挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

思い出の一ページ

作者:中島麻理亜
 駅から実家まで道は坂続きだ。久しぶりに歩いたからか、私はすっかりばててしまった。冷房の効いた部屋で一息いれる。
 表は溶けそうな暑さだ。途中でソフトクリームでも買おうかと思ったが止めておいた。目の前に座る少女には少し悪いことをした気もするが。
 母はこの暑さの中、夕食の買い出しに行った。一方、私は姪と二人で留守番をしている。私が代わりに行こうとしたのだが、「久しぶりに帰ってきたのだから、ゆっくりとしていきな」と言われてしまった。
 息子としては、もうそこそこの歳なのだからあまり無理はしないでほしいのだが。玄関に立った丸い背中を思い出し溜息を吐く。
 それにしても喉が渇いた。何か飲もうかと思い、
「冷蔵庫にあんたの好きなもんがあるから」
という、母の言葉を頼りに台所へと向かった。

 母はいつでも準備が良い。キンキンに冷えたサイダーを取り出し、二つ用意した氷入りのグラスになみなみと注いだ。グラスの淵ぎりぎりにまで泡が立ち、それが消えるとまた注ぎ足す。これを何回か繰り返した。
重たくなったグラスを両手に持ち、零さぬように運ぶ。ゆっくりと慎重な足取りで部屋に入る。

姪は床に届かない足をぶらぶらとさせているが、手に握る色鉛筆はピクリとも動かない。私が台所に向かった時と何一つ変わらない様子だった。なにやら考え事をしているらしい。
 私がテーブルにグラスを置くと彼女は顔を上げ、サイダーをまじまじと見つめてから口を開いた。
「おじさん、ありがとう!」
 ニッと笑い、色鉛筆をテーブルに転がす。慎重にグラスを持ち上げ、熱いコーヒーに口をつけるときのようにちびちびとサイダーを飲み始めた。
「炭酸が強くて飲みづらいなら、他のジュースを飲んでもいいんだよ」
 彼女は首を大きく横に振ると、今度はグラスを小さく揺らしだした。氷がぶつかり、シュワーと炭酸の抜ける音がする。
「こうすれば飲めるから大丈夫だよ」
 そういえば、私もこの姪と同じ年頃のときには、こうやってサイダーを飲んでいた。炭酸に慣れた今では懐かしい飲み方だ。
 自分のほんの些細な成長を感じながら、サイダーを流し込む。あっという間に、グラスの中身は半分まで減っていた。

姪は四分の一くらい飲んだところで、再び色鉛筆に手を伸ばした。彼女の前には一冊の絵日記が開かれている。どうやら夏休みの宿題のようだが、まだ今日のページには何も書かれていない。
 彼女は青の鉛筆を手にし、大きく息を吸い込んだ。じっと絵日記を見つめ、何度もペン先を動かそうとする。だが決心がつかない様子で、視線は庭と紙とを行ったり来たりしている。
 なるほど、まだ何を書くのかは決まっていないのか。ならば、この迷える姪っ子を導くのが私の役目といったところか。
「今日は何を描くんだい?」
「まだ決まってないの。おじさんは何がいいと思う?」
 彼女はその母親似の大きな瞳を輝かせた。昔は私の妹も、よくこうして「お兄ちゃん、宿題手伝って」と言ってきたものだ。
「なら伯父さんのことを描いてほしいな。伯父さん、これでも絵になる男だと思うよ」
 我ながらいいアイデアだと思ったのだが、彼女はあまりいい顔をしなかった。
「おじさん描くの難しそうだからヤダ。もっと簡単なのがいい」
 ぷうっと頬を膨らませ、そっぽを向かれた。こういうちょっとした仕草が彼女の母親とよく似ている。
「じゃあ、お祖母ちゃんの家に遊びに来てるよ、っていうのは?」
 彼女は一つ前のページを見せながら答える。どこか寂し気な表情を浮かべていた。
「それは昨日書いたよ。それに、あと三日間おばあちゃんの家でお泊りだから、もっと違うこと書きたいの」
 ここですぐに機転が利けば良かったのだが、私の頭はそこまで柔らかくなかった。お互いに黙り込んでしまう。グラスの氷がカランと音をたてた。

