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  過去作品集 作者:雪芳
無垢なる舌(夏ホラー2008)
 まるでなにかが爆発した後の、がらんとした空気が食堂に広まる。
「いらないっ! こんなのいらないっ!」
 その金切り声を耳にして私は、全身から沸き上がってくる憤りをため息で拭った。
また、空愛そらあちゃんだ。

 空愛ちゃんは両親の虐待により、一ヶ月ほど前からこの養護施設に預けられている。
 七歳という年齢にしては幾分か発育の遅れた身体ではあるものの、一見するとロングヘアーの可愛らしいただの子どもだ。
 だが、彼女は紛れもなく施設一番の問題児だ。なにかにつけて恐ろしいくらい暴れ回り、理不尽かつワガママ、天の邪鬼で自己中心的な彼女に、職員の手はみな手を焼いている。
 彼女の担当である私は、特に。

「空愛ちゃん、どうしたの? なにが気に入らないの?」
「ぜんぶ! ココのごはんはおいしくない、だからいらないのっ」
 空愛ちゃんは歯を剥き出しにすると、椅子の上に立ち上がり、ドンドンとジャンプを始めた。
 まるで原始の国から来たような彼女の激しさに、食堂内にいる他の子どもたちから落ち着きが奪われていく。
 私はざわめく子供たちに気を配りつつ、こちらを伺う他の職員さんの、痛いくらいの視線を四方から感じた。空愛ちゃんはというと足を四方八方に動かしながら私を憎らしそうに睨んでいる。
 胃に爪を立てたような痛みが走る。

 彼女を叩いて罰せられたらどれほど楽だろう。だけれど施設ではそんなことは許されない。
 空愛ちゃんを含め、この施設にいる子供たちの殆どが虐待を経験しており、ただでさえ大人に恐怖心を抱いている。空愛ちゃんを引っ叩いたが最後、子供たちからの信頼関係は一気に崩れ去るだろう。
 空愛ちゃんが眉根に縦皺を寄せる私を細目で見やる。彼女は私がやれることの限界を知った上で行動しているのだ。

 私は考え、とりあえず気に入らない理由を尋ねた。

「もしかして甘いのは苦手なの? 教えてほしいな」
「ちがう。マズいのがきらいなの。ここのごはんはおいしくないっ」
 空愛ちゃんのいつもと同じ返答。私は気づいている。この子はなにもかも分かった上で、その全てが気に入らないだけ。

「でもね、空愛ちゃん。今日のご飯は料理センターのものではないの。作っている人がいつもと違うのよ。月に一度の特別なご飯で、お店の人が作っているの」
 事実を突きつけられ、途端に空愛ちゃんの目が丸くすぼんだ。
 彼女はそうしてしばらく呆然と立ちすくんでいたが、次第に、そしてゆっくりと、剥き出していた白くて小さな歯を震わせた。
 獣のようにグルグルと唸る。睫毛の長いパッチリとした目が、狐のようにつり上がり、赤く染まっていく。
 次の瞬間、彼女は私にお盆を投げつけた。

 机の上にデザートのプディングがぶちまけられる。それを鷲掴むと、今度は食卓に上り、隣に座っていた雄一くんの顔面に投げつける。
「ここのやつらはみんな狂ってる。舌が腐ってる。クズ野郎どもが!」
 黒板を長い爪で虐げるような金切り声をあげながら、食卓の上に置かれたお盆を次々と蹴る彼女、そのあまりにも酷い行動に体の先端からサッと血が引いてゆく。

 何て子だろう。無茶苦茶だ。
 私はそのまま石の塊にでもなりたい気分になった。だけれど施設のものとしてそれを許すことは出来ず、私は自身を叱咤すると、すぐさま雄一くんに駆け寄った。
「大丈夫?」
 雄一のぎょろりとした目玉が私を捕らえ、瞬きを繰り返す。そして次の瞬間には、空愛ちゃんに負けない絶叫をあげて泣き始めた。
 そこから食堂は、嵐のようなパニックに陥った。



