彼の世界、僕の空、彼女の水面
場所小説とか言っておきながらまたもや路線を外しています。汚名返上とはこのことを言うのだと実感。むしろ場所小説だと思わないで読んでもらえると有り難かったり。
例えばだ、かつて洪水で滅んだ都市がいくつあっただろうか。
中学生程度の僕にとって、海の底に沈んだとされる都市で思い当たるのはアトランティスという名称をした古代の現存したかも分からない都市だけだ。『水の都・アトランティス』なんて語呂の良い言葉を耳にしたことがありそうだが、僕にしてみれば水の都はヴェネツィアだろうと一応ながら突っ込んでおくことにする。
兎にも角にも、僕はそんなアトランティスが地中海にあるのか太平洋にあるのか大西洋にあるのかなんてことには微塵も興味は無く、要点だけ述べるならば『水』というものがいかに怖いのかを説明するにあった。
それにおいて、洪水津波大災害を除いてプールという現場がある。身近な水死関係が多発する場所と言えばここしかないだろう。一見して、溺れるという本人不注意の危険性しか無いように思えなくも無いが、事故として起きるのはプールサイドで走って後頭部を強打、大型タイプの浮き輪と共に飛び込んで他人に直撃、とまあ事件性の欠片すら見えないようなものばかりだ。
実際言ってしまえば水死なんてものは滅多に起きないのだ。結局災害は天候の崩れだし、事故は水とは直接関係の無いところにあったりする。
故に僕らは水に対して恐怖を覚えない。水とは怖れるものにあらず、愛でるものにあるのだ。
……と、一般論を振りかざしたところで、何の意味も持たないことを僕は知っているのだけれど、一応恒例事項であったりするので不毛ながらも振りかざしておくことにする。
「いちいちうるさいなぁ、じゅんくんは。それ言うの何回目よ」
「毎年一回言ってるから、ちょうど十五回目辺りじゃないかな。いや、物心つかない分は多分一年に二回言ったと想定してね」
「毎年毎年よく懲りずに新しいネタを仕入れてくるねじゅんくんは。去年はコンピュータであたしに絶景画像とかいうのを何十枚も見せたんだっけ。ホント、苦労人だね」
苦労しているのは誰のせいだ、と僕は隣でため息を吐いた彼女に言ってやりたかった。
しかし僕は、毎年この季節、夏になって彼女のこの服装を見るたびに思案することになる。濃い紺色のタイツのようなもので、ノースリーブでゴム製。まるで下着を穿いているかと錯覚するほどに足の露出度が高いそれは、巷で『スクール水着』と呼ばれていたと思う。童顔で細身かつ貧相な身体の持ち主の彼女は、ご苦労なことに、水泳用の帽子とゴーグルまで着用してまさに今水泳を開始しようとしているスタイルだ。故に僕は彼女の髪型について説明をすることが出来ない。
スタイルと言えば、彼女のスリーサイズは……
「じゅんくん、なんか物凄くいやらしいこと考えてない?」
……自重しておくとしよう。
とは言え、いくら指しゃぶりが抜けない時からの知り合いだからといって、露出された彼女の白い四肢に目を奪われないわけもなく、上からななじゅ、
「じゅんくん!!」
直後、僕の頬に激しい痛みが走った。彼女が僕の頬で擬似螺旋階段を作ろうと赤面して必死になっているのを横目に見て、頬のつねり方の新境地を垣間見た。……痛い。
「そろそろ僕の頬で内部出血が起きて赤みが取れなくなりそうだから止めてくれると有り難いんだけど、海美」
「今何考えてたのか教えてくれたら良いよ」
「僕がそれを語る前に、海美がどうしてここに僕を連れてきたのかの説明をまずよろしくしたい。海美が自らプールに行こうだなんて、明日は槍どころかストーンサークルの石柱が降ってきそうだよ」
「ん……」
それまでの釣りあがった眉は一瞬にして下がる。暗い顔をして押し黙ってしまった。少しまずいことを言ったのかもしれない。
僕の幼なじみにして大親友とも言うべき女子生徒、観渚海美は実のところ無類のプール嫌いであった。いや、プール嫌いではないのだろうけれど、客観的に見ればそう捉えてしまう授業の出席率であった。そう、客観的に見ればの話である。
「……今年くらいは、みんなと一緒にプール入りたいんだもん。いっつもあたしだけのけ者みたいでさ、仕方ないんだけどね」
