私には中学から続けてきた習慣がある。
と言うと、随分大げさなようだが、十年間一度も欠かした覚えがない。
それは、夜眠る前にある一人の友人の平穏無事をどこかの神様か仏様、もしくは空の星、とにかく合掌姿が様になるようなものに祈る事だ。
その友人は何年来もの無二の親友とも、何でも話せるベストパートナーとも言い難く、時々自分でも、何故彼女がこんなに胸を占める瞬間があるのか、不思議に感じる事もある。
しかし、同時にいつまでもこの瞬間は残っているだろうとも思う。
私達は唐辛子とパプリカの間柄なのだ。
席替えで私の席がみちるちゃんの隣になったのは中学一年生の五月だった。
中学生になって初めての席替えは、くじ引きで厳かに執り行われた。私の名字は森宮で、出席番号は三十九番。くじ引きを引くのは一番最後で、引いたくじも三十九番だった。
私は席を動かす必要がなくなったので、けたたましく机を移動させていくみんなを眺めていた。四月の頃のワックスのかかったつるピカの床は、すでに輝きを失っていて、机の脚との摩擦に悲鳴を上げている。小学校から仲良しの久美ちゃんとやっちゃんが席を替わろうかと言ってくれたが、私は替わらなくても構わなかった。私は三十九番が大いに気に入っていたのだ。一番端っこで、窓際であり、しかもロッカーが近い。便利だし、何より後ろを気にしなくて済む。後ろの席に慣れてしまっているせいかもしれないが、前の席になると背中に視線が刺さるような感じで居心地が悪いのだ。みんなが机を動かし終わり、周りの顔ぶれを見て騒ぎ始めた頃、一人だけまだ机を動かしている女の子がいた。
その子こそ、一番席からはるばる私の隣の席に移ってきた、青山みちるちゃんだった。
みちるちゃんは面倒くさそうに片腕でズルズルと机を引きずり、もう動き終わった子の机にドカドカとぶつかりながら歩いて来た。みちるちゃんはあくまで最短距離を進もうとしているらしく、正方形の対角線を引くように斜めを突っ切ってくる。
ようやく私の隣に辿り着いたみちるちゃんは、大きな溜息を一つついて椅子に座った。小学校で一度も同じクラスになった事がなかったけれど、みちるちゃんの噂は聞いていた。いつも髪がボサボサで、長いよれよれのスカートしかはかない、言葉遣いが汚くて乱暴者の不良少女、であるらしい。久美ちゃんが同じクラスだった時に言っていた話で、私が実際にみちるちゃんを見るのはそれが初めてだった。
確かに肩まで伸びた髪は寝起きのようにボサボサで、制服は既によれ始めていた。しかし、私がみちるちゃんを見て気になった事はそれらではなかった。みちるちゃんはすごく美人さんだったのだ。睫毛が長くて、整った鼻と綺麗な口の形をしていた。身なりがメチャクチャなのが、逆に唯一の汚点だった。
私の席から久美ちゃんが見えた。右斜め、四席分くらい離れている所。手と顔の表情で「嫌な奴が隣に来たわネ」と言っている。それから三席分左に行った所から、やっちゃんが顔を出していて、「さっち、私はここだよ〜」と手を振っているのが見えた。三人ともきれいにバラけてしまったようだ。みちるちゃんは座った後は机に顔を伏せて、ふて寝していた。私はとりあえず、次の国語の授業のために教科書を出して先生を待った。
みちるちゃんとの初めての会話は意外と早く、その授業で実現した。国語の授業中、私はペンケースをあさっていて、消しゴムがない事に気が付いた。そういえば、失くしたまま補充をし忘れていたのだ。
隣の席ではやる気のなさそうな手つきで、教科書をめくっているみちるちゃんがいる。一瞬どう話しかけるか迷ったが、ごく普通に頼む事にした。
「消しゴム失くしちゃったから、良ければ貸して下さい。」
敬語になってしまったのは、少なからず私もみちるちゃんの他を寄せ付けない雰囲気に飲まれていたからだろう。みちるちゃん前触れもなく私から話しかけられた事に驚きを隠せないといった様子だったが、無言で透明な箱型のペンケースから白い消しゴムを取り出すと私の机の端に置いた。消した跡で黒くなっている所がほとんどない、新品のような消しゴムだ。私はノートの間違えた箇所を消し終わると、同じようにみちるちゃんの机の端に置いてありがとうと言った。
すると、みちるちゃんは置かれた消しゴムをすぐまた私の机に戻して言った
「今日一日使ってていいよ。私、ノート取らないから。」
