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堰守
作:鐡蔵


突き通すような寒気が頬を差す。日差しは弱いが晴天で蒼穹に北から南へ雲が千切れて流れていく。ぶなの樹の先端にまだ残っていた小さい葉が風に吹き飛ばされていた。奥羽の山稜が雪を抱いて光り、山が迫る裾野の荒涼とした赤茶けた狭い寛斜面に一軒の藁葺きの家が蹲るように建っていた。南部支藩領内和賀郷江釣子菱内。ここは南部盛岡藩、伊達一ノ関藩、秋田新田藩の藩境が接する山又山の辺境で、険しい巖山と深く抉られた峡谷が人間の出入りを厳しく拒んでいる。人里離れたこの地は殿様の癇気に触れ、謂われもなく閑職に追いやられた武士の住まう吹き溜まりの土地である。この場所に北側の城下より辿り付くため幾つもの山を超え、断崖の猿しか通れぬような狭い岩場の鎖道を辿らなければ行きつけぬ。東側の和賀川沿いにも狭い沢道があることはあるが、猟師以外に知る人は少ない。江釣子十万石は百姓達に血の滲むような農作の営為で成り立つ。米を作るに欠かせない水は、先々代がこの辺境の地に艱難辛苦し構築した和賀の堰により導かれている。堰の保持には上流より流れてくる土砂や流木、落ち葉などの浚渫や撤去、堰堤岩組みの補修、穴堰と呼ぶ流入口の整備など欠かすことが出来ぬ。この役割りは藩の重要な仕事の筈であるが、何故か老齢の隠居同然の者か、失策をして懲罰のためこの職に追いやられた者がこの職につく。と謂うのは、大規模な補修や浚渫は膨大な資金を要するが為、数十年に一度行うだけで普段は堰を見回るだけである。隔絶したこの地で淋しく厳しい環境を耐え、堰を保持する役割りを担う武士は、他に行きようも無い者しかいない。領主弥ェ門和重の嫡男である一弥狗羆がこの途方もなく辛い境遇に落とされたのは、昨年暮れのことである。大殿と家老が薦める縁談を一弥がニベも無く断り、怒りの収まらぬ藩主は息子をこの閑職に追いやった。と同時に、千五百石あった俸禄を僅か十五石に落とし、更に一弥付きの家臣、郎党を罷免、たった一人の老爺の中間だけをつけ飼い殺しにしようとしたのである。実質上の島流しである。執政の中にはあまりに法外な施策と憤るものも大勢いたが、殿の威光は強かった。一弥は僅かな俸給だけでは暮らしが立ち行かず、人里離れた山間の僻地で最末端の堰守として、先代から伊藤家に仕える鐡蔵と共に狭い田圃と畑を耕して糊口を凌ぐ生活となったのである。境遇の激変に鐡蔵の嘆きは一通りでなく、始終愚痴ばかり零している。一弥は十日おきに堰の見回りをし、年に一度城に出向いて組頭に報告をする他、何もすることもなく休みの日は一日座敷に座ってつくねんと日を過ごしている。北上道場で三羽烏と謳われ、剣術では藩内に立ち向かうものはいないとまで謂われた剣士の面影はとうに無くし、鐡蔵同様生ける屍のようだ。
「不味い!このメシは。鐡蔵。何とかならんのか」
「メシ作りなどこの歳になるまでやったことが無ェんでがんす。イヤなら殿がご自分で支度なさって下っせえ」
「オカズは毎日同じ芋の煮付け。芯があって食えた代物じゃ無い」
「元はと謂えば殿が嫁御を断ったセイじゃ。あんな物好きな娘そうそう居ねえ」
「黙れ!又それを言う。クソ。わしは寝る。布団を出せ」
「敷きっ放しじゃ」
二人は顔を合わすたび口喧嘩。朽ちかけた家同様荒みきっていた。無精ひげにザンバラ髪、月代は暫く剃らずにいるから見苦しく毛が疎らに生えている。衣類も汚れ饐えた臭いがする。家を訪れるものもいないので不精をきめている。厳寒の二月末。朝方晴れていた天候が昼前猛吹雪となった。この日は生憎の見回り日。挫ける気持ちを立て直し、厳重な身繕いで堰に向かう。険路の山道を辿ること一刻、水が噴出す穴堰流出口下、垂直に近い岩盤の長い鎖場を攀じ登り流入口上、更に険路を行くこと半刻。漸く堰堤下に到達する。通い慣れた一弥でも息が上がる。一歩誤れば忽ち眼下数百尺の谷底に転げ落ちてしまうだろう。今日のような吹雪では道も定かでは無く、一足ごとに極度の緊張が強いられる。「つ、辛ェ」独り言が出る。熊革の合羽を着けていても冷気で身体の芯まで凍えてくる。かんじきを履いた熊沓。再び苦しい登攀。脚を置いた途端、氷で滑り、折角登ってきた道を登り口の堰堤下迄雪煙を上げて滑り落ちた。足許の積もった雪が崩れ、雪の下から着物の一部が見える。一弥は厭な予感がした。暮らしに行き詰まり、或いは男女の情のもつれからこの堰に身を投げるものは何年おきかに表れると聞いている。一弥は雪の下に倒れている人物が身投げ人に違いないと思った。役柄上その人物の人別を調べ、番所に届けなければならぬ。凍える手で雪を掻き分ける。・・と倒れていたのは予想していた老齢の下級武士では無く、見目麗しい若い女性。
「む、む。なんと、これは素晴らしい美人。一体こんな佳人がどうしてこんな山奥で倒れているんだろう」
一弥が己が顔を女性の顔に近づけると、息があり何処も怪我をしていない様子。崖から何等かの事情で落ちた際、気を失ったようだ。何れにせよ、自分の家に運び介抱せねばならぬ。腰に挟んだ山刀で周囲の潅木を切り、橇を拵え女性を乗せる。狭い崖下で苦心してやっと創り上げ、女を縄で縛り付け懸命に引く。息が上がり汗が滲んでくる。掛け声を上げながら登ってきた険路を下る。下りだから良いが登りであったらとても一人では運べなかっただろう。小一時間で雪まみれになりながら漸く我が家に辿り付く。
「て、て、鐡蔵!鐡蔵はおらんか。遭難者だ。火を焚いて湯を沸かせ。まだ息がある。助けるんだ」
主人の死に物狂いの形相に転寝していた鐡蔵は飛び起きた。
「へっ、只今」
家の周りに山と積んだ薪を山盛りに囲炉裏にくべる。いつもは死んだように生気の無い鐡蔵も、主人の必死さが移って機敏に走り回る。一弥は囲炉裏の脇にとっておきの布団を敷き、女性を横たえ、濡れた着物を脱がす。胸を開いて驚嘆した。染みひとつない純白の柔肌に形良い豊満な乳房。胸回りは三尺以上はある。乳輪は小さく形良く上向きで薄紅色。一弥はこれまで少なからぬ女性と交わったが、これほど見事な胸の持ち主にはお目にかかったことは無い。思わず溜息がでる。ついで足元まで着物を脱する。長い真っ直ぐで艶艶の脚。むだ毛一つ無い。下腹の淡い叢。腿のあたりは柔らかく膨らんでむっちりと肉がついている。顔は極めて可愛らしく誘うような受け口の唇。誰でも振り向かざるを得ない美形だ。
「て、鐡蔵。す、す、凄ェ美人だ。何処かの姫君かも知れん。戸を閉めろ。誰かに見られぬようにせい」
「こんな山奥だれも来めえが。あっ!しょんべん漏らしそうになる、見たことも無ェ天女のような美しさ。回りがぱぁっとあがるくなったみてえだ」
「そんだろ。えれえ拾い物。神様のお導きじゃ。おらが見つけて助け出した。おらのモンじゃぁ」
「絶対生き返さにゃならん。爺が気付け薬サもっとる。これば、口移しで飲ませてくだされ」
「そ、そうか。早く出してくれ」
秘薬麝香鹿の玉を口に含むと水と一緒に僅かづつ女性の唇に己が唇をあて流し込む。強力な麝香の効き目。女は身震いして硬く閉じていた目を開いた。
「う、う〜〜ん」
「き、気づいたぞ。姫君。もう大丈夫でございます。お気を確かにして下され。凍えた手足はじき温まります。鐡蔵。もっともっと火を熾せ。それと湯は沸いたのか」
「へ、へい。盥一杯沸いております」
「姫。失礼ながらお身体を熱い湯に漬けた手拭にて拭わせていただきます。裸形を晒すのは恥ずかしいでしょうから、暫し私の衣服を着ていてくだされ」
一弥と鐡蔵は助けた女性が蘇生したので甲斐甲斐しく世話を焼く。男所帯で衣類はもとより鏡や櫛など女性が必要とするものは何も無い。第一この女性に食べさせる満足な食事さえ用意できぬ。一弥は行李を引っ繰り返し、母親がもしもの時のためにと、密かに渡してくれた金子を取り出す。
「鐡蔵。お前これから北上の街まで出向き、このお姫様の着る衣類や化粧品、小物など必要と思われる品全部購って来い。それと今晩の飯はいつものような不味いメシではいかん。肉や魚、米、味噌、醤油など買ってきてくれ。荷物は多くなるから俺の馬を引いていってよい。急げ!夕刻までに戻って来い。二十五両ある。全部使って来てよい」
