穏やかな春の光が、窓を通して私の顔を照らす。
この陽気だと外はさぞ暖かいのだろう。そして広い広いこの三千院家の庭には、たくさんの春の花々が咲き乱れているのだろう。
せめて、窓を通してでもいいから、その美しいであろう春の景色を見たくて、私は自由のきかなくなった忌々しい体を起こそうともがいた。
でも、すこし背中を浮かせただけで力尽き、また私の体はベッドの上に沈んだ。
何度も、何度も、何度も挑戦した。
でも弱りきった体はわずかに浮くだけで、窓の外を眺めることは出来ない。
自分に対しての情けなさと、もう二度と体は自由にならないのだという絶望から、思わず涙が零れてしまった。
こんな私を、ナギやハヤテ君が見たらどう思うのだろう。
いつも気丈に振舞って、ハヤテ君に仕事の仕方を教えたり、ナギのお世話をしたり、自分ので言うのもなんだけど、あの二人にとって私は姉みたいな存在のはず。
そんな私が、こうして病にふせっている。
体も起こせないほど、自分の意思で外を見れないほど弱っている。
絶対に、だれにも見せなかった涙も、こんなに容易に見せてしまう、弱い私。
きっと、二人とも私に幻滅しているんでしょうね…。
― コンコン ―
一人感傷に浸っていると、ドアを叩く優しい音が耳に入った。
この優しいドアの叩き方…ハヤテ君かな?
「どうぞ」
出にくくなった声を絞り出して、ハヤテ君を自室に招き入れる。
「失礼します、マリアさん」
そう言ってハヤテ君は、春の日差しのような暖かな笑顔を浮かべながら私のほうへ歩いてきた。
「調子はどうですか?」
「今日は吐き気もあまりないですし…好調です」
いつもみたいに笑顔を浮かべた…つもりだったが、どうやら上手く笑えていなかったようで。
ハヤテ君の笑顔は、悲しそうなさびしい笑顔に変わっていた。
「…ハヤテ君も、この屋敷に勤めてもう10年ですね…。もう仕事は完璧ですよね」
「ええ、屋敷の仕組みもほとんど把握できましたし…。ここまで僕が成長できたのも、マリアさんのおかげですよ」
ハヤテ君はにこりと笑って、ありがとうございます、と言った。
その一言が、なぜだかすごく嬉しくて、頬が緩んでしまった。
「ねぇ、ハヤテ君…」
「なんですか?」
「もう…私がいなくても大丈夫ですよね…?」
それは、私が病に伏して初めて吐いた弱音だった。
きっと、今私は酷い顔をしているに違いない。みっともない涙を目にためて、不器用な笑顔を浮かべているのだろう。
でも、これが今の私の精一杯の笑顔。
もう、昔みたいにニコリと微笑むことはできないの。
「…そんなこと、言わないでくださいよ…」
ハヤテ君は相変わらず悲しそうな笑顔を浮かべて、私の頬に手を添えた。
10年前より大きくなって、少し荒れてざらざらになったハヤテ君の手。
しかし、形は変わってしまえど、その手のひらから感じる暖かさは何一つ変わっていない。
私は、その頬に触れているハヤテ君の手に、そっと自分の手をのせた。
ハヤテ君は少しびっくりしたようだったけど、すぐに私の手を握ってくれた。
本当に、優しい、優しい、愛おしい、ハヤテ君。
愛や恋ではないけれど、ナギを想うような優しく愛おしいこの気持ち。
ずっと一緒にいたいと想う、この気持ち。
でも、きっと叶わない。
でも、もしかしたら叶うかもしれない。
嗚呼、神様。
ずっと一緒になんて贅沢は言いません。
せめて、あと少しだけ私の命を延ばしてくださればそれでいいのです。
ハヤテ君が本当に完璧な執事になるまで、
ナギがひきこもりから卒業して、りっぱな社会人になるまで、
私は見守っていきたいのです。
この愛おしい人たちの最高の瞬間を見てから、私は死にたいのです。
嗚呼、神様………。
「……マリアさん……!」
ハヤテ君の心配そうな声で、私は我に返った。
頬になにか冷たいものが伝っている。
指で拭ってみると、それがこらえきれずに流れ出した涙だということがわかった。
「…ごめんなさい、いきなり泣いたりして…」
「やっぱり…怖いですよね……」
「いいえ、死が怖いわけじゃないんです。
私は……ナギや、ハヤテ君と、……一緒にいれないのが…っ……辛いんです…!」
あふれ出した涙は止まらない。
嗚咽を上げながら、私は子供みたいにハヤテ君の胸で泣いた。
そしてハヤテ君も、まるで子供をあやすように私の頭をあやすように撫でてくれていた。
しばらくして、やっと私の泣き声が収まった頃、ハヤテ君が私に言った。
「外、行きましょうか?」
「え……でも、お医者様に止められているし……」
「大丈夫ですよ、少しくらい」
大丈夫じゃないことくらい、私もハヤテ君もわかっていた。
私にとって、外は細菌のたまり場なのだ。でも、そんなこと、今は関係ないように思えた。
今はただ、ハヤテ君やナギと、一緒にあの健康で一番幸せだった頃のように、外で花を見たいのだ。
「そうですね、久しぶりに外行きましょうか」
「丁度桜も満開ですよ、今お嬢様を呼んできますね」
そう言って、ハヤテ君は私の手を離し、部屋を出ようとした。
「……ハヤテ君!」
思わず、呼び止めてしまった。
ハヤテ君は不思議そうな顔をして、いきなり大声をだした私を見つめている。
「…ありがとう」
不思議なくらい、自然に口から零れた『ありがとう』。
そして久しぶりに私の顔に浮かんだ、満面の笑顔。
まだ、私は笑えたんだ…。
「…どういたしまして」
ハヤテ君もさっきまで見せていた悲しい笑顔ではない、優しい穏やかな笑顔で返事をした。
たった、二言の会話なのに、すさんでいた心が満たされた感じがした。
まだ、まだ、二人と一緒にいれるんだ、そんな根拠のない希望もわいてきた。
「私は……まだ、ここにいるんですね……」
私はそう呟いて、窓の外に目をやった。
青い空に、たくさんの桜が舞っていた。
その桜吹雪を眺めながら、私はもう一度呟いた。
「……ありがとう……」
誰に向けてでもない、
私にかかわった全ての人に向けた『ありがとう』。
私を拾ってくれた帝様。
私をこの世に生み落としてくれた顔も知らない両親。
可愛い可愛い妹のようなナギ。
そして、優しくてナギと同じくらい大好きだったハヤテ君。
私は、みんなに囲まれて幸せです。
幸せをくれて、『ありがとう』
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