友チョコ、本命、自分チョコ
愛の代名詞“チョコレート”なるものの広告類が氾濫する駅に、半ば呆れながら立ち尽くす学ランが2人。毎年チョコをもらえない“負け犬”コンビである。しかも今年はただの負け犬ではなかった。遠吠えしても足りないくらいの負け犬っぷりだ。
まだバレンタインの3日前なのだが、すでに負けを認めている。戦わずして負けたのだ。
「バレンタインてさ、誰だったかの命日だよな。不謹慎なやつらめ」
「気持ちは分かる。けどな、負け惜しみにしか聞こえないからやめとけ」
誠司はため息をつき、少し長めの前髪をかき分ける。いつもの癖だ。気持ちは2人とも同じらしい。
「まぁ、紳には可愛い妹もいるし、収穫なしってことはないだろ」
厭味ったらしく引き延ばされた『可愛い妹』という言葉に、紳は苦々しい表情を浮かべる。
バレンタインの収穫が全くのゼロということ悲しい事態に陥ったことは、確かにない。
しかしチョコが貰えるからといって手放しで喜べないのもまた事実である。身内からのチョコなど数のうちに入らないということもあるが、ホワイトデーのお返しを大前提とした契約、取引でしかないからだ。チョコをもらったなら三倍返しどころか十倍は見積もっておかねばならない。ちなみに押し売り同然で、契約の拒否及び一方的な破棄は不可能、おまけにクーリングオフも効かないという悪質極まりないものである。
紳はほとんど空のスポーツバッグをかけなおしながらぼやいた。
「貰うっつーか、買うっつーか、寄付っつーか……」
「貰えるだけマシだろ。姉貴なんか10円チョコすらくれやしない」
紳は誠司の肩にぽんと手を置き、小さく首を振った。もらえたところで所詮は身内。2人してため息をついた。
とぼとぼと駅から出ると、やはりにぎやかな広告が目に付く。紳はできるだけ見ないようにしていたが、どこを見ても広告ばかり。心なしか女性が多いのも癇に障った。
キャピキャピと黄色い声を上げながら通り過ぎていく女ども、一度くらい首をひねってやりたい。
「いらっしゃいませ」
不意に声をかけられ足を止める。可愛らしい声が耳に優しかったのも理由の1つだ。
声のほうに向き直ると、そこには女性が1人、半ば影と同化して立っていた。自分から声をかけたにも関わらず、どこか意外そうな表情を浮かべていた。
「……いらっしゃいませ」
女性は改めて挨拶をする。
身長は誠司と同じくらいで、靴でのハンデを考慮に入れても女性では低くはない方だろう。顔立ちも童顔といえば童顔で年齢が推し量れなかった。肌は白く鼻筋が通っていていかにも外国人といった顔立ちである。瞳はくすんだ緑で、帽子から零れ落ちる髪の色もブロンドとやはり外国人だと思うのだが、妙に日本人的な雰囲気を持っていた。
不思議な女性ではあるが、あえて一言で言うなら……可愛らしい女性である。
しかし、ファッションには物申したいところである。
黒い毛糸の帽子を被り、裾という裾に黒いファーのついた黒いワンピース型のコートをまとい、黒い手袋をはめ、黒光りするブーツで足元を飾り、耳に光るピアスも黒く、これまた黒いかばんを足元においていた。全身嫌というほどの黒尽くめ。
そんな怪しい女性が持っているのは白いプラカード。
『効果バツグン! 惚れ薬入りチョコレート お売りしマス』
――とある。その下に小さく『魔女バレンタイン』と丸文字で書かれ、小さなハートマークが添えられていた。
どこの組織の手先だろうか。ともかくも紛うことなき怪しい人物だ。顔立ちや声の可愛らしさを考慮にいれても、変と言うのに迷いを感じない。
「惚れ薬が入ってるって本当?」
率直に聞いたのは誠司だ。女性は微笑むと小さく頷いた。
「えぇ。嘘なんて書きません。もの凄く効果があるんですよ。なんてたって私が調合したんですから」
どうやら魔女バレンタインというのはこの女性のことらしい。嬉々として商品を語るその口からは、蛇の抜け殻だの新月の儀式だの生け贄だの、見当をつけたくない語句が飛び出る。話半分に聞いていた誠司は前置きもなくポンと言葉を放つ。
「ところで彼氏は?」
「こんなものを売っているのに独り身って、説得力ないでしょ?」
くすりと笑う魔女に、誠司は少なからず落胆の色を見せていた。
「それより、あなたたち……男性、ですよね」
「女に見えたら怖いです」
紳は今更ながら照れてみせた。
今まで認識されていなかった分、改めて確認されると妙に居心地が悪い。それが表情に出てしまったのか、魔女も少し複雑な面持ちだった。それでも営業スマイルは忘れないあたり商売人だ。
「あ、いえ。当店は男性でも大歓迎です。理論的には一応、女性にも利くはずですし。さて、今回はご要望に応えてお試し品を作ってみました。いかがですか?」
そう言いながら鞄から一覧表を手渡す。
告白用、恋人用、夫婦用と並んでおり量やら包装やらオプションやらに違いがあるようだ。お値段は交渉いたします、と書かれハートマークが添えてあった。さらにその隣に添えられた、ポップな髑髏のイラストが目を引いた。
「お試し?」
「そう、お試し。私の作った惚れ薬って――告白用のに入ってるものなんですけど、効果が強すぎるんですよ。だから、かなり薄めたものを一度使ってもらうんです。気に入ったら濃いめの方をお売りしますよ。適当な食べ物や飲み物にでも混ぜてもらって、お好みの濃度で使って頂いています」