一弥が熱い湯に漬たし固く絞った手拭で姫の身体を優しく拭う。滑らかな肌が次第に赤味を帯び、濡れ光って輝いてくる。口移しをし、こうして身体を密着させ擦っていると、耐えがたく興奮してくる。姫は少し唇を開き喘ぐように身を捩る。
「は、はずかしゅうございます。殿方から斯様にされるのは生まれて初めてでございます」
「そ、そうか。斯くもあろう。わ、わしも初めてでござる」
下帯が千切れるほど膨らみ、袴までが出張ってしまう。
「ひ、姫君。な、なんとお呼びすれば宜しいか」
「は、はい。美歩と呼んで下さいまし」
「み、美歩殿。お身体何処か痛むところや傷ついたところはございませぬか」
「はい。幸い厚く積もった雪のお陰か、何処も大丈夫のようでございます」
「打ち身は当座痛みが無くとも時間の経過とともに痛みや熱を発してくる場合もござる。遠慮無く申すが良いぞ」
「ご親切に。有難う存じます。何処も痛むところは無いようです。貴方様は何れの御家中のお武家様でございますか。わたくしは秋田久保田藩御用達造り酒蔵元渡邊彦兵衛が娘、美歩にございます」
「えっ、あの大店のお嬢様ですか。北上にも支店があり、銘酒福祿寿は私も好んで飲んでおります。申し遅れました。私は和賀江釣子藩主伊藤弥ェ門和重が嫡男、伊藤一弥狗羆と申します。でありますが、先般拠所なき事由により父上の癇気に触れ、勘当され斯様なあばら家に住まっております。今はたった十五石を頂く足軽同然の身分」
「まぁ、でも貴方様の澄み切った瞳を拝見しますと、一弥様に落ち度があったとは信じられません」
「白粥を設えました。少し食べると宜しい。さ、私が食べさせて進ぜよう」
着やせするのか先ほど目にしたふくよかな肉付きは、一弥の衣服を身につけると驚くほど華奢に見える。背中を抱えて優しく抱き起こし、匙で少しずつ粥を掬って口に入れて差し上げる。
「おいしゅうございます。生き返る心地が致します」
「そうか、それは何よりだ。私が添い寝をして差し上げる。少し眠りなさい」
暖かい囲炉裏の横で布団に包まれ、身体をさすってもらうと、疲れと安堵から美歩はすぐ眠ってしまう。規則正しい息遣いは漸く危機を脱したようだ。紫色に凍えていた唇も赤味が差し、頬も生気を取り戻した。
「うむ。もう大丈夫だ。わしも少し眠るとするか。少々疲れた・・」
一弥は遠慮がちにお嬢様の寝ている布団の端に身を入れぐっすりと眠りこけた。
「旦那様。只今戻りました」
鐡蔵の声に目覚める。
「おう、儂も疲れて寝入っておった。姫はもう大丈夫だ」
「それは宜しゅうごぜえますだ。ほれ、着物や小物、化粧品などごっそり購ってきやした。晩飯は豪勢にマタギ料理熊鍋と致しやす。出掛け熊猟師の小十郎に出会い貴重な羆の背肉を分けて貰いました」
「でかした。ありゃ頗る温まる。鐡蔵。あの姫はノ、お前ェも好んで飲む秋田の銘酒、福禄寿を拵える元禄年間創業の老舗渡邊酒造の一人娘、美歩殿だ。藩主に年に二十万両もの大金を貸し付ける屈指の大店。その財力は秋田久保田藩二十二万石を凌ぐ。大金持ちのお嬢様である。気安く声を掛けてはならぬ」
「へ、へい。道理で気高く美しくあらせられる。おら、こんな美人始めて見た。それに身体の発育も凄ェ。張り切った乳房やお尻のまろやかさ、それに手足が真っ直ぐで長い。肌の色艶は純白でぬめやか」
「鐡蔵。その言葉二度と口にするでない。この屋に女性がいることは二人だけの秘密だ」
「旦那様。何故そのような大店中の大店のお嬢様が斯様な山奥の僻地に倒れていなさったんで?」
「うむ。わしもそれを知りたい。お嬢様がお元気になられたら聞きただして見よう。お前は熊鍋の料理に取り掛かれ。儂は風呂を焚く。男所帯で面倒だったから、風呂を焚くのは久しぶりだ」
「殿。張り切っておられる。元気な殿を見ると爺まで元気付けられる」
「お前の方こそ。いつもなら買い物を申し付けても、嫌がって逃げるばかりじゃったに」
「へい。あのように可愛い女子のためなら、頑張りもでます」
「儂もじゃ」
鐡蔵は大根、きのこ、牛蒡、人参、白滝、豆腐等を小屋前の小川で洗い早速鍋の支度に取り掛かる。一弥は山の清水から桶に水を汲み何度も往復して風呂桶を満たす。釜に薪をくべ風呂を沸かす。汚れた洗い桶や腰掛、すのこなど丹念にたわしで磨いて、乱れ駕籠に鐡蔵が買ってきた新しい襦袢や着物、櫛や化粧品を整える。二人共見違えるようにいそいそと働いた。夕刻、一弥は寝ている美歩を起こしてみる。
「み、美歩殿。ご気分は如何でござるか。風呂が沸いておる。入って汚れを落とされるが良かろう」
「う、う〜ん。眠りましたせいか、気分がすっきり致しました。では、お言葉に甘えましてお風呂使わせていただきます」
ゆっくり湯に浸かり、身体を温め、身体中を丹念に洗い清める。南蛮渡来のしゃぼんやへちま水が用意されていて嬉しい。髪も洗う。風呂から上がると脱衣場に真新しい下着や着物、帯、櫛や香油、白粉、頬紅、口紅、髪油、髪飾りなどが整理されて置いてある。傍らに腰掛けや鏡台、手拭、腰巻もある。美歩は嬉しくなって遠慮無く使わせてもらう。小一時間すると見違えるように麗しく装った姿に変わった。
「一弥様。お湯を使わせて頂きました。とても良いお湯でございました。ご用意していただきました着物など遠慮無く拝借しております。相済まぬことでございます。このような吹雪の中、街までお遣いに出られた鐡蔵様にも御礼申しあげます」
そう挨拶し美歩が二人のいる座敷に入る。薄紅色で小梅を散らした小袖に臙脂色の帯、風呂上りの上気した肌が美しい。唇には淡く紅を引き、櫛削った長い黒髪に白い髪飾り。大きな黒目勝ちの眼を輝かせ、微笑んでいる。
「おお、なんと可愛らしい。着物はまるで誂えたようにぴったりと似合っている」
美歩が風呂を使っている間、一弥と鐡蔵も月代を剃り、髪を整え、他所行きの衣服に着替えている。美しい姫と食事をするのにみすぼらしい姿では気が引けたからだ。
「一弥様。鐡蔵様。この度は危ういところをお助けくだされ、その上このように美しい着物を購っていただき、なんと御礼を申せば宜しいのか思い浮かびませぬ。誠に有難う存じます」
「なんの、当たり前の事をしたまで。囲炉裏近くにお出ましくだされ。空腹で御座ろう。こんな山中故ご馳走は出来かねますが、鐡蔵が苦心して手に入れた熊の肉で熊鍋を設えている。遭難からの回復にはこれが一番。お口に合わぬと存ずるが薬だと思うて食べて下され」
「まあ、熊鍋。無論食べたことはございません。でも美味しそうな匂い」
一弥は木杓子で椀に盛り薦める。
「とても精がつきます。熱いから吹いてから食べなさい」
「は、はい。あら、美味しいわ。これ本当に熊のお肉ですか?臭みも無く柔らか」
「さも有ろう。酒に漬け込んで柔らかくしました。野菜は鐡蔵が畑で丹精込めたもの。存分に食べなさい」
薦められるまま美歩は久しぶりに満腹するまで食べた。実家ではほんの少ししか食べられない。空腹だったのと一弥、鐡蔵の優しいもてなしがすっかり心を溶かしてくれたからである。
「美歩様。とてもお美しい。こんなお嬢様が何故このような山間で倒れていなさったのか、お差支えなければその訳をお聞かせねがえませんか」
「はい。私は造り酒屋の一人娘として何不自由無く育てられました。父親の彦兵衛は五十の齢を数え、そろそろ跡取を探さなければと思ったようでございます。私に婿を迎える算段を始めました。老舗故条件も難しく数多ある候補者の中から見込んだ男と私を見合わせようとしました。ところがその男は身分格式は申し分無いのですが、どうやら女たらしのだらしない男と解り、私は断りました。ところが父は商売のため我慢してその男に嫁いでくれと一点張り。私は尊敬していた父上と対立、心身とも疲れ果ててしまいました。そこで私付きの女中千恵の里が和賀の夏油にあり、そこで湯治を兼ね暫く身を隠し、父の気持ちが収まるのを待とうとおもったのでございます」
「秋田より夏油までは遠路。さぞ辛い道のりであっただろう」
「はい。馬で羽州街道を下り、六郷より横手で平和街道、越中畑御番所で漸う和賀国に至りました。その先は馬も使えぬ難所。途中女中や案内の熊猟師ともはぐれ、迷った挙句沢沿いを下りまして、堰に辿り付き一息ついた時崖から滑り落ちました。あとは殿様に助けられたことを僅かに記憶しているのみでございます」