 仮眠室で横になりながら私は、昼間にあった食堂での出来事をぼんやりと思い出していた。
 泣き出した子供を落ち着かせようと懸命に訴える職員たち、空愛ちゃんのまねをして暴れ始めた子どもたちを追いかける職員たち、手足を振り回す空愛ちゃんを引きずるように食堂から出そうとする私。

 思い出して一言、最悪だ。

 自然と頬から一筋の涙が流れてゆく。私はいったい、なんであんなことを彼女に言ってしまったのだろう。確かに彼女は問題児だ。だけど。
 私は苛つくあまり自分の憂さ晴らしに、彼女の自尊心を傷つける発言をしてしまった。そのせいで空愛ちゃんは暴れた。

 なにもかも最悪だ。あんな風に彼女を引きずって。反省用の小部屋に閉じこめて。
 冷静になってからの罪悪感はどんどん私を惨めにし、ついに耐えられず言葉を漏らす。
「最低……」
 私は布団を頭からかぶりながら、ぐっと目を閉じた。丸くなり、なんとか睡眠をとろうと努力する。睡眠さえとれば、少しは気分が晴れる。……私も、空愛ちゃんも。

 そんな奇妙な懇願を布団ごと抱きしめていると、ふいに小さな物音を感じた。耳鳴りと思っても仕方ないくらいに仄かな振動だった。

 カタリ。

 誰かが扉を開いた音。まるで私を起こさないように開いている。

 ギィイイ――……。

 慎重で重たい木製の歯軋りに、何故か私の背中がゾワリと総毛立った。
 なんでだろう。ただ誰かが扉を開けただけだ。それなのになぜ、布団から顔を出したくない?
 それは直感的な恐怖のように思えた。獣が危険を察知して息を潜めるように、私はいつの間にか感覚の触手を布団の外へと伸ばしている。なにかがいるという絶対的で普遍的な気配が、確実にこちらを観察している。

 扉からやがて、気配が進入し始めた。
 鼓膜に届く粘着質な音から、フローリングの床を裸足で歩いてるのだと分かる。そしてその足はたぶん、とても小さい。

 ペタリ、ペタリ、ペタリ。

 微々たる速度でそれは近づき、ついに布団の真横に立った。包まっているので見えないが、背中から喉へと、痛いほどの存在感が響いてくる。それは生唾を飲むとスッと下り、心臓に熱っぽい澱を生む。
 私はあらゆる感覚を先鋭にし、気配の声を聴いた。
「許さない」
 確固たる悪意。

「殺してやる……!」

 言葉を聞き終わるか終わらないか。反射的に私は、布団から飛び出した。
 バサッと大きく風が舞い、周囲に四散する。揺らめくそれは空気を外へと押し出して、部屋の床を薄く覆う。私はそれを踏むと壁に肩を打ちつけて呻いた。と同時に、気配へと目を走らせた。
 だが。

 月明かりが降りる小さな窓、布団だけを敷いた空虚な仮眠室、大人がようやく手を差し入れられるくらいに小さく開いた扉。見渡し、私は息をのんだ。
 誰も、いない。

 突然叩き起こされたようにドクドクと跳ねる心臓を手で押さえる。もう一度、部屋の隅まで目を配る。やはり誰もいない。
 確認をしよう。
 私は身体を起こすと、布団を踏み越えて、僅かに開いた扉をそっと押しやった。

 ギィイイ――……。

 恐る恐る廊下を確認、少し首を出して再度確認。薄暗いが、誰もいないことは一目瞭然であった。廊下の奥まで安全を確かめて、私はそこでようやく深く息を吐き出した。
 扉を閉める。なんとなく不安で、鍵をかける。

「変な夢だった」
 早く寝てしまおう。疲れてるんだ。
 私は妙に倦怠感を抱いた自分の精神にそう説き伏せると、腰を折って床に大きく広がった布団を摘んだ。勢い良く飛び出したせいでぐちゃぐちゃだった布団を整えるべく、片手で持ち上げる。
 そこで違和感が走った。

