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  過去作品集 作者:雪芳
人喰らいの海辺
「みなさん見てください。このように桜の根がアリによって噛まれています。県内では様々な怪現象が続いています。これは自然を汚してゆく人間たちへ向けられた警告なのでしょうか」

 枯れた桜並木を歩いていたレポーターの眉間にある妙な皺が気になって、あたしはテレビのスイッチをきった。部屋の電気も消してベットに滑り込み、布団を引き寄せ丸くなる。

 まったく、げんなりする。
「春になって虫が湧いてきただけじゃん、アホか」
 朝昼晩の三日三晩、同じニュースばかりしゃべって、よくもまぁ飽きないものだ。新鮮味を失った情報を、取り込んでいるこっちでさえ疲れてるってのに。
 やれ地面に穴が開いたの、やれ桜が咲かないだの、やれ人類への警鐘だの、あたしなら三日も続けたら発狂しちゃうよ。

「ぽかぽか春風で脳みその感受性も衰えてんのかねぇ」

 平和すぎる穏やかな春の夜。
 あくびを噛みしめながら、あたしは目を閉じた。
 黒の上に白い膜が被さったような視界。朝からまばらに降っていた小雨が地面を叩いてる。そろそろ明日が今日になる頃かも。

 ……あれ、雨が強くなってきた。

 何分経っただろうか。
 ふかふかのベットに横たわって森の奥で横たわるお姫様のように目を閉じているのに、肝心の眠りの世界はいつまでたっても降りてこない。
 小雨は雨に、雨はいつの間にか大雨越えてどしゃ降りに変化してる。冬に溜め込んでいた雨を吐き出しているみたい。

 うるさい。どうしよ、ホントに眠れない。

 眠れないと気づいた途端に余計眠れなくなるのが人間の性だ。あたしは少し焦りながら羊を数え始めた。

 と、百番すぎの羊が五十番すぎの羊と駆け落ちした頃、あたしは体に違和感を覚えた。
 むずがゆい。
 まるで誰かに、触れるか触れないかの微妙なタッチで体をまさぐられているみたいだ。

 目を開ける。
 なにもない。
 けど鎖骨からゆっくりと、確かに、あたしの体をねぶる何かを感じてる。
 あたしは指で何かを摘んだ。指先でじたばたと蠢く感覚。

 虫?
 どこから入ったんだか。ああ、ヤダヤダ。

「変態虫め。あたしの体を触っていいのは玉木宏レベルのイケメンだけだっ」
 あたしはベット脇のライトに手をのばす。橙色の小さな明かりが部屋を曖昧に照らす。
 瞬間、息をのんだ。

 アリだ。
 大量のアリが布団の上を這っている。
 消しゴムのカスをまき散らしたかのように布団の上に点在するアリ。
 チロチロとした足取りで右往左往するアリ。

 あたしの指につままれジタバタと抵抗するのもまた、アリ。

 息を飲みこんでからほぼ同時に、あたしは腹の底から奇声をあげた。
 弾けるように立ち上がり布団をあおる。視線を走らせる。布団の下まで侵入してきたアリは殆どいない。
 でも枕元にもチロチロといる。壁にもいくつか這っている。

「なに、何なの!?」

 アリがどこからきたのか。あたしは床に目をのばし、その源を探した。探してすぐに、再び悲鳴をあげる。

 アリは部屋にひとつしかない扉からわらわらと入ってきていた。その量が、尋常じゃない。
 ワンルームマンション。扉のむこうにはキッチンがある。そのキッチンのシンクが詰まり、締め忘れた蛇口から吐き出される水を受け止められなったとして、シンクから水が溢れてしまった。

 ……そうしたら、このようになるだろうか? 
 溢れた水が廊下を渡って、寝室まで流れてきたら。

 ただしこれは水じゃなくてアリ。

 気味の悪さがゾワリと喉までせりあがる。
 冗談じゃない。つまり廊下はアリだらけってこと?
 廊下、キッチン、玄関には遮るものがない。アリは玄関の、ポスト穴からこちらへと向かってきている、としたら。