「そんなご苦労をされたのか。さぞ難儀な道行きであったろう。しかし僥倖であった。儂があの地に赴くのは十日に一度、しかも堰上から転げ落ちなんだら、そなたを見つけることは無かった。山の神様のお導きじゃ」
「はい。危ういところお助けいただき誠に有難う存じます。せめてもの御礼をさせて頂きたいのですが、生憎父と疎遠しております。後日改めて御礼申しあげるつもりでございます」
「なんの。あたり前のことをしたまで。儂の仕事でござる。然し偶然とは恐ろしい。私が父上より勘当されたるは、実に父上の進める縁談を儂が断った為である。そなたの心労は手に取るように解り申す」
「まあ、一弥様も。今の世縁談を親が勝手に決め子供に押し付けるのは可笑しいと存じます。好きなもの同士が結ばれるのが幸せな家庭を築きます」
「良くぞもうされた。美歩殿は誰ぞ好きなお人がおられるのでしょう。私は機会が無く未だ付き合ううた女子は居りませんが」
「いえ、心に描くお人はあっても実際そういうお方にはお目にかかれません」
「貴女は非常に美しく可愛らしい。見目良き男が一杯群がると思いますが?」
「いえ。決してそのようなことはございません。普段殆ど出歩きませんし、引っ込み思案です。だから父が心配したのです」
「うむ。ここは人里離れた山間の僻地。近傍には住む人はおりません。暫くこの家で静養して頂きたい。ご覧の通り男所帯のむさ苦しい侘び屋でござるが。のお、鐡蔵。お嬢様に暫く我が家に留まって頂くに異存は無いじゃろ」
「も、勿論でございます。このような天使の如く美貌の姫が居られたら、喧嘩の絶えぬこの家に花が咲きましょう。喜んで精一杯お世話させて頂きます。何なりと入用のもの仰ってくださりませ」
「命を助けていただいた上、何たるご親切。お言葉に甘え、暫くご厄介になりたくお願い申しあげます」
「嬉しいぞ。おい、鐡蔵。お嬢様の寝間の支度をせい」
「は、はい。しかし急な事ゆえ布団が一組しかございません」
「うむ。儂は囲炉裏端で良い。武士である。身体は鍛えてある。布団など無用じゃ」
「いけませぬ。それではお風邪を召してしまいます。一つのお布団に二人で休めば良いではありませんか。私はそれで構いませぬ」
「し、しかし・・嫁入り前の娘子と一緒に寝るのは些か不道徳に過ぎぬか?」
「大丈夫だす。僻地故見咎める者など居るはずもありませぬ。私は普段使っている納屋で休みますので、お二人でゆるりと休まれてくださいまし」
「そ、そうかの。布団中央に仕切りを作りお互い相手側には侵入せぬようにしましょう」
「あら。私は一弥様を信頼いたします。そんなことなさらないでください」
暫くして鐡蔵が支度が整ったと知らせる。
「火鉢に火を入れ行灯を灯してございます。ごゆるりとお休みください。」
一弥は美歩の美貌と優しい心遣い、先ほど見た素晴らしい肢体を思い出しすっかり心を奪われていた。美歩も一弥の逞しい体躯と懇切極まる介護や時折見せる淋しそうな横顔、快活に笑う笑顔に強く惹かれていた。
「先に休んで下され。儂は風呂を使ってから寝ます」
「はい。お疲れで御座いましょう。一弥様も早く来てくださいネ。狼の吠える声も聞こえます。なにやら心細くて」
「ふむ。直ぐ出るから案ずることは御座らん」
美歩が寝間に入ると新しい浴衣が用意され部屋は暖かく気持ちが良い。思い切って着物を脱いで全裸となり傍らの姿身で己が身体を見てみる。惚れ惚れとする引き締まった腹部、露わな鎖骨、張り切った乳房、長い脚。純白の肌は眩しいほど艶やかに光っている。一弥と結ばれたい気持ちが高まって、全裸のまま布団に入り、行灯の火を細める。じき一弥が寝間に入る。
「お休み召されたか。儂も布団に入ります。御免」
風呂で温まった熱い身体がすぐ隣に入る。小さな布団に二人。厭でも触れ合ってしまう。うっと息を飲む音がする。美歩の裸の手足に触れたのだ。びくっと縮こまる様子。暫くすると又触れ合う。限りなく柔らかく、滑らかで内腿は火が点いたように熱い。
「か、一弥様。私怖うございます。抱きしめてください」
「よ、よ、良いのか」
美歩の手が伸び一弥の手を引き寄せ己が胸に置く。すべすべで素晴らしい弾力。胸の先の突起が尖り硬くなる。脚を絡める。
「一弥様。一目見た時より一弥様のような
人に抱かれたいと思いました。ふしだらな女とお思いでしょうが、気持ちを押し留められません。抱いて下さいまし」
「儂もだ。そなたのような女子と肌を交えたいと常に念じておった」
「か、一弥様」
「美歩殿。好きでござる」
一弥が美歩の項の下に腕を差し入れ引き寄せる。熱い吐息がかかる。唇をそっと合わせると、思いもしなかった美歩が柔らかい舌を絡めて来る。若い二人が一つの布団で全裸で抱き合えば自然行くところは一つ。美歩は小さな叫び声を上げた・・・二人は一晩中睦み合い、何度も結ばれた。ぐっすり寝入った一弥が目覚めたのは朝日が眩しく差し込む時間だ。台所からトントンと野菜を刻む音がする。美味そうな味噌汁や飯の炊ける匂いもする。跳ね起きて衣服を身に着け、慌てて井戸端で顔を洗う。鐡蔵も今起きたようだ。
「おはようございます。朝ご飯作りました。お口に合いますかどうか」
美歩は凛々しく襷掛けで頭に手ぬぐいを被っている。座敷には一人一人の膳に鯵の干物、大根卸し、野菜の煮しめ、味噌汁、香の物、ご飯が盛り付けられている。
「鐡蔵さんもご一緒にどうぞ」
「へ、へい。いつも手前が拵える朝飯とは大違い。美味そう」
「一弥様。これからお食事は私が作らせて頂きます」
「う、う、美味いっ!何たる美味さじゃ。これぞ朝飯。美歩殿。お手前は美しいだけでは無く、料理も大の上手」
「殿。まるでご新造様が来たみてえだす。いっそ、お嫁様にお迎えなさっては?」
「め、滅多なことを申すでない。美歩殿は儂などより遥かに良き男を望んでおられる。そうに決まっておる」
「あら、昨夜ご一緒に床に入りました。とても逞しく素敵な方でしたわ」
「殿様。既に床入りを果たしましたのか。それは目出度い」
からかわれ顔面朱を染めた一弥。内心甚だ愉快である。食事が済むと美歩は鐡蔵に手伝わせて部屋の片付けや拭き掃除、洗濯、障子張り替えと大忙し。毎日甲斐甲斐しく働いて薄汚れた家の中は見る間に小奇麗に変わった。かって無いことだがお役目の書見の時間以外は一弥も家の中の仕事をまめまめしく手伝う。美歩が来て以来家の中は笑い声が絶えない。些細な冗談も美歩が口を手で覆って笑い転げる。一弥や鐡蔵もつられて笑う。腐った藁屋根の葺き替え、板壁の修繕、竈や囲炉裏の補修。三人は力を合わせ精を出した。十日が経った。雪深い北国の山間に漸く遅い春が訪れようとしていた。一弥はいつも自分のことを気にかけ、優しく接してくれる姉君の弥絵様と密かに連絡をとり当座の費用を融通して貰った。
「美歩殿。山の中の暮らし少し飽きて来たでしょう。どうですか、北上黒沢尻にでも出て見ませんか。お着物や化粧品など新調せねばならぬし、髪結いも必要。儂も久しぶりに街に出たくなった」
「それは嬉しゅうございます。あちらで美味しいもの食べたいナ」
「うむ。その積りでござる。話は決まった。鐡蔵。納屋から馬を出せ。お前も付いて参れ」
「へ。有難う存じます。では早速」
鐡蔵が手綱を取り、美歩は前に横座り、一弥は後ろで美歩を抱きかかえる。
「出立じゃ。良い天気じゃ。小鳥が囀っておる」
「小さい花が一杯さいております」
のんびりと和賀川渓谷沿いの小道をゆっくりと進むと半刻ほどして景色が開いて美麗な田圃が連なる平地に出る。田圃は既に田起こしが始まり、大勢の百姓が頻りと鍬で土を起こしている。田の畦は草が萌え、花盛りである。更に行くと小高い丘陵に出る。こんもりとしたぶなの林。縦横に小川が網の目のように流れ、菫や桜草、春蘭などが一面に咲いている。
「麗しい地ですね。ここはなんと言う場所ですか」
「カムィ・ヘチリコと申す。土語にて神々が遊び集う場所との彙で奈良に都があった遠い昔、時の朝廷に叛旗を翻した英雄達が蜂起した場所です。私の遠祖カズルイもこの地で生を受けたと言い伝えられております」
「話に聞く桃源郷のようです。あの草地に座ってお昼にしましょう」
