超絶伝説☆エルマタドーレ!(コメディ)
一人の女性が、空を切ってそびえる白い建物の前に立ち止まった。
ショートの髪を上品にまとめ、ナチュラルメイクによくあった薄いピンクのミニスカスーツを着こなし、スレンダーな体型を見せ付けるように姿勢よく佇む。その姿は、まるで凛々しく気高い獣のようだ。
名を、猛牛 操という。年はまだ二十台半ば。この物語のヒロインである。
操は、建物の入り口で仁王立ちをしながら、片手につまんだメモに目を通した。そして建物の中央に掲げられた看板を読みあげると、小さく微笑んだ。
「セント黒薔薇マリアンヌ病院、肛門科。ここに、あの男がいるのね」
激しい風が、操の周囲を吹き荒れていた。操は烈風の中、己の指名を思い出す……牛を止めるという、使命を。
空と太陽だけが、彼女を見つめていた。
高速道路。
高度経済成長の折り、狭く小さな島国日本に最も適した交通手段として産声をあげ、今日まで日本を影から支えてきた、言わば動脈である。
それが今、たった一頭の牛により、危機に瀕していた。
藍色のペンキをぶちまけたような、べったりとした空。その下を駆け抜けるハイウェイ。無機質で、そのくせどこか泥臭さの匂う光景は、酷暑にもうもうと浮かんでいた。
――異質さを抱きながら。
高速道路には、車が一台もなかった。法定速度を無視した車たちが我先へと疾走する、それが本来の高速道路の形であろう。
だが今、車らしきものはひとつもない。そのかわり、普段はけして存在しない者たちが、道路に立ち塞がっていた。
「異状ないか」
「こちら、異状ありません」
「引き続き、様子をみろ」
「はい」
電子音の混じった声。完全武装した屈強な男たちが、ヘルメットに装着されたマイク越しに会話をしている。各々、手には銃を握り締め、腰を低くするその姿は、戦場を彷彿とさせる。
いいや実際、戦場なのかもしれない。 彼等の胸元に浮かぶ国旗と文字の刺繍は、彼等が陸軍自衛隊隊員であることを何よりも明確にしていた。
――ハイウェイは戦場に変わってしまったのか。その答えは、すぐに出された。
道路の向こうがわ、隊員たちが見据える先、道路の輪郭が揺らめく蜃気楼の中から、ふいにひとつの点が飛び出した。
それはとてつもない速さで膨らみ、同時に煙を巻き起こしながらこちらへやってくる。
牛。
牛だ、車ではない。
一頭の牛が、猛然と走ってくる。
隊員たちは一瞬、悲鳴をあげてしまいそうになった。なぜなら牛は、あまりにも巨大だったからだ。
「ハデスです、ハデスを確認しました! 初期攻撃段階より遥かに成長しています!」
一人の隊員が、慌てて周囲に伝えた。
無理もない。大型貨物自動車にも劣らない程に肥大した体駆が、恐ろしい速さで向かってきているのだ。
「落ち着け、慎重に時期をみるのだ」
「ハデス、接近しています」
「あと十秒でぶつかります」
「総員準備!」
後方に一人の男がたち、片手をあげた。迅速に広がる隊員たち。
「作戦通り動け。数を数える、ゼロと同時にいけ」
突撃のスピードを落とすことなく接近する牛。
銃を構える。緊迫がはりつめる。
「用意! 三、二、一、――攻撃!」
瞬間、次々と銃口が火を吹いた。爆裂する土煙、加熱する撃鉄、鞭のような風切り音、更に連弾が打ち込まれる。
「攻撃、やめーい!」
声が響き、あたりがしんと静まりかえる。
「やったか」
もうもうと視界を包む硝煙と沈黙。確かな手応えを感じ、指令の手が下げられる――その時だった。
煙が左右に引き千切られた。
あまりにも一瞬の出来事に、隊員たちは、あんぐりと口を開ける。
なにが起こった? まさか。
「は、鼻息だとぅ!?」
さきほどの銃撃が嘘のように、クリアになる視界。そして無傷の、牛。
牛は、荒々しく呼吸をすると、ぎらりと目を輝かせた。
「た、退却〜〜!」
一気に駆け出す陸軍隊員たち。死にものぐるいで走り出したその背を、ただ逃がす破壊神ではない。
後ろ足をコツンとアスファルトに打ち鳴らすと、それがゴングとなった。ハデスは、炎を巻き散らしながら、一直線に
「突進」
した。
爆裂する風。そして摩擦熱が熱砂を巻き散らし、隊員たちを飲み込んだ。
まるでハリケーン。隊員たちはオモチャのように空中に投げ飛ばされた。
それだけではすまない。怒涛の嵐は、隊員たちの衣服を切り裂き、あられもない姿に変えてゆく。
「ぎゃああああ〜〜っ」
あまりの出来事に、時空が歪む。
スローモーションのようにゆったりとした時間の中、本車線の外に落ちてゆく全裸の男たち。
産まれたままの姿で空から放り投げ出さる様は、地獄絵図そのものであるのに、雪のように散る衣服のせいか、どこか神々しささえあった。
太陽に照らされ、煌めき、空から舞い降りる裸体の天使。
