家畜監禁(ホラー)
湿っぽい暗闇が肩に覆い被さり、反射的に毛布を手繰り寄せる。閉鎖的で窓ひとつない小部屋には豆電球がぽつんと垂れ下がるばかりで、頼りない輝きは自然と孤独に拍車をかけた。
堅く乾いた布地に頬を当て、耐えることない涙を拭う。そして何故、どうしてこんなことになったのだろうと真理子は考えていた。
姉の美佐子からのメールが冬の終わり頃から途切れた。親戚筋に仲の良い美佐子がお盆にさえ連絡をしないというのは異常事態で、美佐子の夫である幹雄に連絡するも彼は素っ気なく、彼女はいないと跳ねのけるばかり。
だから真理子は東京から新幹線に乗り込み、姉の新居がある仙台の外れまで下りた。
レンタカーを走らせ市に背を向けると、小一時間ほどで人気はなくなった。進んだのは随分と山奥。
初めて見る姉の新居は建てたばかりの綺麗な一戸建てで、初々しい夫婦によく似合うと真理子は思い、不思議と爽やかな気持ちでチャイムを指で押した。きっと忙しかっただけだよね、そんな風に思いながら。
そこから世界は閉ざされた。
気づけば真理子は鉄扉のついたコンクリート詰めの密室にいて、もう随分うずくまっている。しかも裸で。
手にしているものはなにもなく、これが日にちを知る手がかりもない。唐突に穿たれた心の空洞も埋めてくれるものは何一つ無い……、狂ってしまいそう。
思わず頭を抱え込む。と、ふいに空気が揺れた。
遠くから少しずつ、規則的で無機質な音が響いてくる。
カツ、カツ、カツ。
鳥の嘴は靴の高笑いになって静かに近づき、鉄扉の前で断ち切られたように止まった。
「真理子ちゃん……」
それは親しげに震えた。
「食事の時間だよ。ゆっくり食べようね」
鉄扉の下に細く走る漆黒。そこから魚の腹に似た輝きが跳ね、床を掻きながら銀の舌が伸ばされた。その上に乗っているのは半日前と同じく紙パックの牛乳に一枚の肉厚なランプステーキ。
食欲とは粗雑なもので、極限状態でも腹は空く。ましてや監禁されて数ヶ月、楽しみも殆ど無い。真理子が襲いかかるようにステーキにむしゃぶりつくのは当然のことだろう。
咀嚼音が小部屋を満たす。隅にある排水口から漂う糞尿の匂いは強烈なものだが、食欲を阻害することはできない。
半生の肉からは赤い汁が垂れて小さな乳房の上に花を描いた。無我夢中、獣のような醜態で真理子はそれを頬張ってゆく。レアの独特の臭みも丸々喉に押し込む。
そして頭の片隅で、家族、友人、恋人……姉と義理の兄のことを思った。
間違いなく声の主は義理の兄である。代々医者の家系に生まれ育った兄が、どうしてこんな非人道的な行為を自分に強制するのだろう。姉はどうしたのか。あの幸せそうな姉はどうしてしまったのか。
真理子は思考し、だが薄々もう気づいている。
姉はもう、生きてはいない。
ランプステーキを食い終わり、牛乳を味わい啜る真理子。彼女の胡乱な瞳が次にとらえたのは、ピンク色のバイブレータであった。
きっとあいつは見ているのだろう。これをしないとあいつは、二日も三日も平気で真理子に“餌”をくれない。
ライターほどの小さい楕円状の物体と手に収まる程度の筒状の物体、それはコードで繋がれていて、ダイヤル式のスイッチがついたコントローラーに続く。
真理子が迷うことなくダイヤルを回すと、途端に玩具は動き始めた。
「さぁ……いつも通りやるんだよ」
無表情のまま真理子は羽織った毛布を地面に落とすと仰向けになる。若くしなやかな裸体は、不衛生に薄汚れている。真理子は手慣れた手つきで微動する楕円をいつもの場所にあてがった。
「君は特別に気持ちよく出来るんだから」
