美しい音が反響し、その音すらも特別なものに聞こえるのが不思議だった。普段聞きなれているはずの靴音は、全く違う音色に聞こえる。城と言うものは、どんなものでも美しくしてしまう不思議な魔力でも持っているのだろうかと思った。
走ったら転んでしまいそうな程、よく磨かれた大理石の廊下。そこを少し前から、先導する騎士の後ろについて歩いていた。
二人の騎士はどうやら新米らしく、何度も道を間違えられ、正直なところ城で遭難するのではないかと不安になった。それほど城は巨大で、そして迷路だった。
騎士たちが再び分かれ道で立ち止まり、行く先を相談し始めたのを横目に、茶色の髪の少女は壁にかけられている、見たこともない程に大きくて高額そうなタペストリーを眺めることにした。
少し見ただけで細かい部分まで手を込んで作られているタペストリーだと分かる。色も鮮やかで、青白い壁を彩るには最適に違いなかった。一人の男と彼に従う人々が描かれていて、その周りを月桂樹が覆っている。もしかしたら国王と国民を描いてでもいるのかもしれないと思った。
「悪いな。こっちだ」
深緑色の制服を着ている男たちは、親しげな笑みで少女に声をかけた。少し恥ずかしそうなのは、自分たちの仕事場を未だに把握し切れていないからであろう。
「あの子が本当に優勝者なんだよな。改めて見ても、正直信じられないなぁ……」
「仲間達が負けたことは騎士として恥ずかしいが、実際に戦いの様子を見せられたら信じるしかないな」
目の前で自分の話をされているとは露知らず、少女は観光地に来た旅行者のように、せわしなく視線をあちらこちらと彷徨わせていた。
だがやがて騎士たちが足を止めると少女は視線を前方に向けた。金箔で覆われた頑丈で、反面、繊細な文様を描いた扉が目の前に広がっていた。大きな扉だったため、扉そのものが壁であった。
「さて、ここからは謁見の間だ。国王陛下がいらっしゃるのだから、礼儀はわきまえねばならん」
少女は緊張した面持ちで頷いた。その動作は大会では決して見られなかった程ぎこちない。
「ここまで連れて来てくれてありがとう」
そう言って少女が浮かべた笑顔は、雪解けの川のように透明だった。
「剣術大会優勝者、リアナ・レーベルト殿。ただ今謁見の間に入られます!」
騎士の声と共に、少女は強く一歩を踏み出した。
◇
「今、なんと言ったんだ?」
灰色の髪が窓から入る光で銀に輝いている。まだ歳若い青年はそれに目を奪われ、一瞬ぼんやりした。しかしすぐに意識を目の前にいる少年に戻した。
「ですから、フェリス様に専属の護衛を、と……」
窓の傍に置かれた椅子に座っていた少年は、顔を強張らせて青年を睨んだ。少年の紫の瞳は仄暗く揺れる。
「護衛だと? いったい誰を守ると言うんだ。ここには、誰かがわざわざ手間をかけてまで守るような人間はいない」
嘲笑を含んだ言い方に、青年は哀しくなった。少年に仕えてきた青年は、彼が何を言おうとしているのか分かってしまう。
「……ですが、これはハロルド様の御意思でございます。もちろんフェリス様をご心配なされてのご配慮でございますから……」
「あの人には俺から言ってある。護衛などいらない、いなくても大丈夫だと」
「し、しかし、実際にお命を狙われていますし、エリオル様も先日のパーティーで」
「あの男なら護衛がいても死にかけるのも道理だ。剣も満足に握れないような愚鈍な男だからな」
「フェリス様! そのようなことを仮にも兄上であるエリオル様に対して言ってはなりません!」
少年は冷たい眼差しでもって青年を制する。
「黙れ」
青年は怯え、口を閉じる。だがその顔はまだ何か言いたげだった。それでも少年は青年の不満に気づかない振りをして、その代わりに先ほどよりも穏やかな口調で青年に言う。
「彼は次の王。この先のロスネルドを担うものだ。護衛がいるなど当然のこと。そして俺はただの第二王子に過ぎない。誰かが身体を張ってまで守るような命を、生憎持ち合わせていない」
淡々とした口調から紡がれる言葉に、青年は胸が締め付けられる気になる。それは何度も味わった悔しさだった。
少年は顔を窓の外に向けた。鮮やかな庭園と青く澄んだ空が輝きに満ちている。しかし部屋の中はどこか薄暗く、昼間だというのに驚くほど窓の外とは対照的だった。ただ、室内に注ぐ一筋の光が銀の色に変わっているだけ。
「……王のもとにいってくる。これでは契約破棄としか思えない」
「契約、ですか?」
(いったいどんなことを?)