「へぇ。面白そう」
「ちょっ、誠司! 興味しめすなよ! どう考えても怪しいだろ」
「いいじゃないか。俺が買うわけだし、お前には関係ないってことで。じゃあお試し版ワンプリーズ」
「どうせお試しですもの、あげちゃいますよ。男の人っていうの初めてですし」
誠司は商品を受け取ると、儲け儲けとチョコレートを見せ付ける。試供品という割には、高級感のある緑の包装用紙に赤色と茶色の細いリボンが二重にかけられていて、そのままプレゼントに使えそうなほどだった。
一応は可愛いジャンルに属する女性から貰ったチョコである。紳は少しだけうらやましかった。
「そうそう、使用上の注意なんですけど、こちらをよく読んでくださいね」
誠司の手を掴むと小さく折りたたんだ紙を握らせた。
「それでは、毎度ありがとうございました。今後ともごひいきに」
「あ、今度はちゃんとお客さんとして来るから」
魔女は柔らかく微笑んだ。
ある程度露天から距離をとったところで紳がささやく。
「本気で信じてるのか? 惚れ薬とか」
「んな魔法じみたもの信じないけどさ、何かヤバそうなものが入ってるんじゃねぇの? ま、食べてみたらわかるだろ」
ヤバそう、と思っているものを食す度胸は大したものである。紳は、友の行く末を影に徹してにこやかに見守ってやりたくなった。
これから特にどこへ行こうという予定もなかった2人は、近くの公園で休むことにした。
「まずは試食、試食。お前にも分けてやるよ」
誠司は上機嫌なのだが、紳は男2人でチョコをつまむ寒い光景を想像してかなりへこんだ。
「あ、何か入ってたら変化があるはずだよな……よし、やっぱり先に食え!」
「実験台にすんな!」
紳の反応に、誠司はあからさまに舌打ちすると適当なベンチに腰をかける。風はつめたいものの、日が差しているおかげでそれほど寒くは感じない。それでも人は少なかった。
「お、色々入ってるぞ。どれがいいと思う?」
誠司はチョコの箱を見せびらかすようにしてたずねる。
チョコは全部で5つ。
中央にはハート型のチョコが赤い薄紙の上に置いてある。残りの4つは丸い銀紙に包まれ、四隅に置かれていた。
「ハートのは俺が貰うとして、紳は小さいのな」
「はいはい。勝手にしろ」
「そういう態度はないだろ。昨今女子の間で流行っているという友チョコというやつだ。友情の証だぞ」
――俺達の友情はそれほどまでに小さいものなのか、マイフレンド。
いらないとかなんとか言いつつもとりあえず受け取っておく。どうせ普通のチョコ、しかも貰ったと言うよりは買ったに近いチョコを食べて何が嬉しいのか。
紳には理解できず、しかし理解したくもなかった。それでも、今年一番の寒風にも勝る冷え切った紳の視線が気にならないくらいに、誠司は幸せそうであった。手のひらほどあったチョコの半分がすでに胃の中だ。
「やっぱいいよねぇ。ちょっと苦くていい感じ」
「自分で買ったチョコ食って何が嬉しいんだ」
「貰ったものだって。これでカウント1というわけだ。少し早かろうと義理チョコだろうとお試し品であろうと俺は気にしないさ! 愛に飢えた男の気持ち、お前なら分かると思っていたが……。チョコくれるような妹を持っているやつは違うんだな」
刺々しく言い放たれた言葉を軽く流すと、紳はため息をつく。何を勘違いしたのか、誠司は慰めるように優しく声をかけた。
「まぁ、実の妹とは法律改正がない限り結ばれないからな。心の広い俺様はもう1つくらい恵んでやろう」
これで戦利品は2個である。しかし、これはカウントに入るのだろうか。一応男から貰ったものだしなぁ――。
一瞬とはいえ、まじめに考えてしまった自分が情けなかった。
1つだけ口に放り込んだ。 男性への配慮なのか、甘さ控えめのほろ苦いビターチョコだ。思っていたよりは食べやすい。心なしか体の奥がじんと暖まった気がした。同時に、情けない、と思ったのも事実ではあるが。
「そういえばさ、注意書きとか貰ってなかったか?」
手持ち無沙汰でそう聞いたのだが誠司は上の空だった。目の前で手をはたつかせると誠司はこちらの世界へ帰ってきた。
「どうした?」
「あ、あぁ。ちょ〜っとトリップしてた。何でもない」
ポケットから丸まってしまった紙を取り出すと紳に渡した。広げるとやはり丸文字でつらつらと書かれている。
『使用上の注意:本商品は即効性の惚れ薬入りとなっております。服用後に初めて見た人物に好意を抱きます。万が一、通りがかりの人などを見初めてしまった場合、当店に連れてきていただければ無料にて解術を致しますが、その際チョコレート代はご返金できませんのでご了承ください。用法用量を守り、正しくお使いください』
以降、渡し方の細かなアドバイスや当日までにできること、魔女らしいといえばらしい恋愛成就のおまじないがご丁寧にイラストつきで書かれていた。
詳しく説明すると、恋愛運アップの呪文やら、爬虫類や猫の死骸を利用した魔力の増強方法、悪魔を召喚する方法、召喚に成功した悪魔を味方につけるコツ、などなど怪しげな儀式作法の一覧である。恋敵の呪殺法を記した書物の紹介もあり、ときどき思い出したように文末に添えられたハートマークが凶悪だった。
