第八話 リョコウ
「ああっ! 筆箱忘れた!」
悠音が叫んだ時、既にバスは高速道路に入っていた。
周りからクスクスと笑い声が上がる。もちろん光は嫌味たっぷりな顔で馬鹿にした言葉を吐いた。
心配そうな表情を見せるのは遥だけだ。悠音は顔を真っ赤にして、押し黙る。
「林間が嫌いなのは自分のせいじゃねえのか?」
「うるさいわね……これは、関係ないわよ」
そう言って、一睨み。
光はクックッと笑って、また顔を窓の外へと向けた。
「悠音ちゃん悠音ちゃん、言ってくれれば鉛筆、貸すからね」
相変わらず優しい遥に、悠音は笑顔で礼を言う。
再びバスの中のざわめきに、三人はそれぞれ溶け込んで行くのだった。
「……か……るか……」
暗闇から、覚えのある声がする。
「遥!」
「はひっ!?」
ガバッと遥は跳び起きた。目の前には、必死で笑いを噛み殺している光がいる。
自分がいつしか眠っていたのだと気付くまでに、数秒かかった。
「あ……ボク……寝てた?」
「ああ。それはもうぐっすりと」
柔らかな笑みを見せて、光はバスの外を指差す。
「着いたぜ」
バスの外は絶景だった。
まだ紅葉になりきれていないが、それでもこんなに大きな山は、迫力がある。
しばらく呆然としていた遥は、手ぐしで髪を整え、皆の元へ走りだした。
「かなりグッスリだったね」
悠音は強張った笑顔で、そう言った。
癒しの木々は、もはや悠音にとってはトラウマをこじ開ける鍵にしかならない。
しかし頑張って笑みを作っている悠音はすごいと思う。
「えへへ……」
遥は小さく笑って、大空を見上げた。
吸い込まれそうな青。
そして揺れる葉の緑に混じった朱と黄。
「すごいね」
「……うん」
二人はしばらく辺りを見回していたが、光の「置いてくぞ」という大声に、再び歩くペースを速めたのだった。
「この木って何の木?」
恐怖感を振り払うためか、悠音はしきりに質問していた。
光はあきれたように息を吐いて、
「何ってお前、イチョウの葉も見た事ないのかよ?」
顔をしかめる。
「イチョウかぁ、そうかそうかなるほどね」
納得した様子で頷いてはいるが、きっとわかっていないだろう。またイチョウの木を指差して、『何の木?』と言うに違いない。
「んじゃこれは何の木?」
案の定、悠音はまたもイチョウに指を指した。
「悠音ちゃん、さっきと同じ種類の木だよ」
遥は楽しそうだ。あちらこちらを見渡しながら、たまにこちらを向いて笑う。
「本当にバカだな、お前」
「バカはあん――」
バカはあんただなどとは、到底言えなかった。
口をつぐんだままの不機嫌な表情で、悠音は光を睨む。
会話が続かない。唯一言える言葉と言えば、光が勝ち誇った顔をして悠音を見下している事について、だ。
「うざ……」
思いっ切り顔を歪ませる。
遥がクスッと笑った。光は鼻で笑い遥の肩を叩いて先を促すと、悠音を置いて先に進もうとする。
「あっ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
「いつも言ってるだろ。俺に忠誠を誓ったら言う事聞いてやるって」
いつも言ってるのは知っているが、まともに聞いた覚えはない。聞き流している。
当然、今回も。
「遥、あんたどっちの味方なの」
わざわざ遥に話を振る。遥は少しだけ考えるそぶりを見せてから、満面の笑みでこう言った。
「ボクはいつだって、ボクの味方だよ」
そりゃそうでしょうよ。
悠音は「聞いた私が馬鹿だった」と息を吐く。
「あれ? 悠音ちゃん、ボク何か、間違った事言ったかな?」
相変わらずの素晴らしき笑顔。
今私の中に、確かな殺意が芽生えたわ……。
まぁ、光には劣るけど、ね。
「もーいい……」
悠音は足を進めた。慌てて追い掛ける遥……と、さりげなく悠音をも抜かそううとしている光。
「そこの三人! 早くしなさい!」
教師の言葉が聞こえた瞬間、三人は一斉に走りだした。
「ちょっと、私が先に走り出したのよ!」
「お前が足遅いのが悪い」
二人は押し合いながら駆けるが、その横を何事もなかったかのように遥が通り過ぎる。
叫びながらそれを抜こうと二人が必死になっているが、結局皆の元に1番に着いたのは遥だった。
「は、遥ッ、てめ!」
息を切らしながら言う光。悠音は顔を真っ赤にして、空を睨んでいる。
「ボクは争いが嫌いなんだ」
えへ、と遥は顔を赤らめた。
三人はまさにトラブルメーカー、と言うべき存在だったろう。
皆は既に呆れた表情をして、立ち尽くしていた。
グチを零している生徒もいる。
「うるせぇよ」
光が吐き捨てた。一瞬にして白ける。やっぱり違うわね、人気者の一言は。
気まずいその場の雰囲気の中、ケタ外れに明るい教師の声が響いた。
「ほら、宿が見えましたよ!」
大自然の中で一つだけ目立っている、人工の建物。高く聳えるそれは、都会には不似合いで自然の中には浮いている。
「おお〜」
わざとらしい歓声が上がった。
感動、の声ではない。ただこれ以上歩きたくないという心からの、安堵の声だった。
ただ、その宿が思ったよりも古びていたというところは、少なくとも歓声の質に影響を与えていたのだろうが。
とにかく、着いたのだ、宿に。
始まったのだ、林間学校が。
|