それを証明するように、透明なペンケースにはシャーペンが一本も入ってなかった。入っていたのは、何故かこの消しゴムとピンクの蛍光ペンとネームペンが一本ずつだ。
私はまたありがとうを言い、みちるちゃんと私の記念すべき初会話は幕を閉じた。
吹き出したくなるような、くすぐったい気分だったのを覚えている。学年中で噂になるような不良少女から消しゴムを借りられたのだ。
言ってみれば、私達は正反対の子供だったと言える。
いつでも問題を起こしている問題児と影の薄くて大人しいイメージしかなかった私達は偶然にも隣同士という接点を得て、会話を成立させる事に成功したのだ。
窓の外を見てみると、どんより曇っていて今にも雨が降りそうだった。私はふと、みちるちゃんは傘を持っているだろうかと思った。もし持っていなかったら、学校に置きっぱなしにしていた折り畳み傘の方を貸してあげよう。消しゴムのお返しに。私はまた間違えたので、みちるちゃんの消しゴムでノートをこすった。
私の通学路は家から学校まで約二十分、住宅街の一角で似たような造りの家ばかりが並んでいるため、初めて来る人には迷路のような所だ。
途中にみちるちゃんの家があるというのを、私はお母さんに聞いて初めて知った。緑色の屋根のおうちだという。そんなにご近所だったのに今まで私とみちるちゃんに親交がなかった事が不思議だった。お母さんはみちるちゃんのお母さんとは知り合いらしかった。席替えでみちるちゃんの隣になった事を言うと、お母さんは神妙に頷いて言った。
「さち、あの子の家は色々大変だから、気を遣ってあげなさいよ。」
私はその時、テレビに集中力の半分以上を奪われており、模範的な生返事を返した。後々になってみちるちゃんの家の大変さを知っても私の態度は変わっていなかったように思う。もし変わっていたとしても、みちるちゃんが私の気遣いを許さなかったと思うのだ。でもそれは気の利かない子供だった私の、単なる言い訳に過ぎないような気もする。
登校中の事だった。みちるちゃんが電柱にもたれるように立っているのを見つけて驚いた。みちるちゃんは綺麗な口の形をぎゅっと結んでいて、もう衣替えの日は過ぎたのに冬服のスカートをだらしなさ気に着ている。私が来た事に気が付いているようだったが、知らない振りをしていた。
明後日な方を向いているみちるちゃんに私がおはようを言うと、みちるちゃんは少し面食らった顔をして振り返った。多分、先に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。クラスでみちるちゃんにおはようを言う人を私は知らない。みちるちゃんはそのまま返答に困ったようにしばらく沈黙していた。おそらく自分から話しかけるのを前提にシュミレートして来た会話を立て直していたのかもしれない。
「これ。」
みちるちゃんはおはようは返さず、背中に隠すように持っていた赤い折り畳み傘を差し出した。
昨日私が貸したものだ。私は几帳面なほどしわ一つなく巻かれた傘を受け取った。
「ありがとう。」
みちるちゃんは言い捨てるようにそう言って、さかさか歩いて行ってしまった。
この時から、私とみちるちゃんは友達になった。おはようを言えなくてもありがとうは言える不良少女みちるちゃんと。気付かれた期間がたった三ヶ月の友情でも、記憶に残り続けるような鮮烈な友達に。
みちるちゃんの口癖の一つに、ざまぁみろ、というのがあった。久美ちゃんが言葉遣いが悪いと評すのも、この辺りから来ている。とにかく所構わず言う。男の子と喧嘩してもざまぁみろだし、女の子と喧嘩してもざまぁみろを連発する。何より、みちるちゃんの喧嘩の回数は半端じゃないのだ。一日に一回は大小の衝突が起き、みちるちゃんは誰かと険悪になっていた。
「さっち、最近青山さんと話してるけど怖くない?」
掃除の時間に、みちるちゃんがまた喧嘩をしたと先生が女の子の生徒に呼ばれて行くのを見送って、久美ちゃんが言った。私は教室掃除で久美ちゃんは廊下掃除だ。久美ちゃんはゴミを捨てに行く所だったらしく、手にゴミの入った塵取りを持っている。
「怖くないよ。面白い子だよ。」
久美ちゃんは面白いという言葉がよほど奇怪だったのか、私の頭に手を置いて
「さっち、面白いの意味わかって使ってる?」
