グマの旅立ち(ファンタジー)
世界には四つの季節がある。
夏、秋、冬、春。
世界の根元であるユミルの死から幾度目になるか分からない春が、
――もしかしたら永遠と同じ数かもしれない春が――、
アナスタシア・グマ、いいや、この物語ではグマと語ろう。彼の世界ミドガルにやってきた。
グマの国には旅の慣習がある。春に旅立ち、世界を巡り、冬の終わりに帰る。
それは他国でいう成人の儀式の役割を持っており、多くの者が従する。グマも当然、十二の春に旅立つことになっていた。
「グマ、足を出しなさい」
母に言われ、グマはそろりと足を差し出す。部屋にひとつしかないランタンからこぼれる僅かな明かり。
それたよりにグマの母はグマの足をとると、しんけんな瞳で棒をあてた。大きさに添って棒に傷をつける。
「お姉ちゃんより小さいのね、グマは」
ため息まじりに測りをおえる母に、グマはつぶやく。
「大丈夫だよ。帰ってくる時には、もう少し大きくなってる」
「そうね、そのとおりだわ。靴は大きなものにしましょう」
グマの母は棒の傷にバッテンを入れ、再び傷を刻んだ。グマの足より少し、大きい。
「アナスタシア・グマのライムよりカルマの棒を与える。祭壇に赴き、人間の門を叩け」
母が言葉をつむぎ、グマに棒を手渡す。カルマの棒を握ると、グマは肯き、床に置いていた背負袋を肩にかけた。ランタンも手にとる。
「行ってきます。大いなるライム」
母の額にくちづけると、グマは走り出した。
外にでると、ランタンとカルマの棒を手にした子どもたちであふれかえっていた。みな、グマと同じく十二歳だ。
少しだけ、たじろぐ。グマの村は小さく、グマと同じ年齢の子どもはいない。同い年の子どもが列をつくり祭壇へ続く道を上っていくのは圧巻だった。 首都の中央には山があり、そのさらに中央に祭壇はある。そこにみな、向かっている。
都はランタンの明かりだけを残し、暗闇に染まっていた。天空から見上げれば、この光景はきっと、溶岩流の輝きに似ているだろう。もしかしたら燃える巨大なコスモスのように見えるかもしれない。
空には星が瞬く。息は白くならないもの風はまだ冷たく、唇はカサカサと震えている。裸の足は血がかようのをやめてしまったように感覚がない。だが体は、不思議と熱い……。
グマもまた列に加わると、祭壇へと歩きだした。
数刻の時間をグマは待った。石畳の上で、足をゆったりと進める。冷気の棘にむしばまれた素足にはもう感覚はなかった。試練はもう始まっているのかもしれない、とグマは思う。
旅立ちのとき、若者たちは足の大きさを記した成長の証であるカルマの棒を神官に渡し、神官はカルマの棒を受け取るかわりに靴を下す。それまで子どもは靴を履いてはならない。旅を拒否した者に到っては、永遠に履くのを許されない。
靴を履かぬからといって卑下されることはないが、国の許可なしでは各人の村を出てはいけないこととなっている。だからグマの母親は、首都に二度しか着たことがない。
道は終わる。どのような冷たい石畳の先にも、神託は存在する。グマの先に立っていた若者が、静かな靴音を響かせて階段を下りていった。
神官が、カルマの棒に刻まれた名を読み上げる。
「アナスタシア・グマよ。ライムにアナスタシアをもつカルマよ」
神の秩序に人間味を奪われた声が木霊する。グマは祭壇の僅かな階段を登ると、神官の前にひざまずいた。神官の肌に深く彫りつけられた皺が、ランタンの灯火により浮かび上がる。
「グマよ、すべての人のライムでありビルガ、流転の神ドラシルの神託において、四十八の季節に立つ者よ。靴を求めるか」
「求める」
グマは応えると、神官にカルマの棒を託した。微笑むことなく神官はカルマの棒を見やると、グマの素足に目を落とす。
「カルマが大きすぎるのではないか」
神官の質問にグマは動揺した。なぜなら先ほどまで質問を下される若者はいなかったからだ。周囲にも、張り詰めた緊張が広がる。グマは慎重に言の葉を選んだ。
「そのカルマは母の幸魂を託されております。未来を見据えるカルマなのです」
神官は無言のままにカルマの棒を撫でた。白髪のまじった長いまつげが闇に溶けることなく光る。
「では、アナスタシア・グマよ」
「はい」
「父をどのように思うか」
瞬間、グマはすべてを悟った。神官はグマの旅を危惧しているのだ。
