暗がりの秘蜜(恋愛)
「台風直撃だな」
今朝から強風が吹いている。玉の形まで見えそうな雨粒が絡み合って、滝のように構内を叩いているのを、貴方は溜息混じりに眺めていた。部屋は温く湿っていて、とても不快そうに息を吐くと窓に白い跡が残る。そこに貴方は額をくっつけて、ちべたい、と笑う。
「仕事も一段落着いたし、帰ろうか?」
貴方がそう持ちかけると、彼女は大きく背伸びをして、それからプリントやらなにやらを鞄に押し入れた。傘を持つ。
「あ、送るよ」
「え?」
彼女が素っ頓狂な声をあげるのを、貴方は外に顎をしゃくり、
「台風が押しかけてるのに傘さして外歩いたら、メリーポピンズみたいに飛んでくんだぞ」
「なんです、それ?」
「知らない? こういうの」
風に翻弄される人の物まねをしてから(だけどどうしてそんなにヘンテコなの?)、貴方は車のキーを握った。
「駐車場から車持ってくる。正門で待ってて」
駆け出す貴方を見送って、彼女は小さく微笑むと、その背中を追ってとぼとぼ歩き出した。と、その前に、貴方が忘れていった貴方の鞄も持っていく。
貴方と彼女はそうして車に乗り込んだ。フロントガラスにバタバタと雨が落ちてきて、ワイパーをいくら動かしても視界が悪い。空気もくぐもっているような気がする。その方が良いのかもしれない。色んな要素で隠れてしまった方が良いのかもしれない。
男女二人が隣り合って車に乗るというのは、貴方は気にしていないようだが、いささか都合が悪い。恋人同士に見えてしまうから。貴方には、都合が悪い。
と、貴方が急ブレーキを踏んだ。彼女の体が反動で前のめりになってしまうのを片手で守りながら、あっぶな、と小さく毒づく。視界が不明瞭で分からなかったが、レインコートに身を包んだ警察官が貴方の車を停止させようと飛び出してきたようだ。
警察官が何か言っている。貴方は窓を小さく開けた。
「こっから先、駄目ですよ。川が氾濫してね、通行止めしてて橋通れないの!」
「ええ!」
彼女が思わず声をあげた。何故なら彼女の住むアパートには、橋を通らなければ帰ることが出来ないからだ。しぶしぶ貴方は車をUターンさせると、迷いがちに車を走らせた。
「どうしよう……」
真剣に困った様子で、彼女は俯く。台風は深夜にかけて街を横断する。だから、橋を渡れるようになるのは明日か、もしかしたら明後日になるかもしれない。それなのにあまりお金を持っていなかった。
「ごめんな」
貴方は何故か、謝った。
「俺が大学祭の経理手伝ってなんて無理行ったから」
「そんなことないですよ! みんな先輩に仕事を押し付けるから……」
しどろもどろになる、彼女。雨音がとてもうるさくて。
だから最初、貴方が言い出したことがちゃんと聞こえなかった。
「とりあえず、俺んちで避難だなぁ」
白熱灯に煌煌と照らされた貴方の部屋は、貴方の分身のような部屋だった。
クラシックが好きで、音楽の授業でも聞いたことがない横文字のついたCDがラックを埋め尽くしていて、そのくせ子供っぽい、ETやジュラシックパークのポスターや誰からか貰った土産の提灯がぶら下がっている。ワンルームを丸ごとおもちゃ箱にしてる。
そして貴方の匂いに満ちていた。恋人からのプレゼントの、シトラスの香り。
「あんまりそんなに見ないで」
貴方は照れくさそうに頭をかくと、ピンク色の座布団を差し出した。そして自分はフローリングに直接座る。激しい雨の中を抜けたせいか、彼の髪がしっとりとぬれて、前髪から水の滴が流れる。
「先輩、体拭いたほうが良いですよ。風邪ひく」
「あーうん、じゃ、お言葉に甘えて、適当に暇つぶしてて。テレビ見てて良いよ」
立ち上がると貴方は、そそくさと玄関のほうへ引っ込んだ。そっちにバスルームがあるらしかった。
彼女はなるべく貴方の部屋の面積を取ってしまわないよう縮こまりながら、今度はおもちゃ箱の、細かい部分をなんとなく見やった。よくよく見やると、そこにあるのは貴方の趣味だけではなかった。
女の子が好みそうなぬいぐるみや、恋愛映画のDVDがこっそりと彼女を見つめ返していた。可愛らしく純粋で、なんの翳りも無い真っ直ぐな愛情が、とてもにこやかに彼女を“監視”している。彼女は胸を押さえて、辛そうに時を過ごす。
