ネズミたん(文学)
私ったら寂しい人間だ。ネズミなんかと心中しようとしてる。
バスルームの上部にある蓋を押し上げると天井裏に続くという発見をしてから、計画は妙に駆け足だ。ずっと死んじゃおうか考えていたんだし、当たり前なのかな。
顔を突っ込んでみる。欠陥建築なのか本来ならあるだろう壁はない。深い闇が沈んでいる。
マンションをサンドイッチに例えるならば、ここは各階というパンの間に挟まれたハムみたいなものだ。おそらく私が住む階の全部屋に繋がっている。
がらんとしたにホウ酸団子の乗った皿が、一枚。これらは私の中にある毒の具現体だ。
そして、真夜中になるといつも天井裏でカサカサしているネズミさん。可愛らしいアナタの足音はなによりの癒しでした。何度か、私が食べ残した料理を綺麗に食べていきましたよね。感動して私ったら、わざわざステーキを用意したのに、ネズミさんは遠慮したのか食べませんでしたね。
でももうオシマイ、さようなら。
黴臭い匂いが鼻孔と舌とをくすぐる。私は狭苦しい空間をひとしきり目に納めてから、布団に戻った。
息を殺しているとカサカサといつもの音が頭上を横切り、数分の後に子どもが駆けるような足音に変わる。団子を口にしたのだろう。
あれは私とネズミの最後の晩餐。
音がやんでから、バスルームの天井に頭を突っ込み確認する。
死骸あるかな……。
恐る恐る瞼を開くと――、
目が合った。
というのは嘘で、いつも通りの闇色。死骸なんてものはなく、食いかけの団子と唾液にまみれた欠片が落ちていた。どうやら失敗したらしい。
虚しい。ネズミさえも私と心中してくれないのか。
何もかも嫌になって、団子をバスタブにぶちまけて号泣した。空回りばかりの人生で泣けるだけ泣いてきたつもりでも、堰を切った涙は限度を知らずに私の眼球を燃やして、瞬く間に朝は来てしまい、今日も生き残ってしまった私は致し方なく襟を正した。途中でマンションの住人らしき女の子が何か言いたそうにこちらを向いていて、慌てて目を前髪で隠して誤魔化す。
勤務先の病院で真っ先に長めの黒髪を黒いゴムでくくるだけにする私はただでさえ野暮ったいのに、鏡に写すと案の定更に見たくない顔になっていた。
それは敵にも同じのようで、彼らはあからさまに煙たそうな、ついでに侮蔑するような顔で私を丁重に迎えてくれる。レントゲン技師の私は、今日も看護師達の恰好の的。彼らはねちっこくいじめてゆく。
レントゲンの通達を回してくれないので、何の用意もしないうちに患者様が来てしまったり、用意したレントゲンは違う患者様のものだと医師に怒鳴られたり、女の子なのにお尻蹴られる。
もうやだ。セクハラすら受けられない私。
陰から肉便器と言われる。違う、不倫だなんて私は知らなかった。あの医師に奥さんがいたなんて。
そう叫びたいけど逆切れしたら余計に悪化するのはわかってる。
今日も陰湿なパンチでズタボロになった体を引きずって帰路につく。四階までエレベーターで上ると、今朝見かけた女の子と再び視線が合った。
こんな醜い私に何の用だろう。そんなにおかしな姿をしている?
逃げるように鍵穴に鍵をねじ込む。ちくしょう、ちくしょうちくしょう。
畜生。
今度こそ死んでやるんだからと、ホウ酸入りのプチケーキを用意する。
今日こそ、一緒に逝こうね。私の生きる希望。私の癒し。……ネズミさんが死んだら私、さすがに死ねると思う。
そういえばと、バスタブに昨日の残りが散らばっていることを思いだし、バスルームへ向かった。
食いかけの団子と唾液で妙にベタベタする欠片を片づけながら、私ったら、また泣いた。
天井裏にすべての準備をし、風呂桶に座りながらネズミさんのご到着を待つ。いつものようにコトコトコトという癒しの足音は近づいて、ちょうどバスルームの上で停まった。きっと、用意されたごちそうに驚いていることだろう。
私はバスタブのふちに足を置くと、音がやむ前に天井の蓋を押しやった。ガタンと大きな音を立てて澱んだ空気が舞う。
塵の間から――、
目が合った。今度こそ確実に。
「逃げないで。怖がらないで。あなたとお話がしたいの」
私は両手を伸ばす。
「美味しいご飯も用意したから」
しばらくの沈黙が開いてから、両手にずしりとした重たい感覚が広がって、それを合図に引いた。ずるりと、天井裏からネズミさんが体を乗り出す。
出てきたのは、女の子だ。
「あなただったの」
覚えのある痩身、その瞳は怯えに染まっていた。
震える女の子をタオルで巻いて、優しく抱きあげる。バスタブのふちを降り、キッチンのついた廊下を渡り、ドアを開ける。部屋には、出前のピザや手料理を用意していた。
「食べていいよ」
女の子は目を見開いた。私は気にせず座ると、テーブルの上のピザを一切れとって口へと運ぶ。
「ほら。昨日のは舌が痺れたかもしれないけど今日のは平気だ」
ようやく彼女は警戒を解く気になったのか歩み寄り、恐る恐るピザに手を伸ばし、目と鼻でひとしきり愛でてから、パクリと口にした。青ざめて頬のこけた顔がみるみるうちに綻ぶ。
昨晩のホウ酸団子。あの時はすっかり動転してしまい気づかなかったが、それには歯形が付いていた。とても小さな“人間の”歯形を見つけたとき、私は涙した。
ネズミさんが子どもだったこと、きっと私なんかより余程酷い環境にいるだろうということ。
天井裏で這い蹲り、それでも懸命に生きようとする彼女と、私は無理心中しようとした。なんて浅はかだったんだろうと。バカみたいだ。
――他人のために泣いてようやく、目が覚めた。
また涙が喉を攻めた。自嘲とともにそれを飲み込んで、カップ一杯のジュースを差し出す。そして乾杯をお願いした。
「私もあなたと同じ暗闇にいるけど、あなたと違って、這う力なんてないの」
二つ目のカップにジュースを注ぐ。
「でも本当は戦いたい。争いたい。生き残りたい」
そのままカップの柄を持ち上げ、
「立ち上がるための勇気を分けて」
彼女は乾杯を知らなかったらしく首を傾げたが、やり方を教えると、照れながらもも乾杯してくれた。
儚くて力強い笑みを浮かべて。こんな、寂しくて弱い生き物のために。
「ねぇ。窮鼠、猫を噛むって知ってる?」
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