と聞いてきた。あんまりの言い草に私は笑った。確かにクラスでのみちるちゃんは面白いという言葉からかなり縁遠い存在だ。女子からは怖がられているし、男子からは生意気がられている。
私と話している時はぶっきら棒で、ものすごく無愛想ではあるが、宿題をどうしたかとか今日家に帰ったらあれをしようとか、普通の会話をしているので、私は彼女がどうしてそう他の人との関わりを避けているのかがわからなかった、ある時それを聞いたら、彼女はふんと鼻を鳴らして言った。
「私は一人でいい。自分以外の奴はみんな信じられないし、うっとおしい。」
そのあまりの確信的な言い方と内容に、私は悲しくなって私も含まれてるの、と聞くと、みちるちゃんはさらにぶっきら棒に答えた。
「あんたは別。」
綺麗な口の形をぎゅっと結んで怒っているようにも見えるが、それが照れ隠しなのを私は既に知っていた。
みちるちゃんが人を信じないその要因らしい事と、お母さんが言っていたみちるちゃんの家が大変な理由を知ったのは同時だった。
それは七時を過ぎた頃だった。料理部に入っていた私には珍しく遅い帰宅だった。蒸しケーキを作ったのが、誰が間違えたのか材料が大幅にあまり、勿体無いので追加で作っていたのだ。
私はまだホクホクしている蒸しケーキの入った手提げを持って、日が長くなったおかげでまだ明るさが残る夜道を歩いていた。緑色の屋根が近付く。みちるちゃんは部活に入っていないので、とっくに帰宅しているはずだった。
突如、鋭い怒声が上ったのが聞こえて私は思わずその場で身をすくめた。何を言っているかまでは聞き取れない。しかし、猛るような大声と駆け抜けるような怒気は浴びせられている本人じゃなくとも凍りつかされた。その声はどんどん大きくなり、それに伴って女性の声も聞こえた。涙声である事がここからでもわかった。私がその声が緑色の屋根から聞こえている事に気付くのに、そう時間はかからなかった。
その喧嘩は周りの家々の人が出てきてオロオロする程だった。私は家の門扉が見えるほど近くまで来て、ハッとした。そして何故か、とっさに他の家の庭からせり出していたつつじに身を隠した。膝を抱えるようにしてしゃがみ込むみちるちゃんがそこにいた。彼女はまだ制服のままだった。それは彼女が帰宅した時には、もうこの喧嘩が始まっていたのを意味していた。大声が刺さるように響いているのに、みちるちゃんは微動だにしない。嵐が過ぎるのを待つ子供のように、じっと暴風に似た怒声に耳を澄ませている。
そこにオロオロと出てきておた近所のおばさんの一人が、みちるちゃんに近付いていった。おばさんが何か声をかけた瞬間みちるちゃんは火がついたように叫んだ。
「うるせぇな!いつもの事だろ、ほっとけよ!寄るんじゃねぇよクソババァ!」
喧嘩の時にはいつもひどい言葉遣いになったが、この時はより一層ひどかった。おばさんはひるんで、ゆっくりと後退した。みちるちゃんはなおも叫んでいる。
「どうせ何も出来ないくせに。同情なんかしてくんな!」
手をつけられないと判断したのか、おばさんは後ろ髪を引かれるような顔をしつつ、みちるちゃんから離れて行った。
何も出来ない事を一番嘆いているのはみちるちゃんだったと私は思う。自分の両親が傷つけ合うのを傍で見ている気分はどんなだろう。私にはみちるちゃんが吐いた言葉は全部彼女自身に突き刺さっているように思った。
その時みちるちゃんは最後にこう言った。
「ざまぁみろ!」
最後の一声は一際大きく住宅街にこだました。誰かに対してのざまぁみろだったのか、私はその夜いつまでも考えていた。
みちるちゃんとの会話で、一番覚えているのは、遠足の時の事だ。新しいクラスに慣れ、友達の輪を広げるというのをコンセプトに催される六月のイベントだ。ドレミ橋という地元では有名な橋を渡った所の広い野原に、お弁当を広げてピクニックをするものだった。ドレミ橋とは木製の古い橋で、歩くと足音が音階のように聞こえるという。しかし私には何度聞いても、やたら大きく響くだけのただの足音だった。それをみちるちゃんに言うと、彼女はそれを言ったら終わりでしょと不良少女らしかぬ正当な事を言った。
