ワンダーハードボイルドアームチェアディテクティブ・密室殺人
小鳥の囀りが夢のリズムをかき乱し、ブラインドから漏れだす光が目蓋を貫いて夢を切り裂く。
朝、だな。
当然のことを、頭のなかで反芻する。まずは起きて、コーヒーを入れ一服。
夢と朝やるべきこととの間で混沌とした思考を整理するための呪文だ。
朝のルーチン。俺のスタートアッププログラム。
だが、今日は駄目だ。
あまりにも頭が重い。
どうやら飲み過ぎたようだ。
何かを掴もうとお持ち上げた腕が力なく落ちる。
光も囀りも、遠のいていく。バラバラになったはずの夢のパッチワークが思考を優しく包んでいく。
ああ、続きだ。
夢を見よう。
希望と愛に満ち、安らぎと笑顔が絶えなかったあの悪夢を……。
ウィーン、とリアルな機械音が鳴って、俺の上体が強制的に起こされる。
夢は波のごとく引いていき、二度と打ち寄せることはなかった。
くそ、目覚ましをかけていたのを忘れていた。せっかくハードボイルドに二度寝をしてやろうと思っていたのに。
目覚めのたばこを咥えると安楽椅子から伸びた黒い触手がライターで火をつけてくれる。
薄暗い部屋の中に差し込む光を紫煙の粒子が散乱させる。
コポコポという音と共に、コーヒーの香りが部屋に満ちてくる。さすが安楽椅子、仕事が速い。
朝の一連の儀式もこんな感じで安楽椅子が済ましてくれる。
コーヒーが入る頃にはトーストも焼きあがっていることだろう。
食後には二杯目のコーヒーと葉を詰めたパイプが用意される。何から何まで至れりつくせり。これ一式で安楽椅子の目覚まし機能だ。
パイプ煙草をふかしているとかすかなノックが聞こえてきた。最初は聞き間違えかと思ったが、また聞こえた。
どうやらお客人のようだ。珍しいことだ。
「開いてますよ」
戸口に向かって大きめの声で言うと、恐る恐るといった様子で一人の白衣の女が部屋の中に入っていきた。
「開いてるんですね」
女の最初の台詞はそれだ。コンニチワの挨拶でもなく、開口一番の依頼でもなく。
「何かおかしいことでも?」
「いえ、密室探偵事務所と書いてあったものですから」
そう俺は探偵だ。安楽椅子とパイプとくれば当然といえば当然の話だが。
そしてその探偵の事務所がその名も密室探偵事務所というわけだ。
「ああ、あれは みむろ と読むんです。わたしの名字ですよ」
「変わったお名前なんですね」
「そうですか?」
女の顔は何故だかひきつっているようにみえる。
「本日はどうなさいました」
「あの、いえ、依頼というか……」
「そうですか。まずはお座りください。コーヒーで大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ」
おっかなびっくりといった感じに座る女の前に安楽椅子の触手がコーヒーカップを置き、コーヒーメーカーと融合している触手がコーヒーを注ぐ。
女の顔から血の気が引いていく。
「どうも、探偵の密室殺人と申します。今回のご依頼内容はいったいどういったものでしょうか?」
「……」
女はコーヒーを見つめたまま呆然としている。
「あのー。聞こえてます?」
「……」
駄目だなこれは。恐怖で頭が混乱しているようだ。
「わかりました。脳に直接つないで依頼内容を取得します」
一応の断りを入れてから、安楽椅子の神経接続触手を操作し彼女の頚椎へと近づける。
彼女は飛び上がるように顔を上げた。
「大丈夫です大丈夫です話せます」
「こっちのほうが早いですけど」
「いえ結構です遠慮します言語での伝達でお願いします」
「それは残念」
触手を引っ込めると彼女は安心したようで、いくらか血の気も戻っていた。
「猫を探して欲しいんです」
探偵業にはありがちな依頼だ。現実の探偵としての仕事も大抵は身辺調査にペット探しが大半だ。犯罪事件解決なんてのは滅多にない。
だが、俺のところに持ち込まれる依頼としてはいささか奇異だ。俺が得意とする事件というのは、ほとんどが複雑怪奇で奇妙奇天烈、謎が謎を呼んだり謎が謎を無視したり謎が謎をいじめたりするような事件ばかりなのだ。
そもそもペット探しならばもっとうってつけの専門家がいるようにも思う。
「猫の写真か何かは?何なら脳とこの安楽椅子を直結して」
「結構です視覚データがこのメモリに入っていますのでこれをつかってください脳には繋がないでください」
「そのほうが手っ取り早いのに……」
受け取ったメモリを安楽椅子に呑み込ませると、ゴリゴリと何かを砕くような音がする。少ししてメモリが吐出される。
いささか形状が変わって粘膜に覆われた生物的な挙動をするものに再構成されたメモリを女に渡そうとすると、結構です、と断られた。
椅子の映しだしたホログラフィック映像に出てきた猫は普通だった。
目つきが悪くいささかふてぶてしい印象がある。やや毛色の配置が不細工に感じられるが、四色もあるからだろう。
あとはこれといって特徴がないずんぐりとした日本猫だ。
そう、予想外なほどに普通だった。
「本当に、この猫ですか?」
「ええ、そうです。ただ、狐の血も混じっています」
「狐ですか?」
視覚データを見た限りでは狐の特徴のようなものは見受けられない。しかし、何故狐の血が。