手紙の最後には何やら筆記体でサインがしてあったが読めない。
「ふざけてるよなぁ。惚れ薬なんてさ」
そう言いながら誠司の方に向き直る。誠司は背もたれに全身を預けるようにして、深く呼吸を繰り返していた。
「どうしたんだ」
「……な〜〜んか、だるい」
誠司は風邪でも引いたかなとぼやきながら腕をさする。頬も紅潮させて、本当に熱でもありそうだ。
「風邪か? それともなにか。変な物でもマジで入っていたとか?」
「違う……と、思う、んだけど」
途切れ途切れに言うと、小さく呻いて背中を丸めた。心なしか震えている気がした。
「大丈夫か?」
改めて確認すると、誠司はさきほどまでのことが何もなかったかのように背筋をしゃんと伸ばし、紳の顔を見つめた。
「本当に風邪引いてるんじゃないか? 早く家に帰って……」
「何で今まで気づかなかったんだろ」
「やっぱり風邪か。ほら暖かくして……」
マフラーを巻きつけてやる間も、じっと見つめていることに紳は気づいていなかった。
「お願いだからうつしてくれるなよ。最近の風邪は性質悪いから」
「こんなに近くにいたのに……」
紳の腕に両の手を添える。
「誠司?」
白い息をはいて、頬は赤らんで。
「紳、君が好きだ」
脳内で台詞がこだまする。誠司を引き剥がし、半ば叫ぶようにして言う。
「じょ、冗談ですよね、日野さん?」
「冗談なんかじゃないって。こんなこと、男同士で言えるわけ、ないだろ」
弱々しく言い切ると、ふいと目をそらす。
「……言ってもらっても困る」
確かに、いつかそんな日が来るだろうと、そこはかとなく期待していた展開ではある。バレンタインデー、チョコを片手に、あなたが好きです、と言う人物。唯一にして最大の相違点というべきものは。相手が男であるということだ。
潤んだ瞳で見つめられても、頬をほんのりと桜色に染められても、決して揺るいだりはしない。そう、こうやって物欲しげな表情で唇を近づけられても――
「って、た、たんまっ!」
「何?」
良い感じになってきたところを――もちろん誠司の一方的な思い込みであることは言うまでもないが――ストップをかけられて不満と疑問の入り混じった表情を見せる。
「俺のこと嫌いなのか?」
「嫌いってわけじゃないけど」
「じゃあ好きってことだよな」
両極端にもほどがある。いつになく強い調子で回答を迫られて一瞬詰まったが、しょせんは男だ。
「あくまでライクだ! 冗談にしても悪趣味だぞ。人前で恥ずかしくないのか!」
「まあ、本気だからね。証拠っていうならやってみせようか? 今すぐにでも」
そう言うと、誠司は戸惑う紳の肩につかみかかる。気づけば空を仰いで、背中は冷たく、馬乗りになるは我が友がき。誠司はにこりと笑みを浮かべると、コートの裾に手をかけながらすっと首筋に唇を落とす。ひやりとした感覚が走った直後、紳は、
「……さよならっ」
誠司を突き飛ばすと一目散に駆け出した。泣けるもんなら泣きたい。かつての友も後を追ってはきているようだった。恐る恐る振り返って見てみると少しずつ離れていく。
前方を確認すると、信号下の数字が一桁に達していた。振り切れる。
グッと足に力を込めて横断歩道を一気に渡りきった。対岸で振り返り見ると自動車の波の向こうで誠司がこちらを見ていた。
ほぅと息をつく。
体の力が抜けていきそうだったが、そこは座り込むわけにも行かず腹に力をいれて踏ん張った。
まずはあの魔女だ。探さなければならない。
別に媚薬とか惚れ薬とかの類を全面的に信じているわけではない。しかし、そうでもなければ誠司の奇行が説明できそうにもなかった。冗談でも、少なくとも人が見ているような場所でああいったことをするやつではないからである。
さきほど購入したばかりだから、まだ売っているはず――という紳の考えはすぐに砕かれる。
「いない……?」
右を見ても左を見ても、影も形もない。
近くを通りがかった学生風の女の子2人組を捕まえて聞くと、少し前に荷物をまとめてどこかへ行ってしまったらしい。
「くそっ。何がどうなってんだ。どつけばいいのか、あいつ戻すにゃ……」
「もう戻れないさ。元の関係には」
さぁっと血が引く音を聞いたような気がした。
声の方に向き直ろうとするも体が石になったかのように動かなかった。声の主はもちろん誠司である。ぴっとりと腕にしがみついてきた。腕から伝わってくる息はだいぶ荒く、少し苦しそうだ。誠司は声を掛けても反応のない想い人を見て何を思ったのか、耳に息を吹きつけた。
紳は、背を這い上がる感覚に鳥肌をたてたが、体の石化が解かれていったのは幸いだった。
飛びのくようにして1歩下がる。
「せ、誠司?」
「驚くことはないじゃないか。俺って電車通学だよ? もしかして、一緒に帰ってくれるの?」
するりと腕を絡めてきたが思いっきり振り払う。
「俺も電車だけど、反対方向、だし! とにかく違う。違うんだ!」
自分でも意味の分からないことを叫びながら駅に駆け込むと手ごろな電車を探す。とにかく身を隠さなければ。
「恥ずかしがる必要ないだろ。紳ってば」
「恥ずかしがってなんかない!」
紳はイチかバチか1番近くの、すぐ発進しそうな電車に飛び乗った。
「やっぱり一緒に帰ってくれるんだね」