どれくらい経ったのだろう。ようやく貴方が戻ってきて、彼女はほっと胸を撫で下ろした(少し困りながら)。
雨を拭うついでに着替えたらしい貴方は「遠慮しないでさ、テレビつけて良いって言ったのに」と笑うと、テーブルの上に転がったリモコンを手に取った。ボタンを押す。
その瞬間、驚いたことに真っ暗になった。
「きゃあっ」
彼女が小さく悲鳴をあげる。
「あ、ブレーカー落ちた? おっかしいなぁ」
貴方は落ち着いた様子でトボトボとどこかへ行くと、また戻ってきた。手には懐中電灯を握り。
「ブレーカーは大丈夫だった。外、見てくれる?」
彼女がカーテンを開ける。外は真っ暗で、明かりひとつついていなかった。雨が穿つ暗闇の中を、ぶぅんと走る車だけが、亡霊のように横切る。
「停電だ」
貴方はわくわくしたような声色を放つと窓に近づき、停電だ、ともう一度言った。
「あの!」
ふいに彼女が立ち上がる。
「私帰ります」
「台風だよ」
「でも」
「外は危ないって、あ。」
貴方はやっとその考えに到ったのか、気まずそうに頭を掻いた。懐中電灯の光だけが頼りの世界で、貴方の輪郭がくっきりと浮かび上がる(とても高名な彫刻家が作ったように綺麗)。
「あー、うん、俺絶対そういうことしないから。彼女いるし。外よりはその……危険ではないと思います」
もごもごと言いにくそうに言いきった、貴方。彼女はじっと、貴方を仰視する。
「分かってます、よ?」
「うん。そうだね。うん。でもそっちの気持ちが大事だろ」
「彼女さんは?」
「なんだそっちの心配か! そういうのはちゃんと分かってくれる彼女です。もう二年も付き合ってますし。全然。ご安心を」
「そうですか……」
「そうです……」
頼りない懐中電灯が光の玉を描き、ゆらゆらと不安定に揺れる。その揺れと一緒に、暗闇と緊張と沈黙とが、軋んでいる。
「DVDでも観る?」
「停電ですよ……」
明るい切り替えしに現実が邪魔をして、とりあえず貴方は座った。
「停電だね……」
会話が、とまる。
雨が降っている。激しい雨が、誰かを叱責しているように強く、この街を叩いている。
遠くから、ゴー、ゴーと水流が絡み合う音が聞こえてくる。アスファルトのせいで逃れられない大量の雨水が下水道へ流れ込んでいく音。早く早くと互いを急き立てるように、どんどんどんどん地下へと、更なる底へと逃げようとする音。
彼女は思う。もし下水道が水でいっぱいになってしまったら、溢れた水はどこへ行けばいいんだろう、と。
池だろうか。川だろうか。それとも海だろうか。
呼吸がくすぶっている。
海がいっぱいになったら。飽和状態で、どんどん溢れて、これ以上この星が抱えきれなくなったら(おかしい、下らないこと)。
非現実な現実だ。有り得ないこと。在ってはならないこと。
海にも行けず、川にも行けず、池にも行けず、深淵から噴出してしまうこと。
呼吸がぐずついてしまうこと。
「雨」
「ん?」
「雨は好きですか、先輩は」
「どうだろう」
「私は嫌いです。いっぱい降ると、迷惑かかるから」
「うん」
「人に迷惑かかるから」
「そうだね、停電とかね」
「嫌いです」
「うん」
「嫌い」
「うん、だけどね、そんなに責めることないよ」
貴方はずいぶんとはっきりと、彼女に言った。あまりにもはっきりと言うものだから彼女は、いつものように素っ頓狂な声をあげてしまった。
「いつか忘れちゃうよ」
その言葉で、停電よりも暗く何か大きな電球が切れた。
貴方は眉間に皺を寄せ、口元を押さえ、ひたすら申し訳なさそうにじっと、窓の外を見てる。きっと、貴方の体には苦いものが巡ってる。とてもとても、苦くてたまらないものが。それに耐えてる。
「いつからですか」
彼女は問いかける。
「いつから気付いていたんですか?」
彼女は問いかける。
「最初から」
彼は答える。
「最初から気付いてるよ、その、会ってしばらく経った頃から」
彼は答え続ける。
「ごめん。変なところで鋭い、俺。っていうか、なんだろう。なんだろうなぁ……?」
外は雨が、止まることを知らない(我侭な私は何処へ行けば良い?)。貴方は重たくのしかかる雨から逃げるように、懐中電灯をテーブルに置いた。彼女との距離が少し広がる。偶然を装うように。さらに体勢が崩され、一気に遠くなる。
