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My Precious
作:保



第9話〜4月8日〜


 智也は強烈な朝日により、目が覚めた。
「ん…」
 片目を少し開けて、壁時計を確認する。
「朝、か…」
 時刻は6時を少し過ぎた頃。
 今日は朝のトレーニングに行くつもりは無かったが、いつもより遅い起床時間と言えた。
「…見事に晴れたな」
 窓の外を見る。
 空には雲ひとつ浮かんでいない、いわゆる快晴の天気で、正しくテニス日和だった。
「試合は無いけど、頑張らないとな」
 智也は頭の中で、今日のスケジュールを確認する。
 今日は、晴海高校テニス部にとって、大事な校内戦の開催日だった。
 智也は、諸事情により試合の予定がないが、代わりにミックスダブルスのペアを探すという、重要な任務を与えられていた。
「よしっ」
 1つ気合いを入れる智也。
「まずは…」
 智也は、自分の右腕に抱き付くようにして寝ている妹に視線を送る。
「…また潜り込んでたのか」
 軽くため息をつく智也。
 昨日は知らぬ間に寝てしまっていて、妹達の侵入に気が付かなかった。
「…優菜、起きてるんだろ?」
 基本的に、妹たちは寝覚めが非常に良いタイプだと知っていたので、智也は、優菜が既に起きているものと踏んでいた。
「あぅ…」
 そんな兄の言葉に、びくっと反応する優菜。
 智也の言葉には、無意識のうちに体が反応してしまう。
「…」
 それでも優菜は、起きようとはしなかった。
 むしろ先程より抱き着く力を強めて、『すぅ、すぅ』と寝息を立てる。
 まず間違いなく狸寝入りだった。
「…ったく」
 そんなカワイイ抵抗っぷりを見て、智也はひとつため息をつく。
 しかし、その表情は優しい兄の顔だった。
 右腕から力を抜き、特に何も言わずに、優菜のやりたいようにさせてあげることにする。
「あと少しだけだからな」
「…(コクリ)」
 バレバレの狸寝入りをやめ、喜々として頷く優菜。
 そんな優菜の反応を確認した智也は、次に左腕の妹を見る。
「…あ」
 姉とのやり取りが気になっていたのだろう。
 2人の視線が、ばっちり合ってしまっていた。
「優花、起きてたのか」
「…」
 返事をせずに優花は、智也の腕に顔を埋める。
 どうやら、いろいろ恥ずかしかったらしい。
「ほら、いつから起きてたんだ?」
 智也は優しく、優花を抱き寄せる。
「あ…」
 優花は耳まで真っ赤にして、何も言う事が出来ない。
「ん、どうした?」
 智也は不思議そうに、妹を見やる。
「あうぅ…」
 普段から智也は、このようなスキンシップを妹たちにしている。
「どっちにしても、優花。あとちょっとだけだからな」
「…うん」
 素直に頷き、優花は目を閉じた。
(優菜は少し大胆に、優花はおしとやかにって感じか…)
 顔は同じでも、行動パターンは少し違う。
 そんなカワイイ妹たちの姿に目を細める智也。
「…俺もちょっとだけ寝るか」
 両側から伝わる、暖かくて柔らかい感触を感じつつ、智也もゆっくり目を閉じる。
 それからしばし、朝の穏やかなひと時を過ごす3人だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 第9話〜4月8日〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ねえ智也。なんで、そんなにほっぺを気にしてるの?」
「ん、ああ。いや、なんでもない」
「…ふ〜ん」
 校内戦当日の朝。
 智也は、今日も授業がある妹たちを玄関先で送り出した後。
 部活の集合時間には少し早いが、美沙と並んで学校に歩いていた。
 その矢先。
 やたらと両方の頬っぺたを気にして歩いている智也に、美沙が疑問をぶつけてきたところだった。
「…なんか、アヤシイわね」
「な、なにがだよ」
「今日の智也、挙動不審よ。やっぱり、なにかあったんでしょ」
「うっ…」
 美沙のズバリの指摘に、思わず言葉に詰まる智也。
(…言えるわけないよな)
 心の中て、ため息をつく。
 確かに美沙の言う通り、朝に『何か』はあった。
 遡ること、ほんの少し前。
 それは、一瞬の出来事だった。
 智也が、先に家を出る2人を見送ろうと玄関まで赴いた時。
 2人のカワイイ妹たちから、『行ってきますのキス』を受けたのだった。
 2日連続してのあまりの出来事に、しばらくぼうっとしていた智也だったが、何とか再起動。
 普段通りを心掛けて登校していたが、やはり幼なじみには感づかれてしまっていた。
 昔からだが、智也は美沙に対しては、強く言うことが出来ない。
