだろう。
しかしリリーゼは違う。彼女に覚悟がないと言わない。しかし立場的に見れば、彼女はまだ引き返せる場所にいる。総督府で働いていたとはいえ、その身分は「秘書見習い」であり雑用係とほとんど変わらない。レヴィナスにしてみれば完全に意識の外の存在であろう。
ならばこの帝位争いから離れ「ラクラシア家令嬢」という立場でいれば、万が一のときにも彼女に火の粉が降りかかることはないだろう。
リリーゼはかなり渋ったが、フィリオの決意は固かった。ラクラシア家の当主でありリリーゼの父親に当たるディグス・ラクラシアに協力してもらい、屋敷になかば軟禁する形でおいてきたという。
「過保護ですねぇ」
そういってクロノワは側近であり友人でもあるフィリオのことをからかった。この友人が部下であるリリーゼを可愛がっていたことは知っていたが、今回の対応を見るにもしかしたらそれ以上の感情を持っているのかもしれない。
「ええ、大切な部下ですから」
そういってフィリオはにっこりと笑い、クロノワによるそれ以上の追及を封じた。まったく、政治的腹芸をこんなところで使わなくてもいいだろうに。
こうして友人をからかいストレスを発散するというクロノワのかなり自分勝手な計画は頓挫したわけであるが、そんなことはさておいてもこの時期にフィリオが帝都ケーヒンスブルグに来てくれたことはクロノワにとってかなり大きな助けになった。
彼らが持ってきてくれた補給物資のおかげで、兵糧不足は解消された。もちろん一年二年と戦い続けることはできないが、少なくとも十五万の軍勢を維持したまま冬を越すことは可能だ。
またフィリオ・マルキスという優秀な人材そのものもクロノワにとって助けとなった。彼がいるだけで仕事の能率が段違いである。
忌々しき白き塔をあらかた駆逐し終えた頃、見計らったわけではないだろうがレヴィナスが動いた。レヴィナス率いる軍勢がリガ砦を越えたという報告がもたらされたのは、フィリオたちがケーヒンスブルグに到着したおよそ十日後のことである。その軍勢の規模は、目算ではあるがおよそ二十万規模であるという。