誠司は1人ほくほくと後に続いて乗り込んだ。車両内を見渡してみるが、人が多すぎてなかなか見つからない。あまり動いていないと思うのに、といぶかしんでいると背後で扉が閉まる。
何気なく見た扉、正確にはガラス越しに見たホームには、にこやかに手を振り見送る紳がいた。
「し、紳? どうして外に……」
名残惜しそうにガラスに顔を押し付け、いつまでもホームを見ていた誠司だが、その思いはこれっぽちも伝わっていなかった。紳は電車を見送ると逃げるように改札へと戻っていったのである。
日もとっぷりくれた頃、紳はようやく家にたどりついた。あのあともどこからかわいてきた誠司に付け回されたのだ。追いかけっこを演じた末、どうせ住所は割れている、という事実に行きつくまでに小一時間かかった。
幸い、誠司は自宅まで押し掛けるという暴挙には出なかったようである。
「ただいま〜」
「お帰りなさ〜い」
にこにこと妙に機嫌よく迎えてくれたのは愛情の押し売り魔、もとい妹の理香だ。
「あれ? 母さんは?」
「今日から友達と旅行に行くって言ってたじゃない。1週間かけての温泉旅行。お土産はお饅頭。ところでお兄ちゃん、アレは?」
お兄ちゃん、などと呼ばれる時は、だいたい厄介事を持ち込まれる時だ。恐る恐る尋ねる。
「アレ、って?」
「アレったらアレに決まってる……あ、もしかしてメール見てないの?」
そう言われてポケットにつっこんでいた携帯を取り出して見る。
「わり、電源切ってた」
「もう、折角チョコ買ってきてもらおうと思ってたのに。チョコくらい買ってきてくれても……」
「俺の前でチョコの話は一切禁止だ! 分かったか!」
チョコを連呼する妹に、紳の怒りは爆発、いや暴発した。
理香に理由が分かるはずもなく――紳としては説明するわけにもいかず、勝手な推測にまかせるしかなかった。
「モテない男のひがみ? そんなのだからモテないの。携帯の電源切っててなんの意味があるってのよ。携帯の意味ないじゃん。要領が悪い、勘も働かない、って……マイナスだわ。もう、いろいろ計画していたのに台無し。おにいのバカッ!」
理香は言いたいことだけまくしたてて、それでもまだ言い足りないらしく、ぶつぶつと文句を言いながらリビングへと向かう。
一方的に用件を押し付けられて、メールを見なかっただけでバカ扱い。兄としての威厳もへったくれもないが、これが日常なのだ。情けないことに。
それよりも気になるのは悪質な嫌がらせをしている友人の対処が問題だった。たかがイタズラのためにあんな告白をするとは思えないのだが、無理やりでも納得しないと何かが変わってしまいそうで背筋が寒くなった。
電源を入れてみると、すでに10通ほどメールが届いている。うち1つは妹の分として、残り分が問題だ。どれもこれも誠司からのである。不在着信も7件、伝言メモも2件あった。やはり誠司からである。
内容はといえば、紳にしてみれば嫌がらせの延長だ。熱烈なラブメールとラブコールの嵐。
好きだ、この気持ちに嘘は無い。というように簡潔なものもあれば、今の心境をツラツラと書き綴った少女漫画もまっさおの少女チックなメールもあり、ポエム調になってきた段階で、以降に届いたメールは無条件で削除した。
――何か言ってやる。
怒りに似たものを感じながら、メール文を考えるも何も思いつかない。どれもこれもプラスな回答に取られてしまいそうで没の山になってしまった。いっそのこと放置する、というのも考えるには考えたが、逆に無言の肯定とも取られかねない。
このままではどんどん深みにはまり、ネタばらしの段階で大笑いされるのではないか、と嫌な想定がよぎる。……あくまでイタズラならば、という楽観的な話である。
送るか、送るまいか。送るならどんな文面に?
試験の最中ですらそこまで考えたことはないだろう、というほど考えぬいたが、妙案はそうそう簡単に浮かぶものではない。そんな紳をあざわらうかのように電話までが憎らしく鳴り響く。
「おにい、今大丈夫? 日野さんからだけど」
「誠司から? 何の用だって?」
「今日のことだってさ」
考えはいまだまとまっていない。が、何かしら言ってやる、ということだけは忘れない。受話器をなかば奪い取り電話に出ると、のんきな声が聞こえてきた。
「紳? ひどいよぉ、1人置いていくなんてさ。ケータイにも出ないし……恥ずかしがらなくてもいいって言ってんのに」
「あんなことを言われて追いかけられたら恥ずかし……じゃなくて、もう芝居はいいから。どうせ慌てぶりを笑ってんだろ。惚れ薬なんて悪い冗談やめてさ、」
「芝居? 嫌だなぁ。本気の本気、マジ本気。想いが心の底からフツフツと」
「……ッ切るぞ」
「あ、待って。切るなって」
そう言われると切るに切れない。紳は受話器を破壊しかねないほど強く握りしめつつ、黙って話を聞く姿勢を作った。
「愛してるよ、紳。明日の」
力任せに切った。まったく、どうにかしている。
「どうしたの。ケンカ?」
「えっと、まぁ、そういうとこ」
本当のことを言うわけにもいかなかった。妹にまでからかわれるに決まっているのだから。
「ケンカねぇ……早く仲直りしなさいよ、小学生じゃないんだから。ほら、さっさとして! 今日のご飯は自力なんだからね」
「今日は食べる気しねぇんだよ。今日は寝る」