「天気も申し分無い。暖かく気持ちの良い日だ。鐡蔵。そこの小川で水を汲み茶を沸かせ、儂は馬から降りて毛氈を敷き美歩殿の席を作る」
真っ青な草地に緋毛氈を敷き、若草色の着物を着た美歩を馬から抱き下ろす。改めて惚れ惚れと見る。陽に照らされ眩しそうな美歩は溌剌とした肌を輝かせ、一弥を見つめる。
「美しい。大好きでござる。唇を合わせて宜しいか」
「はい」
ゆっくりと唇を重ねあう。着物の合わせ目から手を差し入れ豊かな胸を愛撫していると水を汲んできた鐡蔵が戻る。
「殿。ここは山の中の一軒家とは異なり時折人も訪れますだ。殿様美歩様の唇が糸を引いて繋がっています。誰が見ちょるかわがんねえ。自重なさってくだっせえ」
「うむ。そうであった。さあ、昼食に致そう。美歩。今日の昼飯は何かの?」
「はい。殿様が好きな小鮒の甘露煮と牛蒡の味噌漬。厚焼き卵、それに昆布と鰹節が入ったおにぎりですよ。たんと召し上がれ」
「美味いのお。外で食べると格別じゃ。美歩。顎の下に飯粒が付いておる。拙者が取ってあげよう」
「あら、じゃあ一弥さん。取ってェ」
「まるで夫婦。新婚早々の如く仲睦まじい」
「妬くな。毎晩肌を合わせていると自然とこうなる。ねえ、美歩ちゃん」
「一弥様は江釣子十万石の領主を継ぐ身。軽軽しく美歩ちゃんなどと申されては為りませぬ」「堅苦しいことを申すな。可愛らしくてちゃんづけが相応しい」
「左様でございますな」
楽しく昼食を摂って再び出発。黒沢尻宿についた。流石奥州道中の宿場で沢山の商家や宿屋が建ち並んでいる。大店の呉服屋で着物を見繕ってもらう。番頭が出て愛想を振り撒く。
「ご新造様。こちらは如何でございますか。浅黄の地に一面桜花が散っております。お綺麗なお肌や黒髪に良くお似合いと存じます。当ててご覧下さい」
「襦袢や帯、足袋なども欲しいわ。革の草履も。良いでしょう。一弥様」
「うむ。欲しいもの何でも購ってあげよう」
「流石旦那様。襦袢はこちらの薄物。薄桃色が宜しいかと。帯は先日仕入れたばかりの極上品、金糸で蝶の縫い取りのあるこちらがぴったり。着物、帯、襦袢合わせて三十五両でございます」
「さ、三十五両!殿様宜しいンでがんすか?」
「控えろ!鐡蔵。お前の口を出すことでは無い。向こうで馬の世話でもしておれ」
履物屋で足袋、草履、小間物屋で化粧水や白粉、口紅や爪紅、簪や髪飾りを買う。合わせて五十両の大盤振る舞い。
「嬉しいわ。美歩とっても幸せよ。お買い物大好きなの」
「あい解った。これからも時々二人で買い物に来よう。鐡蔵は吝いからもう連れて来ぬ」
「今日ももう帰って貰ったら」
「ふむ。そうだの。邪魔である。おい。鐡蔵。貴様家に帰って掃除でもしておけ。儂らは二三日逗留致す。馬は曳いて行け」
しょげかえって帰宅の途につく鐡蔵。見送りもそこそこに二人は早速手を繋いで料理茶屋へ向かう。黒沢川沿いの川魚料理、大安楼。今日は昔の若殿の出で立ちだから女将が最上の客席に通す。
「おう。大殿が使う翡翠の間か。懐かしいのお」
「若様。大変お可愛らしいお嬢様でございますね。さて私も聞いてはおりませんが近頃娶られたのでございますか」
「いや。まだ娶ってはおらぬ」
「美歩と申します。お見知りおきを」
「左様でございますか。それにしてもお美しい。若様にお似合いです」
女将が下がると仲居が料理を運んでくる。吟味された食器に美しく盛り付けられた料理。美味である。
「美味しいわ」
「美歩。さっき買った着物着てみて下され」
「えっ、ここで」
「先ほど手水に立った折、暫く呼ぶまで来るなと言いつけてある。誰も来ないから裸になっても良い」
「まあ。裸なんて。こんな処で恥ずかしいわ」
「なに、着替えて見せて貰うだけ。拙者がお手伝いしよう」
一弥は立ち上がって美歩の後ろに立ち静かに帯を解き、着物を肩から外し次いで襦袢をはだける。全ての衣類が下に落ちてあられもない全裸。
「ごくっ。素晴らしい。美歩の裸形は非の打ちようも無い。後ろを向いてお尻も見せて下され」
「はい。どう?ワタシの身体・・」
細身で有りながら胸も尻も十二分に発達し大人の女性の色気で部屋中が充満し圧倒される。新しい襦袢を焦らしながら身につける仕草に一弥は激しく欲情した。
「拙者、モオ駄目だ。耐えられん」
「一弥さまぁ」
二人は倒れこみ貪るように求め合った。隣室ではむさ苦しい武士が三人酒を酌み交わし、愚痴をぶちまけていた。
「お城勤めも飽き飽きしたぜ。毎日おんなじ仕事でつくづく厭になった」
「おい。先ほど隣の部屋に入った男はどうも見覚えがある。連れは滅法いい女。しっぽりやっているらしく、喘ぎ声がするぜ」
「俺達はまるで女に縁が無ェ。左程風采が上がる男には見えなんだが、あの若造トンでも無ェ野郎だ。あ奴の正体を暴いてヤル」
「襖の隙間から覗いて見ようゼ。ゲっ。素っ裸で絡み合っやがる」
「糞!ヒイヒイ言わせやがって。こっちは汚ェ男が三人。蛆が湧くぜ」
「お、おい。思い出した。ア奴は一弥狗羆。大殿の不興を買って放逐され、人も通わぬ山ン中でドン底暮らしをしてるって聞いたが。なして超美形の女とこんな高級料亭にしけこんでルんじゃ」
「隣に討ち入って成敗してヤル」
「待て、待て。ア奴たしかご城下北上道場で師範代を勤め腕がたつ。俺らではとても歯がたたん。逆に切り殺される」
「奴の上司、御普請吟味役組頭の森井様に注進したらどうか。日頃より一弥を忌み嫌っている。森井殿は雖井蛙流剣術の達人。一弥も絶対適うまい」
「良き思案じゃ。このままだと妬けて堪らん。組頭様のところへ出向いてこれこれしかじかと訴える」
北上の大河に沿って松並木の続く広い奥州街道が南北に伸び、和賀の渡しを過ぎると道は登って黒沢尻の四辻に出る。街は奥州街道を挟んで東西に広がり、背後の黒沢川沿いの両側は料亭や茶屋、花街などが立ち並ぶ歓楽の地である。江釣子城は街から半里ほど西に離れた鳩岡崎にあり四周を掘割に囲まれた平城だ。城下までは延々と街が連なっている。城下町は城に近づくにつれ武家屋敷が多くなる。上士、中士達の屋敷は城を取り囲むように配置されている。石高三百石の中士、組頭森井健悟衛門の屋敷は江釣子城の北側にある。翌朝怒りの収まらぬ三人は打ち揃って森井宅を訪れた。森井は城下きっての切れ者の噂高く、筆頭家老秋山鉄斎の覚えも目出度く、先代の百石だった家禄を三百石にまで上げるという異例の累進を遂げている。広大な屋敷を前にして三人は怯んだが、昨夜のあまりの衝撃を内に秘めて置く事も出来ず、朋輩三人組であれば何とか為るだろうと勇気を出して門を叩いた。運良く森井は在宅しており、あっけなく面会が叶う。森井は小柄だがでっぷり肥えており、赤ら顔で顎下にもじゃもじゃの髭を蓄えている。叱責するかのような胴間声を張り上げ用件を問う。
「お前ェ達。役無しの小普請組の連中であろう。何事じゃ。儂は詰らぬ愚痴は聞く耳を持たんぞ」
「は、はっ。も、森井様。是非お耳に入れたき事柄を昨晩我ら三名、目に致しました」
「何だ。謂うてみい」
「はっ。森井様最末端の配下に伊藤一弥狗羆と言う者がおるかと存じます」
「何ィ。一弥?訊かん名じゃ」
「昨年末不祥事を起こし、大殿弥ェ門和重様の実のお子でありながら、ご不興をかって和賀堰御用に落とされた男」
「ん?下賎な中間以下の堰守をしている男か。ふむ。思い出した。前に一度庭先で報告を受けた。あのバカ野郎か。あいつ又何をしでかした?これ以上もう落としようも無いが」
「ア奴、貧窮の最中にありながら城下一の料亭、大安楼にしけ込み、あろうことか非常な美女といちゃついておりました。昼日中より情交、辺り構わぬ情痴の喘ぎ声で隣室でご政道の行く末を論議していた我らも耳を塞ぎたくなる破廉恥さ。許しがたきことで御座います故、ご上司であらせられる森井様に訴え出た次第でございます」
「う〜む。聞きしに勝る厚顔無恥な振る舞い。して相方の女は何者だ」
「はっ。しかとは解りかねますが、尋常あらざる美貌の持ち主で、痩せ型ながら胸や尻の発育も甚だしく、雪より白い艶肌の持ち主。男なら誰でも惹かれ遣りたくなる女。確か美歩と呼ばれておりました」
「バカ者。何故その場で一弥を討ち果たさなんだ。左様な破廉恥行為は大殿が最もお嫌いである」