 ふいに、刺すような痛みが指先を襲った。
 反射的に払う。指先からボトリと落ちたのはアリだった。あまりにも衝撃的な光景に、指から離すのを忘れていたアリ。そいつが、あたしの皮膚を強い力で噛んだのか。

 だけどなんなの? おかしい、普通じゃないよ。
 あたしの指に、血が滲んでる。

 傷が。
 小さなハサミで切ってしまったかのような傷跡が。

 頭が真っ白くなる。アリに噛まれて血を流すなんて、聞いたことがない。
 聞いたことが……、いや。

 記憶のフラッシュバック。
 さっき観たテレビの内容。

「みなさん見てください。このように桜の根がアリによって噛まれています」

 アナウンサーの声が脳みそに響き渡る。
 アリに噛まれてボロボロになってしまった桜の根が、目の前で点滅した。
 まさか、人間の体さえ噛めるのか。

 アリが?
 こんな小さいアリが?
 目の前で、傷口からあふれ出した血が、ついに球体を保てずにたれ始めた。

 体中の細胞という細胞が警鐘をガンガンと打ち鳴らす。
 あたしは咽喉からこみ上げる恐怖と悲鳴を飲み込みながら周囲に目を配った。

 アリは猛烈な勢いで扉の隙間という隙間から這い出し、闇よりも濃い黒染みとなって部屋を侵食していく。

 アリに食われる----。
 映画のような絶望があたしに近づいてくる。ベットの足へ、シーツへ、あたしの体へ。

 あたしは逃げ口を探した。
 扉からアリがやってくる。ならば脱出できるのは窓しかない。

 パニックによる眩暈を覚えながら、あたしはベット脇の窓枠へと手を伸ばした!



 滝のような、雨だ。

 あたしは激しい雨に無駄な抵抗をするハイパーを見つめながら、びしょ濡れの体をこすり合わせた。

「大丈夫? 間一髪だったもんな」
 あたしの隣、運転席でハンドルを握り締めながら、男……名前を鈴木さんというらしい、鈴木さんが呟いた。

 鈴木さんの言うとおり、あたしは間一髪だった。
 壁伝いにマンションを降りると、街は異常事態に混乱していた。
 恐ろしい量のアリが街中をせわしなく襲い、あたりは恐慌状態に陥った人々の悲鳴で満ち溢れていた。
 地面を容赦なく叩きつける豪雨から逃れるためだろうか、地面から人々の家へと、アリは雪崩れ込んでいた。

 アリに覆われた街。
 今まで観たことも聞いたこともないような地獄の光景が四方八方に広がっていた。絶望と混乱の嘆きが至る所から溢れかえっていた。
 あたしは目を見開き、耳を押さえながら、懸命に蟻のいない方へと逃げた。アリに襲われないようにと川のようになってしまった道をわざと選んだことがあたしの命を左右したらしい。

 あたしは今、安全な場所にいる。偶然通った車に拾われなかったら、今頃は。
 そう思って、心の底から身震いする。

「本当に助かりました。ありがとうございます」
「いや、気にしないでくれ」
 鈴木さんは淡々と車を運転する。車は獣道を走っていた。
走ってさえいれば、アリに襲われることはないだろう。
「あの、すみませんが、どうしてこうなっちゃったか分かりますか?」

 あたしは恐る恐る鈴木さんに尋ねた。
 悪夢が具現化したような非常事態。何の前触れもなかった、はずだ。
 あたしが寝ている間に世界は丸ごとすり替わってしまったんだろうか。

 あたしの質問に鈴木さんは少し考え込むと、重たそうに唇を開き始めた。

「信じてもらえないかも知れないけれど、いいか?」

 言葉の意味がよく分からない。この人も今起こっている事態に頭がついていっていないのだろうか。
 疑問を喉元に引っ掛けながら、あたしは頷いた。

「ラーセン棚氷って知ってる?」
「……えっと、知らないです」

 突然放たれた耳慣れない単語に、あたしは素直に答える。
「地球温暖化の影響で世界中の気温が上昇しているのは知っているよね?」
「学校で、えっと今あたし大学に通ってるんですけど、ちょっと習いました」
「そう。ラーセン棚氷っていうのは南極にあるんだけど、それが最近解け始めたんだ」

 それとアリにどんな関係があるんだ?