その華麗な情景の中央に、祝福を受けるようにハデスは立ち止まり、満足げに周囲を見渡す。
関東の破壊神という異名を持つ牛、
「ハデス」
。
――遺伝子操作により産まれた超猛絶食肉牛である。
超絶猛食肉牛は、通常より筋肉が発達している。
時代の変化により、霜降りよりも霜なし、しなやか且つ柔らかな肉が重宝されるようになった昨今、より美味な筋肉を目指し開発された英知の結晶。
そして肉以外にも、超絶猛食肉牛にはある特徴があった。それは、常時、アドレナリンを大量に噴出しているということだ。
食肉用の動物がアドレナリンを分泌した直後に屠殺すると、舌筆しがたいほどに豊かな味を出す。魚介類の生け造りなど、少々残酷な料理法にはきちんとした理由があるのだ。
興奮によりアドレナリンの放出が、常時続いているということは、常時美味であるということ。
常に、舌に革命を起こす旨さ。これこそ、超絶猛食肉牛が超絶猛食肉牛と呼ばれる所以である。
だが、その所以が、全ての発端であった。
輸送途中に事故があり、超絶猛食肉牛が高速道に放たれたのである。
この非常事態に政府は総力をつくした。最大規模警報を発令、自衛隊まで動かし、超絶猛食肉牛たちの捕獲にあたった。
政府の功労により、次々、常に興奮状態で鋼の肉体に包まれた、危険な超絶猛食肉牛は捕まっていった。
たった一匹、超絶猛食肉牛中で群を抜いた実力を持つ、ハデスを残して。
屈強な男達の裸体が散らばる路上で、ハデスは深く息を吸うと、雄叫びをあげた。
「ヤキニクヤイテモォイエヤクナアアア〜〜!!」
強靭な肉体から四散する轟きは、ハデスの圧倒的な力そのものだ。遺伝子を改良し作られた最強最悪の牛、そして破壊の神、ハデス。ハデスを止められる者は、もういないのか。
――あの男を除いて。
「俺に、なんの用だ」
病室のベットに横たわりながら、男はうめくように呟いた。
「私の名前は、猛牛操。あなたの力を借りたいの。得留股 努礼。いいえ、超絶天才闘牛士、得留股 努礼ッ!!」
ズビシィッ!
操は形のよいその指先を男へと勢いよく向けた。努礼と呼ばれた男は、ゆっくりと上体を起こすと、操の美貌をじっと見つめ返す。
「もう、その名は捨てたんだ。俺はしがない痔持ちのハゲだ」
男……努礼は、操から逃れるように視線をそらした。
操は努礼の姿をまじまじと観察した。ハゲと言うには、まだまだ頭皮に希望があるものの、努礼の若々しい肉体を思えば、確かにあまりにも残酷なものがある。
また、ベットの脇に置かれた大量のドーナッツ型クッションが、努礼の言葉に陰を落としていた。
そう、努礼は正真正銘のハゲで、重症痔主であった。
「でも、あなたは伝説の闘牛士と聞いたわ。日本で初めての闘牛士、日本で初めてのマタドーレ、そして世界で唯一のキングオブマタドーレだったと!」
「もう、過去の栄光だよ」
「そんなこと、」
ない、と言おうとして、操の言葉は止まった。努礼の横顔は、あまりにも深い悲しみに満ちていた。
「あなたの話は私も聞いているわ。 闘牛で、命を落としそうになった、と……」
「命ッ、ねぇ」
努礼は鼻で笑うように言葉を吐く。
「そんなものではない、あれは、悪夢だった――」
努礼の目に、耳に、肌に、あの日のことが蘇る。
スペインに注ぐ灼熱の太陽光、乙女たちの黄色い歓声、それらを肌に感じながら、砂が吹き荒れる闘牛場に、努礼は足を滑り入れた。
人々は口々に、神に愛された若き天才闘牛士の名を叫ぶ。努礼は恵みの雨に打たれるかのように祝福と声援を浴びると、拳をつきあげた。
「努礼ッ、努礼ッ、努礼ッ!」
はち切れんばかりの音が会場を埋め尽す。努礼は人々に紳士的なお辞儀を返すと、今日の敵を睨みつけた。
太陽よりも熱く燃え上がる瞳、雄々しく盛り上がった筋肉、それを覆う栗毛は艶やかで、挑戦的だ。そして、険しい山脈を思わせる角は、天へときりりと屹立している。今にも食らいかからんと鼻息を荒くする牡牛。
努礼は、牛を目の前にして、熱く血潮をたぎらせていた。
来るがいい、牛よ。
既にお前の動きはカポテで読みきった。 俺はお前の突進を、風よりも早くかわしてやる……!
努礼は、ひらりと赤い布――ムレタ――を取り出した。そしてデレチャソ、つまり右手でつまみあげる。
ムレタを見るなり、その深紅に、牡牛がうめいた。今、戦いは始まる。
砂塵が舞う。
火は解かれる。
赤に挑発された牛が、猛然と、努礼のムレタへと突進する。
「ふん、遅いわ!」
努礼は軽やかにステップを踏むと、ムレタをひるがえした。
だが。
ふいに、突風が努礼の体に吹き付けた。
そしてあろうことか、努礼の頭が――正確には、カツラが、ふわりと浮かんだ。
まるで羽がはえたかのように大空を飛びたんとするカツラ、思わぬ事態に、努礼は無意識の中、ムレタを捨ててカツラを掴んだ!
