書籍化御礼番外編②・エリザとヴァイオリンの話
この番外は2017年3/11に投稿したものです。
書籍版悪役転生だけどどうしてこうなった。二巻発売の記念と、皆様の応援へと御礼と致しまして。
一巻発売時と同じように、時間軸を合わせるために割り込み投稿としました。
この世界にもヴァイオリンに似た楽器があるらしい。教養の一つとしてそれが与えられたのは、兵舎から戻ってすぐの事であった。
「最近ツァーリの部屋からなんかすっごい音が聞こえるんだけどさあ」
講義を終え、休憩がてらカミルの用意した紅茶を二人で飲んでいると、突然そんな事をカミルが言い出した。
彼の視線は明らかに私の後方、最近部屋に置かれるようになったヴァイオリンケースに注がれている。
「う、煩い」
「いや煩いのはその音の方だよ、なにあの魔獣の悲鳴みたいな音」
「……まだ練習を始めたばかりだ」
からかうカミルに対して急降下する機嫌にぐっと眉間に皺を寄せると、彼は何故か思い切り愉快そうに口の端を吊り上げた。
「弾いてみせてよ」
にやにやしながらそう言うカミルと対象的に、私ははぁ?と頬を頬を引き攣らせる。
「練習中だと言ってるだろう」
「いいからいいから、鳴らすだけでさ」
嫌だ、やってよ、嫌だ、お願いツァーリ。
唐突な要求に何度か押し問答を何度も繰り返すと、しまいには断るのも面倒になってきて、結局押し切られる形で私はバイオリンをケースから取り出す事になった。
子供用楽器という概念が無いのか、大人と同じサイズのそれは今の私ではあからさまに持て余す大きさだ。持つだけでかなり苦労するのだが、それを見たカミルが噴き出したので、私は彼を思い切り睨みつける。
お前が弾いてみろと言ったんだろう、何を笑ってるんだ。
「ご、ごめん、つい……くっ、ふふ」
未だに笑いを堪えているカミルを再度睨んでから、私は手元に視線をやって、弦に弓を滑らせた。
ギギギギギ、とぎこちない手の動きに合わせて、まさしく魔獣の悲鳴のような音が出る。
滑らかに弓を引くには明らかに筋力が足りていない。技術以前の問題だ。
私は口を尖らせた。こうなる事が分かりきっているのに弾いてみせてとせがむのは、少し意地悪なのではないか。
……ところが、楽器の音を鳴らし始めるとカミルの笑いを噛み殺す声は消えた。
気になってふと視線を上げる。どう考えても耳触りが良いとは思えない音を鳴らす私を、穏やかな微笑を浮かべて眺めているカミルが見えた。
まるで兄弟を慈しむかのようなその表情の中には、何かを懐かしんでいる色が混じっているような気がして。
ギッ、と一際酷い音が上がったのはその瞬間だった。手元から意識が外れたせいだろうか。
途端に堪えきれないように机に突っ伏して笑いだしたカミルに、私はとうとうバイオリンを置くと、その震える脇腹を殴りに向かった。
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ギギギギギ、とやかましい音を耳元で立てるその楽器を、どうしてもラトカは好きになれずにいた。
本当は弾きこなせればとても美しい旋律を鳴らすのだと知ってはいる。
だが練習を初めて二ヶ月が過ぎてもこの調子であり、全く上達している気がしない。家庭教師が手本に弾いてみせたような、歌う声に似た優雅な音色など一生掛かっても出せるとは思えなかった。
楽器は貴族の教養に必ず含まれるものではあるが、ラトカに教養を与える事にしたエリザとテレジア伯爵の認識では、学問分野や実務、剣術などよりは後回しにされて良いものであったらしい。本来なら遅くとも七歳頃には始めるという音楽教養に漸くラトカが触れる事になったのは、彼がエリザの下へとやって来てから実に四年も後になってからであった。
「エリザ様が学習院へと入学するまでに一通り弾けるようにします」と家庭教師のマレシャン夫人から告げられたその日から、毎日毎日ギコギコギコギコと、とても音楽とは思えない音をラトカは鳴らし続けている。
(……あー、もう。貴族としての知識なら兎も角、ダンスとか楽器とか、そういう教養は俺には流石に必要ないんじゃないか?っていうかそういうのって男女で結構違うって何かで聞いた気がしたけど、俺は今どっちを習わせられてるんだ?)