つつみ隠さず言うならば、彼女はいわゆる『水面恐怖症』であった。そのために水泳の体育の授業は全て仮病でサボっているのだが、実際医者に書類を作ってもらえば良いものを、彼女は無意味な意地で日光の下にさらされているのだ。
「でも、プールサイドから眺めてるだけでも震えるんだろう? 今年、とはいかないと思うけどなあ」
「そうだけど……中学も今年で最後だし、せめて水の中に入れるくらいにならないとなんか気分が悪いもん。別にトラウマがあるわけでもないのに、どうしてこんなのが怖いんだろう」
そう言って彼女は裸足をプールサイドに寄せていって、そのしなやかな足を濡らしながら座り込む。
開館直後の市民プールには人が少ない。それも、まだ夏休みに入る前であるからだ。プール特有の薬品のにおいがやけに鼻に付く。競泳用のプールは昼の日差しを直に受けてゆらゆらと水面に顔を作っていた。監視員も暇そうに肘を手すりに置いて、大きくあくびをしていた。今日が一年の中で一番平和な日なんじゃないかと疑ってしまうほど、ここは閑散と、それこそここが市民プールなのだと忘れてしまうほどに。
僕は彼女の横まで歩いていって、おもむろに水面を蹴る。
「――……っ!?」
彼女の肩が小さくビクッ、と震えた。僕には上がった水しぶきがまるでダイヤモンドのように見えたのだけど、彼女にはさしずめ窓ガラスが蹴られ割られたように感じたのかもしれない。
「そんなんで大丈夫なのかよ」
僕はあえて冷たくそう彼女に語りかける。けれども彼女は強気で返す。
「い、今のは不意打ちじゃない。誰だって驚くよ」
「ふうん。別にそれだったらいいけどさ、僕は勝手に泳がせてもらうよ。こんなところで立ち往生していても仕方ないし」
「冷たいよいっつー。こう、励ましの言葉とか無いのー?」
海美が駄々をこねる子供みたいに僕を見上げてきた。
僕は片足を上げてぐるぐる回す。先ほども言ったが、こういった場合の事故は未然に防ぐ注意が必要だ。準備運動は怠れない。
「励ましも何も、去年も同じような感じだったじゃないか。しかも僕に『プールの中に入ったら無条件でキス』なんていう傍若無人すぎる褒美を用意させておきながら結局未遂だし」
「なら今回あたしが入ったら『無条件でベッドイン』ね」
「…………なんと破廉恥な。まあ出来るものならやってみればいいさ。案外こんな強迫めいた状況の方が上手くいくかもしれないし」
僕は呆れて、そして半ば逃げるようにプールに飛び込んだ。
一瞬にして世界が揺らぎに満たされる。右も左もスライムの中に放り込まれたような風景に切り替わり、日差しで熱くなった身体が休息に冷えて気持ちが良い。そして僕は――そのまま水中から太陽を見る。
――――あった。
僕のダイヤモンド。貧相な頭で弾き出された比喩は、十億円のダイヤモンドの原石を見ているかのようだと。僕の身体を突き刺すように木漏れ日は水面にカーテンを張り、素敵な異次元に僕を招待する。これが海だったらもっと綺麗なんだろうなと思った。
そして僕は浮上する。大きく息を吸って再び世界が一変。目の前には身体を硬直させている海美の姿。それを見つけて、僕はプールサイドに寄って行った。水しぶきを被って少し濡れた海美の姿が可愛かったが、その表情があまりに相容れぬものがあったから僕は少し気分を損ねた。
「で、どうする? 足くらいはつけられるんじゃないか?」
酷く興醒めして言葉を発する。彼女は僕に気付かれないように、小さく深呼吸をして言った。
「だ、大丈夫。盛大にザバーンと入っちゃうから」
「無理はしなくて良いけど……そんなのだったら風呂とかどうやって入るんだ?」
「お風呂は怖くない。だって別に溺れるわけじゃないし。それにあの程度の深さだったらね」
「ふうん……。なんていうか、海美の水面恐怖症って、水面というよりもプール恐怖症と言ったほうが良さそうな感じだね。水面恐怖症、まあ基本的には『水恐怖症』らしいけど、海美、別に海とか湖とか見て怖いわけじゃないだろう?」
「え? 海とか湖は怖いよ。だって足つかないし、水の中入ったら息出来ないのが怖いの。まあ、入ったことないから知らないけどね」
何故かやけに拗ねた口調で切り捨てた。
食わず嫌いという奴なのだろうか。ピーマンを食べたことが無いからピーマンが嫌いだとか、そんなのは良くあることだったりする。そう、良くあることだ。
――だったら、水に叩き込めば良いんじゃないだろうか。
(……流石に酷いかな……)
