ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  過去作品集 作者:雪芳
フラワー(文学)
 一人の一見ごく普通の格好の青年が、横断歩道に足を踏み入れた。流木のように、大きな人の波に押され、ふらふらと足を進める。
 顔色は優れず、背もどこか丸まっているような印象も受ける。まるで、この世の全てから自分を守っているようだ

 真夏の太陽の下、それは異質に見えた。しかし、彼のそんな姿に、人々は目もくれず黙々とアスファルトを蹴って歩いてゆく。彼と肩がぶつかっても、誰も気にしない。人間の世の、無関心の冷たさを絵に描くのなら、これが手っ取り早い情景のようにも思えた。有機的なのに、無機質な世界。その世界を、彼は彷徨う。

 ふと、今まで地面に幾度も叩きつけられ汚れていく自分の紅いスニーカーを見ていた彼の目玉が、別の方向を捉えた。
 視点が、ある一点に定まり、彼は漸く顔を上げた。何時間俯いていたのか、少し首が痛かった。
 手を首元に置くと、彼は自分が汗を掻いていたことに漠然と気付いた。
 汗を軽く拭って、彼は自分が眼に止めた場所へと足を向けた。信号機が赤く点滅し始めた為か、はたまた彼が早く辿り着きたいと思ったのか、歩調は確実に早まっていく。
 カラン、と軽い鈴の音を立てて、ガラス張りの自動ドアが開く。そこは、小奇麗な花屋だった。店内は明るく、暖房が効きすぎているというわけではなかったが、外よりは少し涼しかった。

「いらっしゃいませ」

 にこやかに、黄色いエプロンを付けた店員が青年に言った。そして、そのまま手に大事そうに持っていた花を床に置くと、じょうろで水をやり始めた。店員は、男だった。大学生くらいの、アルバイトだろうか?一見して、好青年だ

「あの・・・」
「はい?」

 青年の酷く緊張した声に、店員が首を傾げて反応を示した。青年が、途切れ途切れに、店員に言葉を吐き出していく。
「花を、入院している友人に贈りたいので、あの・・・どういった花が、見舞いには良いんでしょうか?」

 やっとの事で言った、という青年の態度は、まるで初めて者を買いにきた子供のようだ。店員は少し思考をめぐらすような表情をすると、言った。

「自分で決めてください。」
「はい?」

 全く予想外な店員の対応に、青年は無意識に他人の考えを疑うような声を出した。少しの批判が、混じっていたかもしれない。
 青年の態度に、何も感じなかったように、店員は続ける。

「花、まだ少しも見ていないじゃないですか。少し、見てみませんか。それとも、お急ぎですか?」
「いいえ・・・」
「じゃあ、是非見てまわってくださいね。」

 そう言うと、店員はさっさと奥へ引っ込んでしまった。
 店員の行動に、少し困惑しながらも、青年は店内を見回ることにした。別に、急いではいなかったから。むしろ、青年は正直見舞いに行きたくなかった。
 青年は、花の名前を詳しくは知らなかった。
 ひまわり、パンジー?それくらいしか彼は知らなかったし、今まで知ろうとも思わなかった。改めて、花というものを知っていく気分だった。生まれてから、何度も見て、触れて、その芳香をかいだことがあるというのに、何故か全てが新鮮に目に映った。
 花には当然の事だが、全てに名前があり、よくよく見ると特徴があった。そして、全てが美しくて可愛かった。
 心地良い胸の締め付けと高鳴りに、青年は体に暖かな熱が燈っていくような気がした。

 清涼な空気が、肺を廻るような感覚。
 明るい日差しが、皮膚から体の内部にまで浸透していくような感覚。何故かノスタルジックに、何かを思い出させられるような不確かな感覚。

 青年は気付いていないようだったか、彼の目元には優しい笑みがとても小さく浮かんでいた。

「凄く、迷いますね・・・みんなとても綺麗で」

 青年の照れくさそうな声色に、店員が本当に嬉しそうに笑った。
「沢山、迷ってくださいね。」
 カラン、と軽い鈴の音を立てて、ガラス張りの自動ドアが開く。
 ムワッとした夏の熱気が彼の顔に当たった。酷く蒸し暑い日本独特の熱だったが、不思議な事に、青年は先ほどまで何故か冷たく感じていた。
 だが、今は強烈に、そして健全に暑かった。
 ビルに切り取られた太陽が、ビルの窓ガラスに反射された光の破片とともに、青年を容赦なく照らす。光に輪郭を失った彼の体は、重苦しい夏の只中に、それでも軽やかに映っていた。

「ありがとうございました」

 店先から明るい声がした。
 眩しそうに振り向いて、どうも、と呟いた青年の腕に、確かにその花は咲いていた。

 青年の目に、以上までに白に包まれた病院は、夏のにおいの全てを表しているように見えた。昨日、ここに来たときは、この白は夏の匂いの全てを無視しているように思えていたのに、と青年は何だか少し可笑しく思えた。
 たかが、花屋に行っただけだ。たったそれだけの事で、世界はこんなにも一変するものなのだと、青年は今更に思った。

 病室の扉を開ける。
 彼女は小さく寝息を立てて、眠っていた。白い肌に痛々しく点滴が刺さっている。青年は、悔しさと悲しさに一瞬顔を曇らせながら、それでも笑顔を繕って、女性に近付いた。

「陽子、今日は花屋に寄って、花ぁ買って来たんだ」
 眠っているのを改めて確認して、青年は呟いた。女性の為に発している言葉であったが、照れくさくて女性には聞かれたくなかった。
 ここに置いとくぞ、と言って、青年は女性の横に有る机の上に花を置いた。きらきらと、その花は柔らかな花びらを広げている。
 青年は、白い女性のおでこに触れ、その黒髪を撫でた。彼の、たった一人の、愛しい人。青年は彼女の為だけに、呟いた。

「お前に、似てんだろ」


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。