不貞腐れた気分で内申不満を垂れ流しながらも暫く弓を動かしていたラトカであったが、ギュギョ、とあまりに聞くに耐えない音が出た瞬間、完全にやる気を失って弓を放り出す。
いつの間にか染み付いていた理性のせいで、繊細な楽器本体の方は静かにケースに戻したが、ラトカとしてはそんな動きに慣れきった自分にも頬が引き攣りそうになる。
やってらんねえ、と敢えて声に出して呟き、兵舎で生活していた頃のように乱暴に寝台へと身体を投げ出して、ラトカは深々と溜息を吐いた。
貴族は平民を苦しめて遊び呆けている存在だ、と憎んでいた自分が、今こうして貴族ならば当たり前に求められる事に苦心している。
皮肉が効いてるよなあ、と彼は自嘲に口元を歪めた。もしもエリザがそこまで考えてラトカに今の生活を与えているとするなら、なるほど彼女は王都で噂されるように、心臓まで凍りついたかのような冷酷な性状であるのかもしれない。
はあ、と再び溜息を吐いて、ふとラトカは微かに響いてくる音の存在に気が付いた。
ヴァイオリンだ。
美しく流れる歌うようなその旋律は、今の今までラトカがギコギコと無様な音を鳴らしていた楽器と同じものから出ているとは全く思えない。
実のところ、そもそもその貴族の体現のような優雅過ぎる音色自体、余りにも自分に不釣り合いな気がして、ラトカのモチベーションの低下の原因となっているのだが。
(……少し、見てこようかな)
毎日の自主練習は言いつけられているとはいえ、ヴァイオリンの授業自体は王都にいる間は無い。
誰が弾いているのか知らないが、最後の授業からもう十日以上が過ぎている。そろそろ他人の弾いている姿を見たいような気がした。
音の出処は一階のサロンのあたりだろうか。来客であればラトカが姿を見せるのはあまり宜しくはないが、防犯等の諸々の都合上の部屋の扉は開いている筈だ。
そっと覗く程度なら問題無いだろう、と考えて、案の定僅かに開いていたサロンの扉から内側を覗き込もうとした、丁度その時だった。
演奏者が変わったのか、先程までとは明らかに違う、力強い音が和音を奏でる。
そうしてそのまま、キュ、キュ、という微かに弓の擦れる音が音楽の中に組み込まれるような、情熱的な速弾きの曲が始まった。
(え、え、え。何だこれ、何だこの曲。すっげえかっこいいじゃん……。え、これ、ヴァイオリンで弾けるのかよ、こんな曲が!?)
ラトカは平民出身であり、その上ここ数年もエリザの激務に巻き込まれて音楽とは無縁のままに生きてきた。時折エリザに連れられて夜会で何かを聞く機会があったとしても、どれもゆったりとした曲調のものばかり。
彼がこのような速弾きの曲調のヴァイオリンの音色を聞いたのは、この瞬間が初めてであった。
一瞬にして抱いていた印象が反転するほど鮮明で凛々しい音色に、思わずドキドキと胸が高鳴る。
ごくり、と息を飲んだラトカは、先程までとは全く違う気持ちで改めてサロンの中を覗き込んだ。
そうして。
激しい弓の動きに合わせて、長くつややかな黒髪が揺れる様が視界に入った途端、ラトカは雷に打たれたかのような気持ちで衝動的に叫びそうになった。
女のお前がそんなに格好良くそんな格好良い曲弾くの、ずるいだろ!?
どうしてお前がそれで、俺はヒラヒラの女物の服着ててギコギコなんだよおかしいだろおおおおお!!!
……ここ数年で幼さによる頬の丸みが落ち始めた男装の少女は、時折うっかりするとトキメキかねないほど鋭く冴えた美貌を感じさせられるようになった。
運悪く侍女姿に扮しているときにそんな事を思ってしまった日には、ラトカは一晩中寝台の上で敗北感と嫉妬とその他いろいろ思春期的な感情からのた打ち回るしかなくなる程である。
……更に追い打ちのように、ヴァイオリンを奏でるエリザの正面でぽうっと頬を赤らめているのが学習院から遊びに来ていたエリーゼである事に気付いてしまったラトカは、ふらふらと扉から後ずさるなり、猛烈な勢いで自室に戻るとヴァイオリンのケースを開けた。
ここ数年でかなりエリザとの蟠りは無くなっていたラトカであったが、男としてのプライドに関わる対抗心に関しては、寧ろ膨れ上がってしまっている。
「絶対!絶対に!!あいつよりももっと格好良く、この楽器を弾きこなせるようになってやるからな!!!」
奮起の決意も新たに、ラトカは勢い勇んで振り被った弓を、そっと丁寧に弦へ触れさせるのであった。