「ラーセン棚氷はある海域を覆っていた。それが解けたことで、ある異変が海に起こったんだ」
「異変、ですか?」
「ああ。海域に封じ込められていた生き物たちが出現し始めたんだ。彼らは独自の進化を遂げていて、非常に奇怪な生態をしていた。一つ目の巨大イカだとか、海亀より大きい団子虫みたいな生き物とかね」

 想像しようとして、いまいちうまく出来なかった。あたしの頭のキャパシティーを超えてる。
「もしかして、その、海の生き物が日本に来たんですか? あのアリは海から来たんですか?」

「違うよ」

 鈴木さんは冷静に否定すると、言葉を続けた。
「同じような現象が日本の、地下で起こってるんだ。ここ数年、少しずつ地中にあった氷の層が地球温暖化によって溶けていった。更に、いきすぎた都市開発によって地盤沈下が起こり、地中へ続く深い大穴ができた。それらがきっかけになり、それまで氷に包まれた閉塞的な環境で独自の進化を遂げていたアリたちが地上に出現し始めたんだ」

 ギアをチェンジして、鈴木さんは更にアクセルを踏んだ。

「信じなくても良いよ。誰も信じなかったから、こうなったんだ」
 まるで何もかも知っていたかのような口ぶり。

「鈴木さんは何者、なんですか?」
「さっきも話したとおり。製薬会社のただのサラリーマンさ。……殺虫剤の研究をしてた」

 雨に濡れた斜面を、車が勢いよく登る。
 坂道を登りきったところで、車は停車した。

 豪雨が鉄を叩く音、それを切り裂くようにせわしなく動くワイパー。暗いフロントガラスに、険しい鈴木さんの顔が映る。

 二十台半ばのごく普通の男性と、ごく普通の女子大生のあたし。アリの襲撃がウソだったかのようにごく普通の、なんだか自主映画の一場面みたい。

 別れ話を切り出すように、鈴木さんは再び重たそうに唇を動かした。

「アリはずっとこの日を待っていたよ。無知で傲慢な人間たちの欲望が、自分たちを閉じこめる氷を溶かす日をね。アリにとっての春が、始まりの季節が、ついに来てしまったのさ」

 世間話のようにそういうと、
「さて……、君にはここで降りて欲しいんだけれど」
 鈴木さんは外をみやった。

「降りるって、外はアリで溢れてるんですよ!」
 冗談じゃない。あたしはシートにしがみついた。
「この先に市民プールがある。アリは水の中までには入ってこられない。そこにしばらく浸っていれば大丈夫だ」

「そんなの、安全かどうか分からないし!」
「今から俺が行くところよりは安全だと思うよ」
 鈴木さんはあたしを安心させたいのかぎこちなく笑みを浮かべる。
 だけどあたしは笑顔を睨んで跳ね返した。あたしの真剣な表情に、鈴木さんの笑みが翳る。

「言わないでおこうと思ったけど……あのアリはただ異常繁殖してるってだけのアリじゃない。肉食のアリなんだ。モグラ程度なら、ものの数分で骨だけになる」

 やっぱり。
 街中からあがっていたあの悲鳴は、断末魔だったのだ。

 なおさら、ここで引き下がるわけにはいかないじゃないか。

「お願いします。つれてって。いったい何日プールに浸かっていればいいのか、鈴木さんも分からないでしょ?」
 あたしは懇願し、シートの上で土下座した。
 鈴木さんの表情は分からないけど、苛立ちの含まれた声が下りてきた。

