第二の誕生日(恋愛)
部下と酒を飲んでから帰宅すると、家には電気がついていなかった。どうやら妻は先に寝たらしい。
やれやれ。妻なら夫の帰りを待って起きていろよ、と苛立ちながら玄関にあがると、ふいにカレンダーが目に入った。
普段なら見過ごしてしまうそれには、ある数字の上に大きな花丸が書かれていた。その下に走り書きで、誕生日、とある。
「明日だな……いや、日付も変わったし今日か。誕生日? ……はて」
誰の誕生日だったろうか。俺ではないことは確かだ。妻がこうデカデカと書くくらいだ、友達というわけではないだろう。上京した娘たちのものでもなさそうだ。
しばらく考えてみて、もしかしたら妻の誕生日だろうかと思い立つ。確信はないが、十二月だった気がする。
「いやらしい奴だな」
俺に祝ってほしいのか、ならあと二十は若返ってもらいたいものだ。子供じゃあるまいし、良い歳なのだから、こんなはしゃぎ方は陰湿なだけだろう。まったく、似つかわしくない。
呆れ果てて俺は、ふんと鼻で笑うと、その場を後にした。
いつもの時間に起きて、妻の顔を見ず家を出る。会社についてすぐ、机に向かってみるものの。
今日は花丸のついた誕生日、か。
小馬鹿にしたものの、俺の頭の中には何故かあの花丸がしきりに顔を出していた。妻の作戦はどうやら成功らしい。いけ好かないが、まぁ連れ添って長いし、少しくらい祝ってやるのも良いかもしれない。
仕事を終えると飲みに誘われたが、やんわりと断って、すぐに帰路へついた。途中でコンビニに寄り、適当にケーキを選ぶ。
日付が変わる前に帰宅するなんてずいぶん久しぶりだ。
柄に合わないから、会社の余りだとでも言おうか。そう思いながら家の前に行くと、驚いたことに電気がついていなかった。
しばし唖然とし、考えてみて、それもそうかと思う。誕生日なのだ。きっと外の連中と外食にでも出かけたんだろう。
思い立って、次第に腹が似たってきた。
外で祝うのなら、見せつけるように花丸を書き込むこともないではないか。感化されてケーキまで買ってきて、まるで俺は道化じゃないか。
「ふざけやがって……」
キッチンに入り、生ゴミ用の袋にケーキをぶちこむ。気も晴れないし、このまま俺も外で食おうかな。
そんな風に算段していると、やけにきちんと片づけられたテーブルに気がついた。茶色い四角の中に、ぽつねんと白い紙がある。
「なんだコレ?」
手に取ってすぐ、衝撃が走った。
白い紙に緑の枠線が並ぶ紙は、離婚届けだった。殆どがボールペンで埋められていて、後は判を押して提出するだけのもの。
いったい何の冗談だ、怒りのあまりそれを振り回すと、張り付けられたポストイットが視界を横切った。
「今日が第二の私の誕生日です」
意志を焼き付けた丁寧な文字。それを読み、ついに頭の中で花丸がはじけ飛ぶ。
日付、花丸、離婚届け――それらの意味することを、俺はようやく理解した。
離婚届けを握りしめたまま玄関を出る。サンダルを履き、身なりも気にせず俺は向かった。
あの場所に行かなければ。その一心が、久しく燃え上がることのなかった灰色の魂を焦がす。
デスクワークで錆び付いてうまく動かない体躯、汗が浮かび情けなく流れ、呼吸が苦しい。走ることをすっかり忘れていたかのよう。それでも、止まるわけにはいかなかった。
駆け込んだのは、町外れの廃墟。かつて住んでいたアパートの成れの果て。
ギシギシと悲鳴をあげる鉄臭い階段を駆けあがって一番奥のひとつ手前。202号室の扉を開ける――。
妻は、そこにいた。
風がどこからか吹き抜けて、懐かしい情景を運ぶ。数十年前の記憶が揺れる。
窓枠に腰をかけながら妻は俺を見、目を大きく開き、そしてゆっくり閉じる。
「来てくれるなんて思わなかった……」
噛みしめるように妻は呟くと、窓の外に目線を投げた。その姿に何を言えば良いのか、そもそも言葉を繋いでも良いものかさえ分からず、立ち尽くす。
僅かに動くことさえ不安でたまらない、かつてあった感覚の再来に戸惑う。だが、謝らなければならないだろう。今の今まで忘れていたことを。今の今まで目を瞑っていたことを。
「すまない、今日は、すまなかった……」
しかし何を言えるだろう。あまりにも大切なものをないがしろにしていて、それを夫婦という甘えで隠していた自分を捨てると決意した妻に、何が言えるのだろう。