「はい、故事にあるんですよ。狐と猫の間に生まれた子は霊力を持ち、喋るようになると」
「化け猫……というわけですか」
猫は長年生きると、霊力を宿し喋るようになり、怪異を成すようになるという。確かにそういう話も聞かないでもない。
「化け猫とまで言っていいのかどうか。ただ、高い知能を持ち合わせていたことは確かですし、情報端末も扱えましたし音声変換術を用いれば会話することも可能でした。あとは変化能力も身につけていましたが、鏡のように真似るだけでした」
「ふむ……」
確かにこれは普通の依頼ではない。俺に打ってつけの依頼ではあるかもしれない。
「何故そんな猫を飼われていたのですか?」
「研究用です。申し遅れましたが、私こういうところに勤めておりまして」
「太平精神活力研究所……聞いたこともないですね」
「そうでしょうね。小さな研究所ですから」
「まあいいでしょう。消えたのは何時頃ですか」
「昨日の朝、いつも通りシケ、シケというのは猫の名前なんですが、シケに餌を上げようと飼育室の扉を開けようとしたら、開かなかったんです。鍵が開いていたのかと思ってもう一度鍵を回したのですがやはり開きませんでした。他の職員も読んであれこれ試したんですが、結局開かなくて、そしたら――」
叫び声が聞こえた。
猫の悲鳴にも、女性の悲鳴にも聞こえたという。
工具箱をとってきてドアを取り外そうか、いや業者を呼ぼうかなどと悠長に話し合っていた職員たちにもこれには焦った。
誰が最初に言い出したかはわからないが、ドアをぶち破ることで意見が一致した。
そして体格のいい男性職員二名がドアに体当たりをした。
意外なことにドアは一回目の体当たりで開いた。
勢いよくぶつかった職員が部屋の中に転がったほどだという。
そして、戸の開かれた飼育室には猫はいなかった。
忽然と消えていたのだ。
「猫用の出入り口とかそういったものは?」
「もちろんありません。大事な研究対象でしたので部屋を自由に出入りすることはできませんでした」
「では窓も?」
「窓は格子がはめられていますしシケの通り抜けられる隙間はありません。天井に空調がついてますが、その隙間もわずかしかありませんので」
「なるほど、密室というわけですな。その部屋の見取り図や当時の状況のデータを見るために脳に繋い」
「メモリに入ってます」
「繋いだほうが早」
「結構です」
早々に良心的提案を打ち切られた俺は仕方なく安楽椅子の触手で先ほど吐き出されたメモリを拾い上げ、データを食わせる。
女は吐き出された節足動物のような形のメモリを諦めたような顔で見つめている。
当時の状況は女の言った通り、部屋の見取り図を見ても猫の通れそうな隙間はなかった。
密室であろうか。
見た限りでは密室であろう。
だが、この世に密室などあり得ない。密室に見せかけたただの部屋なのである。
密室を密室足らしめているのは、ただ一つの謎に過ぎない。
猫が抜け出す隙間のない部屋から忽然と姿を消したという不可解な謎だけである。
「狐と猫の子には霊力があるとおっしゃいましたが」
「シケには先ほど申し上げたもの以外には霊的な能力の発現は確認されていませんが、念のため部屋の周辺には霊力制限をコードしてあります」
「外界との接触は?電話とか」
「端末で制限的ネットワークと接続できるようにはしていましたが、あくまで情報通信のみですし」
「しかしデバイスはあったわけですね」
「ええ、それで音楽や画像を作るのが好きだったみたいで、作ったものをいろいろと見せられました」
デバイスはあり、制限的には外部ネットワークと接続することができた。
デバイス情報はメモリから得た。一般的な携帯端末の機能を少し差し引いた形だ。
特殊なことができるわけではない。
「他に何か情報は?飼育室に監視カメラは?」
「監視カメラは廊下だけです。どこに逃げたかも見当がつかないので……」
「なるほど、ではさっそく推理を開始します。少々お待ちいただくことになるかもしれませんが」
「はい。ではまた」
「いえ、五分もかからないでしょう。お待ちいただいたほうが良いですよ」
女は驚いた顔をしていた。俺はかすかに微笑んだ。
俺の体は安楽椅子に飲み込まれていく。
文字通り。
取り込まれていく。
ここは安楽椅子の内部に構築された非ホームズ推理空間だ。非ユーグリッド的で非論理的。
悪夢と無意識とドラマとアニメと歴史と瞬間。入り混じってドロドロに遂げた他我と自我が協力して悪の組織に立ち向かう。
例えば、猫がいたとする。あくまで仮定の話で実際には猫はいない。はずなのだが、目の前で安楽椅子に座っておりパイプを透かしている。
「君はホームズという名だろう?」
「違うにゃ。我がにゃは非シュレディンガー。生きてもいなし死んでもいない。想定されていない、算出されえない波動関数の数値にゃ」
「面倒くさそうだな。疲れないかそういうの?」
猫は消えていた。
仕方がない。そういうものなのだ。ここは。そういえばどこだ?ここは。
突然背後の泉から眩い閃光があふれ出る。
振り返ると女神が泉から鼻から上だけを出していた。
ぼこぼこぼこぼこ(訳:あなたが探しているのはこの金色の猫ですか?)