それが命取りとなった。
猛牛の突撃は努礼の脇腹をかすめ、凪ぎ払われるように努礼は大地に倒れこんだ。
ヤバい。
なんとか逃げようと、努礼はよつんばいになって辺りを見渡した。
そして。
捨てたはずのムレタが、舞い戻ってきた。
……努礼の尻に。
一瞬のこと。牛は、ムレタめがけて、つまり努礼の尻めがけて、角を突き出した――。
努礼の視線が、宙を泳ぐ。
「あれを、悪夢と言わないで、何を悪夢と言うのか……」
喉元を脂汗が伝い落ち、努礼はぶるりとうち震えた。あの瞬間を頭に浮かべるたび、恐怖が首筋を舐めさする。加えて尻が、醜く絶叫をあげる。
事件の翌日、マスコミは、努礼が実はカツラであったこと、そして努礼が牛に強烈な攻撃を与えられたことを、エキサイティングに報じた。日本人がマタドーレをしていたことを、内心、 喜んでいなかったのかもしれない。面白おかしく、努礼の悲劇をネタにし、もてあそんだのである。
それは、努礼が築いてきた地位、名誉を奪い取るにはあまりにも十分だった。身一つ、恋人も家も車も失い、ただ、寂しげな頭皮と阿鼻叫喚を奏でる痔ろうだけが残った。
「あの瞬間、俺の闘牛士としての翼は折れた。今はもう、ただの痔主になり下がったんだ。それも大痔主さ! ……俺はもう、ムレタを握り締めることはできない」
「でも、」
「帰ってくれ、俺の敵はもう牛ではない、己の肛門なんだ」
「いいえ、違うわ、努礼。あなたの敵は」
「お前に何が分かる! 髪が神により愛され、尻の痛みを知りもしないお前に、俺の何が分かるんだ!」
努礼の怒号が操の体を強かに打ちすえる。操は努礼の罵声に怯えながらも、負けじと努礼を見つめ返した。
「それでも日本には、あなたの力が必要なの。高速道路は、日本という経済大国の背骨よ。その背骨が、今、たった一頭の牛に傷つけられている。特殊部隊でさえ倒せない牛。ほうっておけばおくほど、日本の経済は損害を受け、ひびわれてゆく」
「俺には」
「関係ないというの? 日本が、人々が牛に苦しめられているというのに。それでもあなたは、誇り高きマタドーレだった人間? 誇りまであなたは、捨ててしまったの?」
「捨てた? 違う、俺は牛に、そしてマスコミに奪い取られたんだ!」
「いいえ違うわ、あなたは捨てたのよ」
操はきっぱりと言い放った。努礼の身体が一瞬、たじろぎをみせる。操の眉根は、戦いの女神ニケのように凛々しくそりあがっていた。
「あなたは屈辱に耐えられずに全てを捨てて逃げたのよ、尻をまくって。本当は分かっているはずよ」
努礼は操の情熱的な問いかけから、思わず目をそらした。それが、全ての答えになった。
努礼の中には、後悔と悲壮、恥辱が存在する。
スペインから去ったのは、それらから逃れるためだ。彼自身、よく理解している。いや、理解せざるおえないと言った方が正しいかもしれない。何故なら、彼の中で後悔たちは、日を追う毎に大きくなっており、操の言葉に感情が激しく揺れ動いているのを感じているからだ。
「あなたの敵は、牛でも、薄い頭皮でも、傷付いた肛門でもないわ、あなたの心よ」
俺の、心。
努礼は、胸元を掴んだ。
心臓が命を鼓舞し、言葉するには難しすぎる感情が、魂をかき回している。
「俺は、どうすればいい……」
「マタドーレとして、牛に勝つのよ。その、ムレタで」
操は努礼のベットを指差した。小さくため息をつき、努礼はシーツをあげる。シーツの裏側には、びっしりとムレタが縫い付けられていた。
「いつ、気づいていた?」
「最初から見えていたわ、チラチラと」
「女にするにはもったいない洞察力だ。 だが、操、俺にムレタを握ることはできない」
「なぜ」
「尻が痛いからだ」
努礼は腰を軽く動かした。刹那、刃が皮膚の下に埋められているような鈍痛が努礼を襲う。脂汗を滂沱と流しながら、努礼は小さく息を吸った。
「この通りだ、操。俺の痔は地獄から湧き上がるマグマのようなものだ。ほんの僅か動いただけで、尻に齧り付く。……血も出るんだ。お陰で、男の癖に生理用ナプキンをつけるしまつさ」
努礼はエリエール羽つき多い日夜用のナプキンを操に投げつけた。操はそれをなんなく受け止めると、形の良い唇を小さく動かす。
「大丈夫よ、麻酔を打てばなんとかなるわ」
「本気か」
「熊用だから大丈夫よ」
「そういう問題なのか」
