蝉時雨
共同企画小説参加作品。テーマは「雨」です。企画に参加してくださった先生方の作品は、雨小説、で検索していただくと、ご覧になれると思います。よろしくお願いします。
私の足元に、ボールが転がってくる。
私はそれを足の腹でコントロールすると、ゴール前に走りこもうとする彼に視線をくれる。彼は、ゴール前に猛スピードで飛び込んできた。顔を上げて彼を確認する。足元のボールがゴールラインぎりぎりまで接近したところで、私は大きく足を振り上げた。
大きなバックスイング。
短いスカートが揺れ、私の髪が舞い上がる。風を切る音が耳の中をかき混ぜた。私が出せる最高のスピードで、右サイドラインを駆け上がり、そのままの勢いで彼にクロスボールを供給する。
ボールを受け取ったとき、一度だけ彼を見た。確認は、それだけで十分。一度見れば、彼がどんなボールを要求しているのか、どんな動きをするのかが手に取るように分かる。
私は振り上げた足を、ボールに叩きつけた。
ボールを擦り上げるようにして回転を加え、ゴールから離れていく軌道をイメージ。はやるイメージに遅れて、私の体が寸分の狂いなくイメージをトレースする。
きちんとボールをとらえれば、右足には何の衝撃も走らない。突き抜けるような爽快感が、クロスボールを上げた私の体を駆け抜けた。ボールは独楽のように美しい横回転をもって、彼に合流すべく綺麗な曲線を描く。ぐんぐんと曲がるそれは、やがて高く舞い上がる彼の胸に収まり、彼は体を無理に回転させた。バランスを崩した体勢のまま、彼は左足で地面に着地し、 落ちてくるボールを右足で正確にとらえる。
彼の強烈なボレーシュートが、ゴールネットに突き刺さった。
その衝撃音に、蝉時雨がぴたりと止んだ。まるでアウェーの地でゴール決め、観客を黙らせたときのよう。
ネットを突き破らんばかりに飛び込んだボールが、反動でゴールから抜け出てきた。彼はそれを器用につま先で浮かすと、そのボールを浮かせたまま、私に蹴ってよこす。
「もう一本頼む」
私は学校の制服が汚れるのも構わずに胸でトラップし、足の裏でボールを止める。
「いいよ。その代わり、後で飲み物ぐらいおごってよ?」
「了解」
彼は汗をユニフォームの袖で拭うと、ゴール前から遠ざかっていく。汗を吸い込んだ髪の毛が、まるでワックスで固めた髪の毛のように見えた。その毛先を伝って落ちた汗の雫は、太陽に反射してきらめき、地面の砂に吸い込まれる。
にわか雨にふられたように濡れた彼のユニフォーム。彼のたくましい胸板に張り付いているから、筋肉のラインがはっきりと見え、それが私をドキドキさせる。筋骨隆々というわけではないけれど、引き締まっていて無駄がない。
「美樹、今度は低くて速いヤツな。二アサイドに頼む」
彼が手をあげて私に指示を出す。
「いいけど、さっきの何よ。ゴール前であんなに簡単にトラップできるわけないじゃない。コースは完璧だったんだから、ダイレクトでヘディングすべきところでしょ?」
彼は走り出そうとするのを止めて、腰に手を当てる。
「あまりにいいコースにボールが来るからさ、つい」
「練習なんだから、もっとまじめにやってよ……」
彼は頬を膨らます私に苦笑いをしているが、次の瞬間には顔を引き締める。
「次は本気。真面目にやる。それでラスト」
「……分かった」
私は渋々うなづいて、走り始めた彼にボールを蹴りだす。彼は、まるで手品のようにボールを軽々とトラップして見せ、並走する私にロングボールを上げる。ボールが太陽と重なって、やがてそれは私の数メートル先に舞い降りる。
ロングボールが私に向かってくる様子は、本当に時が止まったかのよう。蝉のけたたましい鳴き声や、ボールが弾む音、風を切って走る音、地面を蹴る音が、全て消えてなくなる。
真空。
私と彼は、グラウンドという名の宇宙にいる。
