一章
一章
「ええっ。この仕事、そちらの局長が手伝ってくれるのではなかったのですか?」
オーウェンたちが魔法使いギルドを訪ねて受付に取り次いでもらい、資料を持ってきた者と顔を合わせたとき、開口一番に言われたのがその言葉だった。
またか。
オーウェンはその言葉にげんなりとする。
「それ、前に俺がここに来たときにも言われたんだよな」
ぶつぶつと呟く。
ここには何度も足を運んでいて、一応このギルド内にもそれなりに顔は知られるようになってはいるのだが、一向に信頼される様子がないのがどうも悲しい。
シェリアがのんびりと言う。
「先輩、この前は危なかったですもんね」
「だってお前、体長三メートルの巨大猫だぞ。あんなもん相手にしろって言うほうがおかしいだろうが」
だからそちらの局長に……、と、魔法使いギルドの事務員が困ったような顔で消え入りそうな声を出して呟く。
しかし結局巨大猫はオーウェンの手で捕獲したのだし、過去の仕事もそれなりにこなしているし――一応オーウェンにも自尊心というものはあるので、やたらと局長一人を頼られるのも癪に障るわけで。
ふざけんな、とオーウェンはそちらを睨んでやった。
ひっと事務員が悲鳴を上げた。
「……それで、用件は」
オーウェンはいらいらしつつ尋ねる。
「あ、はい。この資料の人物なんですけど――」
受け取った資料をぱらぱらとめくり、確認してみる。
柄の悪そうな顔の写真が目に飛び込んできて、「わあ、先輩といい勝負ですね」とシェリアに呟かれてしまい、とりあえずその頭を一発小突いておく。
「我々が追っている魔法使いと関わりがある男です。魔法ギルドさんにはこの人物を捕まえてほしいのです。この男自身は魔法使いではないようなのですが、魔道具を使った撹乱が得意なので、なかなか捕まえられなくて」
「追っている魔法使いとやらは?」
「捜査の都合上、極秘です」
「その魔法使いとやらとの関わりは」
「それも開示できません」
ため息。
魔法使いギルドの秘密主義。
――こっちは無償で協力してやってるのによ。とオーウェンはぶつぶつぶつ。
いつものことじゃないですか、とシェリアに肩を叩かれる。
オーウェンは気を取り直して事務員に尋ねる。
「こいつの仲間は? 縄張りは? 前歴、身柄の確保に失敗した理由、得意武器、使っている魔道具、その他注意すべき事項も……」
「わ、わっ……、それは資料に書いてありますから!」
事務員はぶんぶんと両手と頭を振ってそう答えた。
「先輩~。あんまり他所の事務員さんをいじめちゃ駄目ですよー」
「んなもん、すらすらと答えられて当然の質問だろうが。……自分たちが追っている人物をきちんと把握しないでこっちに丸投げなんて、自分が無能だって言ってるようなもんだろう?」
事務員が身を縮める。
これがおそらく半分くらい図星なのだから、さぞかし居心地が悪いだろう。
涙目の事務員に同情してシェリアが声をかける。
「すみません、あんまり気にしないでくださいね? 今日はうちの先輩、一段と機嫌が悪いんですよぉ。例のフェアリーアイズ現象にやられちゃったから」
シェリアの言葉に、事務員は顔を上げてこちらの目を見てきた。
この事務員も、片目の色が違う。フェアリーアイズ。
――といっても今この街ではフェアリーアイズでない者を探すことのほうが難しいのだが。
「ふん」
オーウェンはぷいっと顔を逸らし、資料を持って立ち上がった。
「捕まえたら、いつものようにそっちの牢屋に放り込んでおく。せいぜい極秘調査とやらを進めておけ」
そしてシェリアを伴って部屋を出た。