「危険かもしれないんだ。それでもついてくるのか?」

 その言葉にドキッとする。
 だけど、市民プールにひたすら浸かり続けるよりも、知識と情報を持った大人の男性についていった方が安全だと、あたしの心の天秤はそう判断していた。
 あくまで直感。
 でもその直感を信じたから、あたしは窓から逃げることが出来たのだ。
 鈴木さんについていく。その方が、生き延びる確率は高い……と思う。

 ひたすら頭を下げ続けるあたしに、ついに鈴木さんは観念した。
「分かった。もう時間がないから行くよ。後悔しても知らないよ」

「……お願いします」
 頭上から、鈴木さんのため息がこぼれた。
「シートベルトをして。飛ばすよ」
 鈴木さんはそういうと、再びエンジンを燃やした。

 鈴木さんが向かっているのは、勤め先の製薬会社だった。どうやらそこに今回発生したアリの資料があり、鈴木さんはその資料を、急遽設置されたらしい災害対策本部とやらに送らなければならないという。

 鈴木さんの瞳は使命感に燃えていた。誰も信じなかったからこうなったんだと鈴木さんはさっき言っていたけれど、もしかして後悔のようなものがあるのかもしれない。
 製薬会社はちょっとした国立大学並みに広い敷地を持っていた。
 緑に包まれた広大な敷地内に、近代的な建物が並んでいる。製薬会社というのは、そんなにお金になるものなのだろうか。

「さ、そろそろ出るよ。後ろにサンダルがあるはずだから、それ履いて。殺虫スプレーも念のために持ってていいから」

 駐車場に停車する。
 鈴木さんが周囲を懐中電灯で照らし、アリがいるかを確認する。

 春の雨にやむ気配はない。激しい雨によって水浸しになったアスファルトの上にはアリは這っていないようだ。

「よし行こう」
 鈴木さんに促されて、あたしは恐々としながらドアを開けた。
「急ぐんだ」
 殺虫スプレーというイマイチ頼りない武器を片手に、あたしたちは叩きつける雫を切って建物に向かった。

 中はシンと静まっていた。
 そういえば車の時計は三時をさしていたし、さすがにこの時間まで残業をしている人はいないんだろう。
 リノリウムばりの白い廊下にポツポツ灯るのは非常口を指し示す緑の光だけ。

「アリはまだ来てないみたいですね」
 あたしは衣服がびしょびしょになっているのもかまわず鈴木さんの腕を握った。恥ずかしいよりも置いていかれるかもしれない恐怖の方が大事だ。
「油断はしない方がいい。確かにアリが出てきた地盤沈下地域からは遠いけど、距離は街と変わらないんだしね」

 濡れているせいで滑りそうになる足をなんとか前へ前へと進める。
「でも、アリって道しるべフェロモンっていうのがあるんですよね」
 鈴木さんに歩調をあわせて。

「よく知ってるね」
「国語の教科書に載ってたんです、小学生の頃の。お尻からフェロモンを出すから、餌まで行列を作るって。だから道にも迷わないで餌まで一直線で。」
 ……でもここには餌みたいなのないし、と言ったところで、あたしの声は自然にしぼんでいった。

 つまりあたしは、街が餌場だからここは大丈夫に違いない、と言い聞かせようとしているのだ。鈴木さんと自分に。

 だけどそれはあたしが餌だったかもしれないということを意味してる。そしてあたしの大学の友達やバイト先の人だって……。
 自分の発言に怒りと後悔を覚える。
 最低だ、あたし。鈴木さんだって、街に家族や知り合いがいるに違いない。

 あたしは鈴木さんを見上げた。
 鈴木さんの横顔はどこか冷たい。軽率なあたしの発言に、機嫌を悪くしたのかもしれない。
 うまく心情をくみ取れないまま、更に歩を進める。