まさに無音の境地。
そこには二人だけが共有できる空間が広がり、二人だけが心を通わせることができる。繰り返されるパス交換は、そんな二人の会話そのもの。お互いを思いやり、お互いを支えあい、お互いを引き出しあう。私にはそれが分かる。彼は、私が追いつきやすいようにボールに逆回転を加えてくれ、その心遣いを感じるたびに、私も彼に最高のボールを渡したくなる。短いスカートが翻るのも気にせずに、私は最高速度で駆け抜ける。シャツが気持ち悪いくらい体に張り付いて、下着の色が見えてしまっても、早起きして丁寧にセットした髪の毛が乱れても、化粧が落ちてしまっても、私は構わない。彼の出したボールをしっかりと受け取ることさえできれば、それは瑣末事に変わる。
だから私はがむしゃらに彼のボールを追いかける。
腕を振って、足を伸ばす。
――もう少し、もう少しで追いつける。
「美樹! 悪い!」
彼の大声は、ボールを受け取ることのできなかった私に向けられた。あと数センチで届くはずだった。
「大丈夫か?」
彼が転んだ私に駆け寄ってくる。左足が擦りむいていて、血がにじんでいた。汗を吸い込んだ純白のシャツ。その白に付着した砂埃は、まるで餅に付いた黄な粉。
「ごめん、追いつけなかった…」
「いや、あれは俺のせいだ。美樹がそんな顔する必要ない」
差し伸べられた手を取ると、彼の太い腕が、軽々と私を持ち上げる。私は擦りむいた足の痛みも忘れて、顔が茹で上がってしまう。
私は眼前に迫る彼の胸に飛び込んで、甘えたくなる衝動を抑えるのがやっと。
彼はそんな私を心配してくれて、手を引いて水飲み場まで連れて行ってくれた。
「ごめんな、俺が調子に乗ったばっかりに」
「気にしないでよ。私だって、サッカーやっている以上、怪我を忘れていたわけではないから」
水道の蛇口をひねると、宝石のように輝く透明な水道水が、私の左足をなめていく。膝をなぞり、つま先へ。ほてった私の体を足元から冷やしていく。
さっきまで全速力で走り回っていたとは思えないくらい、静寂な空間が水飲み場に出来上がる。
蝉の鳴き声が遠ざかっていった。
「勇二はさ……」
傷口を水道水で洗浄する私の隣で、彼が水道水を頭からかぶっている。隣の蛇口を目いっぱい開いて、後頭部から水を浴びるその姿は、砂漠に見つけたオアシスに飛び込んでいくよう。勇二は、好き放題水を浴びた後、前髪から水滴をたらしたまま、口いっぱいに水を飲み込んでいく。喉仏を元気よく上下させながら飲み込んでいく様に、私はまた体温が上昇していくのを感じた。太陽に焼けた健康的な肌、特に首元に釘付けになってしまう。
ふと、彼の首筋の味を知りたくなった。
「ん? なんだ?」
私は自分から問いかけていたことを忘れて、体を震わせた。勘付かれたかな、と思い首をすくめる。彼はそんな私の痴態に微笑む。
「美樹が男だったら良かったのにな」
彼は水道水で濡れた口元を拭って、私に笑いかけた。
「そうしたら、絶対にいいサイドハーフになれる。俺だって、もっともっと得点できる気がする」
私は針に刺されたような痛みに耐えながら、彼の胸を小突く。引き締まった彼の胸の感触が、小突いた手から伝わってきた。
「嘘じゃないぞ。県内でも……いや、全国でも、あんなに完璧なボールを蹴れる人間はいない。俺が保障する」
「ありがと。自慢にするわ」
彼は私が信じていないと思っているようで、少しむきになって私の手をつかむ。
「本当だって。美樹のボールじゃないとしっくり来ないんだ。それに…俺の動きを肌で感じて出してくれるやつなんて、他にはいない。だから、これからも練習に付き合って欲しいんだ」
彼の感情が、つかまれた私の手から流入してくる。温かくて、それでいてたくましくて、一途で……。
「あのね、私、女なんだ。だから、いつまでも勇二のそばでボールを蹴っていられないの」