帰り際、事務員がほっとしたように「ふうっ」と大きくため息をついたことに関しては何も言わないことにしておいた。
魔法使いギルドの建物を出て行き付けの店に入り、遅めの朝食を注文する。
「よく見れば、私、この資料の男見たことありますよー」
シェリアも当然のようにオーウェンの向かいの席に座り、「給仕さーん、追加注文お願いします~」と手を振って呼びかけている。
「おい待て。追加って。……俺に払わせるつもりか」
「え?」
きょとんとした表情で見つめられる。
オーウェンはため息をついた。
「その男はどこで見かけた?」
「んー。確か事務局で……自警団さんからのちらしの中に混じってたようなー?」
「手配書か」
魔法ギルドから渡された資料をめくり、帝都で指名手配され、手配書が出されている旨の記載がされていた。
自警団の手配書は添付されていなかったが、結構詳しいことが記されていた。
――どうやら根っからのチンピラらしい。
資料によれば、帝都では結構な一味であったらしいが、騎士団に蹴散らされて単身でここリセナートに流れてきてからは徒党を組まずに潜んでいるらしい。
目撃情報はそれなりにあるようだが、そのほとんどが酒場や市場など。それもわざわざ念を入れて、通いの店などは作らないようにしているらしく――足跡をたどるのは難しい様子だ。
唸る。
「頭部に刺青入れてる丸坊主のおっさんが飯食ってたら、ちょっと見れば分かりそうなもんだと思うんだけどな?」
「特にここみたいな洒落た店にいたら、一発ですよね?」
シェリアものほほんと応じ――。
「――ぶふっ」
背後で噴き出す音が聞こえた。
「げほっ、げほっ……!」
咳込み。
おいおい大丈夫か、とオーウェンは後ろの席を覗く。
オーウェンは振り向きつつ話しかける。
「なああんた――」
「あ?」
その客も振り向く。
……目が合った。
「…………」
両者は沈黙。
「あっ。手配書のチンピラさん」
シェリアが客のほうを指差して言う。
「やっべ……!」
指差されたその客――魔法使いギルドが追っていて、オーウェンたちが今まさに噂していたその男は、はっと我に返って駆け出した。
「待ちやがれこの刺青禿げ!」
オーウェンも立ち上がる。
「んだとこらァッ! 禿げじゃねえ、坊主だッ!」
駆けつつ男が叫ぶ。
食い逃げだ! と店の給仕が指差す。
一瞬足を止めかけたオーウェンはシェリアに向かって財布を投げ、「ここは任せた」と言って駆け出し、男のあとを追う。
店の出口を越えた瞬間、ぼんっと小爆発。
靴底が半分、溶けた。
魔道具。
あっ、と思ったときには体勢を崩してずるっと滑っていて、顔面から盛大に地面に突っ込む羽目になった。
べちんっと滑稽な音がした。
「こん、の、ぉおお……っ!」
地面から顔を上げて、憎々しげに呻く。
鼻の下が生暖かい。
触れてみると、鼻血が出ていた。
「野郎ぉッ」
袖口でぐいっと拭って立ち上がる。
すでに男は人ごみに紛れていたが、何故だか、オーウェンにはその居場所がはっきりと分かった。
追い、その肩を掴んだ。
掴んだ瞬間、ばちっと電撃が走る――これも魔道具。……しかし威力が弱かったのか、はたまた地面に頭をぶつけたせいなのか、たいした効き目はないようで、オーウェンは掴んだ肩をぐいっと引いて、振り向いた男の顔をぐーで殴りつけた。
男が倒れる。
――倒れつつも腰に手をやり、魔道具を取り出してこちらに攻撃を加えようとする気配を察知したので、オーウェンは右足の――溶けて未だに乾いていない靴底で、男の腕を思いっきり踏んづけてやった。
「ぎゃあっ」
悲鳴。