「もうちょっとで資料室だ。資料室の中は完全に隔離されているから安心していい」

 鈴木さんは地下へとのびた階段をライトで照らしながらあたしに微笑んだ。
 こんな時でも人に、しかも気の利かないことばかり言ってしまうあたしに、気遣える鈴木さんの大らかさに胸が少しだけ痛み、同時に軽くなる。
 あたしもぎこちないながら笑顔で返す。

 そのまま、ふわっとした足取りで、あたしは階段の一段目を踏みおろした。

 と、そのとき、予想していた堅い感覚とは逆のものが、あたしの体を掬った。思わずバランスを崩したところを鈴木さんにサッと抱えられる。

 ああ、あたしって本当に役にたたないな。

 照れながらも感謝の言葉をつむごうとして、
 ……あたしの思考は停止した。

 あたしの足に無数のアリがたかっている。叫びながらあたしは殺虫スプレーを足に噴射した。
 更にバランスを崩して、ついにあたしたちは床に尻餅をついた。
 そして目の前の恐るべき光景を、見てしまった――。


 目が合った。

 最初は、黒い影かと思った。その影は巨大な黒い芋虫のよう。そしてちょうど顔があるあたりに、影や芋虫にはあるはずのない目玉があった。

 赤く充血した目玉が、ぬるぬるとした光を反射させながら、こちらを凝視している。

 生き物だ、と思った瞬間、鈴木さんが物体へと殺虫スプレーを噴射した。粉塵に振り払われるようにアリたちが床へ落ちる。
 確信したくはなかったが、ソレはなんと人間だった。

 血まみれの眼鏡が階段の脇に落ちている。

 鈴木さんが、高坂、と小さく吐いた。
 高坂と呼ばれた男性はぐったりと恨めしそうにこちらを見つめている。そしてその皮膚はまるで焼け爛れたように浅黒く、所々から血液が流れていた。

 生きたまま殺されたのだ、と解るのに時間はかからなかった。

 目蓋や唇、鼻といった突出した部位は犬にでも喰いちぎられたようにあからさまになくなっており、指先は腐り落ちてしまったかのように骨と爪だけを残している。
 衣服はただの布切れとなって血に染まり、はだけた胸元には白い肋骨が浮いている、というか、飛び出ている。

 人間だ、人間だ。
 アリに喰われた人間だ。

 呆然としながらそれを認めたとき、吐き気が一気に襲った。
 見ないように目を瞑っても、生肉の脂っこい臭いが鼻腔に漂ってきて、とめられなくなって、二度、三度と吐いてしまう。

 そんなあたしの様子に気づいたのか、鈴木さんがあたしを強く抱きしめた。
 背中をさすってくれる。

「大丈夫だ、アリに襲われて、地下に逃げようとしたんだ。そう、大丈夫だ、先に進もう」

 先に進むという言葉に思わず耳を疑う。
 車に戻った方が安全じゃないの、そう苛立ちながらあたしは鈴木さんに目を向けた。

 ……鈴木さんはあの、使命感に燃えた横顔で、じいっと地下を見つめていた。
 命を削ってでも進もうと意気込む瞳。
 真剣というよりも魅了されているような頬。

 鈴木さんを仰視した瞬間、黒いインクがぽとりと落ちたかのように、心が小さな波紋をたてた。インクはみるみるうちにその根を広げる。

 極めて直感的に、そう、直感的に、あたしは思う。
 この人は、なにか、おかしい。

 心のどこかが小さく警鐘を奏でてる。
 そう感じながらも、あたしはついていくしかない。万が一ここから逃げ出しても、アリに襲われてしまうだけなのだから。
 あたしは黒を払拭するように心の中で呟いた。

 大丈夫だ、きっと。
 この状態で精神的に変にならない方がおかしいもん。
 大丈夫、大丈夫だ。

 いつ倒れてもおかしくないくらいに磨耗した心を背負って、あたしたちはひたすら進んだ。慎重に、慎重に足を運ぶ。
 地下は迷路のようで、鈴木さんがいなければ迷ってしまうだろう、と思う。