と、思いつつも試行してみようと思ってしまうのが人間であったりする。つまりは、良くある例で言えば人が空を飛べないと思ってしまったら今も飛べないまま、ピーマンは食べれないと思ってしまったら食べられないまま、水に入れないと思ったら入れないままだ。
「……ふむ。海美、ちょっとこっちに手を伸ばしてごらん」
僕は極力表情を読まれないように頬の筋肉をフル稼働させて手を差し伸べる。
「な、何よぅ。別に自分で入るからいいよ」
「いやそういうわけじゃないんだ。ちょっと海美の手首のサイズを測ろうと思って」
「何のためによ」
「リストカットの痕を隠すための腕輪でも作ってあげようかと」
「あたしそんな精神病んだ人じゃないんだけど」
「……実は、結婚するに当たって指輪を作りたくて」
「手首関係無いじゃん!?」
……ふむ。どうやら恐怖を目の前にした人間は些か疑心暗鬼になっているようだ。その警戒心は実に的を射ているが。つかまず結婚否定しろよ。
僕は日差しで少し温められたプールの温度に浸かりながら、海美に対して嘆息を漏らした。
「海美……。僕がとっておきの恐怖症対策を教えてあげようか? これは最終手段として取っておきたかったんだけど、僕もそろそろ我慢ゲージが三週目くらいに入ってるから流石に辛くなってきた」
「ええ!? そんなのあるならもっと早くに言ってよ〜。必死になってたあたしが馬鹿みたいじゃない」
「だから最終手段と言っただろうが。……まあ聞け」
こほん、と咳払い一つ。
「実は言うと僕は高所恐怖症なんだ。こう、滑り台の上から下を見下ろすと身震いするくらいに。だから海美の気持ちが二割ほど分からないでもない」
「二割って……。なんか微妙だね」
「高所と水では同じ恐怖症でも全く違うからね。でもまあ、克服の仕方はそう変わらないんじゃないかと思うわけだ。いや、僕も克服したわけではないんだけど」
「ふぅん。……で?」
海美が催促するように僕を見つめる。
そもそも、恐怖症というのは医学的には証明しきれない部分が多々存在する。実際精神的なものなのか生理的なものなのかの区別も定かではないし、海美のような先天性的なケースはトラウマという最有力候補が消えてしまうために難易度は階段を十二段飛ばしで上がるくらいの強烈な飛躍を成し遂げてしまう。
次いで言うのであれば、恐怖症と言っても様々、僕のような高所恐怖症を含めてその数は十は下らないだろう。故に統一した解消法は無く、先ほど試そうとしたショック療法的な方法もむしろ悪化の原因となると言っても差異はない。
とは言ったものの、恐怖症は纏めて言えば不安障害の代表的なものであり、不安とは解消されるものであるので恐怖症の解消は実質可能のレベルには位置している。比べれば、ある意味では精神疾患を起こしている患者さんよりも難しいのかもしれないが。これは更正という話ではなくて、既に意識を改竄するくらいの努力は必要なのだから。
だが、僕はその中でも恐怖症に関することでただ一つ、全てに共通する点を知っている。
「つまり、『恐怖すること』だよ、海美」
無駄に長ったらしい説明を全て聞き流されたかもしれない一抹の不安を抱きながら、僕は人差し指を立ててそう言った。
「それは当然じゃん」
……うっわぁ。僕のあの説明を文節にして『それは』『当然』『じゃん』の三節だけで纏められたよ。そのスクール水着ビリビリに引き裂いて良いかな僕。え? 実はそんなこともあろうかと二枚着込んでるって? ……そいつは重畳。新たな防犯仕様だね。
「まあいいや。それで僕が言いたいのはだね、その恐怖を克服、いやむしろ『恐怖を好く』ことだ」
「……はい?」
そんなまるでこの世の馬鹿を全て詰め込んだ超絶馬鹿を見るような目で見ないでくれ。
「これは僕の体験談でもあるんだが、高所恐怖症は確かに高いところが怖いんだ。それはもうマンションの屋上なんて言ったら立てなくなるくらいに。けど、高所ってのは不思議な高揚感があってね、例えば山登りをする人の心理を心理学で統計すると、どうやら俯瞰風景っていうのは人の支配欲とか、そういったものを刺激するらしい。それはある意味では高所恐怖症の人にも稀にあってね、まあ僕の場合は、『高いところから落ちる浮遊感』が好きなんだけれど、そういったものを怯えるんじゃなくて、むしろ好きになってみたらどうなんだろうかって。つまり海美の場合で言えば、水だってこんなに綺麗なんだから『息が出来る出来ない』とかそういうのは置いておいて、そうだな――――まずはダイヤモンドを見てみたらどうだい?」