「はい。そうは思いましたが、あ奴一刀流の達人。三人がかりでも返り討ちになるは必定。まずは森井様のお耳に入れご指示を伺うのが大事と心得ました」
森井は怒りのため赤ら顔に朱を注いだ赤鬼の形相となり吠えた。
「お前ェ等!儂が大の女好きなこと予め耳に入れておきやがれっ!その女、儂のモノにしてくりょう。一弥には絶対渡さん。汚らわしい。下がれっ」
貴重な情報を提供し報奨金が包まれると思った三人。何も手に入らず、森井の大声に圧倒されスゴスゴと逃げ帰るしか無い。その夜森井は御城内の筆頭家老秋山鉄斎の居宅を訪問した。鉄斎は弥ェ門和重の次男、弥太郎君麻呂を後継ぎに据えようと暗躍し、長男一弥狗羆追い落としを画策した張本人である。健悟衛門は常日頃から鉄斎に扈従し追従して今の累進を見た。江釣子藩は鉄斎率いる派閥と一弥を擁立する側用人石山博乃丞の派閥が事あるごとに対立、特に大殿が老齢となり早急にお世継ぎを決めねばならぬ此の頃は一層両者の対立は険悪となり、お互い機先を草した派閥が相手派閥を抹殺しようと必死だ。一弥が僅かな瑕瑾で世継ぎの地位を追われ、酷い境遇になったのは、事を荒立て藩主に誇張して言葉巧みに言い立て、それを間に受けた藩主が怒り狂って断罪したからである。三千坪は優に超す鉄斎の屋敷は、巨木が生い茂り、厳重な長屋門で守られている。健悟衛門がお訪いを告げると、がっしりした門扉が開かれ、曲りくねった屋敷奥の座敷に招じ入れられた。鉄斎は銀髪、鶴のように痩せ、落ち窪んだ細い目は決して笑わず鋭い。
「夜分遅く誠に失礼でござりますが、ご家老に是非とも聞いて頂きたいこと耳に致し、駆けつけました」
「些か礼を失しておる。下らぬ用件とあらば貴公の禄は召し上げに致す。申してみよ」
「は、はっ。先般ご家老のご尽力で追い落とした一弥狗羆のことでございます」
「あ奴は既に過去の男。既に放逐され再起は不能の筈。己の哀れな境遇と退屈な職務に塞ぎこんで寝てばかりいると聞く」
「ご家老。その筈の男一弥が事もあろう、世にも稀な若い美女と二人で江釣子随一の料亭、大安楼に乗り込み、ご家老愛用に最上の座敷翡翠の間にて、昼日中より淫乱極まる痴戯、痴態。全裸にて絡み合い、聞くに堪えぬ善がり声の数々。このまま放置すれば図に乗って増長し、更なる痴業を繰り返すに相違ありませぬ」
「森井。貴様はこの事態を如何したいと思うのじゃ。儂もあ奴が以前より甚だ嫌いでノ、追い落としたあとも、時折乱波を放って奴の動向を探らせていた。つい先だっても再起不能の零落れ振りと聞いたが」
「大殿には二人の若殿の他に姉君弥絵様がおられます。弥絵様は幼少の折から一弥メを寵愛されておりました。或いは弥絵様が密かに一弥メを援助しておるかも知れませぬ」
「森井、流石儂が引き立ててやった男よの。鋭い見方だ。そのような事が無きよう、鳥も通わぬ僻遠の山中に追いやったのじゃが。一体如何なる手立てで連絡を取っていたのか。森井。調査を命じる。次に一弥メと同衾した美女だが何者かそれも即刻取り調べよ」
「は、はっ。直ぐに取り掛かります。私に良い思案がございます。その美女をば私の側女に差し出させと命じるのです。さすればその女に首ったけの一弥は狂って私に果たし状を寄越すと思われます。私は雖井蛙流の祖、深尾角馬先生より直接教えを頂いた男。腕には些か自信が御座います。決闘し一弥を一刀両断、討ち果たしてしまいます。その後はその女、我が愛妾とさせて頂きます」
「うむ。さすれば一弥贔屓の石山博乃丞一派は総崩れ。一網打尽だな。ふっ、ふっ、ふ。良き思案だ。成功の暁にはそちに更なる加増を約定しよう。五百石と致す。上士に仲間入りし、執政の一角を担ってもらう。普請奉行を申し付けよう」
「は、はっ」
思わぬ成り行きと展開に家老宅より帰途につく。引き締めても顔が自然と緩み、自宅近くでは哄笑する。江釣子城では先年火災で焼失した西の丸御殿造営の計画がある。この造営を普請奉行として仕切ったならば、膨大な賄賂が転がり込むのは確実だ。
「只今戻った。明日早朝大目付様に面会出きる様手筈を取れ」
家臣に伝えると森井は酒を喰らって上機嫌で高鼾。翌朝自ら大目付高取昭吾守に家老鉄斎の添え状付きで一弥の資金調達先、弥絵様の援助の有無、女の身分、素性などの探索を願い出た。その脚で家老宅を再訪、一弥呼び出しの差し紙を頂戴すると即座に家臣に命じて、一弥の菱内山中の詫び住まいに届けさせることにした。その朝一弥と美歩は昨夜の甘美な添い寝の喜びから覚めやらず、朝方も契りを結んだ。昼前漸く起き上がり、二人揃って湯屋に向かい、按摩、髪結い、化粧をしてもらう。
「可愛いなぁ。美歩。凄く綺麗だよ。手足の爪に紅を差したからとても素敵だ」
「あら、一弥様もすっかり凛々しくなられました。男ぶりご立派ですよ」
「大安楼は満喫したね。綺麗になった美歩と今日は何処に泊まろうかな。ちょっと足を伸ばして花巻に佳松園という料亭旅館がある。ここから北に一里程だ。駕籠なら小半刻で着いちゃう。近くに釜淵の滝という名瀑があり風光明媚な処。温泉が沸き、部屋は新しくて広いし、料理が美味いと評判」
「わぁ、美歩、其処へ行きたいわ。思いっきり甘えさせてェ。」
「二人してこのようにお洒落し、高雅な旅亭に泊まる。夢のようだ」
「まるで新婚みたい」
「ふむ」
大安楼の女将に駕籠を呼んで貰い、二人は花巻佳松園に向かった。駕籠の中でもイチャイチャしどうし。
「美歩の胸、柔らかいけど弾力があって、こうして撫でていると張ってきて少し硬くなるネ」
「感じると固くなるのよ。イヤ、そんなに触られると濡れてきちゃう」
「いいんじゃない。もうすぐ宿だし。まず露天風呂で愛し合って、夕食を食べよう。そして直ぐに布団でしようね」
「まあ、素敵」
佳松園は南部藩最高の宿で南部公もお忍びで何度か訪れるという。江釣子藩主弥ェ門はその格式の高さに恐れを為し、未だ利用したことが無い。駕籠を乗り入れられる、長い庇のある前庭の奥が広い玄関。左手に帳場があり手代、番頭が居ずまいを正して座っている。多数の女中、仲居が出迎える。中央のきりっとした年嵩の威厳のある女性が女将なのであろう。
「女将の柚木絵でございます。一弥様。ようこそお出で下されました。大安楼の女将から話は伺ってございます。とっておきの離れをご用意しております。ご新造様でいらっしゃいますか。そのお着物とても良くお似合いです。一弥様のお見立てですか」
「そうなんです。一弥様に昨日買っていただきました。私は美歩と申します。未だ籍は入れておりませぬが、夫婦の契りは済ませております」
「初々しくとてもお美しい。手前どもには南部公始め、高貴な姫君が多くご利用になりますが、美歩様のように美しく可愛らしい女子は見たこともありません。どちらの御家中でいらっしゃいますか」
「はい。私は武家の子女ではありません。秋田久保田藩御用達造り酒屋渡邊彦兵衛が娘でございます」
「えっ。あの陸奥国随一のお大尽、、資産十五億五千萬両とお噂の彦兵衛様のご息女であらせられますか。ご無礼致しました。私が部屋までご案内させていただきます」
女将以下十人の女中に傅かれて一弥と美歩は悠々と広い階段を上り、長い廊下を歩いて松の茂る中庭前の畳廊下を通り、離れ御幸の間に導かれた。御幸の間はかって十四代将軍徳川家茂ご来臨の際、改めて造営されたもので、其の後誰にも開放していない。離れは優美な数奇屋造りで十五畳、十二畳、八畳の座敷と六畳の次の間、四畳半の茶室がある。他に巨大な小判型の檜浴槽や岩組みの露天風呂、手水や厠、小台所などが設えられている。ここなら何日逗留しても飽きそうも無い。障子を開け放つと壮麗な南部赤松の林と手入れの行き届いた石庭が眼下に一望される。
「素敵なお宿ね。美歩気に入りました」
「そうであろう。私も今まで何度も来たいと思っておりましたが、気後れし本日が初めてでござる。美歩殿が一緒だから来ることが出来ました。一晩の宿代は一人百五十両。私の身分では来られません」
「ま、一弥さんったら。いいわ。ここのお代は美歩が払います。着物や小物沢山買って頂いた御礼ですよ。気取った会話はオシマイ。ねえ、一弥ぁ、美歩おなか空いちゃった」
「食べる前にそこの露天風呂入ろうよ。お風呂の中でやりたいナ」