「だってあなたしか牛をとめられる人間はいないのよ」
「もっと頑張れないか」
「無理よ。もう戦車を使うしか手は無いくらい。だけど、高速を破壊することはできない」
操はナプキンに目を落としながら、続ける。
「いい? この依頼を受け、無事に成功させることが出来たら努礼、政府はあなたに幹細胞の移植による高度再生医療を駆使した痔の手術と、和田アキ子も裸足で逃げ出すような植毛と育毛を施すつもりよ」
「な、何ィィィ!!」
「それだけじゃないわ、地位も名誉も、誇りも復活するのよ、努礼」
「誇り……」
努礼はシーツの裏側を捲ると、ムレタに指先を置いた。
血のように赤いムレタの、扇情的な色が、指先に熱を灯す。
闘牛士に憧れ、スペインに渡り、最初に買ったものは観光用のムレタだった。
ムレタの紅を目に映していると、その日のことがありありと思い出された。
しかし。
「それだけでは、闘えない」
「どうして?」
「支えるものがないからだ」
努礼は、己の弱りきった身体をさする。かつてあった筋肉美はそこにはない。
「あの頃の俺は、支柱があった。 闘牛士になるという羨望、闘牛士になってからはマタドーレになるという野望、マタドーレになってからは人々の声援という、支柱だ。だが、今の俺は、なんだ? 痔が治ろうと、ハゲが治ろうと、汚名を雪ごうと、その後に何が残る? この観光用のムレタだけ。なれるのはせいぜい、普通レベルのニートさ」
努礼は、百合のように立つ操を見上げた。聡明な顔、ブランド物のスーツ、ふわりと匂うデキルオンナのオーラ。
まさにヒロインの後光が、彼女からは放たれている。
「君と俺は、雲泥の差だな。君は女神で、俺はヒトモドキ。君には分からないだろうな、この苦しみは」
操は魅力的だ。努礼が直視できないほどに。美しく、世界に愛でられた、女。
「もし君のような女が妻にでもいたら、どんなものが待ち受けていようが、戦場へ赴き、男としての使命を果たすだろうに。君のような恵まれた人物には分かるはずも」
「私が妻になればいいのね?」
「ぎょぺ!?」
操の返答に、努礼は素っ頓狂な声をあげて操を見返した。
「何を言ってるんだ?」
「何をって、あなたが言ったのよ」
操は呆れたように腕を組んだ。結果、彼女の胸が強調される。努礼はごくりと唾を飲んだ。
「ほ、本気か?」
「ええ、本気よ。もしあなたが、破壊神ハデスを止めることができたら、結婚してもいいわ」
操が艶やかに微笑む。
二人を包むかのように、ふいに窓から光が差し込んだ。
破壊神ハデスの鼻息が蜃気楼に溶ける。その重厚な体を鋭い太陽光が舐めるように這う。
粉塵が丸太のような四肢を駆け抜けた。圧倒的な体躯、その周囲に、無残にも裸体の自衛隊員たちが蹲る。まるで王にひれ伏す愚民のように。
「く、クソ、化け物が……」
熱したコンクリートの上で、裸体のひとりがうめいた。ハデスの尾が、その言葉にピクンと反応する。大地を削るように軸をずらす蹄。その切っ先は、無防備な彼に向けられた。
「ケッ、来るならこいよ。裸のマグナムしかねえけどな……」
にじりよるハデスにかけられる悪態。だがそこに、戦う意思はもう残ってはいない。諦めに陰る戦士へと、残酷にも破壊神は近づいてゆく。まるで、空腹に唸る獰猛な猛禽のように。遅々と、しかし確実に。彼の頭蓋に、その影が差し込む−−。
「待ちやがれ、お前のディナーはこっちだろう?」
その声と同時に、ハデスの頭上へと何かが解き放たれる。それはハデスの肉体をも凌駕する大きさの牛用餌袋だった。
ハデスの頭目掛けて落下する餌袋。ハデスは光る瞳でそれを一瞬のうちに捉えると、その逞しい双の角で貫いた。
瞬間、刃のような閃光が飛散した。大地を揺るがす爆音と共に、粉塵がハデスの体を包む。
完全に奪われる視界の中、先ほどの声が再び木霊した。
「おい自衛隊! 今のうちだ、マグナム抑えてさっさと逃げろ!」
掛け声に押されて、わぁっと走り出す全裸の男たち。騒然とする周囲を気に留めることなく、ハデスだけが時と粉塵にその身を委ねる。
やがてゆるやかな風に押されて、層を薄めていく空気。
青い空が再びハデスの頭上によみがえった時、辺りにはあの男たちは一人もいなかった。そしてその代わりに、ハデスの見慣れぬ黒マントの男がハデスの目の前に立ちふさがっていた。「よう、ずいぶんオテンバしてるじゃないか、兄弟。どうだい、お前のために用意したニトロ味の餌は。少しは刃こぼれでもしたか?」
