石割桜の頃(文学)
東北、岩手県。盛岡地方裁判所の前に、その桜はある。
花崗岩のひびに桜の種が落ち、育成につれ石を割ったとされているが、真相は定かではない。
樹齢はもう400年に近い。ずっとこの地を見守り、毎年毎年力強く花を咲かせる。
この桜に、桜独特のひ弱さは無い。まるで何者かを勇気付けるかのように、石を割っているからだ。
石割桜の最盛期が、もうすぐ春風に乗ってやってくる。
下級裁主要判決
盛岡地方裁判所
平成十五年
殺人被告事件
主文 被告人を懲役七年に処す。
理由 罪になるべき事実
被告人は平成十四年○月○日午後四時ごろ、岩手県盛岡市A町B丁目C番地所在のアパートDハイツに於いて、父親であったE(当時五十二歳)に対して
〜中略〜
よって同日八時にEを腹部切創等にもとづく失血により死亡させ殺害したものである
〜中略〜
ただし、被告人とその妹は、Eから長年の暴力を受けており、今回の事件の発端も
〜中略〜
よって、主文の通り実刑はやむ終えないものと判断した。
よって主文のように判決する。
弁護士である新村は、申し訳なさそうな表情で三階の窓から、外で葉を揺らす石割桜を見下ろした。
喉に何か冷たい冷気のようなものが留まっているようだ。幾度も殺人事件を担当していた新村だったが、暴力に耐えかねての親殺しの事件は初めてであった。
久しぶりに、若い頃よく感じていた、正義とは何か、悪とは何なのか−−−そういった類を思考する時のもどかしさを感じていた。
「本当になんと言えばよいのか…。その、由紀ちゃんにはすまないと思ってる。」
新村はゆっくりと、部屋の隅に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろしている少女、由紀に話しかけた。
由紀はあの瞬間から、ずっと俯いている。瞳はガラスのようだ。まるで、地面の奥、地球の最奥にあるといわれている地獄を見下ろしているかのようにさえ、見える。
もしかしたら、本当に地獄を見下ろしているのかもしれないと、新村は思った。
彼女の兄に新版が下された瞬間から、彼女はずっと俯いている。
事件は去年の秋、まだ秋の寒さが木枯らしでなく、夏の終わりであらわされていた初秋におこった。新村は自身の少し薄い頭をかきながら、その日を想像する。
盛岡という街の端、小さなアパートの二階、二○二号室の扉を、血まみれの男が息も絶え絶えにあける。
助けてくれぇ、という蚊の鳴くような声を下の階の一○二号室の主婦が耳にして、あわてて自室から出、声がした二階を見上げる。主婦が悲鳴を上げる。救急車、救急車と叫ぶ主婦の甲高い声に、付近の住民が集まりだす。
十分後、救急車がくるも、男性は既に絶命している。
同時刻、警官が駆けつけ、現場、二○二号室に入る。二○二号室に入るなり、警官は部屋の状態に驚く。
一言で言えば、悲惨。床が見えないほどにゴミが散乱している。血と生ゴミの臭いが混ざり合い、充満している。
警官は吐き気を感じながら、大股で部屋の奥へと進む。
部屋の奥で警官が目にしたのは、血だらけのコートを着た被告人と、被告人の妹である…少女、由紀。
二人とも、放心していたという。
「一年しか刑期を縮められなくて…」
すまない、と新村は少女に頭を下げた。由紀は漸く反応して、チラリと新村を見た。
「弁護士おじさんの所為じゃないよ。お兄ちゃんが刑務所に入るってのは最初から分かっていたことだし…感謝してるよ?刑期が少しでも短くなって、嬉しいよ?ただ、」
か細すぎる声。新村に、少女の言葉の末尾は聞こえなかった。もう一度聞くのは失礼かもしれないと思ったが、気になった。
「ただ、なんだい?」
由紀は、きょろきょろと視点のあわない様子で、
「…アタシがこの世にいなかったら、お兄ちゃん、アイツを殺さずに澄んだのに。アタシが、あの時にアイツに殴られてなかったら?お兄ちゃんは、お兄ちゃんが帰ってくる時間に、何で?違うのに。何で、刑務所に入るのはお兄ちゃんじゃなくてアタシだったのに。」
「だって包丁を最初に出したの、アタシのなのに…?」
ぐしゃりと由紀の顔が涙に崩れた。新村はあわてて由紀の前に腰を下ろすと、藍色のハンカチを差し出す。
「其れは違う。君は悪くない。これは、幾度も重なった歪みが引き起こしてしまった事なんだよ。君は悪くないんだよ。」
新村は由紀にハンカチを握らせたが、由紀はハンカチを新村に押し返して嗚咽と涙で引きつった声で捲くし立てた。
「悪くないって何?だって最初にアイツを殺そうと思ったのはアタシなんだよ!みんなにも言ったじゃないか!第一アイツは死ぬべきだったんだ、ずっとアタシやお兄ちゃんじゃなくて、お母さんだって叩いてた!ずっとだよ!?アイツの所為でお母さんは死んだんだよ、アイツは死んで当然なのに、何でお兄ちゃんが刑務所に入らなきゃならないんだろう?」
