配達員は笑う(文学)
お前には母親と父親と生まれたばかりの妹がいる。このように書けば、平凡で穏やかな家庭を想像する者は多いが、お前の家庭は違う。お前の家庭が普通ではないことを、お前はなんとなく気付き始めている。
母親とは血が繋がっていた。父親とは血が繋がっていなかった。いいや厳密に言うとあの男は父親ではなかったな。母子家庭に転がり込んできたただの男か。
それでもお前は、あの男が父親として振る舞うことを少し望んでいる。幼いお前は、親という存在について回る幻想を、今も断ち切ることが出来ないでいる。
こんな目にあっても尚。
生まれて初めて、お前は保護者をおかずに電車を利用している。
お前よりみっつ下の妹も一緒だ。妹は電車の揺れが気持ちよいのか、ウトウトと船をこいでいる。お前は妹の様子をみて、愛おしい、と心から思う。だから両親の命令に胸が痛んでいた。
妹を捨てて来い、と言われたのだったな。そのせいで、お前の表情はいつもよりも深く翳っている。
切符と僅かなお金を握り締めて、お前は少し遠くの街を目指す。そこには、子供を収納するための箱がある。箱に子供を入れる。そうすると、心優しい大人たちが子供を保護し、施設で育ててくれるのだ。
お前は今日、妹を箱に収納するだろう。二度と妹とは会えないだろう。
妹には、今よりは幾分マシな生活が待っているに違いない。少なくとも自分よりは“幸福”になるだろう。なってくれ……そう、お前は願っている。
長袖を捲った。普段は大き目のシャツで隠れている、お前の肌がのぞく。殴られ、焼かれ、黒々と変色した肌。お前は妹の肌を見る。白い肌。お前が守ってきたから、白いんだぞ。
思えばお前は、妹を何度も守ってきたな。三歳違いの妹は、お前にとって宝のようなものだ。幸福だった頃の、何よりの象徴だ。
妹が生まれたとき、家庭には本当の父親がいた。本当の父親はお前たちを愛していた。母親も、今よりは優しかったと思う。
あの時の幸福が、どこに消えてしまったのだろうか、お前に知る術はない。
だがお前は、妹を見るたびにあの頃を思い出すことが出来た。幸福の面影を追うことが出来た。その細い糸を辿り寄せ、消えつつある暖かい記憶に手をかざすことが出来た。
どんなに罵倒されても、どんなに暴力を振るわれても、理不尽な悪夢の中で、お前は幸福の灯に触れることが出来た。
だからこそお前は、妹を守ったな。夜鳴きする妹をおんぶして夜の道で慰めあい、熱湯に妹が投げ込まれんとするとき、自分がかわりに飛び込んだ。盾のように庇い続けてきた。
お前にとって妹は、宝以外のなにものでもない。
今日でその宝も消えてしまう。
お前は泣いた。一筋の希望を、お前は自分の手で閉ざすことを命じられた。本当の地獄がこれから始まるのだ。お前は怯える。お前は悲しむ。お前の感情があふれ出していく。
逃げ出すことはきっと許されないだろう。お前は奴隷なのだ。あの鬼どもの奴隷なのだから。逃げても引きづられ、連れ戻され、更なる地獄が待っているだろう。
無情という言葉を知っていたら、お前は無情だと泣いたろうか。冷酷という言葉を知っていたら、お前は冷酷だと泣いただろうか。
残念ながら、お前はお前の心臓から噴出す感情を表すための言葉を知らなかった。いいや、言葉にするにはあまりにも幼すぎた。
だからお前はひたすら泣いた。両親に邪魔者として捨てられる妹のため、そしてなにより、宝を失う自分のために。
電車は停まり、お前は目的地にたどり着いた。かさぶたのような荒れ地がどこまでも続く地平。その真ん中にぽつんと、何かが立ち尽くしているのが見て取れた。箱だとすぐに理解した。
手を繋ぐ妹はまだ夢の端にいるらしく、体温が温かい。ぎゅっとお前は握りしめる。
「行こうか」
お前は歩む。小さな妹と合わせて、確かに進んでゆく。
大きな人間たちがお前を呼び止めようと手招きをしている。中には、お菓子や玩具を見せびらかすように揺らす者もいる。
「箱に入れるんでしょ? なら私にその子をちょうだい。きっと大事に飼い慣らすわ」
「箱に入れるんだろう? ならばその子を私にくれ。良い値段で買うよ」
「箱に入れるんだ? なら僕にその子を下さいよ。きっと僕の内臓にぴったりさ」