「食べる気しないって、風邪でもひいた? バカのくせに贅沢な。あ、せめてお風呂くらいは」
「とにかく寝る! お・や・す・み!」
今日1日で全精力を使い果たした気がする。このうえに妹の相手などしていられない。紳は自室のドアを勢いよく閉めると、手早くパジャマに着替えてベッドに突っ伏した。
明日になればきっとネタばらしでもしてくれる。眠気の波の中、ぼんやりとそんなことを考えていた。
よほど疲れていたのだろう。朝日が昇るまでグッスリと眠りこけていた。
いつもなら1度は起きて夜食の1つ2つ口にしているものだが、それもなかった。体内では情けない音が渦を巻いて鳴っている。夕食に加え夜食も取っていないのだから胃が不満の声をあげているのだ。
時計を見ればまだ6時半過ぎ。いつもの生活サイクルから考えれば、なかなかの早起きだ。あと、1時間。もう1度寝ようと思ったが胃が主張し続けて、むしろキリキリと痛みだしはじめた。
たまには早起きもいいかと、紳は自分で自分を説得してのろのろと部屋を出る。
「はよぅ」
「あ、おはよう。今日は早いじゃん」
手にもつカップからは白い湯気がゆらゆらと上っている。コーヒーの香ばしい匂いが部屋中に染み渡っていくようだった。
理香は兄とは違い、朝が早い。鵜飼家の愛犬ポチの世話係に任命されているからだ。ご苦労さんと心の中でねぎらってはいる。しかし、分かってるなら態度でみせて、などと言われ仕事を押し付けられてはかなわない。あくまで心の中だけにしておく。
「おはよう。紳」
「ああ、おは……」
言いかけてはたと考える。
声が1つ多い。今のは誰だ。
聞き覚えが十二分にあるその声に、嫌な汗が吹き出て止まない。
それでも見なければならない、という不思議な感覚に襲われる。ホラー映画の主人公の心境、といえば分かりやすいか。怖いという気持ちの反面、ある種の義務ともいうべき感覚にかられたのである。もっと簡単に言うなら、怖いもの見たさ、だ。
恐る恐る視線をずらす。
妹の理香、テーブル、コーヒーの入ったカップ、食べかけのパウンドケーキ、常備されている調味料各種。そして。
そして、予想通りの者が視界に入るが早いか、すっとんきょうな声を出した。
「ななななななな何でお前が!!」
「嫌だな。迎えに行くって電話したろ?」
鵜飼家の食卓で、爽やかな笑みを浮かべ、妙に馴染んでいたのはそう。日野誠司、学校の友達。今は天敵と称するのが正しいといえよう。
ともかくも、今現在最も出会いたくない人ランキング堂々第1位の人物に、朝も早よから鉢合わせたのである。しかも憩いの場であろうはずの自宅で。
硬直する兄とは対照的に、妹の方はといえば別段気にする様子も見せず、呑気にモーニングコーヒーなどをすすっている。おまけに、雑誌を机の上に広げて、茶請けまで用意してつまんでいるのだ。
「おにいさ、今日って部活の早朝ミーティングの日なんだってね。どうせ忘れてるだろうからって迎えに来てくれてたのよ」
「理香は何も気にならないのか? こんな朝っぱらから!」
「そりゃね」
パウンドケーキのカケラを口に放り込むと、ズズッと音を立ててコーヒーを流し込む。
「驚くには驚いたけど。新聞紙取りに言ったら家の前で座り込んでるんだもん。朝ってやっぱり寒いでしょ? 外で待ってもらうのも悪いから、中に入ってもらったってなわけ。何か文句でもある?」
有無を言わせぬ厳しい口調で経過を述べると、雑誌に目を戻す。やはり兄としての威厳はない。
後を受けて誠司がのんびりと言う。
「いやぁ、いい妹さんを持って紳は幸せだね」
「誠司……ちょっと来い」
「え? 何?」
手招きして呼び寄せると、池の鯉かはたまた猿山の猿か公園の鳩か、見て分かるほどにはしゃぎながら紳の元へと駆け寄ってくる。
先のことを思うと今から気が重かった。
片や落ち込み加減で片やご機嫌。奇妙な雰囲気を引きずりながら自室へ戻る兄。それを見送る妹は、1人つぶやいた。
「人に迷惑かけてばっかなんだから。進歩ないなぁ」
無論、今回に限っては迷惑をかけられている側である。一連の事情を知る由もない妹は、雑誌の続きに手をかけ、
「そうだ、ホワイトデーはアクセにしてもらおうっと。やっぱり3倍返しは基本よねぇ」
邪悪な考えを巡らせていた。
「一体何のつもりなんだ」
「何ってこっちが聞きたいんだけど」
「何が」
いらだった調子で聞き返すと、誠司は満面の笑みを浮かべる。するりと手を取ると手の甲に口付ける。
「いや、だってさ。部屋に連れ込むなんて……」
「単刀直入に聞こう」
先のことが脳裏をよぎっての言葉である。キスされた場所をじゅうたんになすりつけながら質問を続けた。
「部活の早朝ミーティングって何だよ。俺は聞いてない」
「嘘も方便、ってやつだよ。そう言えば自然だろ」
「十分怪しいっつの!」
「ともかく、少しでも早く会いたかったんだって。メールしても返事がないし、電話も切られちゃうし」
「もしかして、あの後もメール……」
誠司は当然だと言わんばかりに大きくうなずいた。
反射的に携帯をあけると、そこには未読メールが大量にたまっていた。どれもこれも誠司からのものである。
「寝付けなくてさ、そうだな、日付変更前後はかなり頻繁に送ってたかな。さすがに深夜の電話は迷惑だと思って……」