不快そうにブルブルと喉をならすハデスを目の前に、物怖じすることなく男はにやりと唇をあげた。
−−そう、我らがヒーロー。超絶天才闘牛士、得留股 努礼その人である。
「ああ、ちっとも美味しくないか、そりゃあ残念。だがな、ハデス」
マントがはためき、努礼のしなやかで長い右手が天へ伸ばされる。その指先には、ムレタ。血のように赤く、血よりも赤く。真紅のムレタが今、太陽を背にする。
「お前のプレゼントはこれからさ。なぁ……兄弟!」
努礼の言葉を遮るように突っ込むハデス。努礼は瞬間的にマントを翻すと、天空へと飛翔した。猪突猛進、ハデスの角がガードレールを熱した鉄のようにぐにゃりと曲げる。
「ふう、すごいな」
努礼は空中でくるりと体勢を整えると着地した。無残にも拉げた鉄のリングの姿に、生唾の飲む。
もしも努礼がわずかでも隙をみせてしまったら、たちまち死神が彼の首をかっさらっていくだろう。ハデスの攻撃力は努礼が見てきたどんな牛よりも高く、その性格は獰猛という言葉をはるかに超えている。草食動物のそれではない。猛禽。過酷なサバンナを生き抜いてきた猛獣のそれだ。
破壊神という名にふさわしい。いや、それ以上。
だが。
「でもな、ハデス」
振り向く破壊神に対し、努礼は再びムレタを構える。
「お前は所詮、牛なんだよ!」
怒りの咆哮をあげながらのハデスの突進。努礼はその機関車のような動きに集中し、寸前のところで再びかわした。
避けたはずのなのに努礼の両腕を激しい振動が食らう。かまいたちのごとき風圧がムレタの布地に噛み付く。雄たけびをあげながら、ムレタで嵐を掻っ切った。
努礼の背後で、煙が空高く飛散する。ハデスがガードレールにぶつかったのだ。いや。
「これは、ブレーキ音!?」
瞬間的に努礼は横に飛んだ。努礼の影をハデスの巨体が踏み砕く。まさに間一髪、努礼はごろごろとコンクリートの上を転がると、受身をとって瞬時に立ち上がった。
マグマよりも熱い肉体に、氷河がドッと流れていく。
この牛、俺の動きを読んでやがる。
圧倒的な驚愕が努礼の頭に警鐘を鳴らせる。ハデスは努礼が牛に持つイメージを覆すのには十分なほど賢く、俊敏性に優れていた。今まで相手にしてきた牛がまるでBabyのようだ。
対する努礼には、天才的な勘と運動能力がある。だがそれは所詮、過去のことだ。戦闘をしながら何ヶ月ものブランクを埋めるには、あまりにもハデスは危険すぎた。
それだけではない、努礼は深い傷を負っているのだ。
尻に敷いた生理用ナプキン夜用36センチ二枚重ねに、湿った感触がある。麻酔が効いているので痛みはないが、活動的に出血をしているのだ。努礼に死を招くだろうリットル級の出血とは程遠いとはいえ、それも時間の問題。
努礼は戦闘態勢を保ちつつ、息巻くハデスの燃える瞳を見やった。
牛に挑発を試み、何度もかわす。そしてその闘争心を奪う……、それが闘牛士の勝利の方程式だ。
だが、その方程式から解を導くにはどれほどの時間がかかるのだろう。
(お前の瞳から炎を消し去る時間は、俺に与えられているか?)
まるで神頼み。いや、やつの異名をなぞるのならば、やつこそが神。
「神殺し、か」
努礼がそう漏らした時、ハデスが激しく息巻いた。そして自身の吐息を貫くように再び大地を蹴り上げる。
電光石火。努礼は天才的な瞬発力をもって交わし――きれなかった!
「うぐぅ!」
ハデスの雄雄しい角が努礼の横腹を掻っ捌く。血の円弧を描きながら、衝撃で努礼の体が回転し、コンクリートの地面に叩きつけられた。
鈍い振動とともに、再びあたりが砂塵に染まる。煙は、悠々と歩くハデスの姿を浮かべながら横に流れていく。その中で、努礼は屍のように横たわっている。
いや、腹部を押さえて蹲っていた。努礼は生きていた。虫の息で。
懸命に息をする。努礼の腹部からはドクドクと熱い血潮が流れていた。
(くそ、肋骨が持っていかれた、か)
油のきれたブリキ人形のようにギシギシと悲鳴をあげる体。燃えるような痛みに震えながら、努礼はコンクリートをまさぐった。その手は、ムレタを探していた。ぼろぼろに傷ついてもなお、努礼の意思は固かった。
戦える。まだ闘ってみせる……。
ふいに、右手に布の感触があった。ムレタだ。
俺はまだ、やれる!