 それは一重に、美沙が自分に対して、かなりの比重で依存していることを理解しているからである。
 つまり、自分の言葉が美沙に与える影響が、とても大きいことをわかっているので、智也はどんな場面でも、自分の発言には気をつけるようにしている。
 …まあ今回のような、軽い雰囲気の場であれば、そんなに悩む必要も無いのだが。
「べ、別に何もないぞ。ちょっと気になって触ってただけだ」
 やはり、日常生活の刷り込みだろうか。
 要らぬ弁解をして、自ら墓穴を掘ってしまう智也であった。
「…言っておくけどね智也」
 2人の歩みがピタリと止まる。
「な、なんだ?」
「智也がそんな、だらし無い顔して歩いてるの見たら、優菜ちゃんたち、幻滅すると思うわよ。間違いなく」
「うっ…」
 智也は、思わず言葉に詰まる。
「今日は学校も休みで、人影が無いからいいけど。もうちょっと気をつけたほうがいいわよ」
「…了解」
 智也は、素直に同意する。
「まあ、その分わたしを構ってくれればいいんだけどね」
 そう言って、美沙は智也の腕を取った。
「…結局そういうことかい」
「あはは、うん」
 美沙は、ちょっと照れた風にうっすら笑った。
 つまるところ、美沙は智也に構ってもらえればそれでいいらしい。
「その話はいいんだけどね、智也」
「…なんだ?」
「今日の校内戦のことなんだけど、どんな感じで見ていくつもりなの?」
 美沙は1番聞きたかったことを聞く。
「そうだなあ…監督の意向にもあるけど、まずはランキング上位の人から見るだろうな」
「まあ、順当にいけばそうなるよね」
 美沙は、予想していた答えが返ってきたので、特に反応はしなかった。
「ということは、2・3年の先輩たちを最初に見るってことね」
 念を押すように、美沙が聞いてくる。
「…そうなるな」
 ここまでくればさすがの智也も、美沙が何を言いたいのか分かっている。
 いつもならばここで1つ、美沙を喜ばせる言葉でも掛けてあげるのだが、美沙を指名しなかった時のことも考えて、敢えて相槌を打つ程度に留めておいた。
「そういえば。肝心の美沙の、今日の相手は決まってるのか?」
「ううん。直前まで発表しないらしいから、まだ分からないわね。多分、貴子だとは思うんだけど…」
 貴子は、美沙や智也と同じ夕陽ヶ丘出身。
 正確なストロークと粘り強さを武器にして、まずまずの実力を持っていた。
「なるほど、西山さんか」
「あと当たりそうなのは…森井さんかな」
「そうなのか?」
「うん。直接対戦したことはないけど、プレーはしょっちゅう目にしてたしね。なにげに上手いなって思ってたんだ」
「そうか」
 事実、女子の首脳陣の間でも、この3人の評価は特に高かった。
 今回の校内戦で、1年の中では美沙、貴子、千尋といったあたりが、ランキングの上位に入ってくると、ひそかにウワサもされているほどだった。
「美沙、誰と当たってもとにかく冷静にな。お前だったら、慌てなければ大丈夫だ」
「うん」
「あと、もし千尋と当たったとしてもだな、手、抜くなよ」
「…どういうこと?」
「千尋はな、多分両手両打ちで試合するつもりだと思う。美沙も、あいつが練習してるところ、見ただろ?」
 千尋が監督との相談の上、片手から両手打ちに変えようとしていることは、周知の事実だった。
 元々、センスのある千尋である。
 何日かの練習でそれなりの形にはなってはいたが、いかんせん練習時間が不足しているようで、まだまだ試合で使えるレベルではなかった。
「…どっちにしても、手は抜かないよ。そんなの相手に失礼だし、それに、そんな余裕があるとは思えないし」
「まあそれもそうか。初の校内戦だしな」
 智也は1人、納得したように頷く。
 智也のそんな態度が、美沙は気に入らない。
「むぅ、智也。そんなに森井さんが気になるの?」
 形のいい眉をちょっと寄せて、美沙は更に体を密着させ、智也の腕を握る手に力を入れる。
「…いや、まあ、な。この前、両手打ちのアドバイスも頼まれたし、ちょっとは気になるな」
「ふぅん」
「…他意は無いぞ」
 内心ドキドキしながら答える智也。
 そのせいで美沙に腕を取られ、更に密着された状態であるのに、いつものように突っ込むことが出来なかった。
「そういえばこないだ、森井さんとデートしてたんだよねぇ」
「デ、デート!?そんなことしてないぞ」
「嘘。和田先輩から直接聞いたんだから。先輩、智也絡みのことは嘘付かないし」
 智也の肩に頭を乗せ、美沙は軽く睨む。
 想い人の慌てた様子に付け込んで、最早やりたい放題だった。
「あ、あれは単なる買い物のついでだって。しかも3人だったし」
「確か、水島さんもいっしょだったのよねえ?」