メールでも十分迷惑である。てへと笑ってみせるが、紳の神経を逆なでするに他ならない。
「嫌がらせにもほどがあるだろ! ほとんどストーカーの域じゃねぇか!」
「そんな……。ただ好きなだけなのに」
ストーカーの大半はその犯罪性を認識しておらず、ただ相手への熱い想いだけを胸に秘めて行動するものである。
一瞬、紳の脳内では昔に聞いたそんな情報が高速処理された。記憶にあるストーカーの行動パターンと誠司のそれと照らし合わせると、立派なストーカーとしか思えない。
「好きも嫌いもないだろ! とにかく、もうこんな変なメールしてくんなっ! 絶交するぞ!」
怒りに任せて口にした言葉であったが、意外にも効果はあったらしい。言葉を発したとたん、誠司は血相を変えたのだ。
「ご、ごめん! 紳がそんなに嫌がってたなんて……。今度からは気をつけるし、メールも控える、から……」
すっかり青ざめ謝罪する誠司に、ちょっと言いすぎたかなと紳も反省した。
「やっぱりパケ代とかバカにならないからね。でも、少しでも側にいたいからだったんだよ?」
前言撤回。何かが違う。何かが。
「とりあえず、普通の友達に戻ってくれたら考える。頼むからもう止めてくれ」
「……分かった」
しょぼくれる様は寂しげで少なからず罪悪感を――
「じゃあさ。メールは駄目だとして、電話なら良い? 友達ならするよね? 自宅の固定電話ならパケ代気にする必要ないし。あ、もちろん短めにするよ」
「それも止めろ! 今までやってなかっただろうが!」
罪の意識を感じずには――
「だったら毎日迎えに来るよ。一緒に登校するって友情の証みたいなものだろ」
「それもするな! わざわざ学校通り越してまで来るような友達なんかいるか! 大変だろうが!」
「俺は大丈夫だって」
「お前が平気でもこっちが駄目だ!」
「そう言うない。愛してるよ、紳」
両手を広げて飛びかかってきた誠司を、紳は無言でよけて部屋をあとにした。
リビングに戻ると、急にお腹がすいていたことを思い出した。こういうときにでもお腹は鳴るのだ。
食パンとインスタントコーヒーは常備、あとはバナナがあったはずだ。
ごそごそと探してみるも、なかなか見つからない。妹に聞く、という選択肢をひらめいたものの、肝心の理香はすでに散歩に出かけたらしく見当たらなかった。
思わずため息がもれる。
「探しているのって、コレ?」
目の前に差し出されたはスーパーの袋。半透明の袋の外側からでもわかる、輝かんばかりの黄色に、美しいフォルム、月夜に輝く星のごとく散らされた数個の黒い斑点。まさしくバナナだ。
食料にありつけた、と軽く礼をして受け取ると、2秒後には奇声を発した。
声の主は呆れ半分といった様子で茶化す。
「別に取って食おうってわけじゃないし、そんなに驚くなって」
柔和な笑みの裏には悪魔がひそんでいる。気を抜いたが最後、本当に食われてしまいそうだ。もちろん、自主規制的な意味で。紳は壁に張り付くようにして警戒している。
「お、俺の背後に立つな!」
「どこぞのスナイパーか。今から朝飯だろ? 食事は一緒に食べる方が美味しいものだよ。弁当は別に持ってきたし」
別の不安が沸いてきた。
断るのも変だと思い曖昧に返事をすると、誠司は迷わず椅子に腰掛けた。広げた弁当の中身はサンドイッチだ。トマトに卵、ツナ、カツとバリエーションがなかなか豊富である。
いつものようにトースターに食パンを放り込むとスイッチを入れた。
「紳ってパン派?」
「……その日の気分。リンゴ丸かじりの日もあれば、カップ麺のときもある」
「そうなんだ」
紳は椅子に座る前に、誠司を見た。広げたお弁当には手をつけたあともないし、手をつける様子もない。
「そんなに見つめないでよ」
頬に手を当てて恥ずかしそうに笑う。これが女だったらと思わずにいられなかった。そこまで飢えてはいないはずなのだが。
「見つめてなんかいねぇよ。さっさと食ったらいいだろうが」
「食事は一緒に。これ家族の基本。パンが焼けるのを待つよ」
誰が家族だ。
しかし、ここで反論したとして、だったら家族になろう、などと瞳を輝かせて言われるのがオチだろう。言葉を飲み込んで、心の中で思いっきりののしった。
ふと会話がそこで止まる。
立っているのも居心地が悪いので椅子に座ると、誠司がやけに近く感じられた。圧迫感というのだろうか、一時も気を抜いてはいけない気がした。少しだけ遠ざかる。
かなり気まずかったのだが、誠司にとっては屁でもないらしい。それどころか紳の顔を見ているだけで幸せそうだ。紳はため息をついた。
「コーヒー、飲むか?」
「もらうよ」
答えを聞くより早く立ち上がった。
少し開放された気がする。
必要なものを集めて、コップを2つ並べると、ティースプーンで山盛り2杯のコーヒーを入れる。恍惚とした表情で見守る誠司を極力視界に入れないようにしながらクリームを控えめに2杯。インスタントとはいえ良い香りが漂う。
いつもなら多少は楽しむ余裕があるのだが、今朝に限ってない。原因が分かっているだけに頬がひきつる。紳はもう片方のコップにも注ぐと、これみよがしに大きくため息をついた。
コップを両手に持ちあげたところを、待ってましたとばかりに誠司は飛びついた。……もちろん紳に、である。