丁度そのころである。菱内山中の伊藤宅は激しい馬の嘶きで静まりかえったしじまが破られた。する事も無く午睡を貪っていた鐡蔵は、玄関をガンガン叩く音に目覚めた。
「一体ェ何事だんべ。滅多に人の訪れることの無ェ家に」
寝ぼけ眼で玄関を空けると、屈強の人相の悪い武士が数人屋敷を覗き込んでいる。
「どちら様でがんしょ?この家は伊藤一弥狗羆の屋敷じゃが」
「一弥はまだ戻っておらんのか?ご家老秋山鉄斎様からの差し紙である。伊藤一弥儀、即刻普請組頭森井健悟衛門様のもとへ出頭申し付ける。上意でござる」
「へ?主人は黒沢尻方面に出向いており留守でガンス」
「バカ。すぐ草の根分けて探し出し、明後早朝に健悟衛門様お屋敷にまかりださせろ。万一来ぬ場合、この屋に火を放ちお前を焼き殺す」
「な、なしてそげな無体なこと言うンでがんす?」
「ジジイ!黙って言うことを聞け。叩き切るぞ」
「ひいっ。仰せの通りに致しやす」
武士達が立ち去ると鐡蔵は慌てて身繕いをし、黒沢尻にあたふたと駈けていった。
「た、確か殿様は大安楼に行ぐと言っていたナ。まんずそっちさ行ってみんべえ」
鐡蔵が道を聞きながら大安楼にたどり着いたのは昼。汚い風体で追い返されそうになるが、必死に女中に喰らい着いて聞き出す。
「ちいっと遅かったノ。一弥様と美歩様はお手手繋いで花巻の佳松園サ行っちまったヨ」
「か、佳松園?徳川家ご用達のかいな。旦那も張り切ったモンだ。そっちさ行がねばならんノ」
フラフラと又走って鐡蔵が花巻温泉に到着した時は夕闇が迫っていた。
「も〜し。お頼み申します。手前の主人伊藤一弥狗羆が此方へ逗留と聞いてめえりました。あっしは中間の鐡蔵と申します。主人に火急の用が出来しました。どんぞお取次ぎを」
一流旅館だけあって汚い中間の鐡蔵も粗末に扱われない。手代が出てきて鐡蔵を離れに案内する。一弥、美歩の二人は板長が罷り出て面前で調理する美味を堪能しているところ。
「さっきお風呂で愛し合ったネ。美歩ちゃん凄く感度がいいから俺興奮したよ」
「あら、一弥。三度も交わったのにまだ物足りない顔してるよ」
「だって美歩。今も浴衣をはだけて素敵な胸見せてるじゃないの」
バタバタと廊下を走る音がする。板襖が音を立て開くと、老翁がへたり込む。
「ゼイ、ゼイ。菱内山中よりこの花巻まで三里。走り通して参ェりました。み、水を一杯所望しやす」
「なんだ。鐡蔵じゃないか。お前が来るようなところでは無い。失せろ」
「そ、そうは参らねえンでがんす。今朝ご家老の差し紙が参り、明朝組頭様宅へ出頭せよという上意がごぜえました」
「見せろ」
「へい。これでがんす」
書面にはこうある。「伊藤一弥儀、先般大殿より逼塞の上謹慎申し付けられ、山中にて臥薪嘗胆の暮らし続けるべきところ、婦女子同行で目に余る淫乱な振る舞いが目撃されている。問い正しの儀是有るに付、組頭森井健悟衛門宅に出頭、不埒な行動の存念を申し述ぶる事」
「なんや。これ。脅しか?儂は少しも悪いことはしておらぬ。第一明後日まで儂は非番じゃ。ナニをしようが勝手。美歩殿。心配は無用じゃ。そなたは一切儂とは関わりは無い。儂一人で出向く。宜しいな」
「厭でございます。美歩は身も心も一弥様に捧げました。何処へ行くのも一緒じゃなくちゃ厭」
「そうか。嬉しいぞ。では明朝二人で森井宅に参ろう。今晩又愛し合おうネ」
「一弥様。美歩様。相手は性悪の悪党。ナニをされるか解ったものでまありましねえ。気を付けてくださっいまし」
「解ったヨ。こういうの老婆心っていうんだ。心配するな。美歩。儂に任せなさい」
「ん〜ん。頼りになるわ。好きよ。一弥ちゃん」
二人は鐡蔵の目の前で熱い口付けを交わす。呆れかえった鐡蔵はスゴスゴと家路を辿る。つぎの日の朝、二人は駕籠を呼んでもらい江釣子堤下、組頭役宅に向かった。散々待たされた挙句、昼前にやっと森井が面会を許す。通された座敷で森井は酒を喰らい既に真っ赤。
「阿呆弥か。お前エのバカ面を見ると毎度反吐が出る。大殿の怒りを買って山奥でせんずりばっか、掻いておったんじゃ無えのか。処が女連れで大安楼や佳松園などの大層な宿に泊まりやがって、その女だろう、一日中嵌めあってるそうじゃねえか。お前ェは勘当され老い耄れの中間とド山ん中でしょぼくれて逼塞していなきゃ為らん。この場で討ち果たしてもいいんじゃが、おい。一弥。その女を儂に差し出せ。側女にだ」
「な、なにを戯けたことを申される。この女性は去る大店の娘子で山中で遭難しかかっていた処を助け、お世話をしている迄。組頭様にとやかく言われる筋合いのものでは御座りませぬ」
「大殿の持って来た縁談を断って、そんな街娘と情交。大殿が聞いたらどうなる。打ち首は必定。ご家老もお聞きになって逆上された。お前ェを煮ても焼いてもいい。存分に痛めつけろと申された。すぐに女を出せ。然らば放免して遣わす」
「ぶ、無礼な。組頭殿。斯くなる上は貴殿に果たし状を出します」
「ほおっ。貴様俺とタタカウって言うのか。臍が茶を沸かすわい。刀の錆にもならん糞小童。いいだろう。切り刻んでくれる。その女は最早儂のモノ同然。明日と申したいところだが、大殿ご母堂葬儀や江戸出府などの物入りが続く。一月後、才の羽々の江釣ヶ原にて立ち会おう。それまでこの娘預かり置く」
「その間に美歩殿を手篭めにしようとする魂胆は明白。聞き届ける訳には参らぬ」
「小癪な。若造。然らばご家老秋山鉄斎様宅にお預けとせよ」
「鉄斎殿とて貴公同様の助平爺。手放すわけには絶対まいらぬ」
「は、は、は。罠に嵌りよった。貴様組頭の俺様に口答えした。者共。出会え。狼藉者である。こやつを切れっ」
襖の陰に潜んでいた腕に自信のある家来達がどっと雪崩れ込んでくる。
「美歩殿。私から離れるな。こんな奴等に討たれてはならぬ」
四方から家来達が切りかかってくる。一弥は落ち着いて刀に手をかけ、抜く手も見せず先頭の男を切り裂いた。
「これ以上無闇な殺生はしたくない。美歩。逃げるぞ」
一弥は美歩の手を引き脱兎のごとく森井役宅から逃れ出た。白昼故、森井配下の家来達も屋敷外での追廻は許されぬ。地団駄踏む。
「今日の処は是位で良しと致そう。後日奴を完全に仕留める。そうなればあの女、儂の手に入る」
森井の言葉に家臣達はほっとする。怒り出したらナニをするか解らないからだ。夕刻山中のわび住まいに二人は戻ることが出来た。心配して待つ鐡蔵が出迎えに出ていた。
「殿様。美歩様。ご無事で何よりでがんす」
「泣くな。儂も美歩も大事無い。然し果たし状を森井に差し出さねば、討っ手を差し向けるに相違無かろう」
一弥は直ぐに果たし状を認め、鐡蔵に届けさせる。
「美歩殿。聞いて下され。儂は大殿から放逐されて以来、自堕落で安逸な生活を送って参った。腕が鈍り切っている。このままでは森井に討ち果たされるやに知れぬ。明日より剣術の稽古をする。見守ってくれ」
「わたくしは剣術のことなどまるで解りません。然しもし一弥様が討たれるようなことがあれば、私も生きては参りませぬ。出来ることは何でも致します。ご一緒に精進しましょう」
「良くぞ申した。美歩。儂を見守ってくれ」
「はい。喜んで」
夜遅く鐡蔵は戻った。
「殿様。組頭様は大層お怒りの様子。彼の手のものには李承福、牧長路と申す手練がおり、その者達を助太刀につけ、殿を討とうとしている模様でがんす。我らは殿お一人。太刀打ち出来そうも無ェ。いっそ、美歩様の故郷、秋田へでも落ち延びましょう」
「何を言う。儂は明日より稽古に励み、森井や助太刀供を遣っ付ける。鐡蔵。儂の相手をせい」
「へ・・・へい・・・」
早朝より一弥は鐡蔵を相手に、鐡蔵が疲れると立ち木に対峙して、木刀を振った。始めは数回の振り下ろしにも息が上がったが、無心に木刀を振り続けていると、次第にカンを取り戻し、腰も据わって鋭い振りとなった。縁側では美歩と鐡蔵が主人の剣を見つめている。未明から深更まで無心に剣を振りつづけた。十五日が過ぎた。半裸で稽古を続けた一弥の上半身は赤黒く日焼けし、盛り上がった筋肉と引き締まった腹や背が一際逞しさを見せる。朝、昼、晩と滋養のつく美味い食事。夜は美歩との愛の営み。幸せの日々。だが一弥は内心不安を募らせていた。飢えや追い詰められた焦燥こそが必殺の剣を生み出し、相手を屠ることが可能だということは体験により知っている。今は幸せ過ぎる。このままでは森井に倒される。言いようも無い恐怖が襲ってくる。倒されれば芳しい美歩が森井の薄汚い身体に犯される。絶対負けてはならぬ。もっと自分を苛酷な境遇に置かねばと思う。