遠足は基本的に班行動で進んでいたが、その班は給食を食べる時の班、つまり近い席の人間同士の五、六人の班だった。隣同士のみちるちゃんと私は必然的に同じ班で、他に男子が三人に女子がもう一人いたが、いつの間に違う班に紛れて行ったのか、私とみちるちゃんだけになっていた。ドレミ橋を渡ると広い野原に出る。芝の合い間合い間にハコベの花や仏の座、シロツメ草が顔を出し、私は出来るだけそれらの草花を踏みつけないようシートを広げた。みちるちゃんも無造作にシートを広げたが、下にスミレ草を見つけて少し右にずらしたのを私は見逃さなかった。
広げたシートの上にさっとく蟻が上って来ては降りて行くのを見ながら、私達はお弁当を食べ始めた。みちるちゃんのリュックから取り出されたお弁当がコンビニかスーパーに売られているようなお弁当だったのを見た時には、何か言い知れない後ろめたさを覚えた。
「親に今日が遠足なの言ってなかったから。」
私の視線に気付いて、みちるちゃんは特別気にした風もなく言った。その態度は演技だったのかもしれないが、それでも私の心は普段通りのみちるちゃんの態度に少し和んだ。昼食は待ちに待った自由時間なので、周りにはお弁当そっちのけで遊んでいる子もいる。遠足というより、親睦会がメインなので、みんなドレミ橋の時なんかより断然盛り上がっていた。
私達の所にはやったんがポッキーをおすそ分けしに来てくれた以外、近寄ってくる子はいなかった。久美ちゃんはみちるちゃんとの接触は避けたいらしく、やっちゃんを通してグミをくれた。
みちるちゃんのお弁当はエビチリやキムチが入った、見るからに辛そうなもので、私はみちるちゃんに辛党か聞いた。
「唐辛子とか辛いものが好き。辛いもの好き?」
「ううん、好きくない。甘いものが好き。みちるちゃんは甘いものは?」
「そんなに好きじゃない。」
「ふーん。」
私達は物の好き嫌いの話をすると面白いくらいかみ合わないので、こんな事は日常茶飯事だった。そのためこういう話をすると会話が続かず、今回もそこで切れると思ったのだが、みちるちゃんは珍しくまた質問してきた。
「パプリカは食べられる?」
「パプリカって?」
「唐辛子と同じくらい真っ赤で、形と味はピーマンみたいな奴。」
「じゃ、食べられる。」
「ふーん。」
この時は変な事を聞くなぁと思った。彼女がわざわざ唐辛子と同じくらいと言ったのに、後になってもしかしたら、パプリカはみちるちゃんなりに共通点を探して出てきたものかもしれないと思った。だってこれは親睦を深めるための遠足なのだ。親しくなろうとする時、共通点となるものを探そうとするものじゃないか。しかし、私はこれを思い出すと笑ってしまう。私達の共通点は唐辛子とパプリカで、二人とも同じくらい赤いものが食べられるのだ。みちるちゃんがパプリカなんて野菜を持ち出してきたのも、何だか意外で面白かった。
みちるちゃんも思い出す事があるだろうか。拙さとぎこちなさが溢れたこのおかしな共通点を。
夏休みも目の前に迫った頃、短縮授業で部活がなかったため、私は初めてみちるちゃんと帰りが一緒になった。私達は取りとめもなく夏休みの予定について話し合った。彼女は何となく憂鬱そうだった。家にいる時間をあまり増やしたくなかったのだろう。あの日見たような喧嘩はほとんど毎日のようにやっているのだという事を、母から聞いた。みちるちゃんのお母さんも精神的にかなりまいっている事も。
みちるちゃんの家のすぐ横まで来た時だった。みちるちゃんがハッとしたのを見て、私も彼女の目線を追った。黒っぽいコンクリートはカッと焼け付く七月の日差しを浴びて熱を帯び、爆弾の上を歩くような不気味さがあった。私達のうなじや額は話しながらじわじわと汗ばんでいたが、それを見た時、その不快さがスッと引き、代わりに不気味さが首をもたげた。
みちるちゃんの家の前に、雪のように白いガラスが砕けて一面に広がっていた。
よく見るとそれはお皿だった。何枚も何枚も割れて粉々のそれは、まるで白い砂利が敷いてあるように見える。そこに、か細い女性が背中を丸めてしゃがんでいた。みちるちゃんのお母さんだった。おばさんは一欠けらずつ丁寧に両手で拾い上げ、それをエプロンのポケットに詰め込んでいた。左右に一つずつあるポケットはとっくに許容範囲量を超えていて、それでも何故かおばさんはそこに詰め込もうとしていた。押し込む時に指が切れたのか、エプロンは所々血に染まって、その赤い点は色濃く行き場のない混迷した感情を凝縮しているようだった。