「な、何すんだよ!」
「暴れると熱いよ。一応沸騰したお湯なんだし」
波打つ茶色の液体を見つめ、思わずバランスを取ってしまった。背から回された腕がさらにきつく巻きつく。
「……離せ」
「嫌。こういうのって気持ち良いんだよね。落ち着くって言うかさ」
「勝手に落ち着くな!」
誠司が満面の笑みを浮かべているのが、見えずとも分かった。抱き心地を確かめるがごとく腕の位置を少しずつずらすと、ピタリと動きをとめ、首の付け根のあたりに顔を押し付けてくる。
柔らかいような硬いような感触がくすぐったかった。
「ねぇ、俺のこと好きじゃないの?」
言葉を発するたび、湿り気を帯びた暖かい空気が首筋をなでる。ぞくりと身が震える。
「あ、当たり前だろ。友達としてならともかく……」
「本当に? 実はさ、家から追い出されるかと思ってたんだけど」
誠司はいたずらっぽくクスッと笑うと、耳元でささやいた。
「紳のそういうとこ大好き」
そこへ。
チンとトースターが音を立てる。
「お、焼けた。さぁ、ご飯ご飯……あ、パンだっけか」
やけにあっさり紳を解放すると、コーヒーを半ば奪い取るようにして受け取った。不思議に思いながらもとりあえず危機は去ったと胸をなでおろす。少しだけ物足りなさを感じたが、即行で否定した。何かが間違っているのだから。
朝食の間はやはり気まずかった。もっとも誠司は隙あらば仕掛けて、迷惑がられながらもずいぶんと楽しそうだった。
いつもより早く朝食を終えると逃げるようにその場を立ち去る。紳はチョコを売っていた魔女のことを考えた。非現実的なことはいかんと思いつつ、非現実的なことが起こっているのは認めざるを得まい。憂鬱な気分に浸りながらよろよろと部屋へ向かった。
惚れ薬を1度どころでなく何度も完全否定した紳だったが、自分もチョコを食べたことを思い出して青くなった。いや、自分は大丈夫だ、ノ−マルだと、紳は考えを振り払うかのように身づくろいを始める。
一応鍵をかけておく。思い返せば何の仕事もしていなかったが、今ここでようやく人さまの役に立てる日が来たのだ。できれば想像したくない事態を予想しつつ、ドアに背をたくすことにした。
ほうと息をつく。前のボタンを外し、肩を抜こうとしたところで……もはや言うまい。
ガチャガチャガチャ。
紳の想定通りである。何をしに来たとか、何をしたいんだとか、何をしようとしているんだとか、様々な思いがかけめぐる。そうしてたどり着いた結論、蹴破りはしないだろう。今までの行動を鑑みるに、そこまでイカレてはいないのだ。
カチャカチャカチャ。
御苦労な事だな、と思いつつ冷たい空気が首筋をなでる。手もすでに止まっていた。音が次第に大きくなっている気がするうえ、乱暴に扱っているようにも思える。
どうしよう、怖くて後ろが見れない。
ガタッ、という音ののち、水を打ったような静けさが部屋を包んだ。
そして。
キィ。
なぜ、なぜ開くんだ、ドア。
疑問符しか浮かばない。
恐る恐る振り向くと、彼が立っていた。悩みの種ランク第1位の彼である。口を開こうとした瞬間、誠司は朗らかな笑みをたたえスッとある物を差し出す。
ドライバー。
ああなるほど、それでドアノブごと。
紳は思わず手を打った。
「……じゃなくて」
「隙だらけだな、スナイパー。こんな柔なドア1枚で、蹴破るやつがいたらどうすんの。危ないったら」
と、満面の笑み。
「……んなことやるやつお前以外にいねぇよ」
ここまでやると開き直るようで、いっそ清々しいほどに堂々と、まじまじとなめるように紳を眺めた。
「何だよ」
「いいよねぇ、こういうの」
意味深な笑みを浮かべる誠司に鳥肌が立った。1歩あとずさる。
「何が」
質問に答える様子も無くにやついていた。
紳は先ほどから作業を中断している。脱ぎかけたパジャマの前は全開で、肩から外れた右袖は肘でひっかかっている。着慣れたパジャマは、ズボンのゴムが少し緩んでいるらしい。
「目の保養、ってやつかな」
誠司はそうつぶやくとにじり寄った。紳の中に嫌な予感が広がる。距離を保ったまま後ろに下がるが部屋はそれほど広くない。すぐに壁にぶつかる。ひやりとして気持ちが悪かった。誠司がにやりと笑みを浮かべる。
「ずっと我慢してたんだよね、これでも」
誠司は笑みを浮かべたまま紳を追い詰めると、輪郭を確かめるようにつうっと頬をなでた。
「なのに、無防備だよね〜、とか」
パジャマは指をひっかけるとするりと落ちる。
「誘ってるんじゃないの? なんて言いたくなっちゃうんだけどさ」
「せ、誠司さん?」
思わずへたり込むと、誠司は追うように膝立ちになった。床についた手に手を重ね、息がかかるほどに顔を近づけてくる。体がこわばって力が入らない。
「……なんで、抵抗しないわけ?」
誠司の表情から笑みが消えていた。
「俺のこと好きじゃないんだろ。だったら普通は抵抗すると思うけど。それとも――何しようとしてるか、分からないって言うんじゃないよね? まぁ、分かんないなら分かんないでそれも一興だけど」
「わ、分かる! 分かるから……す、ストップ!」
「まぁさ、そのへんはどうでも良いことなわけで。とりあえず、俺のものになってよ。ね、紳?」
顔が、直視できない。何を言えばいいのかも分からない。
うわぁ、俺、絶体絶命?