左手に楕円を、右手に筒を。まるでそういう機械人形のように真理子は、今度は筒を中へ差し込んでゆく。
真理子に快楽はなかった。だが、鉄扉の向こうの人物は違うだろう。
荒い吐息がくぐもりながらそこにある。呼吸に混じって時折、あぁ、だとか、うぅ、だとかいう呻きが聞こえた。
枯れることのない涙が無表情な真理子の頬を濡らしてゆく。バイブレータが傷ついて赤く腫れた肉襞で上下する。
それは恐ろしく禍々しく、底知れぬ不気味さをもった情景であった。
「出るっ……、出るよ……」
突然、鉄扉が口を開いた。そこには一人の平凡な男。右手を股間に忍ばせ左手にナイフを持つ、真理子の義理の兄幹雄。
「真理子、あぁっ、真理子!」
幹雄は真理子の喉元にナイフを突きつけながら猛々しく膨張した己で真理子を貫いた。
真理子の中指よりは丈のあるバイブレータと義兄の蹂躙に、さすがの真理子も悲鳴をあげる。それに構わず幹雄はピストン運動を行い、瞬く間に放つ。
生臭い息を押し付けながら、
「出た、出たよ真理子ちゃん。君も僕の子を産むんだよ……」
心神喪失状態の真理子に、その囁きは届かなかった。
真理子が正気に戻ったとき、既に幹雄の姿はなかった。かわりに啜り泣く声がしとしとと降っていた。
布団を纏い、真理子は壁に耳を張り付ける。声は確かに隣から震えてきていた。女性だ。そして彼女は泣く以外を知らない。
真理子が部屋に来た最初の日から在ったことから、真理子よりも長く監禁されていることは確かで、だが姉ではない。声色から分かる。姉はもう少し低い声をしているのだ。
真理子は壁を叩いてみた。が、やはり応答はない。
彼女は既に壊れた世界の底に落ちてしまい、真理子の言動は伝わらないのだ。その証拠に、たまにクスクスという忍び笑いが木霊する。だから何者かも知らない。
呆然と、だが真理子は達観していた。自分は一生幹雄から逃れられないだろう、と。この部屋を出られる日はきっと来ない。
貪欲な悪夢が黒い闇となって真理子の心臓をきつく握り締める。頭をあえて白くさせることでなんとかそれから逃れようと苦心していると、耳元で何かが弾けとんだ。猫がどこかで踏み潰された、そんな破裂音だ。
なんだろう。
研ぎ澄まされた意識の針を音がした方、壁へと向け、集中する。じっと音の行方を探り、真理子は恐怖に身をすくめた。
猫ではない、人間だ。人間が壊されているのだ。
悲鳴の合間に入り込む暴力的な濁音はしつこく、逃げる人間を追いかけ回し、激しく狩る。悲鳴は哄笑へ、そして甲高い断末魔が一声響き、低い呻きへと変化する。だが攻撃の手は休まむことなく、ついに喘ぎさえ聞こえなくなっても終わらない。
まるで調理じゃないか。
真理子は狼狽し、立ち上がり、へたり込んだ。
真理子は自分がまだ絶望の底にはいないことを思い知った。このままずっと監禁されるだろうというのは浅はかな希望だったのだ。
この悪夢が何日も、何日も続く。その確証がどこにある。悪夢はやがて閉ざされるのだ。どんな夢も、それが良いものだろうと悪いものだろうと、覚めてしまう瞬間が必ず来る。必ず。
カツ、カツ、カツ。
食事の時間だ。
「真理子ちゃん……真理子ちゃん……」
いつが最後なのかも知れず。
「美味しいだろう? よく味わうといいよ」
歯に挟まったステーキの繊維を舌で転がしながら。
「気持ちよくなるんだ、僕の子どもをはらむんだよ」
股間に異物を押しつけ。
「あぁっ、あぁ……」
覚醒する。
――――死にたくない。