努礼は意気込みながらムレタを引き寄せた。
だがその瞬間、ポキリ、と努礼の中の何かが音を立てた。
ムレタは、破けていた。
微塵に切り裂かれたムレタを目に写し、努礼の闘志が一気に青ざめる。命の次に大切なムレタ、努礼の人生そのものだったムレタが、見るも無残な姿で努礼の手のひらに収まる。まるで引き裂かれた心臓のように、寂しげな風に揺れる。
と、ムレタの赤が翳った。生臭い吐息が努礼の頬を舐める。ハデスが、勝ち誇った姿で努礼を見下ろしているのだ。
王者の影にひれ伏す、醜い闘牛士。まるであの日のようだ、と努礼は思った。
(俺はまた、お前に勝てないのか)
眼球が燃え盛り、景色が霞んでゆく。流れ出ていくものを留める術を努礼はもう持っていない。持っているものといえば、痔くらいのもの。
(いっそのこと、殺してくれ)
努礼は望み、目を閉じた。それを理解したかのように、ハデスがゆっくりと蹄をあげる。
そして。
今まさに、神の裁きが一人の闘牛士の頭を砕かんとした時だった。
「努礼〜!」
懸命な乙女の叫びが努礼の頭で弾けた。瞬時に覚醒し、マントを翻す。狼狽えた牛は、努礼の耳すれすれにその轍を踏んだ。
激烈な痛みに喘ぐ体を意志で押さえつけて努礼は立ち上がり、牛から距離をとった。
「はぁ、はぁ」
心臓が早鐘の如く鳴っている。乾ききった喉が熱した空気を必死に飲み込む。が、胸が痛くて巧く呼吸も出来ない。 瀕死の状態、死神に鎌をかけられながら努礼はその声の主を探した。今さっき己が聞いた、救いの女神を。
「努礼〜〜!!」
操。……努礼の女神は、彼の頭上にいた。
大気を切り裂くプロペラ音。小型ヘリの扉を開き、そこから垂らした鎖梯子に足を引っかけ太陽を背にする。勇ましく、そして可憐な戦乙女。
「今行くわ!」
操はヘリから飛び降りると、華麗に着地した。赤いヒールが艶やかに光る。
「操、どうしてここに……」
「あなたが心配だったからよ」
満身創痍の努礼の体を支えると操は口角を柔らかくあげた。
「馬鹿な。ここは危険だ。女は帰れ……」
「イヤよ。あなたを置いてなんかいけないわ。それに元々これは政府の食料対策の果てに起こったこと。本当は私たちの仕事なのよ」
「相手は牛だ。お前等の敵は市民だろう。 ……ここは危ない、人の檻に帰れ」
「でもっ」
操の情熱的な目尻が朱に染まる。努礼はハデスの動きに注意しながら操の手を掴んだ。
「いいか、今はハデスがこちらを観察している。チャンスは今しかない、帰るんだ。少し早めの夫婦喧嘩をしてる場合じゃない」
「いやよ。いや」
努礼の説得に応じず、後ずさる操。
「だって、……あなたは傷だらけだわ!」
操の指摘通り、努礼は傷だらけだった。わき腹を角で抉られた体はわけもなくガタガタと震えており、二枚重ね羽付きナプキンはこともあろうことかモレ始めている。
顔も蒼白で、唇から血を吹き出しながら
「なんじゃこりゃ〜!」
と倒れないのが七不思議のひとつになりそうな勢いだ。死にそう、至って健全に死んでしまいそうな状態なのである。操が食い下がるのも無理はない。
「武器は持ってきたわ。あなたの代わりに私が戦う」
どこから出したのか操は、22口径マグナム・コルト・クーパーを両手に持つと、陽炎の漂う高速道を颯爽と駆けだした。
「やめろ、やめるんだ操」
「見ていて! あんな牛、すぐに止めてやるんだから!」
走りよる操に気づき、ハデスが操に向き直る。前足でコンクリートを軽く削りながら、ハデスは操を観察した。
自衛隊の攻撃を鼻息で吹き飛ばし、天才と謳われた闘牛士ですら赤子の手を捻るように潰した破壊神にとって、ポッと出てきてヨチヨチと近づいてくる操は戦闘の対象ではないらしい。
そんなハデスの余裕を感じ取りながらも、操も銃を構えた。経験があるのか体勢はさまになっている。だが、
「そんなものがハデスに効くものかっ!」
努礼は肋骨を右手で押さえ、足を引きずりながら操の後を追う。その距離あと僅かというところで努礼は操の肩に触れようと手を伸ばした。
その時だ。
一迅の風が高速道を駆け抜け、操のミニスカートの端を不意に舞いあげた。
スカートがふわりと操の腹まで捲れあがり、禁断の逆三角地帯が色鮮やかに浮かび上がった。
瞬間、ハデスの目の色が変わった。
なんという偶然、なんという運命のイタズラ。努礼は神を末代まで恨みたくなった。
レッド。
操は、なんとも扇情的な真紅のハイレグパンティを履いていたのだ!
