冷えたサイダーの甘い香り
星屑による、星屑のような童話。よろしければお読みくださるとうれしいです。
ひだまり童話館第5回「ひえひえな話」参加作品です。
秋も終わりが近づいた、ある日の夕暮れのことでした。
白いブラウスに、膝までの青いスカート。
赤く染まった街並みの中、香さんが、長く伸びた影を斜め後ろに引き連れながら、夕陽に負けないぐらい真っ赤な自転車を、きびきびと走らせていました。
腰まで伸びた黒い髪が、夕陽を浴びて時折きらきらと輝きながら、ひらひらとなびいています。
(湊、お腹をすかせてるかな? 早く帰らなきゃ)
高校を卒業し、文房具屋さんの事務員として働き出してから三年半が経った香さん。彼女は、小学二年生の湊くんの、ちょっと歳の離れた、お姉さんです。
自転車の前かごに積まれているのは、買い物袋一杯の荷物でした。もちろん、それは今日の夕飯の材料です。
香さんは、一人さびしく家で待っているだろう、湊くんのことを思い浮かべながら、足をせわしなく動かしていました。
香さんと湊くんは、今、姉弟の二人暮らしです。
なぜ二人だけなのかといえば、それは、お父さんとお母さん、ともに天国に旅立ってしまったからなのです。
香さんが、中学生になったばかりの頃でした。
湊くんを生んだばかりのお母さんは、体の調子をくずし、数日後に息を引きとってしまったのです。
それ以来、香さんが湊くんのお母さん代わりでした。
泣いている暇など、ありません。
料理に洗濯、湊くんのお風呂――外で働くお父さんを助けて、懸命に働いた香さん。おかげで、お母さんを亡くしたこともしばらくは思い出すこともできませんでした。
――香さんがやっと泣くことができたのは、実に、その半年後でした。
ある日の、学校の昼休み時間。
ふう、と肩の力を抜いたそのとき、亡くなったお母さんの優しい笑顔を、ふいと思い出した香さんは、急に声を張り上げ、泣きだしたのです。
久しぶりにこぼれ落ちた涙。
香さんはしばらくの間、それを止めることはできませんでした。
それから七年ばかり続いた、親子三人の暮らし。
最近では、お母さんのいないことに、香さんもやっと慣れてきていました。
ところが――
半年ほど前のことでした。健康診断で、お父さんの肺に、「がん」が見つかったのです。
すぐに入院して、手術を受けたお父さん。
三か月ほど入院して病気と闘いましたが、蝉時雨降りしきる夏のそんな日に、香さんと湊くんの見守る中、お父さんは病院のベッドの上で、力尽きてしまったのです。
両親をともに亡くしてしまったことに気付いたそのとき、香さんは、声も出ませんでした。自分の両肩に、ずしりと重い空気のような何かがのしかかってきた、そんな気がしたからです。
肩を震わせ、抜け殻のようにただ立ち尽くしている、弟の湊くん。
弟の小さな肩をそっと抱えながら、香さんは、弟のためにも力強く生きていくことを、誓ったのでした。
――こうして、香さんは湊くんのお母さんばかりではなく、お父さんの代わりにもなることになりました。
肩にぐっと力をこめた香さんが、力強く、自転車のペダルをこいでいきます。
ききっ、というブレーキの音とともに、家に到着。
今では車の置かれなくなった屋根つき車庫に自転車を停めた香さんは、二階の湊くんの部屋の窓をちらり、見遣ります。
もうだいぶ暗くなってきているというのに、明かりが点いていません。
「まだ、電気も点けてないの?」
左腕に買い物袋をぶら下げながら、右手で玄関の鍵を開けて、台所へと向かいます。
「ただいま」
けれど、誰からの返事もありませんでした。不安な気持ちのよぎる、香さん。
とりあえず、二人の生活には少々大きすぎる冷蔵庫のドアを開け、その中に野菜に果物、お肉に牛乳を入れていきました。
「今日は……湊の好きな、しょうが焼きにしようかな」
ちょっと大きめの声で言ってみましたが、今度も返事はありませんでした。
そんなとき、香さんは気づいたのです。
冷蔵庫の棚が、サイダーのペットボトルでいっぱいになっていることを――
(これは、湊が?)