一瞬の隙をついて。幹雄がオーガニズムに達する瞬間を貫いて、真理子はナイフを押しやった。力を込めて、雄叫びをあげて真理子はナイフを退けると幹雄を蹴り倒した。正常位が崩れて幹雄が壁に吹っ飛ぶ。
振り向かず真理子は、全力で走った。ふらつく体を叱咤して鉄扉を広げ、廊下に出て、いくつかの鉄扉を通り過ぎ、先端の、あぁ、足下にある階段を駆けあがる。
滑り膝を擦りむき、強打し、だが上りきるそこにあるのは鉄扉。
頭からぶつかり、
転がる。立ち上がり鉄扉についたドアノブを回す。引っかかりを覚えて視線を配る、南京錠。
掴む、引く、外れない。外れない外れない。
「誰かぁっ! 助けて! 出してえぇぇぇ――!!」
真理子は扉を叩いた。両手を高く降りあげて叩いた。
鉄扉が狂ったように激しく揺れるが、鍵はしっかりと施錠されている。
絶叫しながら真理子は助けを求めた。殺されてしまう。このままじゃ殺されるのだ。姉のように。隣の誰かのように。
殺され――……。
「ない?」
真理子は反射的に後ろを振り向いた。薄暗い階下はがらんどうで、ぱっくりと空間を広げている。
あいつが来ない。……幹雄が。
鍵はもしかしたら幹雄が持っているかもしれない。しかし一体、どうしてしまったのか。
迷い、ためらう。
しばし戸惑い、焦り、真理子は決断した。降りよう。
腹を決めると真理子は今一度走った。タガが外れたのか、もし幹雄が来ても対抗出来るのではないかという考えが浮かび上がる。それを悲観で拭いながら真理子は、階段を駆け降り、廊下を疾走し、大胆に足を踏みいれ、そして見た。
血溜まりの中、幹雄は絶命していた。
抵抗した際に偶然、幹雄の喉元をナイフがかっ切ったらしい。血塗れになった幹雄を冷たく見下ろして真理子は、腰ポケットに入っていた鍵を手にした。
ずいぶんと呆気ない様にしばらく呆然としてから、真理子は全てが終わったことを改めて理解する。終わったのだ、やっと終わったのだ。
安堵の涙を滂沱と流しながら真理子は鉄扉を開け、歩く。夢見た扉の先にあったのは美しい間取りの一戸建て、その廊下であった。
真新しくて白い壁紙に光が反射して輝き、温かい。まるで楽園のような明るさに眩暈を覚える。どんな思いで姉はこの家のデザインを選んだのだろうと思い、そこにあっただろう平穏な日々を夢想しながら歩を進めると、さっと視界が開けた。どうやらリビングらしい。
そこで真理子は、素晴らしい夢を見た。幸福そうに姉が微笑み、真理子を見つめる、白亜の夢を。
「あら真理子、いらっしゃい。来ると思ってたよ」
昔から姉は優しく、真理子にとって憧れの存在だった。七歳年上の姉は真理子より整った顔立ちで気品があり、勉強もスポーツも出来、医大に進んだ。
時に美佐子への嫉妬に蝕まれたこともあったが、その豊かで余裕のある優しさに触れたならすぐに泡となる。美佐子は理想と成功の象徴で、だからこそ結婚を一番に喜んだ。
幸せになってほしい。そう望んでいたのに。
「お姉ちゃん」
幼く震えた声色を投げかけると、白昼夢は聖母の神々しさを持って首を傾げた。
そして数ミリだけ、唇を歪めた。
「幹雄さん、殺しちゃった?」
真理子は目を見張った。全身を得体の知れない何かが打ち付ける。希望が冷たく醒めていく。
白昼夢ではない。まだ救われちゃいない。
真理子は後じさりながら美貌の姉を、包丁を両手に握りしめた美佐子を凝視した。
「どうして、お姉ちゃん。どうしてなの?」
「どうしてでしょう。知りたいのかしら」
幹雄と同じく、狂喜によって血管が浮き出た眼球。それが別の生き物のように蠢く。
「うふ、頑張ったみたいだし、教えちゃおっか」