俺は首を振る。
ぼこぼこぼこぼこ(訳:あなたが探しているのはこの銀色の猫ですか?)
また、首を振る。
ぼこ……ぼっこぼこぼここ(訳:じゃこの透明のチヤシャ猫ですね!そうに違いないわ!)
残念。俺は首を振る。
ぼここぉ(訳:それではDの部屋にお進みください……)
泉の後ろにはドアが4つあってそれぞれにABCDと大きな文字で書かれている。俺は女神の助言を無視してAの扉を開ける。
そこには少年が立っていてだるそうにけん玉で遊んでいた。
「ねえ?犯罪って何かな?」
少年は問う。
「罪を犯すこと」
俺は答える。
「じゃあ罪って?」
僕は尋ねる。
「時代とか規則とか自分とか、世界を区切る何かが制限したいものかな」
男が答える。
「でも禁じられてるんでしょ?」
「ああ、ここでは禁則事項だ。メタコードのせいでな」
「密室は?」
「密室の製造自体は犯罪じゃないさ」
そもそも密室って何だろう、と僕は考える。誰も入れず、誰も観測できないもの?誰も観測しない限り密室の内部は決定されえない?中にいる猫は自分の生死すら決定することはできないの?
違うよ。それは密室じゃない。空気も電磁波も観測も、何もかも拒む閉鎖系は密室とイコールじゃない。何故なら、密室は認識されなければ密室と成り立ちえないから。そして大抵の場合、密室は探偵に解体される。
錠前屋さんみたいだね。
そうさ。で?鍵は見つかった?
まだ。猫が見つからないんだ。
仮説1:デバイスが映し出した壁の映像の中に身をひそめ、職員がいなくなったところで、再び姿を現し逃走した。
「それじゃいささか陳腐すぎないか?」
「猫があんまり頭が良くなかったということじゃダメかな?」
「携帯端末にプロジェクト機能はついていたようだが、さすがに調べられるさ」
仮設2:まず猫は天上に頑張って張り付く。ドアが破られ、職員の目が室内に集中したところで床へ降り、悠々と逃げる。
「これも無理があるな。仮説1もそうだがそもそもドアが開かなかったのはどう説明するんだね」
「それは、まあ、なんでもいいさ。ドアなんて意外と簡単なストッパーで開かなくなる。それをこっそり回収すればいいだけのことだよ」
「どちらにしろ危険すぎる駆けだな。たまたまうまく行ったにしても、そんなことすれば廊下の監視カメラに映るんじゃないかね」
「室内は霊力制限がかけられちますが。室外はそうではなかったようです。変幻や透過能力を持ち合わせていれば……」
「それでも一度は外に出なければならないわけだろ?やはり廊下の監視カメラに映っちゃうんじゃないか」
仮説3:全部女の妄想でした。はじめから猫なんていません。
「面倒くさくなったな」
「まあ、そうですね。どうしましょうか」
「だが、依頼は猫を探せだ。密室の謎を解けではないよ」
「その通り。まあ、その謎も解けていないわけではないのですがね。じゃ、戻るとしますか」
「じゃ、またな」
「ええ、またいつか」
暗い。暗い。暗闇の中で足掻く。
光を求め、手を伸ばす。
やがて押し上げられる感覚とともにうっすらとした光が見える。
そうして僕は安楽椅子から戻ってきた。
「お待たせしました」
声の様子がどうも変だし、女の人は唖然としているし、何だか体の様子も違う気がする。
慌てて鏡を見てみるけどそこに映っているのは僕だ。性別と年齢が変わっているようだが、毎度のことなので慣れた。
「では、推理の結果をお伝えいたしましょう」
女の人もなかなか現実を受け入れがたいようだが、一応話を聞ける状態にはなっていそうだ。
「まず、猫がどこへ行ったか。それが一番重要ですよね」
「ええ、まあ」
「とりあえず、猫は目の前にいます」
「それは、そのどういう意味で」
「そしてあの部屋には最初からいなかった。少なくとも数日はあの中に猫はいなかったんじゃないでしょうか?」
「おっしゃっている意味がちょっとわからないのですが」
女の人はいささか苛立っている様子だ。僕はパイプを咥えて、ふと考える。この肉体で煙草を吸うのは問題だろうか。
