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  過去作品集 作者:雪芳
樹海の呼び声(文学)
 ヤシロのお母さんが自殺したのは、春の早朝のことだった。朝靄と杉の匂いが立ちこめる森を彼女はロープ片手に進んでいった。細かな水の粒を切り裂きながら、ロープのずんぐりとした感触を確かめながら、彼女はどんな気分で進んだのだろう。
 殺したヤシロのことを、頭いっぱいに考えていてくれただろうか。世間様に申し訳がつかないとか、心の貧しいことを考えずに、ただヤシロのことだけを思っていただろうか。私にはわからない。たとえ思っていたとして、それがなんのためになるかと言うと、たぶん私のためにしかならない。
 線香の香りを嗅ぎながら私は、湿った森へと左右に揺り動きながら進むヤシロのお母さんの背中を見送った。

 小学生の六年間、同級生だったヤシロよりもヤシロのお母さんの方が心に浮かんでくるのは、ヤシロがいつもぶっちょう面で、口をへの字に曲げていて、本ばかり読んでいて、世の中のすべてを馬鹿にしたような態度で生きていたからにすぎない。
 ヤシロは理由なく森羅万象を嫌っていて呪っていて、だから私を含む地球のすべてに不満を持っていて、クラスのことも地域のことも遮断していた。

 口を開けば
「クズが」
「ムカつく」
「つまらない」
「ウザい」
「死にたい」。ヤシロの口癖だった。

 正直、私はそんなヤシロを無能かつ有害な人間だと判断していたし、私以外のみんなも、腫れ物を扱うようにヤシロには遠巻きだった。小学校は小さくて、学級なんてひとつしかなくて、それも三十人くらいだったのに、ヤシロは見事なまでに珍獣扱いだった。
 人間の世界に紛れ込んだ怪獣、ヤシロ。火を吹くでなく街を破壊するでなく、ただ机につっぷしてブツブツと何かを唱えていたヤシロ。

 そんなヤシロより私は、ヤシロのお母さんの方が頭に浮かんだ。
 それはひとえに、何もかもを怨んで生きていたヤシロに対して、ヤシロのお母さんが青空のように明るく、春風のように温かかったからにすぎない。そしてとても、美人だった。

 こんなことがあった。
 その日ヤシロは、三日連続で給食着を忘れていた。お陰でヤシロだけ普段着でシチューを注いでいて、自分が忘れたせいなのに酷くイライラとしていた。正義感の強い学級委員長のような女の集団がいて、ここぞとばかりにヤシロに陰口を叩いていた。
 とは言っても、面と向かってヤシロの間抜けぶりを批判するのではなく、遠くの、教室の隅で、円を作ってコソコソと話すのだ。彼らはヤシロに真っ向から行けるほど純粋ではなかった。それなのにヤシロに対して密やかな皮肉を交わしていることは、その目配りで明らかだった。
 いやらしい女どもだ。ヤシロの怒りは爆発する寸前だった。
 その時だ。ヤシロを呼ぶ声が、廊下から響いてきた。そして颯爽と、とても綺麗な白いワンピースに身を包んだ女性が現れた。
「お母ちゃん」
 私たちはあまりにも美しいヤシロのお母さんに目を丸くした。ヤシロのお母さんは、ヤシロが給食着を忘れたのを知って、届けに来てくれたのだ。
 その後の女どもときたら、オシッコでも我慢しているかのようにもじもじとしてヤシロとヤシロのお母さんを見つめていた。ヤシロのお母さんはヤシロが悪口を言われていたこてなんて露知らず、薄い唇と睫の長い眼を細めて、こんなことを言った。
「みなさん、ヤシロをよろしくお願いしますね」

 ヤシロのような子供を気味悪がることもせずに無償の愛で育てていたのは知性や道徳のタガが外れていたからではなく、ヤシロのお母さんの、その類稀な優しい性格からのような気がする。
 だからこそ彼女は、あんな答えを選んだのだ。

 ヤシロの死因は絞殺だった。
 布団の上でヤシロは、眠るように死んでいたそうだ。冷房をガンガンとつけていたから、ヤシロの体は真夏なのにさほど腐らずに横たわっていた。一週間も放置されていたから匂いが住んでいたアパートに漂っていたらしいが、汚く黒ずむといえこともなく、最初に発見した人は本当に眠っていると感じたらしい。
 布団の乱れひとつなく、まるで寝息をたて始めた子供のように素直な姿だったと。まるで母親が布団を丁寧に掛け直したような後だったと。
 ヤシロのお母さん。ヤシロのお母さん。あなたはどんな気持ちだったのですか。

 葬儀場からタクシーに乗って駅へ、ひとり電車を待つ。
 季節はもう衣替えを過ぎていて、夜だというのにたまらなく蒸し暑い。それなのに私は、冬用の長い制服を寒さに打ち震えるように着込んでいる。無人駅なので人の眼を気にすることはない。
 酷く暑い。なのに心臓の奥の方は歯がゆいくらいに凍えている。
 ハリボテの待合室は壁もなく、草の匂いを恐ろしいほど放つ。電灯は切れかかっていて、それはまるで咳込む老人のようで、だから間近に生えているはずの草は見えない。暗闇から、鬱蒼とした緑の芳香だけが汗ばんでいる。
 線路さえ、黄泉に続いているかのように先が飲み込まれている。時計の針を見る。田舎なので終電しかない。時間通りにもこない。心臓が痛い。乗り過ごしていなきゃいい。
 乗り過ごしていなきゃ……。