由紀はぶち壊れてしまったかのように声をあげ続ける。それは、悲痛な叫びだった。
「どうして!アタシじゃなくてお兄ちゃんが!アタシを守ろうとしただけのお兄ちゃんが!」
悲痛な。
「悪いのはアタシなのに!!」
「違う!!」
新村は思わず声を荒げた。由紀が、驚いて新村を凝視する。
「あ、ああ、すまない。」
新村はハッとして口元に手を置いた。軽く咳き込むと、新村はゆっくりと続けた。すっかり錯乱してしまっている由紀の涙をハンカチでやさしく拭いながら、まるで幼子に語りかけるような静かな口調で由紀に向かう。
「…確かに、君にも一因があったかもしれない。でも、起こってしまったことを何度も掘り起こして自らを傷つけてなんになるというんだ?君のお父さんは間違っていた。子供を暴力の対象とすること…いいや、暴力を振るうことは間違っている。君の中で何かが爆発して、包丁を持ってしまったことも、正しくは無いだろう。君を守ろうとしたとはいえ、包丁を君から奪い、お父さんを刺してしまったお兄さんも。全ては、在ってはならない事だった。」
新村は、由紀の手を握る。由紀の手は、震えていた。
「…たった一つ確かなことは、お兄さんがお父さんを指してしまって、結果としてお父さんが亡くなってしまった。それが罪になった、そうだろう?」
新村はゆっくりと、言葉を紡いでゆく。
「どんな事があっても、法の下で人は人を殺してはならないんだ。人を裁くのは人ではない…法なんだよ。法だけなんだよ。…そうだろう?」
涙で熱く濡れている由紀の瞳に、新村の真剣な---とても真剣な---表情が映る。
「そして法は、法はね、人を守るために在るんだよ。人を、罪人にするためじゃない。とてもつらい出来事から、守るためだ。」
由紀の双眸がじっと新村を捉えている。多分、いま彼女は絶望で重力を失っているのだろう。
新村は、由紀の手をぎゅう、と握り締めた。由紀の手のひらは、わずかに汗ばんでいた。
「これから、どうすればいいのかな…?怖いよ、凄く怖い。」
少女のまるで闇の底をさまよっているかのような表情に、新村の心臓が、さらにその重みと痛みを増す。
言葉を探り出すように選んで、新村はゆっくりと続けた。
「国がきちんと君をサポートしてくれるよ。勿論、私も力になる。君のお兄さんとも、そういう約束をしたからね。」
「お兄ちゃんが?」
由紀が兄という言葉に反応して顔を上げる。微かだが、瞳に力が差した気がする。新村は、ああ、と首を小さく縦に振って、やわらかく微笑んだ。
「そっか。」
少し安心したのか、由紀は小さく笑って、そっか、と呟き、繰り返す。
ふと、空気が和らいだ気がした。
新村は立ち上がると、由紀から離れて、再び石割桜を窓越しに見下ろした。
「石割桜はね、」
由紀がハンカチを握りこみ窓を見上げる。眼球には、光で境界が強くなった新村がいる。涙の所為で、まぶしい。
「名前の通り、石を割って咲いているんだよ。凄いだろ、あんな大きな巌を割ってだ。」
---月並みだけど---そう言って新村は、
「君も、あの桜のようになって欲しいんだ。つらい事も、力強く割って、壊して、太陽に向けて背を伸ばして、…やがて綺麗な花を咲かせて。力強く、生きて欲しい。」
言葉を続けるうちに、新村は耳まで赤くなった。気恥ずかしいのか、ごまかすように頭を掻く。
「オジサン、真っ赤だよ」
「慣れてないんだよ。人に何かを説くのはね。君こそ、目が真っ赤だ。」
二人は目を合わせた、なんだか、おかしく思えて、目を合わせた途端に、飽和したように二人は笑った。
視界が僅かに、明るくなるのが分かる。今は困難を乗り越えなければならない。乗り越えるために、強くならなくては。苦しみも、悲しみも、全てを受け止めて生きなくてはならない。
いつか泣かずに、語れるように。
「アタシ、待つんだ。お兄ちゃんをね、待つんだよ。七年だから、きっとアタシ大人になって、綺麗になったりね。そんで…お兄ちゃんをびっくりさせるんだ。」
由紀が花のように微笑む。泣き濡れてはいるが、とても力強く。
ああ、この子はこんなにも素敵に、笑うことが出来るのか。
新村は思った。由紀がこれから強く生きていけるような、そんな希望が新村に触れた。
安易過ぎるだろうか?…しかし。
肺から溢れるように、暖かく生まれるものは、確かに希望だった。
この子はきっと強く生きる。
この子はきっと花を咲かす。
きっと。
盛岡地方裁判所の前に、その桜はある。寒いというより痛い、そんな東北の冬を何度も乗り越え、重く冷たい花崗岩を割って生えているその桜は、きっと今年の春もこの地を色鮮やかにするだろう。
きっと、力強く、咲く。
中学のとき初めて書いた小説らしきもの。
裁判の話は今でも好きです。
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