ついでに、魔法で氷の杭を作り、ざくざくと服の端を――本当は手足に杭を打ってやりたいところだが、それをすると自警団やら魔法ギルドの面々から色々と非難されるのでやめておいた――地面に縫い付けてやった。
ふん、と見下してオーウェンは言う。
「魔道具使いのカレヴィだな?」
「そ……、そうだよ。何者だ、テメェはよぉ……!」
オーウェンに腕を踏んづけられている刺青の男――カレヴィは、じたばたともがきながら言う。
「魔法ギルドのしがない事務員だ」
名を名乗ると後々厄介なので、そう答えた。
カレヴィが目を見開く。
「嘘だろ? 魔法ギルドなんて、たいした奴はいなかったじゃねえか! 今までは簡単に逃げられたのに。――どこの回し者だっ?」
どうやら魔法使いギルドと取り違えているらしい。
「っぁあ?」
思わず足に力を入れてしまった。
いぎゃあっ、とまた悲鳴。
「てめぇを捕らえ損ねている魔法使いギルドの連中の実力がどれほどのものなのかはよく知らんが――」
オーウェンは、魔法使いギルド、という言葉を強調して言う。
「あんまり魔法ギルドを甘く見ないほうがいいぞ?」
カレヴィはぶんぶんと首を振って頷く。
「痛たたたたっ! わ、分かった! すまん、謝るから、踏むな、このくそ野郎!」
「くそ野郎だ?」
「みぎゃあああ、すんません事務員様!」
周りから、ざわざわと囁き声。
気が付けば人だかりができていた。――嫌に注目を浴びてしまっている。
舌打ち。
いつもならば捕獲と聞けば縄を用意しておくので、すぐにふん縛って自警団なり魔法使いギルドなりの牢屋へ引き連れていくのだが……あいにく、今は縄など持ってはいなかった。
オーウェンはカレヴィを踏んだまま人だかりに向かって言う。
「誰か、自警団か魔法使いギルドを呼べ」
人々が、困った顔。
互いに顔を見合わせる。
――動く様子がないので、オーウェンは「今すぐにだ」と野次馬の一人を睨みつけてやる。
野次馬はひっと悲鳴を上げて駆けていき、すぐに自警団を呼んできた。
「――またお前か」
自警団の兵はカレヴィを足で押さえつけているオーウェンを見て呆れたようにそう呟いた。
オーウェンの顔は、この街では有名だ。
特に、魔法使いギルドへの協力による活躍で。
「おい民兵、俺様を助けやがれ!」
その様子から何か察したのか――しかしそれは残念ながら大いに勘違いした解釈であるようだが――、足元でカレヴィが吼える。
自警団は形式的にオーウェンとカレヴィの顔を見比べる。
オーウェンは魔法ギルドから渡された資料をめくり、カレヴィの写真を示す。
――頷いた。
「指名手配中のカレヴィだな?」
ああ、とがっかりした声。
いつも通り牢のほうへ連れてくればいいじゃないか、と自警団に言われたので、「縄がないんだ」とオーウェンは両手を広げてみせた。
なるほど、と自警団は言った。
「分かった。この男は私が連れていく。そちらの手続きは、いつも通りで」
引き渡して魔法使いギルドに報告すれば、あとは魔法使いギルドのほうで勝手に処理してくれる手筈だ。
オーウェンも頷いて、カレヴィから足を離し――。
――ぼんっ!
爆発。
靴が四散。
衝撃で、今度は後ろへ転けた。……またもや頭から。後頭部を強く打ちつけ、視界に黄色い火花が弾けた。
オーウェンが転ぶと同時にカレヴィは氷の杭を器用に外して立ち上がっていて、慌てて捕らえようと動いた自警団をも魔道具であっさりと撃退し、次の瞬間には周りを威嚇してふふんと鼻を鳴らしていた。
「俺様にはうかつに触れないほうが身のためだぜ」
にやにやとカレヴィが言う。