しかし青年に尋ねる権利は無い。弱々しく拳を握った。
少年――ロスネルド王国第二王子、フェリス=R=レイファール=ロスネルドは、椅子から立ち上がると足早にドアの向こうへ消えていった。
青年はその背中をただ、見つめ続けた。
◇
ロスネルドを統治するのは他でもない、目の前の荘厳な真紅の玉座に腰掛けているハロルド=R=リヴァズ=ロスネルドである。
着ている服はとても高価な生地ばかりで仕上げられているはずだが、一国の王にしては地味な色合いだといっても良い。華美ではないが、むしろ統治者の威厳を醸しだしているようであった。国王の美しい金の髪は後ろで三つ編みにされている。
美しく威厳に満ちた国王を初めて見たら、誰でも身体が強張るのは無理はないと、リアナは額に薄い汗を浮べながら思った。
「へぇー。大会に本当に優勝しちゃうなんて、流石の俺もびっくりだわ、うん」
リアナが国王に会ったのはこれで二度目なのだが、気のせいだろうか。街のひょうきんな若者と同じ口調で国王がしゃべったような気がした。
「でもよ、あれはすごかったな。ほら、あれだよアレ! 相手の肩に乗っかって回し蹴りしたヤツ! ありゃあーひどかったね。俺が相手だったら頭よりも精神的に痛かったぜ!!」
国王の顔は楽しげに輝き、唇の間から白い歯が子供っぽく覗く。
初めて国王を見たと時はもっと“一国の王”に相応しい様子だった記憶がリアナにはある。重く張り詰めて、一国の王たる荘厳さを覗かせる姿だった。
あれは夢だったのだろうか。
そもそも一国の王様がこんなに親しげ、というよりも砕けた口調の人物だと、いったいどれほどの国民が知っているのだろうか。少なくともリアナは、全くそのような噂は聞いたことが無かった。
「途中参加をあれだけ派手に懇願するんだから、多少なりとも試合に勝って俺を……じゃなくて、観客を楽しませてくれるんだろうなーなんて思ってたけど、まっさか大会で優勝しちゃうなんて思わなかったわ。あの大会に出たのはほとんど城の騎士団員だったんだけどな。うーん、これは騎士団員によく訓練するように言いつけないと、そのうち他国に見くびられちゃうぜ」
それほど真剣に悩む様子は見られない国王だったが、言われた言葉にリアナはむっとした。不満げに唇を噛むと、国王に向かって礼儀も忘れて開口する。
「それはわたしが女だからですか」
その言葉に反応をみせたのはむしろ側近たちで、目を剥いて国王の目の前で不服を唱える少女を凝視した。
しかし当の本人である国王が、少女の態度を気にした様子は無かった。
「いや。どちらかといえば、騎士団にも入団していないような歳若い子に屈強揃いの騎士たちが負けてしまった、って方が大重要なんだが……。それとも、そっちの理由の方がお気に召すかな?」
まるで夜会で女性を相手するように、国王は目を細めて微笑んだ。その思わず誰でも息を呑むような笑顔と言われた言葉に、リアナは国王に不満を漏らしてしまったことを恥じた。
「いいえ、そちらの方がずっと嬉しいです」
「といっても外聞ってもんがあるからな。君は、ええっと、リリアだっけ?」
「リアナです。リアナ・レーベルトです」
「そうか、リアナね。……では、リアナ。そなたに我国の騎士団入団を命ずる」
広間は水を打ったように静かになる。国王の傍に控えていた眼鏡をかけた中年の男は、顔を真っ赤にしたまま口を魚のようにパクパクさせていた。国王は一瞬眼鏡の男に視線を向けて口元を緩めたが、すぐに真剣な顔をリアナに向ける。