 心臓が熱くてたまらない、体のありとあらゆる部分から冷や汗が出ているのがわかる、寒さではなく全身が震える。
 キリキリと痛いくらいに恐怖を体現しながら長い時間を歩む。

 そうしてようやく、資料室についたらしい。

「ここだ」
 と、殺虫スプレーを構えながら鈴木さんは言った。

 それは、レントゲン室を彷彿させる頑丈な鉄の扉だった。番号ボタンがドアノブの上についている。鈴木さんは慣れた手つきでボタンを押していく。
 暗証番号制なのか、ずいぶんと長くボタンを打ち込むと、ようやくドアの向こうから鍵を開けるような音が軋んだ。

 鈴木さんはドアノブに手をかけると、ゆっくりと扉を開け始めた。
 中からアリが出てこないことを確認し、一気に引く。

 と、小さな部屋のような場所が広がった。
 アリはいない。
 部屋の奥にもうひとつ扉があった。扉は二重のようだ。
廊下につながる扉を閉めて、鈴木さんは再びドアノブに手をかける。
 同じような動作で慎重に中を確認されてから、ゆっくりと扉は開かれた。

 尾をのばす、心の黒いシミを残しながら。



 資料室は、あたしの想像とはちがう姿をしていた。
 図書館のような形をしているんだろうなと思っていたけれどそうではなかった。

 どちらかというと理科室みたいだ。虫や化学分子の模型が並んでいて、大きいコンピューターが数台設置されていて、あたしの頭の中にあった
「資料」という言葉とはだいぶ離れている。

 人が入ったのを察知したのか、パッと明かりが灯った。
 床に目を配ってアリがいるか確認する。
 いない。
 いないことが確認できると、あたしはようやく力を抜いた。すぅっと憑き物でも落ちたみたいに恐怖が昇華する。

「資料室っぽくないですね。今はパソコンが管理する時代、ってやつなんですか?」
 安心して、なんとも気の抜けた台詞が出てしまう。鈴木さんは聞こえなかったかのように淡々とコンピューターの電源を入れた。
 あたしはぼうっと鈴木さんの背中を見つめる。

 休もう。
 机に腰掛けると、今度は恐怖の代わりに不思議さが湧いてきた。

 街から絶え間なく上がっていた悲鳴と、先ほど見た凄惨な男性の姿、寒さを感じ始めたびしょ濡れの体。
 それらに比べて、資料室は驚くほど平和だ。システムの強固さ、なにより鈴木さんの様子をみる限り、安全は絶対的に確証できるだろう。
 平和すぎて、むしろあたしが体現した事実の方が夢のようだ。

 酷すぎる、悪夢。

 あの中に、あたしの日常の全てがあったのだ。
 頭の中に次々とみんなの顔が浮かぶ。家族、は、離れた場所にいる。きっと安全だろう。問題なのは……。

 友達の顔。
 教授の顔。
 バイト先の人の顔。街で出会った人の顔が浮かぶ。

 遠い北海道を離れて不安一色だったあたしを迎えてくれた優しい顔。
 嫌なこともあったけど、楽しくないと思ったことはなかった。

 特に親しい友達の名前が自然と唇から溢れてくる。
 一人だけ安全な場所に来てしまった。
 あたしは最低だ。携帯でも持ってくれば良かった。
 パジャマ一枚、これじゃ誰とも連絡取れないじゃん。

 みるみるうちに思い浮かべた人たちに黒が浸食する。黒が彼らを完全に塗りつぶすと、次にあの死体が現れた。
 男だったのか女だったのかさえ判らなくなった、剥き出しの肉体。破壊されつくした皮膚に、赤茶色い歯と、濁った目玉がクッキリとそこにある。
 それは、どうしてあなただけ生きているの、と言っているみたいだ。