勇二が私を最高の練習相手として見てくれているのは分かる。
素直に嬉しい。
でも、私が勇二の動きを感じてパスを出せるのは、勇二を知ろうという強い思いが故。パスのタイミングだって、角度だって、高さだって、回転だってそう。全て勇二を知ろうとして、努力した結果に得られたもの。分かりたい、分かり合いたい、分かって欲しい。その積み重ねが、今の私の全て。
ボールの放物線が、きちんと勇二に届いて欲しい。
私の想いの放物線が、きちんと勇二に届いて欲しい。
それだけなんだよ。
「私だって人並みの女の子なんだから、おしゃれして、友達と遊んで、恋愛もしたいの。だから、いつまでもサッカー馬鹿に付き合っていられないの、分かった?」
それでも私はこの想いを打ち明けることができない。私のパスはあんなに素直に勇二に届くのに、私の思いはちっとも勇二に届かない。勇二は私のパスを感じて、あれだけ上手に受け取ってくれるのに、想いはちっとも感じてくれない。
「だから、今だけ付き合ってあげる」
身勝手な私。不器用な私。
「……悪かったよ。でも、ありがとな」
「別に、私サッカー好きだし」
勇二が好きだから、サッカーが好きだと言ってしまいたかった。でも、勇二は私が好きだからサッカーが好きなわけではない。もちろん、サッカーが好きだからといって、私が好きだという保証もない。恋愛に保証はないから。
「美樹が男で、俺と同じサッカー部だったら……きっと最高のパートナーだな」
蛇口の水を止めて、傷口に絆創膏を貼る私を見下ろしながら、勇二は青空を仰ぐ。
一陣の風が駆け抜けると、グラウンドの周囲に生えた木々と、私の心がざわめく。
「……馬鹿」
リフティングを始めた勇二のボールをカットして、私はドリブルを開始する。絶対に彼にボールは取らせない。私は一定のリズムでボールにタッチしながらスピードに乗った。
「美樹! 見えてるぞ!」
勇二が片手でメガホンを作りながら、私の後ろを走ってくる。
「見えてるんじゃないの! 見せてるの!」
「ば、馬鹿……!」
勇二の日に焼けた褐色の肌が、真っ赤に染まるのが見えた。
私はドリブルしたままグラウンドに入る。勇二はそんな私を、俊足を飛ばして追い抜くと、ペナルティエリア目前で立ちふさがった。私は一度ボールを止めて、彼と対峙する。勇二は少し体勢を低くして、私の動向をうかがう。
右、それとも左。
私は右足でボールをまたいでフェイントを入れる。勇二の体重が左足にかかるのが理解できた。極端な体重移動は、絶対的な隙といえる。私はわずかに開いた股の間を見逃さなかった。ボールを勇二の股の間に通して、私自身も勇二の横を駆け抜ける。
「……っ、くそ!」
股を抜かれる屈辱を味わっているのだろう。勇二が舌打ちをする音が聞こえた。
今のは、私の純粋な気持ちに気がつかない罰。
私は思わずほころんでしまう。
ゴール前は無人。二人だけの練習だから、それは当たり前。
だから私はある賭けをすることにした。
シュートが決まれば私は勇二に告白する。
シュートが外れれば、勇二のことはあきらめる。
勇二はすぐに私に追いついて、体重をかけてくる。女だからって容赦はしていない。これは一対一、女も男も関係のない勝負。私は体勢を乱しながらも、大きなバックスイングをとる。
最高の力で、最高のシュートを。
蝉時雨の午後、思いの丈をボールに込めて。
――私はシュートを放った。
【END】
興味を持ってくださった方、読んでくださった方ありがとうございます。ここまで読んでくださった方は、ある疑問が浮かぶと思います。テーマが「雨」にもかかわらず、雨が出てこない!! …申し訳ありません。蝉時雨という言葉で誤魔化しました。そんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。評価、感想、栄養になります。