「グマよ、人は必ず旅をする。靴を履かなくとも見知らぬ大地を蹴らずとも旅をする。季節、つまりクロノスだ。人はクロノスにあらがい、己の場所を見つけなければならない。だからお前の父は逃げたのだ」
グマの中に父の記憶はない。グマの母がグマを妊娠したとき、その母と幼いグマの姉を残して父は消えた。
「お前の父は干ばつという夏のクロノスに絶望し、お前たちを守ることを拒絶した。守るべき者を守らなかった。だから旅に出た。逆に靴を履かぬ母がお前たちを守ったのだ。旅は弱い者の道だ」
グマは沈黙のまま神官を見上げた。神官に父を糾弾する影はみえない。神官は純粋にたずねているのだ。そう、このように。
「なぜ、旅を求める」
静まり返ったミドガルは、小さなグマを見下ろす。針のような視線を感じながら、グマは思った。姉もこのような質問をされたのだろうか。旅から帰り、すぐに家庭を作って畑を耕しだした姉の姿をグマは夢想した。
だがグマはけして姉ではないのだ。姉の後をただ追っても、それは影にすぎない。所詮は暗闇のしもべである。
グマはグマの答えを出さなければならない。
「私は、私は……」
グマは思案し、自身の魂の叫びを探した。だが驚くことに、どれほど体の内壁をまさぐっても叫びの尾にふれることができない。グマの手をするりと抜けて、どこかへ行ってしまうのだ。
かわりに、母や姉の顔が浮かぶ。グマに期待を寄せる顔、期待に応えられぬグマへ与えられるくちおしい顔……。
ああ。そうか。
唐突にグマは気づいた。グマは間違っていた。求める理由など、そこにはないのだ。グマの中に答えは、存在しないのだ。
「神官様。私の願いは母と姉の幸福です。私自身は旅を求めていないのです。神官様、すべては母と姉のためです。旅を求めているのは母と姉なのです」
神官はそれを聞くと、グマのカルマの棒を使いに差し出した。使いはカルマの棒を持ち一端さがると、再び戻ってきた。その手に靴を抱えて。
「神官様!」
グマは悲鳴をあげた。求めていない旅が下されるというのか。
しかしグマの哀訴もむなしく、大人たちはグマを抱えあげ、その冷たい足に靴を履かせる。大きすぎる靴はグマの足を難なく包み込んだ。
「良い旅を。グラシルの導きを」
グマの目の前で神官は祈りを捧げる……。グマは絶望しながら、それを受け入れた。
グマの頬を涙の滴が一筋流れる。初めて履いた靴はグマを容赦なく不快で包む。
ぼうぜんとしながらもグマは、慣れない靴に絡みそうな足を動かして階段を降りた。
と、背後から神官の声がグマの首根をついばんだ。
「ランタンを忘れておる」
そして驚くことに神官はランタンを手にして階段を降りると、グマの前にひざまずき彼の頬の涙を拭った。
「グマよ。よく聞きなさい」
グマは神官の黒目に映る自身を見つめた。漆黒の鏡に映った自分をみて、グマは子どもだと思う。
「アナスタシア・グマよ。人は時に、自身の求める理由なく旅にでる。そんなとき人は、見えぬ未来に困惑するかもしれない」
瞳の中のグマの頬を撫でる枯れた指先が頭に移行する。
「だがグマよ。旅はそのような者にも答えを与えてくれる。なぜなら困惑の中に迷いがあり、迷いの中に求める心があるからだ。求める限り、ミドガルはお前にウルドを与えてくれる」
ウルドとは、すなわち、運命。
「自身のウルドを探しなさい。旅の扉は開かれたのだ。お前は旅人なのだよ、グマよ」
神官の暖かい微熱が、老いた手から、グマの髪へ、頭皮へ、頭蓋の中へと滲んでゆく。
「そのためにランタンを忘れてはいけないよ。闇でも歩けるが、灯火があればもっと歩けるからな」
グマの視界が揺れて霞む。いつの間にかグマは、号泣していた。
「はい。僕は、僕は歩きます……」
神官の手が伸びて、グマの目の前にランタンが差し出される。淡い光は消え去りそうで、だが確かに燃えていた。
グマは神官の手を覆うようにランタンを掴むと、強く強く握りしめる。そして呟いた。
「僕は、求める」
こうして、グマの旅は始まりを告げた。
ミドガル包み込む四つのクロノス。そのひとつ春がグマの旅立ちを見下ろしている。
やがて朝日がのぼり闇が去り、グマは首都を背にするだろう。夏の物語の先へと、靴を動かす。
輝く山稜の向こうは、また別の話。
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