お前は誰もの誘いを無言ではねつけて、ただひたすらに箱へと向かった。どのような誘惑もお前の足を止めることは出来ない。それほどまでに命令はお前の魂に浸透しているのだ。
大人たちが諦めて立ち去り、お前は箱の前にたどり着いた。
灰色のそれは、アルミで出来ているようだ。お前は近づき、まじまじと見上げる。寒々とした色のそれは大きく、妹を入れるには丁度良く見える。揺籠か棺桶のような形だろうかというお前の予想は外れた。金庫に似ていた。
両親の激しい口調が腹でくすぶっている。それに促されるように、お前は箱に触れた。
妹が怯えている。肩を抱いた。
大丈夫、ここで全ては途絶えるから。
お前は箱を開いた。
そしてお前は唖然とした。中には、先客が入っていた。それもぎっしりと詰まっていた。なによりお前の頭を真っ白にしたのは、先客の年齢だった。
そう、箱の中には、老若男女様々な人間が犇めきあっていた。それはもう、箱の中に人が入っているというよりも、人が箱になってしまったようであった。
子供を入れるための箱は、子供を入れるための箱ではなくなっていた。
地球をひとつ分、神が握り固めてしまったような光景に、お前は思わずひるむ。後じさる。
瞬間、妹が逃げ出した。恐ろしい光景に恐怖したのだ。お前はすぐに追いかけ、羽交い締めにするように抱きしめた。抱きしめながら、どうしたものかと困惑した。
お前は両親から妹を箱にしまってくるよう言われたのだ。ここで妹を引き返してしまったら、殺されてしまうかもしれない。
じわじわと焦燥が肺から喉へと登り、お前の首を絞めてゆく。天地が逆さまになるような感覚が皮膚を覆いつくし、痺れるように痛い。舌が乾き、唾液が粘っこい……。
妹は宝だ。愛しい。だが自分の命には代えられない。何故なら……。
「ごめん。僕生きたいんだ」
お前は妹をすくい上げると、全力で箱に押し込んだ。入るスペースなどどこにもないと思われた。構わない。箱に入れてさえしまえば、あとは関係ない。
優しかったお前の凶行に、妹は絶叫した。必死にあらがう。が、死の危険に襲われたお前には、すでに無意味なことだった。
箱から無数の悲鳴が噴き出す。
それと共鳴するように妹の体があらぬ方向に捻れ、枝を折るような音が響く。骨が皮膚を貫き血しぶきが散る。女児とはとても思えない醜い叫びが木霊する。
構うもんか構うもんか。
お前は渾身の力を込めて妹を“収納”した。
箱に収め終わり、お前の力が潮のように引いてゆく。呆然とお前は、箱に腰掛け視線を落とす。
妹の虚ろな瞳がお前を見上げる。きょろきょろと、それは既にお前を見失ってしまったように焦点の合わないものだった。もしかしてもう、お前を忘れてしまったのかもしれない。
そしてあの、白くて柔らかくて温かだった皮膚の色はどんよりとくすみ始めていた。
お前は長袖を捲る。そこにお前の色がある。なんと、妹の色と似ていることだろう。
妹を同じ色で染めたのはお前だ。
そこでお前は、強い喪失感に殴られた。
後悔してももう遅い。愛した白は、同じ色になってしまった。箱といっしょ、光を反射出来することの出来ない灰色だ。
静かな静かな喪失。ぽっかりと穴が開いたお前の体。
妹という最後の愛を廃棄して出来た穴は、呼吸をする度にヒュウヒュウと情けない音をたてる。やがて呼気は風となり、お前の腹の底で渦を生み出し始めた。
ヒュウ、ヒュウ、ヒュウ。
ぶくぶくと膨れ上がる。際限のない増加。お前は苦しみを覚える。体が耐えきれない。
溜まりすぎた風が、ついにお前の喉を貫いた。
「ワーハッハッハッハ!!」
皮肉なことに、それは哄笑だった。
渦はますます激しく回り、台風の目が成長するように大きくなってゆく。小さな体に似合わぬ巨大な笑いが、吹き荒れる。お前の顔が、比例してどんどん歪んでゆく。声が空へと飛散し、世界へと触手を伸ばしてゆく。それを止めるものは誰もいない。
「ワーハッハッハッハッハ!!」
わらえ
ワラエ
笑え
嘲え。
「ワーハッハッハッハッハッハ!!!」
そうしてお前は思った。
どこまでも、どこまでも壊れてしまえ、と。
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