「美歩殿。鐡蔵。儂は山中に篭り荒修行を致す。お前達の見守りや世話は大変有り難いが、このままでは悪の権化森井を屠ることは難しい。自分を絶体絶命の窮地に追い込んでこそ道は開けると考える。お前達と一時とは言え別離するは断腸の思いであるが、勝たねばならぬ。暫しの別離じゃ。待っていて呉れ」
「委細承知仕りました。私は身を清め一弥様勝利の祈願をしてお待ち致します」
「殿様。あっしも美歩様とご一緒にお百度参りさせて頂きやす。ご不便な山中での荒修行、病に倒れては元も子もござんせん。くれぐれもご自愛くださりませ」
「相解った。凡そ十四日後戻ってまいる。森井に勝利した暁には美歩、一晩中可愛がってあげるよう」
「はい。美歩は耐えてお待ちします」
一弥は一人和賀川の急峻な崖沢を遡り、西和賀の岩滑沢に入った。雪解けの水が多量に流れ落ちる沢は峨峨たる山稜がせまり、地獄谷とマタギも恐れて近づかぬ険悪な場所。荒行にはこれ以上相応しい場所はあるまい。身を切る冷たい沢水は浸かると骨も凍る。飛沫を浴びて沢に入り木刀を振る。痺れた脚が次第に熱を帯びてくる。目を閉じると煩く飛翔する羽虫が露出した顔や手足を容赦なく喰らいつく。暫くそのまま耐える。じっと耐えぬくとやがて沢の轟音の中から、極小さな虫の羽音を聞き分ける。素早くその音の方向に木刀を振る。幽かな手ごたえがあり虫が打たれ水中に没した感じを掴む。何度も何度も繰り返す。その日が暮れるころ一弥は誤りなく飛んでいる虫をその気配を感じ、打ち落とせるようになった。洞穴に火を焚き休む。山中を駈け巡って素手で獣を捕らえ食う。高木に攀じ登って果実を、薮を掻き分けて草を喰らう。獣のような生活は飢餓を呼び、激しい枯渇や心身の蹂躙に耐える精神を醸成した。十四日後、垢まみれ、髭もじゃ、裸体の一弥は戻った。一心不乱に一弥の無事を祈っていた美歩と鐡蔵は、一弥の変貌に驚き又喜んだ。一弥の体躯は見違えるように絞られ、全身が筋肉と化していた。熱い風呂に浸かり、丁寧に洗い清め、髪や髭を切り、真新しい衣服を身に着けると素晴らしい若武者がそこにいた。
「美歩。良く耐えてくれた」
「一弥様こそ。こんなにご精進され逞しくおなりになって。美歩、嬉しゅうございます。愈々明日は決闘の日。最早勝ち負けは問題ではございません。心おきなく闘ってくださいまし」
その夜更け、美歩は騎乗、一弥と鐡蔵は徒歩で才の羽々の江釣ヶ原に向かう。その地は北上の大川が往古迂回して流れていた場所で、所々狭い小川が走り、身の丈近い葦の密集する広大な荒撫地である。少し開けた小高く盛り上がった地に五本の南部赤松の古木があって、そこが決闘の場所に定められている。龕灯の火は風に煽られ消えかかって暗い。三人は苦労して暗い山道を進んだ。夜が白んできた。江釣ヶ原は近い。生い茂る葦原に入った。掻き分けて進む。山犬の遠吠えが聞こえる。度々小川に嵌り込んで足元はずぶ濡れ。月明かりに黒い松の影が辛うじて見える。
「着いたぞ。お前達は此処の巖陰に控えておれ。この先は儂一人で参る」
一弥は濃紺の晒一重総刺の上衣に藍地袴。股立ちを深く取って美歩手縫いの白木綿の襷、膝下まである足袋、革裏の頑丈な草履姿。折りしも、強い北風が吹き荒れ、葦がゴウゴウと音を立て靡いている。上空の黒雲が引き千切られるように次々と北から南に流れ、時折ザァっと驟雨が降った。五本松と謂われる場所は短い下草が生えているだけで細かい起伏のある見通しの良い場所。先刻より小太りの頑丈な体躯の組頭、森井健悟衛門は助太刀の李、牧を従え太い大木の下でびしょ濡れになって屹立している。総身に鎖帷子、鉄心鉢巻、抜き身の大刀だ。延ばした縮毛の顎鬚が風に靡き、睨むように辺りを睥睨している。
「遅い!一弥は未だ見えぬか」
「は。臆したのか未だ姿を表しません」
竹筒に入れた酒を飲み干す。太い腕で乱暴に口を拭い、かっと唾を吐く。
「み、見えたぞ」
見張りに出ていた伝令の小者が駆けつけ声高に報告する。
「来たか。小童。一刀両断にしてくれる」
驟雨の葦原に見え隠れしながら次第に長身の一弥が近づいてくる。
「一人か」
「如何にも。助太刀は居らぬ」
早くも李、牧が前に出て一弥に対峙、間合いを詰めていく。
「キ、きえいっ!」
ぶうんと唸りを挙げ、李が一弥の頭上に刀を振り下ろす。同時に牧が一弥の脇腹目掛け刀を一閃させる。一弥は一間ほど後ろに飛んで躱すと、素早く抜いて身体を丸くして飛び込み、一文字に切り下ろす。水飛沫が飛ぶ。
「ぎ、ぎえ〜っ」
血吹雪を上げ李が倒れる。打ち下ろした刃を続いて横様に薙いだ一閃は牧の胴を深く抉る。牧も崩れ落ちる。この間僅か分刻。
「森井殿。邪魔者は片付けた。尋常に勝負せい」
「ふん。笑わせる。儂と勝負するは十年早ェが、エエ女を手に入れるにゃ、お前ェを殺さにゃならん。首と胴がひっついられるのは、今のうちだ」
「森井殿。若年と思うて侮り召されるな」
突如森井は横に走り、萱原に身を没する。小柄故姿は見えず、葦の穂が揺れ動くのを見て、何処辺りに居るのかおぼろげに見当がつくだけだ。暫くすると風が強く吹いて、葦の穂は何処も激しく動き、全く存在を隠してしまった。森井は肥えた身体に似合わず機敏に縦横に走り、隙を狙っていた。一弥は黙って揺れ動く葦の穂を見つめていたが、やがて刀を地を這うように下げ、静かに両目蓋を閉じた。葦穂の間からそれを認めた森井はにたりと笑った。
「い、今だ」
ケエっ!と怪鳥のような雄叫びを挙げ、森井は膝を深く折り、それを発条に空中に飛び上がった。一間近く葦の穂を遥かに超す高さまで飛翔、空中で一転し身体を捻って、身体を横に伸ばす。雖井蛙流飛翔術飛蛙だ。重い鎖帷子を着けての恐るべき跳躍。ブウンと鋭い刃音。森井が空中で背を下にした寝そべるような形となり、一弥の頭の真上から落下すると同時に右手に掴んだ刀を渾身の力で振り下ろすように薙いだ。遠くで見守る美歩と鐡蔵は一弥が切られたと思い顔を覆った。しかし眼を固く瞑っていた一弥は、ほんの僅かの空気の流れで森井の気配を捉えていた。地摺の位置に留め置いた愛刀関孫六兼光をがっしり両手で握り直し、気配の方向へ猛烈とすりあげた。がっ。鈍い音がして森井の肩から右片腕が飛ばされた。噴出す血潮で辺りの葦が紅く染まる。ドっと音をたて森井が地べたに落下。痛む腕を抑え、懸命に立ち上がろうとする。激痛のあまり豪の者と鳴らした森井も呻き声を挙げ蹲り、次いで倒れた。今はヒクヒクと蠢く蛆虫。
「森井。油断致すなと申したに。口ほどで無い。慈悲を掛けてやる。止めは差さぬ」
「ぐ、ぐェ。こ、殺せ。楽にしてくれ。不具で生きようとは思わぬ。早く切れ」
「蛆虫は蛆虫らしく醜態を晒して生き延びるのだ。そこに落ちている自分の腕を拾って早々に立ち去れィ」
失禁した森井は四つん這いで己が腕を抱え、見守っていた郎党達に引きずられ逃げていった。
「よ、良かった。一弥様。お強いです」
「殿。素晴らしい手腕でした。私には殿様が森井を切った瞬間が解りませんでした」
勝利の喜びを噛み締める一弥一同。美歩は厳しい鍛錬に耐え強敵森井に勝利した一弥を見、思わず涙を流し、抱きついてしまった。
「か、一弥様。美歩は嬉しゅうございます」
雨雲が風に吹き飛ばされ雲の間から陽が差し込んだ。彼方に江釣子城の白亜の天守が浮かび、黄色の鮮烈な菜の花の色が、枯野の先に見えた。美歩は流れ出る涙を拭おうともせず、一弥を抱き唇を合わせ吸っていた。森井は戸板で役宅に運び込まれ、医師が呼ばれた。白昼のこともあり、惨劇は多くの人の知るところとなった。筆頭家老秋山鉄斎は大目付高取昭吾守と苦虫を噛み潰した表情で対峙していた。
「ご家老。当藩随一の遣い手、普請組頭森井健悟衛門が和賀堰守伊藤一弥と江釣ヶ原にて決闘、健悟は片腕を切り飛ばされた由、誠に由々しき事態でございます。何やら、逼塞中の一弥メが堰奥の山中で遭難した女子を救助、その女子と懇ろとなり、先ほど二人相揃って府下大安楼や花巻佳松園で遊興しました。それを咎めた健悟はその女子を自分の側女にせんと画策、決闘に及んだと聞きました」