「モ〜! モーレツ!!」
と言ったか言わずか、ハデスは瞬時に戦闘態勢に入ると、恐ろしい速さで駆けだした。
突然の事態に眉根をよせつつも、操の発砲。空気をつんざめく六発の銃声が鳴り響く。 立ち止まらぬハデスの頭めがけて解き放たれた六つの光の矢。その輝きに身じろぐことひとつないハデスの突進。
ふたつの輝く気流は見事にぶつかり、勝敗は刹那よりも早く決まった。操の――負け! 土石流のようなハデスの瞬きが操を包むっ。
「きゃああああ〜〜!!」
光の玉が肥大しながら周囲の情景と共に操の悲鳴を飲み込む。道路が割れ、砕けたコンクリートが舞い上がり次々に塵と化す。光はハデスを中心に飛散すると、轟きを引きずり出した。
破壊神を賛美するように瓦礫がぶつかり合い激しい音色を奏でる。地獄に音楽があるならば、まさにこのようなものであろう。
やがて音が消えると、あれ荒んだ土煙がゆっくりとたち、大地を舐めながら四方へと吸い込まれていった。
惨劇の後には終焉が静かに横たわる。
ハデスに噛みついた者の姿はどこにもなかった。そればかりか、高速道路を覆っていた灰色の鎧は円を描きながらひしゃげており、中央にはハデスがただ一匹佇むだけであった。
ミサイルか隕石でも落下したのではないか、そう思う者がいてもおかしくはない情景。爆風から難を逃れたヘリコプターの操縦士は、その凄惨な光景を目の当たりにし、生唾を飲んだ。
数分の時をかけ、風が分厚い瀑煙を押し流した時に現れたのは、クレーターのような穴をポッカリとあけた高速道だ。そして円の真ん中にはあのハデスがいる。
「っく、ミス猛牛も例の禿げ痔ろうも殺されちまったのか……」
震える手で操縦桿を握り締めながら操縦士はぼやいた。絶望が彼のこめかみをツゥっと流れていく。それが顎まで滴ろうとする最中、彼の目が瞬時に見開かれた。
「生きてやがった!」
目の覚める青を切り裂いて旋回するヘリコプター。照りつける太陽は陽炎を弄ぶ。乾燥し、土臭さをばら撒く大地に、ぽつんと彼らはいた。
努礼は、ボロボロに衣服を切り裂かれながらも、確かに生きていた。操を庇うように抱きしめるその姿は擦り切れた布のよう。
「んっ……」
努礼の腕の中で気絶していた操が、ふいに眉毛をねじ曲げた。
「努……、うぅっ!」
「動かなくていい」
重み思った優しい呟き。
「ごめんなさい努礼。私は無謀な攻撃であなたを巻き込んでしまった……」
申し訳なさげにしな垂れる操をしっかりと抱き寄せ、
「いいんだ。操はこのままここで待っていろ」と返す。
努礼は顔をあげた。睫毛の檻の先に、王者は堂々と大地を踏みしめている。敵を失いがらんどうになったリングの中で、ハデスは悠々と努礼たちを見つめていた。勝者が敗者に抱く哀れみがそこにある。
笑わせてくれる。
意識を朦朧とさせる操の体をそっと地面に横たえると、闘牛士はふらつきながらも腰をあげた。操は空を掻くことしかできない細指を彼の背に向ける。
「努礼……?」
「操、謝るな。謝らなければならないのは俺の方だ」
遙か遠く果てのない天空に視線を投げやると、努礼は唇を震わせた。
「怖じ気づき、戦いを放棄するところだった。お前が来てくれなかったら、尻をまくって逃げていたよ。あの日と同じように」
「努礼……」
「ありがとう、操。俺は気づいたよ。やはりお前は良い……嫁になるだろうな」
操はハッとして体を起こそうとし、苦痛でくず折れた。
「努礼。だめ、行かないで。ハデスには敵わない。お願い……武器もないのに」
操の懸命な懇願を、だが努礼はその逞しい背中で拒絶する。
「大丈夫だ操。武器ならある。お前との愛と、それとーー」
右手を横に伸ばす努礼。その拳が緩まれて、するりと何かが身をしならせる。薄地で赤く、僅かに光を反射するシルクで出来た……。操は、自身の股の間を清清しい風が吹き抜けていくのを感じた。
「こい、破壊神よ! 俺はまだ−−闘える!」
努礼はパンティを握り締めながらクレーターの中へと飛び込んだ。
深さは三メートル弱、直径は五十メートルといったところか。衝撃波で引き裂かれた高速道は、ハデスを努礼をぽっかりと納めながら天にその大口を開く。雲ひとつない青空に、闘牛士の握る赤が映える。
ハデスは努礼、そしてその赤を目に入れると、静かに熱く息を吐いた。
「オウゴンノタレ……」
「ゴマミソフーミ」
「コイメアジツケ……」
一人と一匹は対面しながら呟き会う。まるで長い月日をえて邂逅した者達のように。
実際、そのように一人と一匹は感じあっていた。
無限の宇宙に生を受け、人生という大海原に投げ出され、悠久の彼方を彷徨い、彼らは出会ったのだ。彼らは交える瞳と瞳で、それを認め合った。
すなわち、好敵手<ライバル>!!
