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朝の7時。
雨戸を締め切った暗い部屋の中で一人の青年がファンタジーMMORPGのログアウトのコマンドを実行しPCの電源を消す。
けだるそうな動きで椅子から立ち上がりベッドに倒れ込む。
徹夜でファンタジーMMORPGに没頭した彼はこれから就寝するのだ。
ベッドの上で横たわる不登校引きこもり中の17歳高校生である彼の名は佐紋健人。
健人の引きこもり暦は約半年。
原因はよくある些細な出来事である。
失恋だ。
好意を寄せていた同じクラスの女子に勇気を出して付き合って欲しいと告白したのだがふられたことだ。
ただふられただけであれば次の出会いに期待しようと立ち直りも出来たのだが、その様子を一部始終隠し撮りされていて失恋動画がネットで拡散してしまった為に今に至る。
思春期の心はもろく傷つきやすい。
心に傷を負った健人はファンタジーMMORPGに没頭することで現実逃避する道を選んだのだ。
その現実逃避の道はゲームのプレイスタイルにも現れていた。
ソロ活動でのリスト埋めだ。
ゲームメニューにあるアイテムリスト、モンスターリスト、クエストリストの未開示情報をコツコツと埋めていく。
具体的にはエリア内出現モンスターのリストを埋めるためにレアモンスターが出現するまで延々と同じエリアで雑魚狩りを続けたり、アイテムリストのレシピを埋める為に延々と合成アイテムを作成を続け合成スキルを上げたりするのだ。
その活動の異常さから他のプレイヤーからRMT業者のBotではないかと運営に多数の報告が寄せられゲームマスターに監視されてしまうという始末だ。
元々健人にはコレクター気質があったのは確かだが、心の傷が悪い方向に作用してしまったらしい。
ベッドに横たわり3分ほどでかすかな寝息を立てて健人は夢の世界に旅立った。
意識がはっきりしないがボンヤリとした光景が健人の目の前に広がっていく。
(あかるいな…)
中世の雰囲気の漂う石造りの部屋の景色が広がる。
しかし不思議だ。
窓も無いのに部屋全体が明るい。
(俺さっき寝たはずだよな、ってことはこれは夢? こんな夢を見るなんてゲームのやりすぎだな…。ははっ)
部屋を見渡すと奥にベッドがあり、そこに蒼眼金髪の整った顔立ちの綺麗な女性が腰掛けており微笑んでいる。
(誰だろ?)
健人はふらふらと女性の腰掛けているベッドに近寄った。
女性がなにかしゃべっているようだが、聞いたことのない言葉で理解できない。
そして微笑みながら何か呟いて輝く本を出現させ健人に差し出す。
(俺に見ろってことなのかな?)
健人が差し出された輝く本を受け取った瞬間、今までに感じたことのない衝撃を受けて思考が停止し闇の世界に落ちた。
どのくらい時が過ぎたか分からないが冷たく硬い床の感触を頬に感じながら意識が覚醒していく。
「うっ…」
強い衝撃を受けたせいか、口から思わず小さな呻きを発しながら上半身を起こした健人は頭に手をあてながら周りを見渡す。
そこは天井、床、壁が石造りのかなり広い部屋の中だった。
かなりの広さというのはどの程度かというと野球場のグラウンドほどあるだろうか。
さらには天井までの高さは5mほどありそうだ。
とにかく異様である。
(どこだ? なぜここいる? 確かに自室で寝ていたはずなんだけど… もしかしてこれって夢?)
ありきたりだが健人は自分の頬を右手で力強く叩いてみた。
バシっっという音があたりに響く。
「くっ」
当たり前だが叩かれた痛みが頬を襲う。
(この痛みからするとこれは夢じゃないな。寝ている隙に両親が引きこもり解消の為に別の場所に移動させたのか? とりあえず、まずは現状を把握しないと始まらないな)
そこまで考えたところで左手に持っているものの存在に気づいた。
幽かに光る本である。
(あれ、これって確か夢の中で見た女性が持っていた本だったよな? でもこんな本を手に持っていてなんで今まで気づかないんだ?)