「……やっぱり、庭のお花でも描こうかな」
 涼しげな色合いのアサガオが窓辺に咲いていた。それをじっと見つめてから、彼女は青の鉛筆をゆっくり動かし始めた。
 庭ではアサガオの他にも多くの植物が育てられている。母は昔から園芸が趣味で、私も子供の頃はよく手伝いをさせられていた。
 夏場になると野菜を育てていたから、花といえば黄色や白が多かった気がする。でも今は、赤やピンクのタチアオイが鮮やかに咲いていた。かつては雑草扱いしていたのに、今では庭の主役だ。
 母はあの花を嫌っていたはずだが、趣味が変わったのだろうか。
「伯父さんたち、昔はこの庭で野菜を育ててたんだよ。ちゃんと畑も作ってね。スイカとかも採れて楽しかったな」
 スイカと聞くと姪は興味津々といった様子で私の方を向いた。
「スイカがここで採れるの?」
瞳の奥がキラキラと輝いている。こういうのを羨望の眼差しというのだろう。ちょっと気を良くした私は、自慢っぽく思い出話を続けた。
「スイカは黄色い花が咲いて、それがあの丸い実になるんだよ。毎年、美味しいスイカが採れたんだ。で、その畑は……」

かつてあったはずの畑が見当たらない。兄妹で積んだ石の囲いは草の下に隠れてしまっているのか。この緑の生い茂った庭のどこかに。
 ああ、そういうことか。なんとなく持っていた違和感の正体がようやくわかった。
「おじさん、大丈夫?」
 突然黙り込んだ私のことを心配して、姪が声をかけてきた。「ちょっとね」と返事をし、もう一度よく庭を見る。
 抜かれずにいるタチアオイ、草の下に隠れた畑。思い出とは大きく異なる庭の姿。

 ――時の流れを感じずにはいられなかった。

「なんだか懐かしくなってきたから、少し庭でもいじってこようかな」
 独り言のつもりだった。だが、姪はそれを聞き、勢いよく立ち上がった。
「わたしも手伝う! で、日記に書く!」
 彼女もようやく日記のネタを見つけられたようで嬉しそうに笑った。それにつられて私も笑う。
 庭に出る前に残りのサイダーを飲み干す。外はまだ暑そうだが、それもまた一興だ。

 久々の庭仕事だからか、すでに腰が痛い。多分、明日は筋肉痛になっていることだろう。こういうときに歳というものを感じる。
 そんな私とは対照的に、姪はどんどん雑草を引っこ抜いていく。頭にのせた大人用の麦藁帽はまだ大きいらしく、何度も被り直しながら作業を進めている。
 その姿は妹とよく似ていた。ただ、彼女の方が妹よりよっぽど熱心だが。
「おじさーん、これも抜いていいの?」
 姪は自分よりも背の高いタチアオイを見つけたようだった。私が大きく頷くと、彼女は根本をしっかりと掴み、力一杯引っ張った。しかし、一向に抜ける気配はない。
 私も手を貸してみるが、大の大人が加わっても状況は変わらない。相当深くまで根を張っているらしい。仕方なくタチアオイはこのままにしておくことにした。
 だから母はこの花が嫌いだったのか。子供の頃に汗水流し、土から出てきたばかりの小さなタチアオイを抜いていたのは無駄ではなかったようだ。

 この辺りが、かつて畑のあった場所だ。姪と共に黙々と雑草を抜き続けるが、石の囲いは出てこない。時の流れの中で土に埋もれたか、積んだ石が崩れていたのだろう。
「これなんのお花かな?」
 姪はクリーム色の花を見つけ、私にそう聞いてきた。別に植物に対して、特段詳しいわけでもない。でも、その花は確かに見覚えがあった。
「これはね、オクラの花だよ。ちょっと変わった雰囲気で面白い花だろ」
 姪は「ネバネバは嫌い」と呟いたが、その花のことは興味深そうに眺めていた。また一つ日記の内容が増えたようだ。