それが彼女には堪らなく苦しくて、酸素を求める金魚のように自然と、彼の服の袖を掴んでいた(本当は焦ってない、嬉しいんでしょう)。
貴方が、振り向く。
困っているのか、後悔しているのか、暗く閉ざされてしまっていて誰にも分からなかった(分からなくて良かった)。
懐中電灯は角度のせいでそっぽを向いて、別段照らさなくてもよい場所を照らしている。そのせいで彼の趣味も、あの人の残した趣味も、彼女を責めるものは何もないような気がした。
ただひとつ雨音だけが、彼女に囁き続ける。逃げるな、と。また後悔したいのか、と。
( )をした。
だから彼女は( )をした。
そして驚くことに、貴方は拒むことなくそれを受け止めた。
撥ねつけられるだろうと思い込んでいた彼女は狼狽し、だがこれ以上のことはないだろうという期待と欲望には逃れられず、遠慮がちなそれを積極的にした。体を近づけ、密着させ、更に深くした。それに応じるように、貴方は彼女の体を抱き寄せると角度を変えて、より味わえる位置を選ぶ。
貴方は柔らかな唇を僅かに開くと、彼女へと進入する。こんなにも貴方が行動するとは思わなかった。信じられなくて夢のようで、怖くて震える。あまりのことに畏怖が彼女の舌から生まれる。貴方が肩に手を置けば、彼女が腕を伸ばせば、きっとこの黒い感情から解放されるだろう。何もなかったかのように距離を置き、何もなく朝を迎えれば良い。
分かっていた。分かっていたのだが、彼女は衣服を掴む指先に力をこめた。
貴方に縋る。
薄い布の下にある互いの弾力が温もりを灯らせて侵食しあう。それだけでは足らず、彼女は貴方の首筋を少しだけ舐めた。彼もまた一緒に踊るように合わせて、彼女の鎖骨に唇を落としていく。
くすぐったくて、(泣きそうだった)。
翌朝、台風の過ぎ去った街は群青色の空から注がれる朝日の中で眩く輝いていた。まるで百年以上雨なんか知らないといった風に晴れている、けれど路上にはちゃんと台風の残骸らしきものが落ちていて、嘘ではなかったことを彼女は思い知り、少しだけ安心した。
路頭に迷ってへばりこむペットボトルやゴミ袋。迷子になった彼らを置き去りに、車はひた走る。橋は無事に開通していたので、そのまま通り過ぎる。川の水は濁っている。ぼんやりとそれらを眺めていると、なんでか耐えられなくって貴方を見た。
気だるい彼女の体は、すっかり助手席に沈んでいる。それなのに、運転席の貴方はというと、姿勢良くハンドルを握っていた。
学校を出て十数時間。ようやく、彼女のアパートに着いた。彼女は鞄を肩にかけて扉を開けると、車から出る。
「あの、ありがとうございました」
「ううん。どういたしまして」
いつもと変わらない礼を酌み交わして、彼女はアパートへと進む。貴方は車のサイドブレーキをきっと動かしている。女とは違う、少しだけ太い指先で、遠くへ行こうとする。
「先輩!」
彼女は大きな声で踵を返した。車に走りよって、窓に手を置く。その姿に貴方は辛そうな表情をする。とても苦しそうに。
「何も、なかった」
やけに鮮明に貴方の声は世界を貫いた。
「何もなかったんだよ」
雨も闇も遮るものも隠すものもなく、貴方の意思だけが彼女を刺した。いや、意思以外にももうひとつあった。
笑顔。
後悔も罪悪も嫉妬も懇願も全てを無意味なものに変えてしまう極上の笑顔。彼女が好きになった笑顔が、そこにあった。
その意味を汲み取れない彼女ではない。
「さようなら」
貴方が言ったのか、彼女が言ったのか、誰も言わなかったのか、その言葉が静かに響き、浸透し、彼女を置き去りにして、車が光の中へ消えていく。それを見送ると彼女は、再びアパートへと向かった。
下半身が疼き、下着が少し濡れている気がする。それでもそこに意味はなく、彼女はまた自分の定位置へと帰るのだ。何もなかった、ただ恋をしただけだ。そしてそれが、片思いというだけのこと。ただそういう、決まりがあっただけなのだ。
(忘れちゃうよ)
彼女は呪文のように呟き、失笑し、先を考える。未来のこと。考えうる明日のこと。何もかも予測できてしまう次の瞬間のこと。
置いてきた傘もきっと、迷子だろう、と。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。