頭の中を疑問が駆け巡る。
そう、まるで自分の体の一部のように意識せず、左手の中が定位置であるかのように本は自然とそこに存在しているのだ。
健人はこの本がなにか重要なヒントになるのではと本を開いた瞬間、頭の中に猛烈な勢いで知識が流れ込んでくるのを感じた。
一通り知識が流れ込んだところで状況を把握してしまった。
(魔法や魔物が存在するファンタジーのような異世界に来ちゃったみたいだ…)
本から流れ込んだ知識は極めて限定的な情報だった。
しかし限定的とはいえ、かなりの驚くべき情報がいくつも含まれていた。
まずこの本だが、魔力で構築されており正式名称は【世界図鑑】、かなり長いので略して【図鑑】としておこう。
【図鑑】の能力だが、召喚系魔法と空間系魔法の魔法術式を融合させ開発された完全オリジナル魔法である【図鑑魔法】を使えることに尽きる。
開発したのは賢者マリア。
あの夢の中で見た女性らしい。
実年齢は不明だが、なんらかの魔法で寿命を引き伸ばしながら、かなりの時間をかけて【図鑑魔法】を開発したところで寿命を迎えたらしい。
その【図鑑魔法】の使い手としてこの異世界にケントは召喚されたのだ。
【図鑑魔法】の基本的な使い方は、魔獣の内包する魔力を吸収させることで、その魔獣を召喚することが可能になる点である。
また術者が手に触れたアイテムや人物の情報も図鑑に記載されていき、召喚は出来ないがいつでも内容が閲覧可能となる。
基本的なスペルは以下となる。
《リターン》…【図鑑】を収納する。
《ブック》…【図鑑】を手元に出現させる。
《イート》…魔獣を吸収する。
《サモン》…魔獣を召喚する。
《サモンリターン》…召喚した魔獣を収納する。
《ゲート》…聖域との扉を出現させる。
《ムーブ》…指定箇所に転移する。
さて次に今いる異世界の情報だが、賢者マリアはノマリア王国の魔術師だった。
この世界は魔力に満ち溢れており、その恩恵で魔法文明が発達し人類は反映していた。
ただし強大な魔力溜まりは魔獣という人類を脅かす存在を生み出すという弊害もあり、その討伐の為にさらに魔法文明が発達していったという背景がある。
思わぬ事態に陥ったことに唖然としていたケントだったが、まず自分がどうすべきかを考えることにした。
(まいったな… いきなり異世界に放り込まれて魔法使いをしろってか? ふざけんなよ! でも召喚されたってことは元の世界に戻る魔法も存在するんじゃないかな? 一方通行なのか行き来可能なのかはわかんないけど…)
ふと顔をあげて周りを再度冷静に見渡す。
(ここって入口のない閉鎖された部屋だけど、スペルにあった聖域ってやつかな? ファンタジーMMORPGでいうプライベート空間ってやつだよな、きっと。とりあえずあそこに何があるか確認してみるか)
部屋の隅に机、椅子、本棚、ベッドなどの家具が置かれた場所を捜索することにした。
近寄って気づいたが夢で中で見たベッドであるとすぐに分かった。
(あー、賢者マリアはここで俺に【図鑑】を手渡したのか…)
あの時、受け取らなければと自分の軽率な行動を反省していたが、あの時点でこのような事態になることは想像できなかっただろうと気持ちを切り替える。
机の上を見ると、いくつかのアイテムが存在するのがわかる。
(知識が正しいかまずは確かめてみるか)
ケントは椅子にまず座り、机の上にある黒い布を手に取った。
触った途端【図鑑】が幽かに光る。
(これで情報が記載されてるんだよな)
【図鑑】を開くと[アイテム]という項目が出現したので、そこを指差すとアイテムリストがページに表示された。
(ほー、タブレット端末みたいだな)
リストには[マント]の項目が一つだけ存在したので、さらにそこを指差すと名称リストが表示され[マジックマント]と表示されている。
躊躇い無く[マジックマント]を指差すとイラスト付きで詳細が表示された。
[マジックマント]
状態:良好
体力強化(中)
精神強化(中)
切断耐性(中)
(これってマジックアイテムのマントか)
他に机の上にあったの数点の女性向けのアクセサリやサンダルや女性向けの服を手にとって見たが、【図鑑】は反応しなかった。
(どうやら、マジックアイテム以外は【図鑑】に記載されないみたいだな? 魔力に反応して記載されると見て間違いないな)
ふと本を眺めていると[アイテム]以外に[人物]の項目が目に入った。
(あれ? さっきはなかったよな)
[人物]を指差すと人物リストが表示され、[佐紋健人]の項目が存在した。
(知らない間に自分自身を触ったんで追加されたんだな)
そう思いながら[佐紋健人]を指差すとこちらも俺の顔のイラスト付きで詳細が表示された。
[佐紋健人]
性別:オス
種族:人族
スキル:図鑑魔法(スライム級)
(………………………)
ケントはスライム級と書かれた表示に目が釘付けになった。
(これって図鑑魔法の習熟度を級であらわしてると考えてよさそうだな)
現在わかってる範囲だが、アイテムリストと人物リストが表示されたことで【図鑑】が正常に作動しているのが確認できたことは僥倖であった。
しかしモンスターリストが表示されていないので魔獣召喚が出来なかった。
ケントは次に何をするべきか考えることにした。
10分ほど瞑想しているかの如く、目をつぶって熟考して目標を決めた。
(最終目標は元の世界への帰還方法を見つける、当面の目標はこの世界での生活基盤の構築と【図鑑魔法】の習熟度向上だな)
次に【図鑑】に目を移しじっと見つめる。
(この世界に【図鑑魔法】で召喚されたことを考えると、【図鑑魔法】にはこの異世界と元の世界を移動する手段を有してるはずだよな。極めることでその手段が発現すればいいと思うし、発現しなければその他にも世界間の移動の手段があるかどうかを探していくしかないな)
目を閉じると、泣いている共働きの両親の顔が浮かぶ。
(引きこもりになって迷惑かけちゃったのに、さらに俺の突然の失踪でさらに困らせちゃったな。きちんと父さんと母さんに自分の口から心配をかけたと謝りたいな…)
魔法や魔物が存在するファンタジーのような危険な異世界だが、絶対に生き抜いて元の世界に戻ろうとケントは力強く決意し、こぶしをぐっと握り締めた。