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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代
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鄭の子皮

 鄭の伯有はくゆうは酒が好きだったため、窟室(地下室)を作って毎晩酒を飲み、鐘を演奏した。酒盛りは翌朝までそれを続ける有様であった。

 

 鄭の政権は伯有が握っていたため、朝廷に出仕した卿大夫たちは伯有の家に朝見するようになっていた。しかし伯有は酒を飲んでおり、朝者(朝見に来た者)が伯有の家臣に、


「公はどこだ」


 と聞いても、家臣はいつも、


「我が主は壑谷(窟室)におります」


 と答えるため、あきらめて帰るしかなかった。

 

 ある日、久々に入朝した伯有は、再び子晳(しせき)に楚へ行くように命じた。この男は以前のことなど忘れているのである。


 朝会が終わって家に帰った伯有はまた酒を飲み始めた。

 

 遂に我慢の限界に達した子晳は駟氏の甲士を率いて伯有の家を襲い、火を放った。


 酔っぱらっている伯有は状況が理解しておらず、指示も出せない有様であったため、家臣は彼を連れ雍梁に奔った。


 出奔後、酔いから醒めてからやっと状況を理解し、許に亡命した。

 

 この事態に対し、大夫たちは集まって今後のことを相談した。彼らは伯有に非があると主張するものが多かった。それを受け、子皮(しひ)が言った。


「『仲虺(ちゅうき)の志(仲虺は湯王(とうおう)の左相。『志』は典籍の意味)』にこうある。『乱れた者は取り、滅んだ者は軽視し、滅ぶべき者は滅ぼし、残るべき者を固める。国の利である』罕氏(子皮)、駟氏(子晳)、豊氏(公孫段(こうそんだん))は同じ生まれであるものの、伯有は家系が異なるうえに驕慢で奢侈だった。そのため禍から逃れられなかったのだ」

 

 彼は子晳側に罪は無いとしたのである。

 

 ある人が子産(しさん)に、


「直に就き、彊(強い勢力。駟氏等の三家)を助けるべきです」


 と勧めた。直とは道理がある者のことを指す。つまり政治を疎かにした伯有に過失があり、それを討った子晳には道理があり、それを支持した家に従うべきと言うのである。


 だが、子産は言った。


「彼等は私の徒(党)でしょうか。国の禍難がもうすぐ終わると誰にわかるのでしょうか。もしも主が彊直(強大で誠実)なら、難は生まれなかったでしょう」


 子晳が本当に道理がある人物というのであり、その家族が強盛であったというのであれば、今回の乱は起きなかったはずではないか。


「暫くは私の今の立場(中立)を守るだけです」

 

 その後、子産は伯有氏の犠牲者の死体を集めて埋葬し、諸大夫と相談することなく、鄭を去った。これに印段(いんだん)子石(しせき))も彼に従う。


 ある意味では、子皮には、良い機会が訪れたと言える。子産は名声が高く、子皮の次の位に位置する。政権を握ることだけを考えれば、彼が去っていくことは良いことである。


 だが、それをしないのが、子皮という人であった。彼は子産を止めようと追いかけようとしたのである。諸大夫が言った。


「我々に従順ではない者を、なぜ留めるというのですか」

 

 子皮は毅然とした態度で、


「彼は死者にも礼があったではないか。生者に対しても礼があるはずだ」


 と言って、子産を追いかけた。









 子皮は武人であり、そのことに誇りを持っていた人物であった。国のため、矛を振るい、民を守る。それが自分の職務であると思っていた。


(そのために武を磨いてきた)


 しかしながらその守るべき国が間違っている場合、その誇りはあるのか。ふと、そのように考えることも多かった。


 鄭は晋、楚の両国にどっちつかずの政治を行い、民を苦しめていた。


(国を、民を守るべき我々が苦しめているのではないのか)


 そう思わないことはなかった。そんな時、あの公宮での事件が起きた。三人の大臣が死に、多くの者が死んだ事件であった。


(だが、そこで私は驚くべき光景を見たのだ)


 小さい体で、賊に屈しない意志を見せる鄭の簡公(かんこう)の姿があった。


(幼いあの方に我々は守られた……)


 もし、簡公が屈していれば、自分たちは逆賊にされていたかもしれず、もっと多くの者が苦しむことになったかもしれなかった。


 そして、その後の子孔(しこう)が政権を握り、士大夫たちの言論を封じようとした時、真っ先に声を上げ、立ち向かったのは、子産であった。


(戦場と同じような、いや戦場以上に厳しい場所があるのだとその時知った)


 その厳しい場所を行くために、学問があるのだとも思った。


(悔しかったものだ。何故、自分は学を磨かなかったのかと)


 そんな自分が何故か、父の死と同時に子産よりも上の地位にいることになってしまった。


(正直、自分には身分不相応の地位であるとも思った)


 そんな中、この度の事態となった。


(皆は子晳を支持していたが、どちらも正義があるとは思えなかった)


 そう自分は思いつつも多数の意見に従い、子晳を支持した。しかし、その結果、子産は国を離れようとしている。


(私は間違っていたのだな。だが、同じような間違いはしない)


 子皮は馬を駆けさせ、子産に追いついた。


「子皮殿」


「子産殿」


 子皮は子産の前に至ると膝をつき、頭を下げた。


「私が間違っていた。どうか国に戻ってもらいたい」


 流石の子産もいきなり頭を下げてきたことに驚いたのか。慌てて、彼の元に近づく。


「頭をお上げください。貴方のような方がこのようなところで頭を下げるものでは」


「何を言われる。私が頭を下げるのは、国のため、民のためです。私の身分など関係ない」


 そうはっきりと言う彼に子産は驚いた。


「何故、貴方はそれほどまでに……」


「私は国のためと思うだけのこと」


(主公が、子産殿が守ろうとしているもの……それは誇りだ)