隣のみちるちゃんが突然弾けるように叫んだ。
「帰って!」
同時にグイグイと全力で背中を押してくる。
「いいから帰って、帰ってよぉ!」
みちるちゃんは泣きそうな顔で言った。男の子に叩かれても平然としていたみちるちゃんが。保護者に苦情を言われたとかで、先生に呼び出された時も笑っていたみちるちゃんが。
今は泣きそうだった。
力一杯背中を押されて、つんのめるように歩き出した私を見届けて、みちるちゃんは家の方に走って行った。それ以後なにがあったか、私は知る術を持たない。私は本当にそのまま家に帰ってしまったからだ。帰った私は引き返す事も、その事をお母さんに話す事もしないで、何も出来ない自分を見つめていた。こうしてみると自分がいかに平凡で穏やかに過ごして来たかがよく分かった。学校では面倒見のいい久美ちゃんや陽気でいつも元気なやっちゃんの背中にくっ付き、家では優しいのが当たり前な両親に囲まれている。そんなまどろむような日々と正反対の生き方をしてきたのが、きっとみちるちゃんだった。だからこそ、私達は反発し合わなかったのかも知れない。
私達が最後に会ったのは、八月の新月の夜だった。九時頃だったと記憶している。
インターホンが鳴った。最近少し壊れ気味で、かすれたチャイム音だった。お母さんが玄関に出て行くと、何故か私を外から呼んだ。私が怪訝に思いながら出て行くと、予想もしていなかった人物がそこに立っていた。
「どうしたのみちるちゃん。」
聞きながら、不安でドッと心臓が高鳴った。みちるちゃんはそんな私に反して、今まで見せた事のないような笑顔をしていた。みちるちゃんのおばさんもすぐ傍に立っていて、私に小さく会釈をして後はお母さんと話をしていた。時々感極まったように声を詰まらせた。でもそれは、破片を拾っていた時の表情よりずっと人間らしく生きている表情だった。
「お別れだから、挨拶しに来たの。」
みちるちゃんは静かに言った。私はそこまで言われても全然ピンと来なかった。みちるちゃん達が行ってしまった後で、お母さんに聞き直してやっと事態を理解したぐらいだった。
二人は夜逃げを決行したのだ。
「今日はあいつ帰らないから、今の内に世話になった人に挨拶してから行く事になったの。それで、私、あんたにはどうしても一言、言って行きたくて。」
綺麗な笑顔だった。みちるちゃんは私が見た中で、その夜が一番幸福そうだった。そのせいか、私は意味もわからず胸が一杯で、口下手な口がさらに動かなかった。
「私あんたがいなかったら、中学何もなかったのと一緒だった。ありがとう。」
淀みない口調で話すみちるちゃんを見て、話す事を練習してきたなと思った。みちるちゃんが感謝の言葉をスラスラ述べられるなんて考えられない。文を書いた紙を持って、恥かしそうに唇を歪ませながら練習するみちるちゃんが思い浮かんだ。
「私と仲良さそうにしてたせいで陰口叩かれてた事あるの、あんたはどうせ気付いてないんでしょ。」
うん、全然気が付かなかった。でもきっと、やっちゃんと久美ちゃんが守っててくれたのかもしれない。
「大丈夫かな、ぽやっとしてるから心配だよ。」
私も心配。みちるちゃんすぐ一人でいようとするから。
「これから、どこ行くかも分からないけど、落ち着いたら手紙書くよ。きっと。」
うん、待ってるよ。ずっと、待ってるよ。
みちるちゃんとおばさんは街灯に照らされながら夜の闇を歩いて行った。みちるちゃんの足取りは重い荷物を降ろした後のように軽く、元気だった。私とお母さんは二人が見えなくなるまで、ずっとその背中を見送っていた。鈴虫がどこかでリーンリーンと鳴いていた。
その日から、私は毎晩祈っている。彼女が元気でやっている事、そして何より幸福でいる事。十年経った今でも手紙は届いていない。
ふと、郵便受けの方で配達のバイク音がして、壁にかかっている掛け時計を見た。夕刊が届く時間帯だ。私はバイク音が遠ざかるのを聞き、郵便受けの中を確認しに行った。
私は見た途端、フッと微笑した。郵便受けには新聞ではなく、白くて分厚目の封筒が入っていた。そして、すっきりとした綺麗な文字で大きくこう書かれていた。
森宮さち様、唐辛子とパプリカの友人より。
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