< 〃 >(3)
キングスはパロウの授業を受けていた。
久しぶりに顔をのぞかせた王子に、長い白ひげを蓄えた老師は喜び勇んで熱弁を振るう。
「我がシッカの歴代雄鹿を順に挙げよ」
「モアニークル、ギルト、モデ、ぺジャン、サッティーン、デミーラン、ジャクリス、ジャクリス二世、ボイツェン、
アニクス…、そして我が父アンモス」
キングスがスラスラと言い終えるのを見て、パロウは頷く。
「知っていて当然とはいえ、あまり勉強をなさろうとしないあなた様が、それをよどみなく言えることは結構なことである。
人は死ぬまで、一生何かを学ぶ生き物。知ることは楽しい。学ぶことは喜び。
王子は大変優れた頭脳をお持ちであられるが、落ち着きがないという欠点がおありですな。
城を抜けて遊びほうけるという欠点が…。確かに世のことを知るために外出なさというのであれば、
それもいいでしょう…。しかしあなた様は、一人の人間である前に王子。
王子とはいずれ、一国の王とならせられる御方。
キングス様、学ぶことを怠ってはなりませぬ。王子として学ぶべきことは山とあるのです。
あなたはその半分も、まだ学んではおられぬのですぞ。
-----それと、偉大なる御女神ジブエへの祈りも怠りなく……」
そこまで言うと満足したのかパロウは、持参した分厚い本を閉じて手にし、キングスの部屋から出て行った。
ようやく開放されたキングスは、椅子の背にもたれて眠たげにあくびを大きく漏らす。
「相も変わらず、よくもあんなに滔々と舌が回るものだ。
年寄りの歯がないのは、説教じみてすり減ったからだな」
そんなことはないだろうが、真顔で冗談を一人ごちて、彼は机の上に視線を落とす。
机上には、何冊もの本が無造作に積み上げられてあった。
どれも黄ばんでいてかなり古いのが窺われるが、羊皮紙や獣皮紙、それに木紙に書かれた大切な城の蔵書である。
シッカ城の書庫には、約三万冊の蔵書が収蔵されていたが、歴史の古いセッツェンのような巨大な国に比べれば、
きっと些細な数であろう。
それらは、シッカの古文書や歴史書が主だが、その中に混じって誰がいつ持ち込んだのか、
セッツェンより持ち出されたセッツェンの文献書までもがあった。
「戦いと憎しみ、意地の張り合いは、本当に見苦しいな…」
一人呟いて、彼は席を立った。
だが気になるのか、セッツェンの文献書を今一度手に取ると、所構わず見開いた。
そこには、セッツェン帝国の代々伝わるという拷問の数々、しきたり、法律など…あらゆる事項が列挙されていた。
「本当にこんなことが法律で認められているというのならば、セッツェンはまるで巨大な拷問所だな」
パン!と、厚みのあるその本を勢いよく閉じて、机の上に投げ捨てた。
その反動で、一冊の本が床に落ち、キングスは何気に開かれたその本を拾い上げる。
その頁には、無量無辺無劫の宇宙を七段階に区分化した、七界の様子が記されてあった。
七界とは、上位から順に、宇宙界、天界、神界、精霊界、人間界、魔界、下界、を意味している。
この世界では、この全七界の存在が信じられ、広く流布されていた。
上位三番目にあたる神界には、この辺りで特に崇拝するジブエを始め、七神が住んでいるとされていた。
「----誰かが実際に見たって言うなら信じてやる」
ジブエ教の聖書の中には、闇を統べる女神ジブエの詳細もこと細かく書かれていた。
実はジブエは闇の女神だった。そこに載っている想像図は、長い黒髪の微笑の美神。
安らぎと眠り、闇の一切を司る神。男が太陽なら女は月。男が陽なら女は陰。
ジブエは女、つまりは陰の力・影の力が備わっている。
……いつの頃より誰がこの神を崇め、そして広めていったのかは定かではない。
キングスはただ単に、信仰や宗教に興味がないだけだったが、傍から見れば背教者と呼べるかもしれない。
「ま、どうでもいいか…興味なし!」
息を吐いて部屋を抜け出すと、彼は長い廊下を歩き出した。
廊下の壁には、歴代王の肖像画が飾られてある。
しかしキングスにしてみれば、どれも知らない顔ばかりで退屈な絵以外、何物でもなかった。
ただ一つ、優しかった祖父の絵を除いては……。
第十の雄鹿・アニクスの肖像画の前に立ち止まると、しばらくその絵を見入る。
アニクスは、玉座に座す時は険しい顔つきの鋭い目の怖そうな男だったが、
それ以外の時は優しい笑顔を浮かべる男だった。
キングスは、優しい顔の時の祖父しか憶えていない。彼は、キングスが5歳の時に亡くなったのである。
この先からは、中庭を取り囲むように白い石柱が何本も並ぶ回廊が続いていた。
