< 〃 >(3)
庭園の花壇に包まれて、少年と少女が楽しげに笑っていた。
この世の愛と幸せを全身に祝福された子供たちが、暖かな日差しの下、無邪気に駆け回っていた。
テラスでは、優しく微笑む穏やかな女性が椅子に腰掛け、二人を柔らかな目で温かく見守っている。
そんな春の麗らかな子供たちの笑い声がいつまでも続くかに思えたが、突然、光明が暗闇へと切り替わった。
いつしか少年と少女、あの優しげな女性も消えていた。
どこを見回しても、辺りは一面、黒、黒、黒……。
他には何もない。
下を見ても上を見ても、後ろを振り返っても、この暗闇に唯一存在するのは自分一人。
不安と恐怖に戦いた。
しばらくすると前方に、一筋の光が見え始め、その光を求めて歩き出す。
しかし、どんなに歩いても、その光の先に辿り着くことはできなかった。
走り出していたが、それでも全く近づくことすらできない。
あの光の向こうには一体何があるというのだろうか?
ただ、今はそこへ行きたかった。
すると、優しく微笑んでいたさっきのあの女性が立っていた。
何故だか知っていた。どこか見覚えのある女性だった。
「私は…私という者が皇帝様に愛されてしまったことを…あなたのお母様にお許し戴きたく命を絶ちました…。
だからどうか悲しまないで…私はいつまでもあなたたちを見守っています…そのことを忘れないで……」
女性はひっそりと哀しげに微笑んでいた。
ガインダークは去って行くその女性を追いかけた。どこまでもどこまでも追いかけた。
「待って…、行かないで…行かないで--------っ!!」
ガインダークはそこで目が覚めた。ハッとして身を起こす。
はち切れんばかりに心臓が打ち付けている。
額の汗を手の甲で拭うと、隣りの部屋にいる忠実な執事の名を呼んだ。
「ロイゼン!! ロイゼン!!」
隣りの部屋から顔を覗かせた男が、ガインダークの寝室に入ってきた。
「眠れぬのだ…。やっと眠りに就いたと思えば、いつもの悪夢にうなされる…。このところ毎晩あの夢にだ」
「お疲れなのですよ……」
優しくそう言って、仮面を外しているガインダークの寝台へ歩を進めた。
「あの少年と少女は何者なんだ? あの女はそいつらの継母か? 何故そんな奴らの夢を見る?
一体私はどうしたというのだ!? …それにこの髪-----」
彼は、自分の長い黒髪を握り締めて言う。
「褐色だったこの髪が、どんどん闇色に染まってきている…。戴冠式が過ぎた頃からだ…。
私はどこか悪いのかロイゼン…?」
「大丈夫です。それは杞憂というものですよ。さぁ、この香草茶をお飲み下さい。
悪夢にうなされることなくぐっすりと眠りにつけますよ」
ロイゼンは、ガインダークのために作った香草茶をカップに注いで手渡す。
彼は、その常備薬ともいえる茶を毎晩飲んでいた。
それを飲まないと、落ち着いて眠れないほどにまでなっていたのである。
「----お前が口移しで飲ませてくれ…」
ガインダークの真摯な瞳が、彼の瞳を捉える。
ロイゼンは笑みを浮かべていたが、香草茶を口に含むと、ためらわずガインダークの口に流し込んだ。
ガインダークがそれを飲み終えると、
「----だから、あらぬ噂を立てられるのですよ……」
北炎傭兵団のデャンの言い放った言葉を思い出して、ガインダークを抱きしめながらロイゼンは微笑んだ。
ロイゼンの背中に腕を回したガインダークは、彼の腕の中で哀しげな顔をして彼を見上げる。
ガインダークの女と見まがう、美しい…余りにも美しすぎる素顔がそこにはあった。
皇帝のむき出しにされたその肩も、まるで女のように白く細い。
「お前は今、私をガインダークとして見ているのか? それとも女として-----ブローニアとして見ているのか?」
皇帝ガインダークは、目と鼻の先にいるロイゼンに詰問した。
ロイゼンはフッと笑って応えた。