「こ……の……!」
頭を打ってぐるぐると揺れる景色に悩まされながらも、オーウェンは立ち上がる。
打ち所による具合か、息が詰まって声が出ない。呪文も唱えられないため、カレヴィを睨みつけてやるのが精一杯だった。
その様子を見て、カレヴィは悠々と魔道具を取り出す。
「まあ、なんだ。残念だったな」
きゅぽん。
栓を抜いて、魔道具をオーウェンの足元に投げ寄越してきた。
なんだ? と警戒する間もなく、白色の煙に巻かれる。
目くらましか、と一瞬思ったが、これは魔道具なのだ。なんらか魔法が籠められているはずで――。
慌てて遠くへ蹴り飛ばしたものの、視界がさらに揺れた。
ぐるぐるする。
カレヴィの顔がぐにゃぐにゃと化け物のような面白い顔に歪む。
煙を吸ったせいかとオーウェンは焦る。
毒だったのか、と。
「安心しろよ。単なる眠りの魔法だ。テメェには追われると厄介な気がするからな」
錯乱した様子のオーウェンにカレヴィは言った。
その言葉にオーウェンは内心ほっとして、同時に、カレヴィの一言で安心してしまった自分に心底後悔した。
ちくしょう、と心の中で毒づいた。
ばったり。
倒れた。
***
――目が覚めると白い天井が見え、寝台に寝かされていることに気が付いた。
「やあ、やっと起きたか」
コーヒーの香り。
身体が妙に重いので頭だけ動かしてそちらを向くと、白衣の女が椅子に腰をかけ、コーヒーカップを片手にこちらを見つめていた。
見知った顔。
人々から魔女医者と呼ばれている、女医のヘルガで――オーウェンはここが診療所の一室であることを認識する。
「……俺はそんなに重傷だったか?」
訊いた。
ものぐさな医者であるヘルガは、よほどの怪我人でない限り、診療所の寝台に寝かせたりはしないのだ。オーウェンが例の巨大猫と戦って右手の肉が少し抉れてしまったときでも、ヘルガは傷口の処置をするとさっさとオーウェンを追い返したくらいだ。
ヘルガは首を振る。
「いいや。しかし、ここへお前を運んできた自警団に青い顔で頼まれたからな。――顔面血まみれで後頭部に大きなこぶがあって、しかもなにやら爆発に巻き込まれたような身なりだったから、勘違いしたようだ。ただの鼻血だったのにな」
どうやらカレヴィにあしらわれた自警団の兵も、無事であったようだ。
「ただの鼻血? なんだか身体がだるいんだが」
「眠りの魔法の影響だろう。叩き起こしてやろうかとも思ったが、カレヴィのような小者とやりあってこんな体たらくだなんて、お前にしては珍しいと思ったから寝かせておいてやったんだ」
にっこりと、笑顔。
「どうだ? 久々の惨敗の気分は」
うきうきとしたようなとても良い表情。
珍しく饒舌だと思ったら、これだ。ヘルガのこの黒い性格を知る者はそういないが、何故だかオーウェンはこの顔をよく見る。
「……最悪だよ」
オーウェンは答えた。
それはなにより、とヘルガは微笑んだ。
かしゃんとコーヒーカップをソーサーに置く。
ヘルガは真顔になってこちらを見てきた。
「――ところで私はお前に興味がある」
「は?」
いきなり何を言い出すのか、とオーウェン。
「具体的には、一日中、片時も離れずそばで観察していたい。向かい合って顔をじっと注視していたい。お前から注視されたい」
じりじりとにじり寄ってくる。
「何を言って――」
オーウェンは寝台から半身を起こし、戸惑いつつ壁際へ身を動かす。
どうもヘルガの様子がおかしいので、ちらりと窓へ目を向け、本気で逃げようかと考える。
これは愛の告白だと受け取っていいのか? それともたちの悪い冗談なのか?