 ヤシロを人間のレールから突き落としたのは私たちだ。

 葬儀に足を運んだのは、最後にひとめ旧友に会いたいという気持ちからではなかった。確かな罪悪感に突き動かされて、私はやってきたのだ。
 しかもそれはヤシロへの気持ちからではない。ヤシロの母の、お母さんの、彼女への懺悔から。
 ヤシロの湿った性格を、彼女のように麗しい光で包んでいたら。認めて愛すでなくとも、普通に接していたら。
 ごく普通に挨拶を交わし、ごく普通に僅かな時を過ごし、ごく普通に同級生として卒業していたら。

 ヤシロは小学校を出て、中学校を出て、私のように少し離れた、県の中央部にある高校で、勉強に疲れを感じ、飽きながら塾に通い、クラブで人間関係に戸惑い、同じクラスに好きな子を見つけ、未来を案じて暗くなり、進路なんか分からなくて途方にくれながら、コンビニに寄ったり、マックに寄ったり、ミスドに寄ったり、していただろうか。してくれていただろうか。
 そしてヤシロのお母さんは。

 ラッパのような音を噴き出しながら電車が滑り込んでくる。
 二両編成の電車に乗り込むと、何人かの客と目があった。直ぐに逸らされる。その刃の冷たさが、今は温かかった。
 私だけがレールの上を歩く。なにもかもが全ては遅い。私だけが尚、牛車のように軋んだ音をたてて歪んでいくのだ。そのなんという残酷で、なんて現実なこと。
 座席に背中を埋めると、自分とだけ目があった。窓に移った顔は、なんだか誰かに似ていた。ヤシロだと気づいて、ヤシロのお母さんになれなかった事実に失笑する。無様すぎる。背後に黒い森をたたえたそれは、無様で愚かなヤシロそのものだ。

 ヤシロのお母さんが自殺したのは、町の外れにある深い森の中だった。朝早く、とはいっても彼女の場合は仕事を終えた時間だったから、私たちの感覚とは少し違うのかもしれない。
 朝靄と杉の匂いが立ちこめる森を彼女はロープ片手に進んでいった。細かな水の粒を切り裂きながら、ロープのずんぐりとした感触を確かめながら。
 きっと殺した息子のことを考えていた。
 自分が夜の仕事さえしていなかったら、そんなことも考えていたかもしれない。ヤシロが部屋に籠もっては自殺未遂に励むようになった理由を彼女は、自身の経歴に砂を擦り込むように思っていたかもしれない。現にヤシロの愚考の確立は、母子家庭で、それ故に夜の仕事で日銭を稼ぐ母親のせいではないかと噂されていたから。

 でもヤシロのお母さん。それは絶対に違う。もしそんなことを少しでも考えて吊ったのなら、あまりにも悲しい。
 あなたは立派にヤシロを育てようとしていた。こんな空々しい町で必死に、ヤシロを食わせようとしていたじゃないか。

 それを知って私は、そんな噂を流していたんだから。

 ヤシロ。ヤシロのお母さん。
 なにを見くびっていたのだろう。なにを畏れていたんだろう。なにを嫌悪していたのだろう。今では分からない。もう何も分からない。
 私はふらりと立ち上がり、窓枠に手を寄せた。そしてじっと、暗がりに森を探した。
 田園風景の向こうに森がある。
 黒い砂鉄のような森だ。毛を逆立てる黒猫のような森だ。遠くから爆発し、私を飲み込もうと猛烈な速さで迫ってくるような、そんな森だ。
 森を知らない人間は森を神聖な場所だと思いこんでいる。あれは違う。そんな生優しいものではない。

 思えば嫉妬と、憧れの具現化。森のように、黒い。

 あの中でヤシロのお母さんは首を吊った。山菜取りに出かけていた老人がヤシロのお母さんの変わり果てた姿を見つけた。老人は慣れた道なのに何故か迷ってしまい、そしてヤシロのお母さんを見つけた。
「きっと見つけてほしかったんだろうね」
 誰もがそう言った。その誰もが、ヤシロを探さなかった人たちだ。

 森がざわざわと騒がしく身を揺らし、私を狙っている。黒い森。邪悪な森。まるで陰口を密やかに紡ぐように、無邪気で冷淡な噂を静かに囁くように。
 あの場所がふさわしいのは、本当の意味でふさわしいのはヤシロのお母さんだった? そうだった?

「クズが」
「ムカつく」
「つまらない」
「ウザい」
「死にたい」
 ヤシロの口癖がぐるぐると回転する。森の暗がりとともにゲラゲラと笑っている。どこまでもどこまでも続くレールの上で、深く深く木霊する。
 ヤシロの正しい観察を、私は認めたくなかった。私が汚れていることを認めたくなかった。それを認めたとき、私は森に閉ざされてしまうから。
 この黒い黒い森に。
 私は目を閉じた。広がる視界はとても暗い。どの黒よりも黒く、どの黒よりも深い。そしてそれは人間の心の色に似ている。
 その暗闇の中を、ヤシロのお母さんはさまよう。


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