第六話 キオク
走っている。
あの悪夢の日を、走っている。
「はっ……はぁっ……ふっ……っは……ッ」
息が苦しい。体力も限界だった。走っても走っても、逃げられるわけはないのに。
光は屋上へ転がり込んだ。
鍵が開いていた。倒れ込むようにコンクリートに身体を倒し、周りの無音にホッとする。
ふいに、ガサッと音が聞こえた。
反射的に身体を起こす。しかしそこにいたのは、あちこち破れたセーラー服を纏いボロボロになっている遥だった。
ボロボロ、といえば、光の学生服の方が酷い事になっているし、傷も多い。しかし光は自分よりも、遥が気になった。
「っ……はぁッ……はる、か……? ……ッ」
まともに声が出ない。それでも遥は光に気付いたようで、声にならない声で大丈夫と返す。
そして、お互い安堵の息を漏らした。
「あっれぇ? ……こんなトコにいたよぉ?」
再び開いた扉の音と同時に、頭が痛くなるような声が響く。光と遥は同時に起き上がった。
「ダメだろー、逃げたらぁ! 害虫に逃げる権利はねぇんだよっ」
「あははっ! 同感同感。殺してやろっか? ゴキブリ殺したって罪になんないしさ」
二人は隅まで追いやられる。遥の手が、光の手を握った。
「なんなら土下座すれば許すかもねー」
「土下座より双子の熱烈キスシーンの方が見物じゃねぇ?」
笑い声が上がる。相手の人数はどんどん多くなっていく。
「そんなキモいの見てられるかし。やっぱ殺そ?」
「抱き合いながら落ちてもらってもよくねー?」
それ傑作! と、誰かが賛成する。
「どっちにしろさぁ、目の前にいてほしくないっていうね」
「つか存在するなって感じ」
じりじりと、狭まる全員の間の距離。
誰か。
誰か、助けて。
タスケテクダサイ。
「死ねよ」
光は飛び上がるようにして、突然立ち上がった。
授業中だった。皆の視線が光に一斉に集まる。光は辺りを見渡し、自分が居眠りをしていたと知ると、頭を押さえて席についたのだった。
「どうしたのよ?」
授業が終わり、皆が席を立って友達と話し始めた頃、悠音は光の席の前に立った。光が居眠りをしていたのも珍しいが、うなされてた上に突然立ち上がったのだ。
「いや……別に」
光の機嫌はかなり悪かった。後から聞いた話だが、さっきの瞬間、隣のクラスでも遥が同じ行動を起こしたらしい。
全く、双子は怖いな。侮れないわ。夢も共有してるんじゃないかと、本気で疑いたくなる。
肘をついてどこか遠くを見つめる光に、悠音は溜息を吐く。
「ちょっと嫌な夢……見ちゃって」
と、遥は言った。どうせ光もそんなもんだろ。んでもって同じ夢なんだろ。まぁこれは私の予想であって、確証はないのだが。
「そっか。それにしても珍しいね、二人が居眠りなんて」
「ん……なんでだろ……」
そう言って遥はカレンダーに目を移した。そして少し目を伏せて、悲しい表情を見せる。
「あれから、一年……経ったんだ……」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
しかし次の瞬間には明るさを取り戻して、
「大丈夫だよ悠音ちゃん、光もすぐに忘れるよ! ところで次の時間、プールだよね?」
いつもの話題に戻ったのだった。
遥は隣にいる光にも顔を向けて、
「ねっ?」
と話をふったが、光はただ気力のない顔をして頷いただけだ。
ああ、もう! 苛々するわね。
悠音は光を一発殴り、胸倉を掴む。遥が息を呑んだが、関係なし。
「うじうじしてんな! ボケ!」
びっくりしたような光の表情。それがやがて、いつもの色を取り戻した。
皮肉な笑みを浮かべて、
「……ふん、パシリに指図されるほど落ちぶれてねぇよ」
うん、それを聞いて安心したわ。いつもの光ね。今のムカつく言葉は聞かなかった事にしてあげる。
遥がにこっと笑った。
そして、いつもの視聴覚室の後しばらく経って光は男子更衣室へ、遥は悠音と女子更衣室へと別れたのだった。身体検査やプールは二クラス合同だから、女子更衣室にも一クラス分の人数がいる。
スクール水着ってやっぱりダサいわよね?
それでも可愛く見える遥って一体……。
皆にまな板だのなんだのといじられながら、遥は顔を真っ赤にしつつも楽しんでいるようだ。
あまり皆は遥とはしゃぐ機会がないものね。ゴメン、私が独り占めしてるからね。
まぁなにはともあれプール、うん、まんざらでもないわ。水は好きだし暑いし。
ただ男子に水着姿を見られるのが一番嫌だけどね。それを気にしてるんだかなんだか、皆は自分を足が太いだの胸がないだの肌が黒いだの、人を肌が白いだの足が細いだの。騒いでたって身体は変わんないわよ。私はそう確信する。
しかしこう見ても、遥が一番可愛いわ。これで胸があったらモデルになれる。いや……一つの欠点が逆にいいのかも、って、私は誰だ。
なんだかんだでキャーキャー騒ぎつつ、ついに全員プールサイドに上がった。水着の帽子はダサいけど、仕方ない。シャワーは冷たいし消毒も地獄だけど、私はこの授業、嫌いじゃない。
男子は既にプールサイドに揃っていた。鼻の下をのばすような変態はいないようだ。もっとも私達じゃ欲情もしないってか? 失礼な。
女子は皆してヒソヒソと話をしていた。その内容は回り回って私の元にも届く。
「やばい、光くんカッコよすぎ」
……やっぱりその内容ですか。
私はあえてその話題を出さなかったのよ? でも、無視できない事実。
一人だけ細くてスタイルよくて。ムカつくわ。あんなに性格悪いくせに。
悠音は光から目を逸らす。遥と目が合った。その微笑みに、思わず頬が緩む。
やっぱり光とは違うわ。
顔か性格かって言ったら、性格をとるわよ私は。ルックス重視の愚者どもよ、後で後悔しろ。
夏の日の騒がしい一時間ないし五十分は、こうしてあっという間に過ぎるのだった。
|