「とうに知っておる。健悟の日頃の忠勤振りを儂は高く評価しておる。そもそも逼塞中にも関わらず遊興した一弥に非がある。直ぐに討手を出し、奴を捕らえ引っ立てよ」
「如何にご家老の申し上とは言え、無茶で御座る。健悟は忠勤どころか、役得と申し、出入りの業者へ賂を要求、私腹を肥やし乱暴狼藉の限りをつくしているはご家老も良くご存知の筈。健悟を庇うところを見るに、さてはこの企てにご家老も荷担しているのでは有りますまいな」
「な、何を無礼なことを申す。そのような根拠無き暴言、許さぬ。大殿に申しあげ貴様を罷免してもらう」
「目付けの役割りは公明正大に事柄を把握、裁くものでござる。宜しい。大殿の面前で申し開きしたら宜しい。貴公の是までの行状洗いざらいぶちまけますぞ」
翌々日。何時もは静寂な江釣子城大天守、桔梗の間は早朝から出入りする茶坊主や奥医師、お女中などでごった返し騒然としていた。江戸で参勤を終え帰国した藩主、伊藤弥ェ門和重が大目付高取昭吾守の訴えにより、筆頭家老秋山鉄斎、重症を負った普請組頭森井健悟衛門、実の嫡子一弥狗羆らに引見、直々に評定を下すと言うのである。噂は噂を呼び、城内の武士は勿論、商人や街衆、百姓までが評定の行方を見守っている。
「若様が大殿に嫌われ放逐されたんは、腹黒いご家老の仕組んだ罠だそうだ」
「罠ってなんじゃ?」
「ふむ。それはノ、宿下がりした奥女中から聞いた話じゃけんど、ご家老は三陸の海産物問屋和賀屋徹兵衛と結託、ご禁制の抜荷をして莫大な利潤を得、それを私していた。その他和賀屋は毎年、千両箱五十箱を鉄斎に賂として送っていた」
「私腹をたっぷり肥やしていたんじゃな」
「左様。家老と和賀屋は莫大な金子を隠し持った。更に和賀屋の娘を若殿一弥様に嫁入りさせようと大殿に焚きつけた」
「和賀屋の娘っていやあ、三十貫を超す相撲取りのような肥満な大女。しかも醜悪極まりない痘痕だらけの醜女。そいつを秀麗な若殿に娶わせようとは、大した度胸だ」
「家老は胡麻摺には長けている。人の良い大殿に上手い事言って押し付けた。無論若殿はお断りになられた。ご家老はそれを大殿の命を覆した大いなる瑕瑾と囃したて、大殿も已む無く若殿を断罪した」
「然し、和賀の堰守とは酷すぎる。あの山中に入ったら二度と出てこられないっちゅう噂じゃ」
「それよ。大殿には和賀屋の娘が醜女だっちゅう事は一切伏せた。若殿は我侭でだらしないから、痛め付け、放逐するが良いと強引に申し立てた。あわよくばお世継ぎを、気が弱く家老の言いなりになるご次男弥太郎君麻呂様に決めさせる腹だ」
「ふむ。お家騒動の煽りを一弥様は受けたっちゅう事じゃナ」
「その通り。今日の評定は見ものだ。一弥様にとり吉と出るか、凶と出るか。凶であればこの江釣子の里に未来は無ェ」
「森井はご家老と結託して私腹を肥やしていただけでなく、一弥を討てばご普請奉行に取り立てられるという甘言を間に受け、自身も一弥様が和賀山中でお救いした美女を我が物にしようと姑息な手立てで一弥様をおびき寄せ決闘したが、敢無く敗れちまった訳。何でも一弥様は獣さえ近づかぬ険悪な山中で自らを鍛え抜き、必殺の秘剣を編み出したっちゅう噂だ。デブの森井が適うわけも無ェ」
昼前、桔梗の間の準備が整い、関係者が呼ばれた。大殿の座す正面右手に筆頭家老秋山、普請組頭森井。中央に大目付高取。左手に一弥。そして極めて異例であるが町人である美歩が座る。男達は麻裃、黒紋付羽織り袴の正装。森井は傷が癒えておらず、家臣に抱き抱えられ、裃は付けられぬ。蒼白の表情で苦悶している。大目付が厳しく叱責する。
「森井。見苦しいぞ。間も無く大殿が参られる。もそっと姿勢を正せ。供の者は下がれ!」
「は、はっ」
表情を更に歪め、歯を食い縛って漸う一人で座る。南部鉄胴に大狸の皮を張った太鼓が打ち鳴らされる。
「一同。控えおろう。大殿のお成りである」
奥羽南部支藩江釣子十万石二十五代藩主伊藤弥ェ門和重が白絹の肌着に黒羽二重の長着の正装でゆっくり入場した。小姓が金象嵌の太刀を恭しく捧げ持つ。
「大殿。ご機嫌麗しく何よりでございます。本日は大殿にご来臨いただき、我が国の将来をも左右する重大な評定を面前にて執り行います。この程、此処に控えます、元ご嫡男一弥様が直属の上司、組頭森井健悟衛門と決闘、彼の腕を根元より切り落としました。所以は筆頭家老秋山鉄斎の差し紙の呼び出し状を受けて森井の下へ出頭、口論に及び決闘に至ったものでございます」
「大目付殿。些か省略が過ぎる。一弥殿は先般大殿の叱責を蒙り、和賀山中に逼塞しているはず。ところがこの美歩とか申す小娘と目に余る淫奔な遊蕩。眼にあまった森井が断罪せんと決闘を挑み、不運にも破れてしまった次第でござる」
「ふむ。確か森井は藩内一の遣い手と吹聴しておったノ。それが片腕落とされ苦悶しておる。だらし無いではないか」
「ふ、ふ、不覚で御座います。元よりこんな小童、取るに足らぬ相手と慢心しておりました。一弥は秘剣を遣ったようでございます」
「ふむ。秘剣とな。一弥。申して見よ」
「は。無心に眼を閉じ、気配で感じて、蹲った姿勢より突き出すように摺り上げる自己流の剣法で御座います。名付けて無妙剣」
「出かした。一弥。江釣子一の剣士の誕生である。然しそこにおる女子、何たる美貌じゃ。何処で見つけた」
「はい。和賀の堰下で遭難している処を私自身が助け出した娘。気立ても頗る良く、又身体つきも見事でございます。大殿のお許しを得、嫁に迎えたいと思っております」
「良かろう。是より裁定致す。家老鉄斎はお家取り潰しの上、闕所遠島。健悟衛門は役儀取上げ永代和賀堰御用。俸禄は無しと致す。一弥の旧禄は元の千五百石に戻し、美歩との婚儀を差し許す。三年後家督はこの一弥が継ぐ」
「ご、ご無体な。一弥殿の放埓な振る舞いをさておくとは。とても承伏出来かねます」
「黙れっ。鉄斎。大目付より詳細な調書が届いておる。貴様が和賀屋徹兵衛と共謀、ご禁制の抜荷で大枚な私産を肥やし、賄賂を取り、腹心の森井を唆して一弥を無き者としようとした魂胆は明白である。斬首を申し付けるところ、長年の家老職の勤務に免じ、罪状を軽減したのじゃ。森井。お前は本来切腹に値する罪状であるが、片腕では切腹も適うまい。じゃから山中で逼塞、自然に死するの温情を掛けた」
「ひ、酷すぎる」
「控えろっ。森井共々こ奴を引っ立ていっ!」
哀れ権勢を欲しい侭にしていた鉄斎と健悟衛門は大目付に縄を打たれ、揚がり屋に収容、程なく鉄斎は三陸金華山沖の網地島へ流人。健悟衛門はたった一人で一弥の職を継ぐこととなった。不自由な片手では来冬はとても越せまいと噂されている。山中のあばら家を森井に引き継ぐことが決まった一弥と美歩は老いた鐡蔵を引き連れ意気揚揚と以前の住まい、江釣子城内の壮麗な屋敷に戻る。旧家臣達は打ち揃って主人の帰還を待った。旅装を解き落ち着いた二人は、改めて藩主和重へ挨拶に出向く。大勢の女中達の手で美々しく装った美歩は北斎の描くどの美人より華麗だ。一弥も又将来の藩主に相応しい若殿ぶり。
「一弥。秋山に誑かされたとはいえ、我が息子を苛酷な僻地に追いやってしまった。慙愧に耐えぬ」
「父上。しかしあのような場所に行ったからこそ、斯くも美麗な美歩殿と知り合えることが出来たのです。更に厳しい環境は私を鍛えて呉れました。今は寧ろお礼を申しあげたい気分です」
「そうか。美歩殿との婚儀、準備は捗っているのか」
「はい。先日飛脚便にて美歩殿のご両親に嫁入りの件お願いしました。返書があり暫くして江釣子にまで出向いて下さるそうです」
「それは何より。儂も会って見たい。ところで、お前の中間を勤めている鐡蔵の忠勤振り、並のご奉公では無い。お前と苦労を共にした。鐡蔵をお前の用人にし五百石を給ずる」
「は。有り難き思し召し。鐡蔵も喜びましょう」
鯉幟はためく五月吉日。秋田より美歩の両親が到着、大殿、若殿と面会、両親とも娘の名誉ある輿入れに大喜び。父親の渡邊彦兵衛は婚儀御支度金として金五十万両の拠出を申し出た。江釣子藩が潤ったのは謂うまでも無い。














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