ふと、向かいの回廊に見慣れない影に気づき、キングスは足を止めた。
色とりどりの花を大きな花瓶に挿し、それを両手で抱えたおさげの小柄な少女が歩いている。
初めて見かける小さな侍女に興味を持ったのか、彼は気づかれぬよう後を追う。
----まだ十五は超えていないな…。
その時、まだいささか距離はあるだろうという所で少女が振り返り、キングスの目と合う。
驚いたキングスの目が丸くなる。
「へぇ…、意外に鋭いんだな!」
感心して向こうにも聞こえるよう、やや大きめの声でそう叫ぶが、
少女が驚愕に打ち震える表情をしているのに気が付いた。
「おいおい、何も取って食うわけじゃなし、怯えなくてもいいだろう…?」
しかし少女はそれで安心するようではなかった。
花瓶の花の中に顔を隠すようにうつむき、泣きそうな顔をしていた。
「参ったな…」
思いもよらぬ展開に、意外にも彼は困り始めた。
シッカ城に仕える侍女たちは皆、礼儀こそはいいが堂々とした態度で接することを習わされている為、
身を震わす彼女にもいつものような接し方をしてしまったのだ。
----この子はまだここに来たばかりなのかもしれない……。
キングスは素直に詫びることを決意した。
「すまない…軽はずみなことをして悪かった。許してくれたらありがたいが…」
少女はこくんと頷いてくれた。キングスは軽く安堵の息を漏らす。
「それにしても重そうな花瓶だな。持ってやろうか? ----名はなんと言うんだ?」
「……」
黙然として返事はなかった。
まだ怯えているのであろうか…?
「…ああ、そうか、俺を知らないのか。俺はこの城の囚われの王子キングスだ。以後お見知りおきを」
「----…」
それでも臆病そうなその少女からは、何の返答もない。
----妙な子だ。何故何も答えてくれない…?
キングスは怪訝になる。まだ自分は信用されていないのだろうか?
と、そこへ…
「王子! 一体そこで何をしているんですか?」
よく知る声が背後から聞こえ、キングスの心は和らぐ。
「おお! いい所に来てくれたザッハン君。これからお前の部屋へ行こうとしていた所だ」
「私の部屋と逆方向じゃないですか! 第一王子の部屋からそんなに離れてもいないでしょうに。
忘れたなんて言わせませんよ」
「実は俺は、パロウ老より先にボケが始まっているんだ。…そんなことよりもザッハン、俺は今非常に困っている」
キングスが助け船を求める。
「…おや珍しい。あなたが女性に関して私に助けを乞おうとは…。
その侍女でしたら、彼女はライアと言って先週ここに来たばかりです。----ご覧の通り口が利けません」
「何、口が利けない…? そうか、そうだったのか……」
それ以上キングスは何も言わなかった。
急に神妙な面持ちで難しい顔をした王子に、従者もまた何も訊き出そうとはしなかった。
できない雰囲気があった。
----王子……?
ライアを仕事に戻るようザッハンが手で合図すると、腕を組んで眉宇を寄せたままの彼がようやく口を開く。
「----あの侍女はどこから来た?」
「北のデリー地方からだそうですよ。侍女長から直接聞いた話ではないので断言し兼ねますが、
母と侍女たちがそう話していました。…それがどうかしたのですか?」
「デリーだって? 俺がよく行くデリーに、あんな子がいた話は聞いたことがないぞ?」
「何だかまるで、全ての女性を知り尽くしているかのような口ぶりですね。
一体どうしてそんなにこだわるのです? 彼女に何かあるんですか?」
「俺のお門違いならいいんだがな」
「----どういう意味ですか?」
何かを考え込むように、そのままライアが消えて行った先をキングスは見つめ続けていた。
ザッハンは、ふぅ…と軽くため息をつくと、腕組みをする王子に向かって何かを言い出した。
「それよりも王子、王が呼んでいましたよ。すぐに謁見の間に行って下さい」
「お前な…、それを早く言え。ただでさえ嫌な目をされているんだ。
これ以上目を細められたら、幾ら目のでかい父上と言えど終いにはつぶれてしまうわ」
冗談なのか本気なのかわからない台詞を、従者は半分聞き流して言った。
「私のせいではありませんよ。誰か様が問題を起こすからいけないんです。さ、早く行って下さい。
何か頼みごとがあるご様子でしたよ」
「----頼みごと…? 何だそれは?」
怪訝な顔を向けられ、ザッハンは一瞬間を置いて、それから言った。
「----さあ…? わかり兼ねます。とにかく行けば解明することですよ」
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