とば(文学)
家に帰るなり祖母が私に差し出したのは、温かいご飯でも湯気のたつ味噌汁でもなく、とばだった。鮭を乾燥させただけのとばは塩を噴いており、やけに油っぽい。
断る理由もなくてチビチビとかじっていると、今度は日本酒でもビールでもなく、オロナミンCをちゃぶ台に並べた。
「いっぱい食べ。今なんか作おうから」
そうして祖母は笑うと、もぞもぞと台所へと足を向ける。
祖母に負担をかけるために里帰りをしたわけではない。それに食事なら、母が寿司を頼む予定だった。
「いいから、おばあちゃんは座ってて」と、私は反ば無理矢理に祖母を座椅子に座らせた。
だが妙に落ち着きない彼女は、天井と私を交互に見つめては、モゾモゾと体を揺らしている。その動作にどうにも苛立ってしまい、私は早々にテレビをつけると、画面に集中した。
夕方という半端な時間帯のせいでつまらないご当地番組が流れている。
祖母は私の背中に淡々と話しかけた。
公園の近くに住む山田さんの子どもが死んだの、小学校の同級生の誰ちゃんが結婚しただの、嫌みなくらいに私の心に響かない内容を選ぶ。
祖母は驚異的な話したがり屋なので、話半分に相づちでもしていれば満足してくれる。テレビを見ながら適度に相づちをうつ方が色々と楽だ。
テレビに集中していると、後ろから祖母の咳払いが聞こえた。話をし過ぎたらしい。
私は仕方なく鞄から飲み残しのミネラルウォーターを取り出して渡した。
祖母は目を丸くさせると
「わざわざ採ってきてくれたの。ご苦労だぁね」と、水を飲み始めた。
「やっぱり神社の水はうめがんす」
どうやら祖母は地元の神社の水と勘違いしているらしい。確かに神社には天然の湧き水が湧いている。
だがミネラルウォーターの産地はスイスかどっかの広大な山脈の頂きであり、片田舎の寂れた神社ではない。なんとなく訂正しようと身をよじらせて、私はやめた。
祖母が美味しそうに水を飲んでいたから。そしてその光景に既視感をおぼえたからだ。
そういえば小学生の頃、祖母の古い知り合いが祖母の家を訪ねた時に、私は一人で湧き水を取りに行ったことがあった。祖母の知り合いは体が弱いらしいということを祖母の膝の上で知った私は、気まぐれで湧き水を汲みに行ったのだ。
2リットルのペットボトルを両手に持って、炎天下の中で3時間かけて取ってきた水はぬるく、不味かった。
それでも祖母とその知り合いは水を飲み、美味しい有り難うと微笑んでくれた。
誇らしかった幼い日の思い出。
年老いた祖母は、温かな過去の日に身を投じているのだ。
祖母は過去の中にいる。とばもオロナミンCも、酒の味など全く知らない過去の私が好んでいたものだ。
たった一度だけ美味しいと感じたもの、美味しいと言われたものを、祖母はしっかりと覚えていて、覚えるばかりか現在の事柄として認識している。
ミネラルウォーターだと言っても、きっと祖母には伝わらないだろう。
私が差し出す水は全て、あの日の、神社の水なのだ。
幸せな過去に生きている祖母に、私は穏やかな残酷さを感じた。
否がおうに流動する時間を生きれず過去に取り残されてしまうというのは、なんと冷淡な現実だろう。
年老いるということはそういうことであると分かっていても、胸がつんと痛む。
私は口を閉ざしたまま体勢を変えて祖母と向き合うと、とばを摘んで口に運んだ。
「うめぇか」
ニコニコと目を細める祖母に肯く。
「美味しいよ。今度お礼に美味しいお土産買ってこなきゃなぁ」
私の言葉に祖母は、悪いからええ、と手を小さく振る。
「良いから遠慮しないで、何か欲しいのはある?」
祖母は照れくさそうに頬を染めると、うんと考えながら、
「あんべぇ、ならば浅草の人形焼き……」と口をすぼめた。
祖母らしいな。そんなものでいいのか。
私は意気込んだ。
「よぅし、可愛いのをいっぱい買ってきてあげる。今はたくさん種類」
「やっぱやめだわ」
突然、私の言葉を遮るように祖母は言うと、どでんと座椅子の背もたれに背を預けた。彼女の黒く湿った目がふいに瞬く。
お土産はいらないから、身ひとつで帰っといで。
……とは言わず。
「この間テレビで観た汁が飲みてぇな。スープストックいうたか。ボルシチっつたかな。ロシヤの味噌汁がえぇ」
私は絶句した。
そして自分の体中の毛穴から祖母への敬意が情けない音をたてて逃げていくのを聞いた。
切なさはどこへやら。私は祖母を侮っていたようだ。
そういえば激しい先の大戦を生き延び、仏壇にある祖父の位牌に
「まだ長生きしたいから枕に立たんでよ」と手を合わせる人だったではないか。
私に同情をかけられる玉ではないのだ。これっぽっちも。……はぁ。
「ああでも、東京バナナもえぇな」
「はいはい分かりましたよ。お盆にね」
欲の尽きない骨太の祖母に相づちながら、私は再びとばを摘んだ。鮭を乾燥させただけのとばは塩を噴いており、酷く塩辛かった。
加えて、やけに油っぽいったら仕方がないのだ。 |