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  過去作品集 作者:雪芳
深淵(文学)
 想像して下さい。
 視線を感じて周囲を見渡すと、遠くに異性がいます。異性は、じっとあなたを見つめているようです。
 さて、異性の年齢は幾つくらいですか?

 高校時代の友人から何年かぶりに届いたメールは、そんな文から始まっていた。スクロールを二秒くらい行うと、それが己を試すような理知的文章をずらりと羅列した心理テストであり、いわゆるチェーンメールであることが分かった。
 十人に回さないと不幸になります、という文末に思わず苦笑する。大学を出て就職し、社会人としてある程度の立場を確立した男を捕まえて、何が不幸だ。それこそ回した十人に馬鹿にされ、弱味を握られるだけだ。下らない。

 ポケットに携帯電話をしまうと、椅子に深く背を沈めた。

 終電からひとつふたつ前。中途半端に早くて遅い車内には、無表情の人間達がまばらに座っていて、皆だらしなく重力にしたがって垂れ下がる。その様を、黒塗りされたような窓ガラスが映し込んでいる。家まではまだ遠い。夜に淀んだ冷たい闇の中には、まだ墓標のようなビル郡がある。
 目を閉じ、最寄りの駅まで眠ることにした。

 ああ、草原だ、と思った。草原のただ中に、ぽつんと一人いた。
 だが同時に、これはただの夢に過ぎないということも頭にはあった。電車あるいは現実という繭にくるまれている感覚はあって、それが、眠ってはいるけれどいつでも起きられる、というようなことを静かに訴えている。

 そんな薄氷のような眠りで、草原という、現実とかけ離れたイメージを浮かべている。果ての見えない緑はやけに暗く、それもそのはずで、頭上には高圧的な暗雲が立ち込めていた。
 寒い。空気が冷たいのか、体温が低いのか、体が小さく震えてしまう。反射的に両手を交差させた。掌で腕を擦ってみる。微熱が指の間からすり抜けていく。
 誰もいないんだろうか、だから温度が低いんだろうか。

 そんな夢独特の非論理的な考えを転がしていると、草の海の向こう、遥か先に人がいることに気付いた。

 距離のせいで掌ほどの大きさでしか確認出来ないが、女の子だ。長めの髪から覗く目はやけに大きく、ガラスのように澄んでいる。とても遠くにいるはずなのに何故か表情は判った。彼女は泣いている。

 健全な色をした頬は不満を詰め込んだように膨らんでおり、ほんの僅かな力を与えたならば、その果実のような唇から叱責が溢れ落ちそうだ。
 そして魂からの訴えのようなそれの焦点は、自分に向けられているような気がした。

 気付くと、後じさっていた。
 なんて大きな目だろう。なんて悲しい目だろう。世界中の虚無が彼女の中でひしめいているような気がした。次の瞬間、逃げるように目を開けた。

 車内を流れる機械的な電車のアナウンスに思わず安堵が漏れる。女の子への恐怖ではない。乗り過ごさなかったことにホッとしたのだ。

 想像して下さい。
 ふいに、あの文字列が耳元で囁いた。
 異性は、じっとあなたを見つめているようです。さて、異性の年齢は幾つくらいですか?
 夢と似ている。感化されたのかもしれない。そういえば、心理テストの結果は何だったろう。読み飛ばしてしまったあの内容は、何だったろう。

 気まぐれが眉間を横切る。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、仕方なくポケットをさぐる。
 だが、無い。
 冗談だろう、と心の中で叫んでいた。サッと血の気が引き、心臓に焦燥が侵入する。立ち上がって周りを手探りで探すも、無い。

 めまいがした。携帯電話には会社から家のものまで、自分に必要なあらゆる番号が入っている。
 それだけではない。アドレス帳には沢山の個人情報が、カレンダーには友人知人の誕生日から仕事上の重要な日時まで刻まれている。何時に何をしなければならないといった細かい予定まで記しているのだ。
 無くしたら、明日からの生活、仕事に困る。自分の信頼にも響いてくる。しかし、無情にも携帯電話は無い。鞄も財布もあるというのに。
 今日一日の道筋を辿るにも、確かにポケットに入れたという記憶がある。無くなるはずがない。ないはずなのに――。

 仕方なく当初の予定にない駅で降りると、交番に駆け込んだ。
「まだ届けは出ていませんが駅に落ちたものなら大概、見付かるものです」
 初老の警官が慣れた様子で書類に携帯の特徴などを書き出す。彼の言った通り、それから十分もたたない内に携帯電話が届けられた。どうやら、偶然ポケットから滑り落ちた携帯を誰のものか分からなかったために拾って届けた人がいたそうだ。
「はい」
 確認を済ませた携帯が渡される。
「よかったですね」
 言葉遣いに、やけに親切な警官だと思う。まぁ、夜も遅くに狭い交番に閉じ込められていると、なにか老骨に凍みるものがあるのかもしれない。
 さほど気にとめず軽い挨拶を済ませると、交番を出た。

 幸い、終電は残っていた。
 まだ肌寒いプラットホームで電車を待ちながら携帯電話を開く。パスワードは解かれておらず、本当に親切な人が拾ったことに改めて胸を撫で下ろした。
 メール欄を開く。心理ゲームの結果はなんだったろうか。

 想像して下さい。
 視線を感じて周囲を見渡すと、遠くに異性がいます。異性は、じっとあなたを見つめているようです。
 さて、異性の年齢は幾つくらいですか?

 柔和なセラピストのようで、だが人を品定めしているともとれる文章。
 想像で浮かぶのは、十に満たない幼い女の子。今度は、ゆっくりと、読み始める。

 あまりにも簡潔な答えが、瞼を叩いた。

 それはあなたの
「精神年齢」
です。

 ぶるり、と体が震えた。
 暗闇の中、四方を荒涼たるビル郡が囲んでいる。その先から、あの景色がこちらを観察しているように感じる。
 光を分厚く遮り大地を見下す雲、浩々と横たわる草原。空々しく虚しく、暗澹たる世界。目を腫らす少女。たった一人、睨むようにこちらを見据えて。

 寒い。だけど何が寒いのだろう。あの空間か、それとも――。
 ふと、瞼に濡れるものを感じ、静かな驚きに痺れる。
 どうして夢などにざわつくのか、どうして警官は優しい声をかけたのか、どうしてこんなにも苦しい気持ちになるのか。ゆったりと思い知る。
 掌に収まる命綱を握り締めながら、誰にも気付かれないよう、拭った。

 枯れ草が革靴に擦り寄り音を奏でる。それを漸く、寂しい、と思う。


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