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  過去作品集 作者:雪芳
聖域(文学)
 娘は今日で27になった。

 私は彼女の髪を丁寧に鋤くと、右耳の僅か上にピンをさしこんだ。娘のお気に入りの、小さな黄色い花が笑うピンは、彼女の柔かい栗色の髪によく似合う。

 よく似合っていて可愛いよ。

 そう言葉にするより先に、娘の額にキスをする。
 すると、女性にしては少し痩せぎすな彼女の頬に、乙女の朱色が差しこんだ。照れ屋な彼女は、深く瞑った長い睫や薔薇色の月のような唇さえも微動させることなく、笑みを浮かべる。これ以上に可憐な表情を私は知らない。
 もう二年近く寝たきりの彼女は、だが、まるで先ほどまで緑の息吹が深遠な野山で、花と共に踊っていたかのように生き生きとしている。心は無垢な少女のまま、白いネグリジェの胸元を風に遊ばせるその姿に、私はただただ愛しさを感じるのだった。

 と、そこまで夢想していると、私の鼓膜を震わすものがあった。目線をずらすと、いつもの白衣が病室の扉をノックしているのが解った。
「お取り替えの時間です」
 白衣は柔らかにお辞儀をすると、糸のような体を病室へとのばす。いつもはその優美で事務的な動作を横でみやるだけの私だが、今日は止めに入らねばならない。

「すみませんが、今日は私にやらせていただけませんか」

 私の言葉に動きが止まる。白衣は、怪訝そうな顔を私に向けると、どうしてですか、と問うた。私は語るべきか迷い、明確な答えを出せないことに気付いた。
「今日は娘の誕生日なんです」

 なんと曖昧な返しだろう。それでも、聡明な白衣には私の気持ちが通じたらしい。白衣は私に白いかばんを差し出すと、よろしくお願いします、と言って踵を反した。
 私は感謝を告げると、白衣が廊下に出たのを認めてから病室の扉に鍵をかけた。誰も入れないように。そして全てから遮断するために、カーテンに向かった。
 窓は、蒼さが深く沈んだ晴れやかな空を切り取り、少量の雲を浮かべていた。雲は淡い水色と重なりあい、風にゆっくりと押しやられてゆく。口元が感嘆で緩んだが、私は構わずカーテンを深く閉じた。アルミニウムの摩擦音が冷たく響き、私と娘はようやく世界から切り放された。

 作業へと頭を切り替える。
 シーツと同じ木地で作られた白いかばんは、するりと指を滑る。私は中から、一枚のおむつを取り出すと、娘の横顔をみやった。
「今から換えるからね」
 少し緊張しているのは、私も彼女も同じことのようだ。だが所詮、頭を白くして事務的に行えばよいこと。
 娘のネグリジェを臍までたくしあげた。真新しいおむつを開いておき、娘のおむつを押さえているシールを丁寧に接がす。そして痛みを与えないよう、ゆっくりとずらし始めた。
 そこで私の胸は、予想以上に悲鳴をあげた。
 娘のおむつには、彼女の尿、便の他に月経の血まで付いていたのだ。

 私は娘の白い太股を撫でた。その皮膚の下からは、空よりも青い血管が見える。その血流は存在し、強く脈打ちながら心の臓を揺らしている。娘の生きる証は娘そのものに存在し、確かに今、彼女は生きている。
 私は、娘の汚れている部分をウェットティッシュで綺麗に拭いてから、おむつを早々に換えると、ネグリジェをもとにもどし、布団をかけ直した。

「終ったよ、スッキリしたね」
 そう娘に声をかけて、か細い手を握る。

 なんて温かいのだろう、なんて柔かいのだろう。
 私の、皺と染みだらけの骨張った男の手とは違う、生命力の満ち溢れたその手。若葉のように芯の強い、流線型を描いたその手。たった一人、この世でたった一人の肉親の。

 不幸な事故により、娘の脳が死んでしまってから、もう二年が経とうとしている。

 生活はけして楽ではない。
 憐れみの目を向けられているのも知っている。
 娘の臓器が誰かの命を救うかもしれないことは百も承知だ。

 けれど私は、娘の手を握り続ける。一握の希望にすがり、醜くとも生きてゆく。この年老いた手を娘の手に重ねて。

 私はこの手を握るためだけに、生きているのだ。


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