最近、お小遣いを一カ月分まとめてもらうことになった湊くんでしたので、香さんが買った覚えのないものであるなら、それは、湊くんが買ったはずなのです。
昨日も、確かに何本かはありました。ですが、今日は更に何本か増えているような気がします。
(こんなに買ったら、湊のお小遣い、なくなっちゃうじゃない)
香さんは、首をかしげながら二階への階段を上り、湊くんの名前を呼びました。
「湊、いないの?」
返事は、やっぱり、ありませんでした。
香さんが、湊くんの部屋の扉を開けてみます。けれど、部屋の中にはキンと冷えた空気があるばかりでした。湊くんの姿は、見当たりません。
とそのとき、一階の玄関のドアが、がちゃりと開く音がしたのです。
「ただい……ま」
それは、元気いっぱいな――とはとてもいえない、沈んだ声でした。香さんが階段を下りていくと、空になったサイダーを手にしてぼおっと居間に立つ、湊くんがいました。
「どこ行ってたの? もう遅いでしょ」
「ごめんなさい。公園に行ってたんだ」
「サイダーを持って?」
「うん……ダメだった?」
「ダメなことないけど……。冷蔵庫にサイダー、たくさんあったよね。あれ、湊が買ったの?」
「……うん」
「サイダーぐらい、お姉ちゃんが買ってあげるよ。湊のお小遣いなくなっちゃうもの」
「……いいんだ。ボクが買いたいから、買ったんだ。いいから。お姉ちゃんは心配しなくていいから!」
湊くんは、手にしたボトルをごみ箱に入れ、二階へと階段をかけ上って行きました。
(どうしちゃったのかしら、湊……。やっぱり、お父さんじゃないとだめなの? 私では力不足なの?)
眼に見えない重さが、また肩にのしかかるのを感じた、香さんでした。
☆
寒さが日に日に増していき、一週間が経ちました。
夕方の冷たい風の吹く中、厚手のコートを羽織った香さんが自転車に乗り、家へと急いでいます。
ふと、道の向こう側から自分の名前が呼ばれたような気がした香さんは、自転車のペダルをこぐのをやめ、その場に停まりました。
「香さん、ちょっと!」
それは、お父さんが入院していた病院でお世話になった、女性の看護師さんでした。歳の頃は、四十代半ば。名前は確か、中沢さん、です。
看護師さんが、道路の向こう側から香さんの方に、大きく手を振っています。
「中沢さん? お久しぶりです……。一体、どうしたんですか?」
車が一台通り過ぎるのを待って、中沢さんが香さんのそばに駈け寄って来ました。
「いやね、ちょっと気になったことがあったもので……」
「気になった――こと?」
「ええ。ここ最近ね、お宅の湊くん、病院にちょくちょく来てるのよ」
「湊が? 本当ですか?」
中沢さんが目線を下に向けて、小さく頷きました。
「ええ。今日も来てたわ。本当はダメなのだけれど、どうしても屋上に上がりたいというので、特別に」
「なんでまた、病院の屋上に?」
「それが、私にも詳しいことはわからないの。それを訊いてみても、黙っているばかりだし……。でも、いつもサイダーを二本抱えてるわね。あれって一体、何なのかしら?」
「……。まだ、湊は病院にいますか?」
「多分、まだいるとは思う。私は早番だったから、今日は帰って来たけど」
「じゃあ、ちょっと行ってみます! ありがとうございました」
香さんは、お礼の言葉もそこそこに、自転車をこぎ出しました。
☆
この町に昔からある、古い病院――そして、お父さんが少し前まで入院していた病院――にやって来た、香さん。
自転車を入り口横に止めた香さんが、足早に受付へと向かいます。
香さんを見つけた受付の若い女の人が、不機嫌そうな目付きに変わりました。
「ウチの湊は、まだ屋上に?」
「ええ、いますよ。……あのぉ、困るんですよ。もう、入院しているご家族はいらっしゃらないのですから、ここには来ないようにと、お姉さんから注意――」
「あのっ、すみません!」
香さんは、受付のお姉さんを振り切るようにして、屋上へと急ぎました。
走らぬように、でも、急ぎ足で。靴の音を鳴らさぬように、進んでいきます。
(お父さんが入院していた時、湊と三人で、よく過ごした屋上……)
エレベータの中、お父さんがまだ生きていた頃の懐かしい笑顔を、香さんは想い出していました。そして、その横に引っ付くようにして笑う、弟の笑顔も。
あのとき、二人が手にしていたもの――
(サイダーだ!)