オーウェンは困惑したが、ヘルガの黒い性格を知っているだけに、後者の疑いが高そうだとも思う。
がしっ。
両手のひらで顔を挟まれる。
冷や汗。
――冗談にしてはたちが悪すぎる。
完全に狼狽しているオーウェンをよそに、ヘルガは顔を寄せてきて――。
「えええっ……!」
その場の空気を破る、突然の奇声。
部屋の扉のほうからだ。
いきなりの第三者の声にオーウェンはびくりと肩を上げる。
オーウェンとヘルガがそちらに目を向けると、シェリアが目を白黒させてこちらを見ているところだった。
小脇には靴を抱えている。
「ふむ。残念」
ヘルガはさして残念がる様子もなくそう言って、あっさりとオーウェンを解放した。
「足はなんともないが、靴は使い物にならなくなっているようだったのでな。お前の相方を呼んでおいたんだ」
「……それはどうも」
シェリアはまだ口をぱくぱくさせている。
「あの、あの、先輩とヘルガさんは、そういう――?」
いつもどこか抜けているシェリアだが、色恋沙汰というものに関する知識は一応持ち合わせているらしい。
「いや、違うぞ。断じて違う」
オーウェンはぶんぶんと首を振った。
「そういう……?」
ヘルガはなんのことだか分からずに首を傾げている。
オーウェンのほうに目を向けてきたので、オーウェンはまた冷や汗をかいて、目を逸らした。
首を傾げたままヘルガは机のほうに戻り、コーヒーを継ぎ足した。
「まあともかく、お前がカレヴィにやられて眠りこけている間に調べさせてもらったのだが、お前の目はとても興味深い」
言う。
「ここ数ヶ月、様々なフェアリーアイズを見てきたが、お前のように人外の瞳が嵌っている症例は初めてだ。素晴らしい。求知心が疼く。ずっとそばで観察していられるお前の相方が羨ましいよ」
「は?」
ぱちくりと目をしばたかせてオーウェンは呟いた。
「――は?」
シェリアも。
どうやら愛の告白でもたちの悪い冗談でもなかったようで。
「わわわ私、とんだ勘違いをぉ~……」
抱えていた靴をぼとっと床に落として両手を頬に当て、顔を真っ赤にしつつシェリアは身悶えた。
ヘルガはまた首を傾げている。
はっと我に返ってオーウェンは言う。
「……おいちょっと待て。人外だって?」
人外の瞳が嵌っている、とヘルガが言ったのを、オーウェンは確かに聞いた。
そんな馬鹿な。
オーウェンは自分の目に手を当てた。
「なんだ、気付いていなかったのか?」
やれやれというようにヘルガは肩を竦め、机の引き出しから手鏡を取り出してオーウェンに渡す。
鏡で自分の顔を見る。
フェアリーアイズ。
片方は緑。もう片方は琥珀色。
その琥珀色のほうの目は瞳孔が細く絞られていて――。
――猫の目のようだ、とオーウェンは思った。
「そんな馬鹿な」
オーウェンは呟いた。
朝、鏡を見たときには、自分の目がフェアリーアイズ化したということに衝撃を受けてすぐに自分の部屋を飛び出したため、気付かなかった。
魔法ギルドの事務局ではシェリアがまじまじとオーウェンの顔を見てきたが、シェリアはとんでもない近眼で、しかもそのときは眼鏡をかけずに見たのだから、気付くはずもなく。
外に出るときにはたいていサングラスをしているから、周りにも気付かれず。
「にゃんこの目と入れ替わったってことですか?」
シェリアが寄ってきてそう尋ねる。
オーウェンは否定する。
「まさか。たとえ入れ替わるにしても、色だけのはずだ」
調査で分かったことだが、フェアリーアイズ現象の正体は「ある不特定の二人の人物の虹彩の色が入れ替える」魔法であるらしい。
虹彩の模様というのは個々人に特有のものなのだが、フェアリーアイズ現象では、この模様までは入れ替わらないのだ。
ましてや猫の虹彩など。
「――残念ながらこれは猫の目ではないよ」
ヘルガがオーウェンの思考を遮って言う。
「なにやら他の者からは感じられない魔力を感じるからな。おそらく魔物の目だ」
「魔物の目?」
その言葉にオーウェンは一瞬魔法ギルドの局長の顔を思い浮かべる。
局長の正体は魔物で――目は琥珀色だ。
しかも局長の目は、昨日まではフェアリーアイズではなかったはずだ。今朝はどうだっただろうか?