 簡公も子産も南北の大国に挟まれ、自分たちの国のあり方を見失い誇りを失っていた者たちに誇りを取り戻させようとしている。


(そんな方を失えば、この国はどうなるというのか)


「貴方には、国をより良くする術をお持ちのはず、そんな方を失うわけにはいかない」


「子皮殿、それは買いかぶり過ぎだ。私などは」


「何を恐れる必要があるのですか」


 その言葉に子産は黙った。確かに自分の中では国のための改革について考えていることがあった。しかし、それは多くの者から確実に反感を買う。改革を押し通すまでに押しつぶされる可能性は高かった。


「恐れなくとも大丈夫ですぞ。私が貴方を守る。貴方が民の誇りを守る盾となるのであれば、私が貴方の盾となろう。いかなる相手であろうと私が何もさせん」


(この方は……)


 子産の心に感動が生まれた。かつてこのような人がいただろうか。高位でありながら、下の者に頭を下げ、その者が行うことの全ての責任は自分が取るという。


 そして、その言葉には信があった。


「国に戻ります」


「おお、良くぞ言ってくれた。私は何分、武ばかり磨いてばかりで学がございませんのだ。どうかお力をお貸しくだされ」


 そう笑う子皮を見ながら、


(そうか……この方はかざりを学ばなかったのか)


 学問を学ぶことは自分の視野を広げる術ではあるものの、同時に視野を狭めるものでもある。


(余計なものを学ばず、本当に必要な部分を学んできた。それがこの人の人格を磨いてきた)


「私こそ、これからよろしくお願いします」

 

 子産は子皮はこの時をもって同志となった。









 

 子皮は子産に先に鄭の都城に戻るよういうと印段とも会って、帰国を願った。


 印段は子産が戻ったことを知ると帰国した。子産と印段の二人は子晳の家で盟を結んで協力を約束した。

 

 その後、鄭の簡公かんこうと諸大夫が大宮(太廟)で盟を結び、師之梁(城門)の外で国人と盟を結ばれた。これによって乱の収束が宣言されたことになる。

 

 一方、亡命していた伯有はこれを知ると鄭の人々が自分に対抗するために盟を結んだと知って激怒した。

 

 同時に子皮の甲士が伯有討伐に参加していないと聞いたため、喜んだ。


「子皮は私に協力するつもりなのだ」

 

 単純な人である。自分の良い方しか考えない。

 

 彼は子皮の協力を得られるだろうと考え、朝に伯有は墓門(城門)の瀆(雨水等を流し出す孔)から都城に侵入し、馬師(官名)・羽頡うけつの助けを得て、襄庫(倉庫)の武器や甲冑を自分の士卒に配った。


「ふん、我が地位を取り戻すぞ」


 伯有は旧北門を攻撃した。

 

 それを知った駟帯(子上。子西の子。子晳の宗主)が国人を率いて討伐軍を編成した。

 

 駟氏と伯有の双方は子産を招いたが、彼は、


「兄弟がこのようになってしまった。私は天が助ける者に従ろう」


 と言って取り合わず、どちらにも附かなかった。


 当然、子皮も協力しない。

 

 結局、伯有は敗れて羊肆(羊を売る市)で死んだ。


 子産は伯有の服を替え、死体に伏せて哀哭し、市で殺された伯有の臣も全て棺に納めて、斗城に埋葬した。

 

 駟氏側はその態度が気に食わなかったため、子産を攻撃しようとした。だが、それを知った子皮が真っ先に駟氏の元に向かい、


「礼は国の幹(基礎)である。礼がある者を殺すことほど大きな禍はない。もし武器を取ろうというのであれば、私が相手になるぞ」

 

 駟氏側はあきらめた。

 

 この時、游吉は使者として晋にいた。帰国の途中で難を知り、介(副使)だけに復命させた。

 

 八月、游吉は晋に奔った。

 

 しかし駟帯が游吉を追い、酸棗に至ると游吉は彼と盟を結び、黄河に二つの玉珪を沈めて協力し合うことを誓った。

 

 游吉に従っていた公孫肸(先に復命させた介)が鄭に帰り、諸大夫と盟を結んだ。

 

 その後、游吉は帰国した。

 

 かつて子蟜(公孫蠆)が死んだ時、子羽(公孫揮)と裨竈が朝から子蟜の葬礼について相談した。二人は伯有の家の前を通り、門の上に莠(狗尾草)が生えているのを見つけると、子羽が言った。


「この莠は長くはないだろう」

 

 これは莠を伯有に喩えており、彼の栄華が長く続かないことを意味している。

 

 当時、歳星(木星)が降婁(奎婁。歳星が運行する軌道を十二分割したうちの一つ)に居り、朝、降婁が中天に位置して明るくなった。


 周暦の八月に当たる。公孫蠆は四月に死んだが、八月に埋葬された。

 

 裨竈が降婁を指し、


「歳星がもう一周することはできるでしょう(歳星は約十二年で太陽を一周する)。しかし降婁まで来ることはできない」

 

 伯有が殺された時、歳星は娵訾(歳星が運行する軌道の一つ。降婁の前)の出口におり、まだ降婁には達していなかった。

 

 大夫・僕展は伯有に従って死に、羽頡は晋に出奔して任大夫(任邑の大夫)になった。

 

 雞沢の会で、鄭の楽成が楚に奔り、後に晋に移っており、羽頡は彼と仲が良かったため、彼を頼って趙武に仕えるようになり、鄭討伐を進言したが、趙武は宋の盟(弭兵の盟。停戦の約束)を理由に断った。

 

 鄭では子皮が公孫鉏(子罕の子)を馬師に任命した。羽頡の代わりである。



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