語る言葉の少なさに、そして自分の不甲斐なさに焦燥していると、妻がかすれそうな声を出した。
「ここに来たってことは、第二の誕生日がなんなのか分かってんでしょう?」
問いかけに、素直に首肯する。
「その。……言った日だ」
「うん。プロポーズの日」
それだけ言って、押し黙る。俺の言葉を待っているのだ。
こんな段階にもなって俺は、まだ躊躇っている。
何年もひたすら歩いてきた。それに何も言わずついてきたことに、感謝をすることもなかった。気恥ずかしかったのか、照れていたのか。だが、語らないことで傷つけた。
理解している、それなのに唇は隔たりを失ったように重い。
ついに痺れをきらしたのか、お前は再び消え入りそうに囁く。
「私ね、昔シンデレラになりたかった。そのことを話したときの貴方は、とても優しくて、こんな約束をしたのよね。幸せをあげるって、言ったのよね。なのに私、今、とても寂しいのよ」
妻の横顔に、久しいと感じてしまう。その輪郭は酷く憔悴しており、深い皺にはくっきりと闇が落ち窪んでいる。
「子どもがすぐ生まれたでしょ。だからあまり甘えることが出来なくて。子どもが上京しても、甘えることが出来なくて。歳をとったわ、すごく歳をとってしまったの」
「俺も、もうジジイだよ」
「私ほどではないわよ。貴方は外で生き生きしてるもの」
私だけが歳を取ったのよ、妻はそこまで言いきると、小さく笑った。その表情に、もう時間が残っていないことを知る。妻は諦めている。
かつて、家を建てる前に住んでいた、未来の満ちていた場所はもう廃墟だ。畳はぼろきれのように焦げ茶色にくすみ、苔まで生えてしまった。シチール性の窓枠は黴が侵食し、捻じ曲がっている。
時は残酷だ。残酷にしたのは、俺だ。自分で結んだ軸を、当然のものと思い込み壊してしまったのは俺だ。
「置き去りにして、すまなかった。やり直せないか?」
冷たい、妻の視線が俺を射抜く。体裁だけつくろった、大雑把なだけの俺を貫く。
初めて、あの誓いを結んだ日から初めて、見栄や外聞や恥じや、そういったものよりも先に行動が出た。いつの間にか土下座し、懇願していた。
「ずっとついてきてくれたのに、約束を守れなくてすまなかった。俺は確かに幸せにしようという努力が足りなかったし、仕事や子どものことでお前をないがしろにしていた」
喉が痛い。気持ちが高まると首を絞められるような感覚になるのだ。そうだった、こんな気持ちであの頃はなんでも話していた。
「謝ってどうなるってもんじゃないって分かってる。だけど最後に俺に時間をくれないか。チャンスをくれないか。俺はお前に沢山してもらったが、俺はお前に何もしてやれなかった。その償いをする、時間を俺にくれないか」
不思議なものだ。先ほどまでが嘘だったように、感情が喉笛を何度も振るわせる。語っても語っても足りないくらいの情熱が押し寄せる。何年も何年も塞き止めていた心が雪崩れる。それが濃縮し、やがてひとつになる。
「今度こそ幸せを贈りたいんだ……」
搾り出した途端、頭が白くなるほどあらゆるものが静まり返った。感覚も、時間も、あるいは人生というものさえ鼓動を落っことしてしまったように思った。許して欲しいとは、いえなかった。
どれほどのすべてのものが沈んでいったろう、ふいにお前の言葉に、引き上げられた。
「今、何時かしら?」
ハッとして、時計を確認する。
「十一時だ」
「車で来た?」
「いや、走って……」
「そう」
お前が視線を外に投げやりながら、堪えるように首を上に傾げる。訊ねられたことと動作の意図が分からず混乱し続ける俺にまた、あの言葉を紡いだ。
「私、シンデレラになりたかったの」
そして俺を見据えると、恥ずかしそうにはにかむ。
「ねぇ貴方、まだ十二時前なのよ?」
ようやく。ようやく鈍感な俺にも疑問が解け、まるで若かった頃の、二人きりだった頃の言葉が浮かんだ。皺の増えたガサガサの手を伸ばし、同じく皺の増えたガサガサの手に重ねる。
「馬車はないけど、歩こうか」
とても自然に、とても穏やかに。言うという感覚よりも先に生み出される最初の贈り物。
お前はそれを受け取ると、ゆっくりと立ち上がった。
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