 妙だ。引っかかるような感覚がある。まるで、掛け布団と床を、ピンで留めたような……まさか。

 ひとつの考えに思い立ち、私は戦慄した。その怖気を否定したくて私は、私が眠っていた形になるようにそっと、手を離す。
 軽やかに布団が空中ではためき、柔らかに落下した。そして、隠れていたそれが現われると、私はついに腰を抜かした。

 包丁。包丁が刺さっている。

 布団を貫通し、床に突き刺さり、垂直に立つその刃に、私の青ざめた顔が映った。ガタガタと震えて床にへたりこんだ私は、あの声の主であろう彼女の名を口にする。覚えがある、あの声、その主の名を。

 空愛ちゃん……。



 ギラギラとした太陽。興奮のあまり出る子ども達の甲高い声。強すぎる日光が照りつけるその下で、プールで体を泳がせたり躍らせたりする子ども達に比べ、私はとてつもなく不健康だ。眠い目をこすりながら、光の線を遊ばせる水面を俯瞰し考えることは、空愛ちゃんのことばかり。
 貪欲に汗が張り付いた肌は塩っぽく、痒い。無造作にそれを掻きながら昨晩残された声を脳で反芻していると、残暑に蕩けつつある体さえもすぐに凍る。

 包丁は簡易台所から取られたものだった。当然、幼児の手には届かない高い場所におかれている。彼女は真夜中、イスか何かを引きずって包丁を取り出し、仮眠室に向かった。
 何のため? 決まっている。私を傷つけるためだ。
 もしかしたら脅しだったのかもしれない。なんにせよ、彼女は彼女に恥をかけさせた私を恨み、本気で襲ってきたのだ。七歳の子どもの行動としては異常すぎる。だが、声を聴いただけでは証拠にはならない。

 私は空愛ちゃんを見た。空愛ちゃんは私のことなど気に留める様子もなく、かといって子ども達の群れに溶け込むこともせず、ただぼんやりと水面に長い髪を浮かべている。そのあまりにも平然とした姿に、私は昨晩のことが気のせいだったのではないかと混乱しそうになった。見れば見るほど、彼女が包丁を持って私に襲い掛かったとは思えない。考えられない。
 熱帯夜の底で私は、奇妙な夢現に惑わされたのだろうか。

 そんな風にひたすらぼんやりと視線を漂わせていると、ふいに空愛ちゃんが消えた。悪寒が総毛立ち、反射的に振り向く。いない。周囲を見渡すも、何故かいない。
 施設につけられたプールは小さく、健康ランドにある大浴場くらいの大きさ、深さしかない。隠れられる場所などないと言うのに、どこへいったのか。
 私は危機感に息をつめた。が、すぐに職業の本分を思い出した。

 −−水の、中!

 プールにぎゅうぎゅうと体を寄せ合う子ども達に向かって、私は笛をふく。金属製の音が響き、子ども達はこちらを向くと、いそいそとプールから上がり始めた。
「なんですか」
「空愛ちゃんがいないんです!」
 年長グループの職員にパッと返すと、私は子ども達という壁がなくなったプールを見、すぐに飛び込んだ。

 空愛ちゃん!

 彼女の黒い髪が水の底に漂い、スクール水着に包まれた小さな体がプールの底に沈んでいる。冷たい水を吸い込んで服が絡みつく。重たい水に鈍る体を懸命に動かして空愛ちゃんに近づいた。
 両腕を水にくぐらせてその細い体をなんとか引っ張る、が、まるで大きな石にでもつながれているように引っ掛かる。水が光を反射して空愛ちゃんの状態がまるで分からない。

 考えるよりも先に体が動いた。生ぬるい水の中へと上半身を浸し、目を開くと、ぼんやりとした視界の中で青ざめた空愛ちゃんがいた。肩を叩いてみるも反応はない。どうして体が浮かばないのかと確認し、目を疑う。片足が、排水用の穴に入り込んでいた。
 遊び半分でふたを持ち上げたのだろうか。いくら狭いプールであっても、これでは。

 私は空愛ちゃんを抱え込むとプールの底にしっかりとつけて引き上げを試みた。全身にグッと力を入れる。呼吸が苦しくなり、顔をあげて空気を吸い込み、またもぐり、全力を込める。
 ぐったりとした空愛ちゃんは反応がない。焦りながらも離さないようにしっかりと固定すると、徐々に足が引き上げられ始めた。太もも、膝、膝下へと。
 少しずつ、少しずつ、もう少しだ。あとちょっと!