「こうした妖しい夜には、あなたは女性以外の何者にも見えませんよ…ブローニア……」
そうしてロイゼンは、ブローニアの柔らかな体に、逞しい自分の身を沈めていった。
彼は男ではなく、実は女だったのである-------。
*
翌朝、二人分の朝食を運んできた侍女が、ガインダークの寝室に入ってきた。
それは慣れた手つきだった。二人分をここへ運ぶのが、別に珍しいわけではないらしい。
セッツェン城塞で働く侍女たちは代々皆、口封じの為に口が利けない様にされていた。
頚動脈を外して喉元を切られるのだが、侍女たちが襟首の長い服を着ているのはそういう理由からだった。
侍女が朝食を速やかに中央のテーブルに置くと、当然無言で寝室を出て行った。
その物音にロイゼンは目を覚ましていたが、白い背を向けたままの女は、まだ微かな寝息をたて夢の中にいた。
彼女の黒ずんだ長い髪をそっとすくい上げ、彼はそれを見つめる。
「----ん…ロイゼン…、もう朝か…?」
彼女が身じろいで、まぶたをゆっくり開けた。
テーブルには白いポットと二つのティーカップも並べてある。
「温かいミルクでも飲みますか?」
「そうだな…もらおう…。ああ、今朝は久しぶりに気持ちのいい目覚めだ」
「……私もですよ」
ブローニアの唇に自分の唇を軽く押し当ててから、
ロイゼンは上着を羽織って寝台から抜け出し中央のテーブルへ向かった。
陶磁器製のポットに入れられた湯気の立つミルクをカップへと注ぎ、一つをブローニアの元へと運ぶ。
寝台で身を起こしていた彼女は、ほのかな甘い香りのするそれを受け取った。
だが、彼女の目線の先には、五日前の遠ざかった北方遠征のあの日が映し出されていた。
「所詮雇われの身は、裏切る確率が高いものだ…。今回のことで、他の傭兵が黙っていると思えんし、
同じ過ちが繰り返されるその前に、他もしらみつぶしに詮索する必要があるな…」
北炎傭兵団の謀反で、東西と南に散らばる残り三つの傭兵団にもブローニアは目を光らせていた。
「お前はどの傭兵団が、一番反逆を企てると見るか?」
寝台の前に立つロイゼンに彼女は訊く。
「例え忠実な部下であっても、他人は他人。土壇場で寝返ることもあり得ます。
つまり、自分以外は敵であると言うことです…」
「……? だとすれば、お前も私の敵と言うことが言えるな?」
「----はい…」
冗談で言ったその問いに、ブローニアの笑っていた顔が、漸次消えていった。
訝しげに彼の顔を見つめる。
「ロイゼン…? 私の聞き違いか? それとも私の言った意味がわからなかったのか?」
「いいえ…、理解しております。私はあなたと一心同体。
つまり、ここにいる私は私であらず、あなた様であるという意味で申し上げたのです」
「ああ…何だ…、そういうことか」
一瞬、脅威にさらされたブローニアは、ホッと胸をなでおろす。
「一心同体か…。まさにお前と私だな」
「はっ、恭悦至極に存じます」
ブローニアは安心して、いつもの冷笑に帯びた顔へと戻っていく。
その後、着替えをするため、侍女のレマを呼んだ。
レマは、ブローニアの黒い衣服、そして甲冑を手に持ってきた。
彼女に着替えをさせられている間、
自分の母親が生きていたら目の前のこのレマのようであったのだろうかという想像が、ふと脳裏をよぎった。
瞬間、激しい頭痛がした。
ブローニアは、その思考を頭を振って霧散させ、再び冷酷な笑みを取り戻す。
無駄な肉のない均整のとれた体に鎧がはめこまれ、鉄の仮面が美貌のその顔に覆い隠されると、
彼女は皇帝ガインダークへと姿を変えていく……。
北炎傭兵団が全員斬首されたと聞きつけた各傭兵団の間では、密かに何かが動き始めていた。
だがそれは、皇帝が当然のごとく予測していたことでもある。
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