《第9楽章》 空洞のページ
常に方向舵がぶれ続けていた白い帆は、予定の倍近くも遅れて目的地に着いた。
考えごとをしていたからだった。
帰り際にあの魔女が言い残した意味深げな言葉、それが自宅に着いた今でも頭から離れない。しかも、あれだけ念を押されたのは初めてだった。
『あの少女に関わるのはやめなさい。そうしないと貴方は滅ぶわ。――そう、神の逆鱗に触れ、この世から消滅したバベルの塔と同じようにね』
「嫌だね。ってか、もう今更無理な話なんだよ」
大きな独り言を投げやりっぽく吐き捨て、快斗は着替えもせずにベッドへ寝転んだ。
あの少女、灰原哀がパンドラを狙っている以上、接触は不可避だ。
だからと言って折れるわけにはいかない。自分には使命があるのだ。父の死についての真相を知るためには、突き進んでいかなければならない。
「あっ。そうだ」
自分の背に押され、快斗は父の肖像画を軽く一押しした。すると、古びた滑車の音が低く響き、新たな空間が視界の奥行きを作る。
快斗は険しい表情のまま、黙って進んでいった。
「よかった……まだストックはあるみてーだな」
溜め息混じりに柔らかく呟く。残り少ないトランプのストックを確認した快斗の脇目に、一冊の本が留まった。そして、吸い寄せられるように本へ手が伸びる。
「? こんな本あったっけ? 親父の、だよなぁ? ――っ!」
手に取った瞬間、快斗は禍々しい気を感じ、すぐさま手放した。
これはきっと、第六感というやつだ。
どこかで聞いたような懐かしい声が、快斗の脳を直接刺激した。
ソノママ立チ去レ。
サモナケレバ、オマエの身ニ――
床に落ちた本の表紙には英語で『暗黒の天動と地球空洞論究』。百科事典くらいの厚さと大きさで、色は焦げ茶。染みや擦り切れが酷いが、辛うじて原形を留めている。かび臭さがそのまま近寄りがたさを表していた。
快斗は理由なく感じた。
この本が、運命を繋げる鎖になる。
そして紅子の言う“破滅”への足掛かりになると言うことを。
「開いてみっか……」
呼吸を整え、快斗は再び手に取った謎の本を開いた。
「快斗坊ちゃま? どうしたんです 急に呼び出したりして? まぁとりあえず落ち着いて下さいませ」
「――これが落ち着いていられっかよ! とりあえずこの本を見てくれ!」
「本、でございますか?」
言い終わらないうちに、快斗は問題の本を寺井に向かって放り投げた。
明らかに様子がおかしい快斗を尻目に、寺井は受け取った本の表紙をとりあえず見た。
一瞬、寺井の目に力が入った。
快斗は一刹那も満たない寺井の異変を見逃さなかった。
「これはまたけったいな本でございますねぇ。この本が何か?」
「最後の方を見てくれ」
「最後、でございますか?」
流し読みをするように、本のページがパラパラと音が立つ。
立ったまま例の本を読み続ける寺井の平静さに疑念を抱きながらに、快斗はそぞろに近づいていった。
ページをめくる音が、はたりと止まった時、快斗は寺井の反応を逐一観察した。
寺井の眉毛が、ほんのわずか持ち上がった。
「どーゆーことだ? 何でページが破れてんだよ?」
「は? そのようなことを言われてもさっぱり――」
わざとらしく不思議がる寺井の態度に、快斗の頭に血が昇った。
「とぼけんなよ! まだ切り口が新しい。くすんじゃいねぇ。これは最近破られたもんだ! 親父が破ったんじゃないっ! だったら寺井ちゃんしかいねーだろうがっ!」
「そんなこと言われましても……ねぇ? 知らないものは知らないんですよ?」
「……くっ!」
ゆっくりと瞬きをし始める寺井から、快斗は本を分取った。埃臭さを荒息で払いのけながら、問題のページをくだりから声を荒らげて読み始めた。
「『汝、パンドラを探すべし。パンドラの箱も探すべし。暗黒食の日にパンドラを翳し』」
不自然な箇所で朗読を切り、快斗は寺井の顔を見据えた。
初めて見る形相だった。血の通わない剥製のように佇む寺井は、まるで別人のようだった。
「『“穴を開けるべし”。さすれば』……で切れてらぁ? どーゆう意味なんだろうな?」
「坊ちゃま」
寺井らしき老人は静かに笑った。
「一刻も早くパンドラを、誰よりも早く見つけて下さい。そして月明かりに照らし――その輝きを永遠に封印して下さいまし」
|