 こみ上げる吐き気と苛立ち、涙。
 荒れた海のように悲しみがさざ波をたて、全身が打ちひしがれて痺れる。
 あたしだけ逃げてしまった、あたしだけ。あたしだけ。

 氾濫する感情に溺れかけながら、あたしは自分の体を掻き抱いた。

 と、その時だ。

 振り下ろそうとして意外な事態に体が停止してしまった。

 最初はなんなのかわからなかった。
 静かな部屋に不釣り合いな音が耳に入り込んできて、あたしは周囲を見渡した。

 鈴木さんだった。
 鈴木さんが地鳴りのような叫び声をあげてる。いやちがう、体をそりあげて腹の底から笑っている。

「す、鈴木さん?」
 鈴木さんは息もできないくらいに狂った笑いをあげながら、あたしを制すように片手をあげた。
「ふっ、ふふふっ……あはっ」
「なにがそんなにおかしいんです?」
 あたしはあたしの質問の意味さえ分からない。だって外はアリによって大パニックが起きているんだ。笑う要素なんてひとつもないんだから。

「おか、なんでおかしい、かって?」

 喘えぐように息を吸い、あたしを射る彼の視線はゾッとするほど黒目が大きい。
 鈴木さんは吐き出すように言葉を床にぶちまけた。
「ざまーみろッ! 俺の研究をバカにしやがって!」

 耳を疑う。なに? なにを言ってるの?

「地下には人喰いアリがいたんだ。信じないバカどもはみんな死んだ! 高坂をみたか? 肉団子! 人間肉団子だ! 俺をバカにした報いだ!」

 バカにされたから? 信じてもらえなかったから笑ってるの?
 なにを言ってるの?

「そんな、笑ってる場合じゃあ」
「大丈夫だって」
 あたしを遮って鈴木さんは喋り続ける。
まるで自分の自慢話に酔った子供のように。
「朝には俺の薬が出回って世界を救うさ。人喰いアリには鈴木の殺虫剤をどうぞってな。あのアリには通常の殺虫剤は効かない。みんな俺の薬に頼り、群がるしかない、アリのようにね。……俺は大金持ちさ」

 再び、嫌な予感がフツフツとあたしの中で存在を誇示する。
 そういえば鈴木さんはやけに冷静だった。安全なルートを知っていた。一人で街を出ようと車を飛ばしていた。あたしは偶然通りかかって。
 時折、鈴木さんは笑っていて……。

「鈴木さん、アリが出てくるの、知ってたんですか」
「うん」
 悪びれなく鈴木さんが微笑む。
「アリが出てくる場所も知ってましたよね」
「そうだね、それがどうかしたの?」
 あたしは後ずさった。さっきから鈴木さんに感じていた違和感がカチカチとひとつの答えを形作っていく。

「アリを地上に出したの、鈴木さんなんじゃないですか?」
 鈴木さんは全く表情を変えずに言い切った。

「ご名答!」

 次の瞬間、あたしは平衡感覚を失った。なにが起こったか、首に圧迫感がある。

 目を開くと、耳元でカチリと何かが音をたてた。視線を移動させる。
 拳銃。拳銃だ。羽交い締めにされて、拳銃をこめかみに当てられてるの?

「君は運が悪いよね。せっかくプールの場所を教えてあげたのにさ、意地になってついて来て。挙げ句にアリの話をしてさ、思わず地盤沈下位置の話しちゃったもんなぁ」
 後頭部に鈴木さんの吐息がかかりゾワリと鳥肌がたつ。心臓の音が指先まであたしを振動させる。
過呼吸。
「お陰で俺は殺人もしなきゃいけなくなっちゃった。でもいいよね、アリに喰われるよりは」
 ボロボロと涙がこぼれる。ただただ立ち尽くす。
 耳元で、拳銃がカチリと、冷たい音をたてる。

 あたしは目を閉じると、大きく息を吸い込み、……そして。


 ゲームブック的な作品だったのでエンディングがみっつありました。


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