「シオアジモアルヨ……」
強靭な肺から猛烈な鼻息を噴出すると、ハデスは自身を渦巻くエナジーを一転に集めだした。心臓がドクドクと高鳴り、熱い血潮がハイウェイのように破壊神の体を駆け巡る。やがて流れは末端へと末端へと集められ。
ハデスの後ろ足が、ぶくぶくと膨らみ始める。隆起する血管は太く脈打ち、太縄を髣髴させる筋肉が更に熱を帯びる。力は漲り、今、爆発する。
「オイシイカラネ!」
横たわっていた背骨がミチミチと音をたてて持ち上がる。凛々しい牛面が天空へと伸びる。北斗真拳の使い手を思わせる鍛えられた胸筋、腹筋があらわになる。
ハデスは、二本足で立ち上がっていた。
「ふん、今までは遊びだったっていうのか。いいだろう」
努礼はいきり立ったハデスに冷静に言い放つと、ムレタを構えた。汚れきったカポテに身を包み、デレチャソ(右手でムレタをもつ)を行う。闘牛士に相応しい挑戦的な瞳で。
「受けてたつ!」
空風が一人と一匹を駆け抜け、天へ昇る。一人と一匹は睨み合ったまま動かない。お互いの殺気に動けないのだ。
(シルブプレ……)
(隙がない……)
と思ってか思わずか、空気だけが張り詰めていく。ふたつの魂から生まれる闘争心に、世界が悲鳴のような金切り声をあげる。
操はヘリコプターに救助され、祈るように手を組み、その様子を見守っていた。
「くそ、計器がいかれそうだぜ……!」
操縦席の舌打ち。圧倒的な闘争の波動が大気を震わせ、ヘリコプターを地の底に沈ませようとその触手を絡める。
「もう少し踏ん張ってちょうだい。私は彼らを見届けたいの」
「それにしても、スゴい戦いだぜ」
操は相槌ち、再び地上の穴を見下ろした。
努礼とハデスは、未だにらみ合い対立している。ピクリとも動かないが、そこには密かな凄まじい戦いがある。精神世界の戦い。魂と魂のせめぎあい、心をカンナで削りあう戦い。
赤く燃える精神世界はやがて浮上し、肉体と同調する……。
努礼は、口火を切った。
「勝負だ」
それを合図にハデスは攻撃態勢に入り、一気に走り出した!
パンティ、いやムレタを構えながら努礼は黙視不可能な速さのハデスを心の目で捕らえる。
風が滑空する。
竜巻がハデスを包む。
やがて努礼を包み、クレーターを満たす。
爆裂。
粉塵がはためき、高速道を飲み込まんと四方へと伸びる。
コンクリートは薄皮のように剥がれ空を踊る。
穴に集約されたエネルギーが堰を切ったように天空へと飛翔する!
「努礼ーー!!」
操は肉体が許す限りの叫びをあげた。だが叫びは全てを破壊する音に、土煙に、造作なく飲み込まれる。
終焉が羽根を下ろし、なにもかもを包んでゆく。
吹き荒れる風は空へと逃げてゆき、後には紺碧と、世界樹のごとき一本のキノコ雲を残すだけであった。
静寂の中に視線を感じて、努礼は目を覚ました。
「起こしてしまったわね」
大輪の花を小脇に、操が微笑んでいた。見舞いのようだ。
「いや、いいんだ。薬のせいで眠りすぎているくらいだからな」
努礼はドーナッツ型座布団を引き寄せると、横たわりながら尻に敷き、ベッドサイドのボタンを押した。きりきりと子供の歯ぎしりのような音を立ててベットが持ち上がる。
「経過は順調?」
「お陰様でな。アレを切って細胞を埋めると聞いた時は卒倒しそうになったが」
「そう。早く歩けるようになると良いわね」
操は花瓶に花を生け終わると、椅子に腰掛けた。
「良い部屋ね」
「全くだ。国の財政は圧迫してると聞いていたが、掘り出すと金というのはいくらでもあるもんなんだな。まぁ、肉が売れているというのもあるんだろうが」
「ねぇ、努礼」
努礼の言葉を塞ぐように操は言葉をついた。
「なんだ操」
「……例の約束のことなんだけど」
例の約束、という言葉に、努礼はハッと赤面した。
ハデスに勝ったら操を妻にする、そのような約束を努礼は交わしていた。
努礼はまじまじと操を見つめた。整った顔立ちは美しさに無邪気さもあわせもち、ぴっちりとしたスーツに包まれた体は、スレンダーなだけでなく、豊かな胸をも静かに主張している。
生唾ゴックン。
しかしそれは、困窮する操につけ込み、交わした約束だ。
しかも努礼は、破壊してはならないとされていた高速道を破壊してしまったのだ(主にハデスのせいだけど)。自衛隊が爆撃しなくて済んだから、という微妙なお情けで尻の手術を受けさせて貰った身である。
それよりなにより。
「操の気持ちはどうなんだ」
勢いに任せて結んだ約束。しかも交際期間ゼロ日。そして禿げ無職痔持ち(痔は治ったけど)。
そんな約束、良く思っていないに決まっている。
努礼の案の定、操は切なげに俯き、気まずそうにもぞもぞと腰を動かしている。断るのにあぐねているようだ。
「……そうか、気にするな。あの時の俺は少し変だったからな。痔は治ったし、感謝してるからな」
涙目を隠しつつ、努礼は頭を下げる。内心へこみつつ。
と、突然、操が立ち上がった。
「違うわよ」
その言葉に、努礼は頭をあげた。そして操の手から垂れ下がるものに目を見開く。
左手にムレタを持ち構えることを、ナツラルという。操は赤いムレタでナツラルを作り、頬を紅潮しながら言った。
「どう、かしら?」
扇状的な三角形と逆三角形の赤。ひらひらと舞う四本の紐。
禁断の、深紅。
伝説の闘牛士、得留股努礼はそののち、こんな言葉を残したという。
「人は時に、牛となる。」
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