「全部、私の妄想だとでも仰りたいんですか?」
「まさか。妄想のために視覚データまで偽装するほどの暇人が僕のところに来るとは思えません」
「だったら」
「でも、餌をあげていた本人が、猫にいないことに気づいていなかったとしたら」
「まさか、例え猫が幻術のようなものを使えたとしてもあそこでは霊力の類は制限されていたはずです」
「何も暗示に霊力は必要ない。視覚情報のようなものかもしれないし、聴覚情報かもしれない。言語によるコミュニケーションも出来たそうですから、言語による暗示かもしれません。あるいはそれらを複合したものかもしれない。良く見せられたんですよね?端末で作った音楽や絵を。多分、それが暗示だったんじゃないでしょうか。あなたは暗示をかけられて、そして猫がいるかのように振る舞い、毎日餌を与えに行っていた」
「だったら何でわざわざドアに昨日の朝にあんな騒ぎを」
「まあ、おそらくそれも暗示でしょうね。おそらく鍵が開かないと錯覚し、別の職員が試すときには別の鍵を渡すような。悲鳴は多分端末の音声でしょう。あと、何故わざわざそんな騒ぎを起こしたのか。それは自分の消えた日を悟らせないため」
「そんな……信じがたい話です」
「そうでしょうね。僕もあまり信じちゃいない」
女の人はため息をつく。
「先ほど、猫は目の前にいると言っていましたが、それは結局どういう意味だったのですか?」
「いますよ。目の前に、僕のね」
女の人はきょろきょろと辺りを見回すが、全く見当外れだ。
「シケは一つミスを犯しました。暗示は昨日で終わり。プログラム終了のはずだったんですけどね。でもそのプログラムが今も続いているようだ」
コーヒーはとっくに冷めている。勿体無いことをしてしまった。
「まず、シケは部屋から出る際に飼育員に暗示をかけて袋か何かを持ってこさせて、その中に入って部屋を出ます。そうすれば監視カメラには映りません。そしてあとは飼育員に運ばせて建物の外にでるだけ、なのですが、もしかしたら施設がどういうものなのか調べようとしたのかもしれません。シケは施設に残りました。シケはに変幻する能力を持っていたのでしょう?それで飼育員に化けます。飼育員には仕事を辞めたとでも暗示をかけて施設にもうやってこないように仕向け、自分がかわりに施設に毎日出かけるというものです。けれど、変幻能力にも制限があっんですよね。他人の真似しかできないような。多分その者になり切った時だけ、その変化を保てたのでしょう。少なくとも一定期間は自己暗示でその者になりきらなければ変幻を保てない。そこで自分に飼育員と同じ暗示をかけ、同じように行動する必要があった。そして、昨日プログラムは終了。すべての暗示が消え、シケもどこへなりとも消えるはずだった。ところが暗示が強すぎて、未だ、飼育員になり続けている。つまり」
僕は、多分、笑っている。
シケは多分、驚いている。
「あなたが猫だ」
「どうして」
「あなたは随分と神経接続を嫌がっていましたね。無意識の内に嫌がっていたのでしょう。それにコーヒーも一滴も飲んでいない。猫にコーヒー飲ませてはいけないですからね」
「いや、それは見た目の問題で……」
「それに白衣を着たままだし、どうもこの世界に慣れていない様子だ」
「しかし、参りましたね。私が、シケだなんて、適当もいいところだ。参考にはさせていただきますが、これ以上は無駄のようですので。お暇させていただきます」
そう言って女の人は慌てた様子で立ち上がり、部屋から出ていこうとする。
だが、それより早く無数の触手が彼女を絡めとる。
彼女は苦しそうに息を漏らしたかと思うと、たちまち猫に姿を変え脱兎の如く、わずかに開いた隙間から飛び出そうとする。
安楽椅子の脚が伸び素早くその行く手を遮る。
「だめだなぁ。お代、払い忘れてますよ」
シケは悔しそうな顔で、にゃあ、と鳴いた。
終わり
この安楽椅子は翅が生えたりします。