「――……ダイヤ、モンド?」
彼女は僕のことをかなり怪訝な目で見る。そりゃそうだ、言葉だけ聞けば一体どんな脈絡からダイヤモンドなんて鉱物が出てきたのか国語の先生でさえ分かるわけが無い。
「そうさ。水の都の遥か上空。僕ら地上人には見ようと思わなければ見れない無数のダイヤモンド。親玉は相当カラットがありそうだね。…………ところで一カラットってどのくらいの大きさだ?」
「カラットは大きさじゃなくて質量の単位だよじゅんくん。物凄いロマンチックなこと言って最後に雰囲気ぶち壊さないでよ」
「無知でごめん」
海美は別段興味も無さそうに別に、と流して一歩後ずさる。……何故後ずさる。
「だってじゅんくんなんか物凄く嫌な顔してたし。てかその手は何。なんでこっちに伸ばしてるのよ」
「海美、さっきも言ったが恐怖をむしろ好くんだ。僕の手を天国への階段とでも思って掴むんだ」
「何その韓国ドラマばりの臭い比喩」
「さあ僕の胸に飛び込んでおいで。残念ながらお姉さまのように深い包容力も弾力も無いけどね。いや、それは海美も同じか」
「じゅんくん。殴っていいかな」
「どうぞご自由に」
途端、海美はむっ、と唇を引き締めて大きく右手を振りかぶる。遠心力としなりを生かしたあからさまに当たったら腫れる攻撃。本気で殴りに来るとは思わなかったが、それも既に僕の手の平の上。
――パンッ!!
心地良いほどに軽快な音が響く。が、僕の頬には鈍痛も刺すような痛みも無い。何故なら僕は飛んできた拳を掴んだから。
「――な」
「さて、一名様特等席へご招待だ」
僕はその手を思いっきり引っ張った。監視員の笛が聞こえる。けれど構わない。この期を逃したら、二度と海美にこの『世界』を見せられない気がしたから。
世界は三度目の変貌を遂げた。僕の腕の中で海美が暴れまわる。肘やら膝やらが容赦なく打撃を加えてくるが、やはり構わない。後ろから羽交い絞めにするようにして優しく海美を抱き込んで、映画のワンシーンを再現するように彼女に声の無い語りを聞かせてやる。
僕は水中と森の中はとても似通っていると思う。木漏れ日もそうだし、地上とは明らかに違う空気。異世界に引き込まれたような感覚に、目を奪われる景色。そして何より、僕らには無い大きな包容力。これが一端のプールで味わえるというのだから、人工も捨てたものじゃないなと僕は感心した。
自然と落ち着いてきた海美を感じて、僕はこの世界の遥か上空を指差した。きっと水の都アトランティスの上空にはこの風景が広がっているのだろう。夏でも冬でも構わずにそこに在り続ける『世界』。そしてその中心、全ての世界に共通に、平等に、分け隔てなく降り注ぐ『太陽』。
馬鹿げた話だと思う。所詮プールごときに大自然の何が分かるというのか。横を向けば黄色と赤のラインが引かれて、開館直後だというのに既に足元に溜まった微かなゴミ。見れば閑散としてたはずの市民プールには着々と人が集まり始めていて、飛び込んだ子供の衝撃で世界が揺れる。僕が表現した全てが否定されていくように、世界は常に変貌していく。
けれど、僕はそれでいいんじゃないかと思う。アトランティスにはアトランティスにしかない世界があり、プールにはプールにしかない世界がある。太陽がゴミを『世界』の一部として変えていき、ラインはそれこそまさに『境界線』。僕の上には変わらず『ダイヤモンド』が存在する。ただそれだけでいいんじゃないだろうか。
いつしか海美もその『世界』に魅せられたのか、黙って死んだようにそれらを見つめる。彼女にとっては初めての『世界』だから、感動も大きかったのだろうと思う。
僕が聞かせたかった景色は、僕が見せたかった言葉は伝わっただろうか。水なんて怖くない、美しいもので、とても穏やかで、全然怖いものなんじゃないんだってこと。
(……ってマジで微動だにしないんですけど……)
僕はそれに半ば焦りつつ水面から出して、海美の容態を急遽確認。呼吸、異常なし。脈、異常なし。意識、なし。
ちなみにその後、僕が気絶から目覚めた海美に感想を聞くと「何も覚えてない」と返ってきたのは至極当然の出来事である。