異邦人(歴史)
今から六十年も前のことです。母国より遥か遠い熱帯の島で、彼等は戦っていました。
彼等は敵国を相手にゲリラ戦法を行っていましたが、圧倒的な軍事力の下に、一人また一人と無念にも倒れていきました。戦いは更に激化、何年も何十年も続きました。そう、戦争が終っても……。
彼等の中で最後に残った彼。彼は既に、数十年以上戦いを続けていました。
激闘の末、土地を勝ち取ったのか、敵兵の姿はもう十数年も前に見当たらなくなっていました。たまに対峙する人間も皆、原住民だけでした。
ですが、敵兵がいつ戻ってくるか分かりません。安心は出来ません。ふいに戻ってきた敵兵に撃たれてしまったら、死んでしまった戦友の屍を無意味にしてしまいます。彼は僅かに玉の残った銃を両手に抱え、静かに潜伏していました。
ある日のことです。彼は奇妙なテントを見付けました。明らかに味方が立てたものでなければ、原住民のそれでもありません。敵兵が立てたものかもしれないテント。
よく観察しようと近寄った時、彼に緊張が走りました。背後から物音がしたのです。
瞬間的に銃を向けます。
と、そこには両手をあげた、彼と同じ国の人がいました。何十年ぶりに見た顔立ち。緊張は驚愕に変わりました。
しかしすぐに彼は気を引き締めました。もしかしたら、罠かもしれません。彼は引金に指をかけます。
すると、銃を向けられた男が、唇を震わせながら語り始めました。
「待って下さい! 私はあなたの国の記者です、あなたを探しに来たんです!」
意外な一言に心が揺らぎます。しかし彼の指は引金から離れません。でも次に発された言葉には、彼の指先は震えざるおえませんでした。
「戦争は終りました。もう何十年も前に、終ったんです」
大地に体が沈められたような衝撃が、彼の体を貫きました。あまりにも予想だにしていなかった、そして、あまりにも残酷な言葉でした。
重たく長い沈黙。それをゴクリと飲み込み、更に記者は痺れた舌を動かしました。恐怖のため、そして悲しみのために濡れた眼差しを彼に向けながら。
「我が国は、負けました」
瞬間、聞きたくなかった言葉が、彼の体の力を奪いました。まるで魂だけ浮いてしまったような脱力感が彼を抱き締め、地獄の底へ沈んでいくように思いました。
戦友たちの苦痛に満ちた表情が景色とともにグルグルと巡ります。銃で撃たれたもの、自分で腹に刃をさしたもの、病でやつれたもの、気がふれたもの。共に戦い、死んでしまった仲間たちの表情が。
そして彼は、告白に頭を割られた彼は、銃口を強く男に向け――、下ろしました。
激しい嗚咽を、強い眼力と逞しい喉仏で押し殺しながら、彼は銃をしまいました。世界のどれよりもくるおしい痛みに耐えながら、その視線の先に真実を見据えて。
真実。
それは、靴下でした。
日本の記者と名乗った男はサンダルに靴下を履いていました。サンダルに靴下を履く人種を、男はたったひとつ、たったひとつだけ、知っています。
茅葺き屋根の並ぶ寂しい家々、電車にぎゅうぎゅうと乗り込む人々、油臭い工場で汗を拭う少年少女、つぎはぎだらけの服にまたつぎはぎを足す母の手、その足を包む穴のあいた靴下。サンダル。
貧しく、ひもじい、だけども柔らかく温かいあの景色。その情景の一部の、なによりの証。
日本人、なのだ。
その時、彼の体をかけ巡った感情を、言葉に出来る小説家は、いません。
記者と名乗った男は、本当に記者でした。
彼は、戦争が終ったことを知らない日本兵が今も潜伏している、という情報を知り、半信半疑で取材に来たのでした。そして運命的に、彼に会ったのです。
戦後数十年、まだ日本兵は戦っていた――。
そんな衝撃的なニュースが日本を湧かせたと同時に、男は兵士から一般人へと返り、日本に戻ることになりました。
何十年も着た軍服を脱ぎ、政府から渡された着慣れないスーツに身を包み、彼は大歓声の中、日本の大地を踏みました。待ち望んだ帰国の末、彼が見たのは、想像を絶する異世界でした。
みな裕福な格好をし、健康な肌をしています。
街も美しく、天にも届きそうなビルジングが空から見下ろしています。
全く別の、日本でした。
記者たちが好奇心の目で彼を追い掛け、帰ってきた家には親しい笑顔が少なく、見知らぬ苦笑いが増えていました。
武器を、失い。
女性が惜しげもなく体を晒し、それを男たちが撫で回していました。恥ずかしいことを何の気兼もなくやり、当然の結果も当然と思いませんでした。
理性を、捨て去り。
挨拶をしてもいぶかしい目で見返され無視されました。それなのに外国人を見た途端、へこへこと嘘臭い笑みで頭を下げました。
気品を失った。
誰もが疲れるまで働き、みっともなくベンチに横たわる人がいました。守ってくれる祖父母も、優しく気遣ってくれる近所の者もおらず、公園で静かに泣く子がいました。
そして、金があるのに、なんて貧しい。
戦争は間違いになっていました。戦争は愚かなことだという教えがありました。
戦った者は無駄死にだと言われ、感謝をする者が殆んどいませんでした。
守ろうとしたものはどこにもありませんでした。
暫くして、彼の周囲を囲むざわめきが少なくなった頃、記者が彼の様子を見に来ました。彼はとても穏やかな様子で、記者を招きました。
そしていくつかのとりとめない言葉を組み交した後、何の前触れなく、彼は呟きました。
優しく、たおやかに。
記者と出会った頃とは、何かが違う瞳で。
「どうして私を見つけてしまったのですか」
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