 そこで、目が合った。
「許さないって、言ったじゃん」

 あぶくに反響して捻じ曲がった声だった。だけれどそれが私には聞こえた。
 ずるり、と空愛ちゃんが浮上し、私を大きく蹴る。あまりに予想外のことにバランスを崩した私は、プールの底にしりもちをついた。まるで掴まれたように腰が穴へと吸い込まれる。水中から太陽の光と、空愛ちゃんを見る。
 空愛ちゃんは、笑っていた。
 水を含んだ髪はゆるいくねりを持ち、まるで黒い蛇のように空愛ちゃんの顔に張り付いている。その黒の中央に、目をかっと見開き、恍惚そうな微笑を口元に描く顔がある。

 ああ、私は罠にはまったのだ。この小さな悪魔の罠に。
 にじり寄る確信に対して私はただただ意識を収束させていった。水が気管に入って苦しいと言う生理的な痛みさえ感じることも出来ず絶望する。
 夏の光にすべてが閉ざされていって……私はついに意識を失った。


 男性職員に助けられ、なんとか九死に一生を得たものの、それからの私はもう空愛ちゃんにはむかうようなことはけしてしなかった。彼女の狂気的な憎悪と、それに伴い行われる事に対し、私はあまりにも弱かった。辞職しようかとも思ったが、空愛ちゃんの悪事には証拠がなく、生活の当てもなかったので、とにかく身を縮めていることに決めた。
 私が静かになると、勝利に満足したのだろう、空愛ちゃんが私に何かをするようなことはもうなかった。
 そしてその、事件は起きたのだ。



 施設での食事は一日に三回。朝と晩は食堂での食事となる。職員の交替時間は午後の三時なので、必ず子ども達と食事を摂る事となる。
 晩御飯、今日は施設内で作られたカレーライスであった。御飯を盛り付けカレーをかけて、長く連なった食卓に並べていき、いつものように子ども達を席に座らせる。
 そんな手馴れた作業を行いつつ、空愛ちゃんの様子を窺うと、彼女はただ憮然とした表情でカレーライスを睨み付けていた。施設の食事が嫌いな彼女はきわめて不機嫌だが、その苛立ちの矛先はカレーライスに向けられているので、私は胸を撫で下ろす。

 こんな均衡状態がずっと続いている。包丁を突き刺され、プールの排水溝に巻き込まれるよりはずっとマシだ。
 やがて、子ども達の食事の準備が整うと、職員代表が食堂に響くような大声を出した。
「それでは皆さん、お食事にします。手を合わせてください」
 日常的な食事作法。子ども達も職員も手を合わせると、
「いただきます」
 職員代表の後に続いて声を張った。

 一斉に明るい雰囲気がほうほうから湧き上がる。気分も高揚してきて、私はスプーンを摘むとカレーライスを口に運ぶ。……瞬間、全身から拒否反応が吹き出た。
 舌がビリビリと震えて、汚いということも考えられずカレーライスを更に吐き戻す。刺激的な苦味と、プラスチックの匂いが口内に纏わりつき、唾液がだらだらと唇からこぼれる。

 むせながら私は、空愛ちゃんに目線を投げた。黙認して思わず、ヒィと低く呻いてしまう。

 彼女はそう、笑っていた。
 あのプールの日のように。天使のように口角を引き上げ、悪魔のように目を血走らせて。
 悟り、瞬く間に鳥肌が首筋から腕までを侵食する。毒を盛られたのだ。
 いったい何を? 何を入れられたの?