香さんの目の前の扉が、左右に分かれるように、開いていきました。
そうして、香さんの瞳に飛び込んできたのは、病院の屋上の景色。
いくつかの休憩のためのベンチのほかは、殺風景なコンクリート色の造りで、四方は高い緑色のフェンスが張り巡らされています。
「湊!」
湊くんは、一番奥のフェンスの前で、暮れかけた夕陽を眺めていました。香さんの声を聞いた湊くんが、はっとした表情で、振り返ります。
「お姉ちゃん!」
「どうしたのよ、湊。こんなところに……。病院の方たちも困るって――」
湊くんにゆっくりと近づいていった香さんが、そう言いかけて、歩みを止めました。
それは――湊くんの様子が、普通ではなかったからなのでした。
唇を紫にしてぶるぶると体を震わせながら、サイダーのボトルをその小さな右手で、握りしめていたのです。
「どうしたの、湊。 震えてるじゃない! この寒い中、冷たいサイダーなんか飲むからよ!」
香さんは素早く駈け寄ると、その温かい体で、湊くんをふんわりと包み込みました。と同時に、湊くんが発した甘いサイダーの香りが、ふわり、香さんを包み込みます。
「ごめんよ、お姉ちゃん……また心配かけちゃって」
「そんな……。私は、湊のたった一人のお姉ちゃんよ。心配するのは、当たり前!」
「そんなこと無いよ。だってボク、お父さんと約束したんだもの。サイダー飲みながら、約束したんだもの!」
湊くんの両眼から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちていきました。
と、香さんの心の中に、パジャマ姿のお父さんがよみがえりました。それは、お父さんが亡くなる、少し前の姿。
『薬の副作用で、熱があるんだ……。でもね、香。父さんは今、お前たちの顔を見て、そして、大好きな冷たいサイダーを飲むことができて、元気いっぱいになったよ。心配するな、香。父さんは生きる。生き続けてみせる!』
お父さんが、この場所で微笑みながら、言ってくれた言葉です。
(親代わりの自分が、ここで泣いてはいけない)
歯を食いしばって涙をこらえる香さんに、顔をくちゃくちゃにした湊くんが、声をしぼり出しました。
「ボク、お父さんと約束したんだよ。『もし、お父さんが天国に行くようなことがあったら――湊、あとは頼む。ああ見えて、お姉ちゃんも弱いんだからな。そこは湊が、守ってあげなさい』ってね。
最後にサイダーのボトルを、かつん、と合わせて、男と男の約束をしたんだよ。
でも……ボクは弱い、弱っちい。お姉ちゃんを守ることなんて、全然できないんだ!」
香さんはそのとき、やっとわかった気がしました。
どうして、湊がサイダーを買い続けたのか。そして、ここに来ていたのか、を。
(お父さんと、ここで男と男の話をしていたんだね)
ふと見ると床に、まだふたの開いていない真新しいサイダーが一本、置いてありました。湊くんがお父さんのために用意した、サイダーです。
「ごめんね、湊……。悪かったのは、お姉ちゃん。湊は、一人で頑張りすぎたのね。
でもね、それはお姉ちゃんも同じ。これからは、お姉ちゃんも湊のことを頼ることにする。だから湊も、お姉ちゃんを頼っていいのよ。二人だけの姉弟なんだし、力を合わせて生きていこうよ!」
もう、香さんは涙を我慢などしていませんでした。
止めどなくあふれる涙を、長いまつ毛の瞳から、惜しげもなく流し続けます。
涙で何も見えない――そう香さんが思ったときでした。
急に、頬がヒンヤリとしました。
涙を指で拭い去る、香さん。すると、お父さんのために用意したサイダーを、湊くんが香さんのほっぺたにピタリ、くっつけているのが見えたのです。
「何?」 かすれ声で、香さんがききました。
「だって、こうやったらお父さん、いつも元気出たもの。お姉ちゃんも、元気出るかと思って……」
湊くんの言葉も終わらないうちに、力いっぱい、香さんが湊くんを抱きしめました。
「ありがとう、湊――。おかげでお姉ちゃん、ひえひえのぽっかぽっかだよ」
秋も終わりの夕陽が、今まさに、地平線の彼方に消え去ろうとしていました。
おしまい