頭の中が白くなったその時だ。
コツコツ。
小さい音ではあるが、確かに聞こえる。コツコツ、コツコツ。その方向へ目をやると、窓をノックする女がいた。
魔女だ。
目が合うと、挨拶代わりに小さく手を振る。
部屋主の許可もなくガラリと窓を開けると土足のまま部屋に入った。
「やっと見つけましたよ。お2人とも」
魔女は状況をちらちらと盗み見る程度に確認し、ほんのり頬を赤らめて言った。
「その……お楽しみのところ申し訳ないのですけど、一応アフターケアに参りました」
「邪魔しないでくれる?」
誠司は苛々と言い放つ。
「いや、邪魔してください。存分に」
一方紳は、第三者の目が入ってようやく自分を取り戻す。慌ててパジャマを着なおすと、ほうと胸をなでおろした。
魔女は、少し迷った様子を見せながら、口を開く。
「あのですね、怒らないでくださいね」
すぅと息を吸い込むと、ゆっくりと吐いて、
「先日お渡ししたチョコなんですけれども、実はこちらの手違いで惚れ薬入りを渡してしまいまして」
「手違いって、それを頼んだんじゃなかったっけ」
いぶかしむ誠司に対し、口を軽く押さえてゴニョゴニョと答える。
「いえ、濃い目の方を。そのお、ちょっとばかり……というか、ものすご〜く、効果が強すぎるんですよねぇ。下手をすると理性が吹っ飛ぶというか、人格が変わってしまうというか……」
全ての元凶はやはりお前か。ギロリと紳ににらまれて魔女はたじろいだ。
「と、とりあえず、戻しますから」
「別に良いよ。これで幸せだし」
誠司がぴとりと寄り付くと、紳は悲鳴にも似た叫びを上げる。
「どうにかしてくれ!」
やはり反対の意見を述べ合う2人。魔女はため息をつくと、これがベストなんですよね、とつぶやく。
「このまま引き下がるわけにも参りません。恋愛は、双方の合意の上で行われるべきですから」
そう言うと誠司の額に手を当てて、もごもごと小さく唇を動かした。魔女がにこりと微笑み手を引くと、誠司の体がぐらりと揺れる。
「誠司!」
あわてて体を支える。声をかけるが、まぶたは閉じられたまま。返事はない。
「お前、何したんだよ」
「気絶してるだけですよ。普通は自然にまかせるんですけど、無理やり解きましたからね」
魔女はカバンを持つと、紳に向き直る。
「残りのチョコ、まだ持っていたのでしょう? 小さいのでも2個も食べれば効果は十分ですのに」
「何が言いたい」
魔女は口元をそっと押さえただけで、紳の言葉はさらりと流される。
「そういえば伝え忘れていたのですけども、惚れ薬の消費期限は開封した日から、ぴったり1週間です。それをすぎると効果がないですから、ご安心してお召し上がりください」
カラリと窓を開けると、思い出したように振り返った。
「ああ、あと、少し記憶が混乱していると思いますから、おまかせしますね。何かのきっかけで再発する可能性がないともいえませんし……まぁ、それはそうと、お幸せに」
爆弾発言を残して、魔女はごく自然に窓から身を投げる。紳は慌てて窓に駆け寄ったが、魔女の姿はすでに見えなかった。
「紳……? 俺、何を……」
誠司は身の回りを確認すると、1人首を傾げる。再び質問を投げかけるも、紳からしてみれば答えるわけにいかない。できればこのまま忘れてほしかった。誠司は疑問を深めながらも記憶の断片を拾い集めようと必死になっていた。
「チョコを買ってさ、食べたろ? 紳にもやったし。それから、それからどうしたっけかな。確かに寝た記憶はあるんだけど……」
一連の奇行については綺麗さっぱり抜け落ちているらしい。
変に意識されないで済んだ反面、少し腹が立った。人の神経をすり減らしておいて、自分だけケロリとしているのだ。誠司のせいではないにしても――やはり誠司のせいかもしれないが、ともかく気に食わないのだ。
男なら細かいこと気にするなとゲンコツをかましておいた。
「まぁ、学校学校。ちょっと早いけど、準備すっから待ってろ」
時刻確認のため何気なく携帯をあけると、ふっとあるものが脳裏をよぎった。
メールだ。
物的証拠は危険すぎる。一考し、芝居をうつことにした。
「あのさ、そういや、電話帳消しちまったんだよなぁ。ちょっと、携帯、貸してくれないかなぁ。先輩のメアドとか知ってるだろ?」
「別にかまわないけど」
携帯を受け取ると即行で送信履歴を一括削除する。これで一安心、なのだが。
「ああ! そういえば!」
「なんなんだ!?」
誠司の声に、記憶復活と奇行再開に備え、思わずファイティングポーズをとる。
「名前くらい聞いておけば良かったぁぁぁ」
ため息をつきながらうなだれる友達を前に、紳は胸をなでおろす。気の抜けた声ではあったが慰めのつもりでツッコミをいれた。
「どちらにしろ彼氏持ちだろ」
「そうだったけど、青春の1ページに穴が……。まぁ、チョコもらえただけでも良しとするか……って、味覚えてないんだよ、これが。そういや紳にもやったよな。覚えてるか?」
紳は若干ぎこちなく、
「普通のビターチョコ」
「そうかぁ。そうだったのかぁ」
誠司はあからさまに舌打ちをする。しばらく残念がっていたのだが、ふっと何かを思い出す。
「そういえばまだ残ってたんだ! ちっこいのが2つ!」
バレンタインの日を待たずして、春の大嵐が再び訪れる――かもしれない。
昔に書いたものを発掘してしまいました。これがいわくつきでして覚えている限り、
初期構想→バレンタインに絡めた王道NL。恋愛分多め。
できたもの→惚れ薬に絡めたある意味王道BL。ギャグ分多め。
……どこで間違ったよ、俺!(多分きっと確実に、プロット段階で大きくそれた)
というわけで次はNLでラブコメです。
ちったぁ成長した俺を見てくれ、今度こそちゃんとNLにしてみせる!
設定使いまわしてリベンジだ(それを続編とひとは云ふ)。あくまで予定!