 雑草がずいぶんと目立つようにはなっていたが、別に母が庭の手入れを止めたというわけではないようだ。家の中からではわからなかったが、ここにはキュウリやナス、トマトといったものも植えられていた。
 手を抜きつつも、あの頃と同じように趣味を楽しんでいるのだろう。それに気づけてホッとした。

ここがあの畑であったことは間違いない。でも、あの黄色い花は見当たらなかった。もうスイカは育てていないのだろうか。
 姪はいつの間にか、タチアオイの陰にいた。足元を見ながら、一歩一歩私から遠ざかっていく。不意に立ち止まると、その場にしゃがみ込み「あった!」と歓喜の声を上げた。
 私が駆け寄ってみると、そこにはスイカが一玉あった。
「スイカだ! ここにあったのか。すごい、よく見つけられたね」
 私が褒めると、姪は自信満々に答えた。
「そこでね、なにかのツルを見つけたから気になって、ずうっと追ってみたの。そしたらあったよ!」
 私も足元のツル目で追いかけてみる。ツルは地を這うように伸びていて、その一番先はキュウリ近くの土に潜っていた。ということは、これもあの畑で作られていたものか。
 今年は一体いくつの野菜を育てたのだろうか。ふと母に聞いてみたくなった。

 私は小玉スイカより一回りほど大きい、この中途半端なサイズのスイカは持ち上げた。意外と重い。それに叩いてみるとよく響くいい音がする。まさに今が食べ頃だ。
「せっかくだから収穫していこうか。夕食のときに皆で食べようよ」
「やったー!」と姪は小躍りしている。自家製のスイカを食べるという経験は初めてのことで、今この子の心は猛烈に昂っているのだろう。かつての私がそうだったように。
 私が鋏を取りに戻っている間に、姪は気を利かせて水を溜めた桶を用意してくれた。これで冷えたスイカにありつける。想像するだけで、涎が出てくる。
 自家産のスイカを食べるのはいつ以来だろうか。たしか、私がこの家を出て以来ではないか。
 夏空の下でツクツクボウシと腹の虫が鳴いていた。

 その日の夕食はカレーだった。畑で採れた母特製の夏野菜が、これでもかというほど入っている。
 姪に合わせて甘口になっているが、これがまた懐かしい味だ。いつもの何倍も旨いと感じてしまう。またいつ食べられるかもわからないカレーだ。せっかくだからお代わりでもしよう。
 姪はこのカレーを気に入り、苦手だと言っていたオクラも美味しそうに食べていた。
 食事の合間に庭でのことを話したら、母は嬉しそうに微笑んだ。
「私になにかあったときには、あんたに庭のことをやってもらおうかね」
 私は「まだまだ先のことだろう」と言ったが、どちらともとれる笑みを浮かべるだけだった。
 ほんの数時間作業をしただけで腰が痛くなるような息子に、この大事な仕事を譲ってたまるものか、とでも考えていてほしいのだが。
「手伝いなら、いくらでも任せてくれよ」
「おばあちゃん! わたしも!」
「そうかい。それなら、また来年もスイカを育てないとだね」
 三人の笑顔が一斉に咲いた。

 ようやく今日の主役が食卓に出された。この夏初めてのスイカだ。タチアオイとはまた違う、鮮やかな赤が目に映った。
まずは一切れ手に取った。大量の塩を振りかけ、かぶりつく。甘さが口一杯に広がった。
 私は夢中でスイカを頬張っていた。童心に返るとは、まさにこういうことをいうのだろう。
そんな私とは異なり、姪は皿にのせたスイカを冷静に見つめていた。
「スイカなら簡単」
 そう呟き、赤い鉛筆を手に取った。
                                            《終》


評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