――いや。
オーウェンは首を振る。
しかし局長の目は、こんな猫のような目ではない。
普通の、人の目と変わりなかったはずだ。
「なんで俺の目に、魔物の目が嵌ってるんだ」
「ああ、嵌っているというと誤謬があるか。……実際にそうかどうかはお前の目をくり貫いてみないと分からないが、おそらく入れ替わったのは『性質』だけだ。魔物の身体などを移植したりすればたいていは拒絶反応を起こして発狂死するからな。お前も魔法ギルドの事務員ならばそういった事例ぐらい見たことがあるだろう?」
「ねえよ」
見たことは、とオーウェンは付け加える。
人と魔物との合成。
それに関する話は、オーウェンも嫌というほど聞いている。
人体を用いた魔法の研究は、魔法ギルドに申請して「人体に対して安全である」と許可を得なければならないが、基準の厳しさに、非公認下での実験が絶えない。
特に、魔物との合成は禁術に指定されていて、実験の存在が判明すれば、魔法ギルドと魔法使いギルドの双方の本部が協力して動くほどのものだ。――たいていはそういった施設を探れば小規模の戦争並みに死体がごろごろと出てくる。
「気をつけろよ」
ヘルガが顔を近づけて、低い声で囁く。
「性質の入れ替えだけにしろ、その目が本当に魔物の目との入れ替えによるものだとしたら、お前は世界で初めての人魔キメラだ。もしその目が魔物の目との入れ替えによるものでないとしたら、お前は魔物化の極めて稀な安定体だ。……どちらにせよ、露見すれば帝都に連れていかれることになるだろうな?」
魔物化は人の身体を擬似的に魔物の身体に作り変えるもので――これも禁術である。移植と違って拒絶反応はないため、比較的生存の確率が高いが、魔物の持つ凶暴な性質に精神を蝕まれて暴走する場合がほとんどだ。
身震い。
――なんでそんなものが自分に。
オーウェンはそう思う。
「先輩が連れて行かれちゃったら困ります~」
シェリアが眉をひそめて言う。
お前が黙っていればそうそうと露見はしまいよ、とヘルガはシェリアを安心させた。
「私はお前を自警団に突き出したりはしないから安心するがいい。帝都に連れて行かれたら観察の機会がますます減るからな。せっかくだから色々と実験もしてみたいし」
「どうも安心できない気がするのは何故だ」
「気のせいというやつだろう」
飄々と嘯いた。
オーウェンはため息をつく。
ヘルガは言う。
「――しかしともかく、サングラスはあまり外さないほうがいいだろうな。お前のことを気にする者なんざいないだろうが、こうやって近くで見ればさすがにその奇異は分かるからな」
気にする者なんざいないとは言ってくれるじゃねえか、とオーウェンはかちんと口の端を引きつらせるが、しかしまあ、オーウェンも普段は道行く者一人一人をじっくりと眺めるようなことはしないし、ヘルガの言うことにも一理あるので、おとなしく頷いておくことにする。
ヘルガは後ろを振り向き、やおらシェリアが落とした靴を拾ってきて、寝台の前に揃えた。
「私からの用件はそれだけだ」
帰れ、ということらしい。
オーウェンは未だにふらふらする頭をぶんぶんと振って身を起こし、靴を履いて立ち上がった。
鞄は寝台のわきにあった。
中身を探って魔力の籠った小さな石を取り出し、ヘルガに投げ渡す。
医師は公共的な職業なので、治療の報酬は税を収集している自警団から毎月一括して支払われる仕組みになっているのだが、ヘルガは「金よりも魔道具のほうが嬉しい」と言うので、魔法ギルドの面々の治療費に関しては自警団には請求せずに個々から取り立てているのだ。
自警団から直接、金の代わりに魔道具の支給を受けることも可能だが、ヘルガいわく、自警団の魔道具というのはまるで使い物にならないらしい。
「ほう。これは随分と……色を付けたな」
受け取った石を親指と人差し指でつまんでかざし、目を細めて鑑別したヘルガは、珍しそうにそう呟いた。
「言わせるなよ。口止め料だ。それと――何か起こったときの保険でもある」
オーウェンは言った。
口止めせずとも漏らしたりはしないのにな、とヘルガは言い、しかし報酬に関しては文句はないようでやや笑みをほころばせてそれを机の中にしまった。
「いいだろう。もしもその『何か』が起こったら、私がお前のその琥珀色の目をくり貫いてやるよ。……今まで見てきたフェアリーアイズからすれば、おそらく変異は目だけに留まっているだろうから、それですべて、解決するだろう」
ひええ、とシェリアが声を震わせ身を縮める。
オーウェンはこつんとシェリアの頭を小突いて、「その『何か』が起こらないようにするために俺たちがいるんじゃねえか」と言った。
「……そうですね。私、先輩のために頑張ります!」
シェリアはぐっと拳を握ってそう言った。
ほう、と面白そうにヘルガがオーウェンとシェリアの二人を見比べる。
オーウェンはぷいっと目を逸らし、サングラスをかけた。