「リアナ・レーベルト、これは国王である私の命令だ。断ることは出来ない。だが、物申すことがあればなんなりと言って構わない」
玉座の前でリアナは固まったままだった。謁見の間には不釣り合いだろう地味なワンピースの裾を強く握りしめる。
一瞬視線を絨毯の上に落としたが、リアナはすぐに顔を上げた。まだあどけなさの残る顔立ちには不釣り合いな、決然たる表情をしていた。
「騎士団に入団できるなど光栄なお話です。しかしそれはわたしの願いではありません」
琥珀の瞳は真っすぐに前へ向けられる。それを受け止めて、国王は微かに口端を持ち上げた。
「たしかに優勝者にはその者の願いを聞き届ける、とある。だが君の場合は既に手ほどきをしてしまったからな」
手ほどき。それはリアナへ「特別に大会出場権を与えたこと」なのだろう。確かにそれを貰っておいて、さらに願いを聞いてくれとは虫がよすぎる話だ。
簡単に願い事が叶うことなど、ないのだ。
だからこそリアナは剣術大会で優勝すると言う一縷の望みに賭けたのだ。そしてその賭けに勝った。しかし勝利は仮初のものでしかなかった。もとより国王の恩情の上で手に入れた優勝だったのだ。ならば諦めるしかないだろう。
それでも、リアナにはどうしても叶えたい願いがあった。自分で出来ることはしてみた。だがその先はどうしても自分ではどうにもならない領域だった。その領域へ誘うことができる人は、きっと目の前にいる人だろうというのに――。
リアナは何も言えなかった。願いを叶えてもらえなくても王に礼を言うのが筋ではあろうと思ったが、思いの他ショックが大きかったようで、呆然と視線を赤い絨毯に落とした。
「本来ならば正式な手続きを踏まなければならなかった大会に、陛下の御慈悲で出場できただけでもありがたく思うべきですぞ」
側近の男は肩を竦めながら言い放った。リアナはそれに頷かなければいけなかった。
それでも頷けなかった。頷いたら、己の願いが遠ざかってしまうことを、どこか冷静な自分が知っていた。
しかし縋る方法をリアナは見出せなかった。自分はただの子供だ。なんの力もない、ちっぽけな存在だ。何も出来ない自分が悔しくて、強く拳を握った。
「陛下の御前に居られるだけで幸福と思え。……そもそも優勝者の願いを聞くだなんて、陛下も無茶を仰らないでいただきたい! なんだってハロルド様はいつもいつもいい加減な事ばかり」
しかし側近の言葉は続かなかった。国王が玉座から立ち上がったからだ。ゆっくりとリアナに近づく。静かで重厚な空気が広がる。いつのまにか当たりは息をする音だけになっていた。
「……もしも願いを叶えたい、と思うのなら、今度は確かにそなたの“願い”をかけて、己の仕事を果たすというのはどうだ?」
リアナも側近たちも部屋の警備を務める騎士たちも、呆気に取られた様子で国王を見た。そしてその中でただ一人、眼鏡をした中年の男だけが、真面目な主の顔を見て青ざめた。
「ハロルド様ッ、何をお考えなのですか!?」
国王は慌てた男の声を無視し、大声で告げた。
「リアナ・レーベルト。そなたが我が息子、フェリス=R=レイファール=ロスネルドの命を、次の年の今日まで護り続けることが出来た暁には、そなたの“願い”、国王である私、ハロルド=R=リヴァズ=ロスネルドが必ず聞き届けることを、ここに誓おう!」
誰とも分からない息をのむ音が、広間に響いた。
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