おどけたようにはみ出た舌は異様に長い。
「私たちね、有名な産婦人科医の方に呼ばれてパーティ、したの」
「何の……」
「人の胎盤よ」
姉の口から聞く言葉だろうか、と真理子は思った。美佐子はこんなことを言う人だったのだろうか。
「私たちだって最初は何の食材か知らなかったのよ。だけど美味しくて美味しくて、つい通いつめて聞いてしまったのよ!」
「監禁と関係ない……」
真理子は淡々と呟きながら、だがその答えに感づいていた。姉は野心家なのだ。彼女は人一倍、興味があることを突き詰めていく性質がある。
「あるわよ。だって新鮮なものを沢山食べたいのだもの」
美佐子の腹は膨らんでいた。
「真理子には悪いことをしたけど、美味しかったでしょう。体に良いの。でも胎盤はもっと美味しいのよ、アレより」
そこで真理子は胃の内容物を吐き出した。美佐子のやったことのすべてを、理解してしまったのだ。
酸っぱい味が喉に執拗に絡んで息苦しい。だが真理子はひたすら、極限までぶちまける。
「あらあら悪い子。そんなことしても食べたものは仕方ないのに」
美佐子は笑みを包丁の刃で隠しながら一歩、また一歩と真理子に近づく。残酷な現実と罪悪に打ちひしがれくず折れた迷い子へと。
「幹雄さんが使えなくなったし真理子、あんた幹雄さんの代わりにならない? 一番美味しいところを分けてあげるから」
にじり寄る美佐子は斜陽に照らされて人間離れした艶やかさを放っていた。
恒星のような彼女は真理子を見下ろすと、
「やっぱ信用できねーや」
包丁を一気に降り下ろした。
水風船が地面で弾けたような音が響き、次に激しい雨が床を踊る。ばたばたと意識が破損し、重力に沿って流れていく。絶望が氾濫する。
ついに真理子は、胸を強く押さえながら赤い池へと沈んでいった――。
ニュースです。宮城県で起きた女性監禁殺人事件の続報です。犯人の鈴木幹雄、鈴木美佐子の二人が通っていたとされるパーティの主催者が逮捕されました。このパーティは人の胎盤を食べるという猟奇的な。
見てください、この美味しそうな海鮮料理! ここは三陸の恵みを豪華絢爛、ふんだんに使った――。
ニュースの隣はしがないグルメ番組か。真理子はコントローラーを弄びながら無感情でテレビを観覧していた。
あの日々が嘘のように世の中は平和だ。
とは言っても、もしあの時に地下に監禁されていた他の女性たちを解放しなかったら真理子はこの何気ない時を味わうことはなかっただろう。
真理子が美佐子に襲われた、あの死の間際。女性たちは美佐子を背後から刺した。皮肉にも幹雄のナイフで一刺し、狼狽えたところを彼女たちは思う存分殴り蹴った。身重な者もいた。
美佐子はその場で胎児と共に生き絶えた。
今でも真理子には信じられない。光の世界のただ中にいた実姉が夫と共謀してあんな恐ろしいことをしたなんて。
信じられないが、真理子に残された傷跡が悲劇は事実だったと教える。数々のトラウマが事件から数ヶ月経った今でも疼き、悩ませ、時には新しく発露する。真理子はこの闇から永遠に逃れられないだろう。
看護婦に呼ばれた。
真理子は診察番号を確認してから腰をあげると看護婦の案内に従って診察室に入る。そこには馴染みの医師が座っており、優しげな瞳を傾けている。真理子はにこやかに丸椅子にかけると医師の言葉を待った。ずっと待ち続けていた言葉を。
「妊娠してますね。どうされますか」
「産みます」
きっぱりと言い放つと真理子は医師に微笑み返した。腹部を撫でさすり、女神のように安らかに。
そして大量の唾液が、咽頭に垂れ落ちてゆくのを感じた。 |