 周囲が咳き込み、あるいは食物を吐き出している。私だけでなく、みんなを巻き込むなんてなんていう子どもだろう。
 −−ここのやつらはみんな狂ってる。舌が腐ってる。クズ野郎どもが!
 空愛ちゃんが以前に食堂で叫んだあの台詞が私の頭をかち割り、私は全身が腐ったような緩慢な動きで立ち上がった。恐怖より危機感より、助かりたいという感覚が先立ち、それが怒りを呼び覚ます。
 空愛ちゃんにツカツカと近づくと、私は絶叫しながら彼女の頬を引っ叩いた。

「なんて子なの、この悪魔!」
 半狂乱になりながら次々と罵声を浴びせる。まるで怒りだけが私から剥離して人格を持ち、雄たけびを上げているようだ。止められない。怒りを止めることができない。
 私の凶行に職員達が慌てて諭そうとする。空愛ちゃんの前に立ち両手を広げる職員、私の首周りを柔らかく押す職員、暴れる私の腕を必死に掴む職員。構わない。殺させて、その子を殺さなければアタシが殺されるんだから……。

 殺意が輪郭を現した途端に、しゅるしゅると力が抜けていく。悔しく、なにより悲しくなって私は床に膝をついた。
 怒涛のように溢れた自分の醜態に耐えることが出来ず、嗚咽を垂れ流す。おしまいだ、もうおしまいだ。

 崩落した私は、口元に爪をたてながら空愛ちゃんを見つめた。私が壊れて、嬉しいでしょう。そういう目で彼女を見上げる。
 彼女は勝ち誇った笑みを浮かべながら、だがまったく予想外の事をしていた。

 ガツガツガツガツ、という擬音が視界を掻き毟ったようだった。彼女は例の表情で、私ではなくカレーライスに意識を注いでいた。何週間も食事を与えられなかった餓死寸前の乞食のように彼女は、猛烈に、実に猛烈にカレーライスを“むさぼっていた”。

 眼前が白濁する。意味が分からない。どうして毒をもったカレーライスを自ら食べている? どうして?

「ごめんなさい!」
 立ち尽くす私の背中を、男の子の涙声が弾いた。背中を捻じ曲げる。
 滂沱と涙を流して懺悔の言葉を吐きまくる子ども。身を竦めてひたすらゴメンナサイと叫び続ける。
 雄一君?

「ごめんなさい、僕が間違って洗剤を入れたんです、ゴメンナサイごめんなさいごめんなさい!!」
 雄一君は頭を抱えながら床にうずくまり、尚も謝罪を繰り返す。だんだんと声色はひずんでいき、お経のように間延びし、食堂を埋め尽くしていく。その呪詛のような呟きを切り裂くように、ときおり空愛ちゃんの声が介入した。


 お母さんの味だ、お母さんの味だよぅ−−−−。




 それからすぐに私は辞職届を提出した。空愛ちゃんを叩いたことについては私の勘違いであったということでそれほど問題にならなかったが、届けは簡単に受理された。
 私が体験した壮絶な夏の出来事はこうして唐突に終わりを告げ、いま私は、盂蘭盆を理由に田舎へ帰って西瓜にしゃぶりついている。

 チリーン、と涼しげな風鈴の音が縁側に流れていく。まだ歩き出したばかりの姪っ子が、残暑の浮遊する庭先からこちらに笑いかけた。その笑顔は無垢で、どこか空愛ちゃんに似ていて、ふいに涙が伝う。

 この夏の事件でもっとも恐ろしい存在は空愛ちゃんだったのか。包丁を持ち、プールで罠を張り平然と笑う彼女を形成したものはなんだったか。
 洗剤入りのカレーライスを頬張る彼女に、私はむなしさと空々しい恐怖を感じる。
 実を言うとあのとき、洗剤入りカレーライスを顔色ひとつ変えず、むしろ懐かしそうに堪能したのは彼女だけではなかった。食堂に佇む何人かの子供たちを思い出す。無垢な舌で味わっていたもの、その正体こそがもっとも恐ろしい存在。

 そしてそれは世の中に息を潜めて隠れているのだ。人間の皮をかぶり、私の世界に確かに棲んでいる。
 無垢な舌のその裏に。

 真の恐怖は、地獄の悪魔は……。



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