「う…」
「一緒にご飯まで食べて、帰りは家までエスコートしたのよねえ?」
「ま、まあ…な」
 ちくちく攻められて、たじたじの智也。
「あ、そういえばわたし、『東屋』ってまだ行ったこと無いのよねぇ。凄い評判だから、1回行ってみたいなあって思ってたんだけど」
 智也の耳元に口を寄せ、やんわりとおねだりする美沙。
 その表情は打って変わって、とても楽しそうだった。
 無論、そんな顔は智也からは見ることが出来ない。
「あ、じゃあ来週にでも行くか?」
「えっ」
「来週だったら、部活終わりに夕食がてら、行ってもいいぞ。どうだ?」
「う〜ん、そうねえ…」
 悩むフリをする美沙。
 裏腹に、顔は緩んでいた。
「ん、分かった。じゃあ、お願いしようかな」
「りょ〜かい」
 了解を得られてほっとする智也。
 ほっとしたのは、美沙を無事誘えたからではなく、先程の尋問をはぐらかすことが出来たからだった。
 しかしその代償として、自らの意志で美沙を誘ったことに、智也はまだ、気付いてはいなかった。
「というわけで美沙」
「なあに?」
「…そろそろ離れてくれ」
「ええ〜っ、もうちょっといいじゃない」
「バカ。もう学校着くって」
 確かに次の路地を曲がれば、校門まで続く桜並木通りに出る。
「もう、しょうがないわね」
 美沙は不満げに、智也から離れる。
 そして、智也と美沙が路地を曲がったすぐ先には、夏子と明日香の2人がいた。
「おっ。あれって、奥村先輩と明日香先輩だよな?」
「うん。なに話してるんだろ?」
 2人は揃って首を傾げる。
 確かに集合時刻にはまだまだ余裕があるとはいえ、美少女が揃って、道の往来で立ち止まって話している様子はやはり、人目についた。
「無視するわけにもいかんよな」
 しぶしぶ頷きを返す美沙を尻目に、智也はこちらに気付いていない先輩方に声を掛ける。
「おはようございます、先輩方」
「あっ、おはよう智くん」
「おはよう安達君。今日もカッコイイわね」
「はは、どうもです…」
 すぐに、2人から返事が返ってきた。
 夏子はともかくとして、明日香は嬉しそうだった。
「…明日香先輩、夏子先輩、おはようございます」
 智也に続き、美沙も挨拶する。
「美沙、おはよう」
「鈴木さんも一緒だったのね」
「はい。智也とは家が隣り合わせですから」
「ふぅん。そうなんだ」
 夏子は、なにか納得したように頷いた。
 視線の先は、智也に向かっている。
「それがどうかしたの?」
「ん、ちょっと気になっただけ」
 夏子の様子が気になった明日香の問いを、夏子は軽くいなした。
(夏子先輩もアヤシイわね…)
 そんな様子を見守っていた美沙は、夏子を要注意人物とチェックした。
「ところで、先輩達はここで何してたんです?」
 変な方向に話が行こうかとした時、智也が口を開いた。
「あっ、大したことじゃないよ」
「そうそう。ちょっと世間話を、ね」
「世間話、ですか」
「そう、世間話」
 パタパタと手を振る明日香に対して、夏子は淀みなく答えた。
「そ、そうですか…」
 会話終了。
 そう言われては、智也としても返しようがなかった。
「…智也」
 その時。
 助け舟を出すかのように美沙が、くい、と智也の袖口を引っ張った。
 智也は、美沙が何を言いたいのかすぐに理解した。
「じ、じゃあそろそろ行きましょうか」
「うん」
「そうね」
 少々強引なやり口だったが、2人の先輩を促す形で、智也は歩き出す。
 当然のように、美沙はその隣だった。
「美沙、助かったよ」
 小声で美沙に感謝する。
「別にいいわよ。智也が返事に困ることくらい、予想は出来てたし」
「そうなのか?」
 智也は思わず、目を丸くする。
「そりゃ分かるわよ、ちょっと考えたら」
 美沙は少し得意げに言った。
「ふうん。ま、いいや」
 智也はその訳を、深く聞かなかった。
 どうやら、後ろを少し離れて歩いている先輩方が、気になって仕方がないらしい。
「…そんなに明日香先輩が気になるの?」
「いや、そんなこともないけどな…」
 智也がちら、と後ろを振り返った先には、こちらの様子を固唾を飲んで見守る明日香と目が合った。
 目が合った刹那、ニッコリ笑いかけてくる。
「むぅ…」
 そんな2人の間に入るかのように、美沙は智也の腕を掴んで引き寄せた。
「お、おおい美沙っ」
「なによう」
「だから、さっき言っただろって!先輩達が見てるだろうが」
「ふんだ、どうせ明日香先輩に見られたくないんでしょっ」
「いや、だからな…」
 肩を寄せ合い、小声で議論する2人。
 そんな2人の様子を見て、明日香は軽くため息をついた。
「なんだかイイ感じね、あの2人」
「…うん、まあね」
 夏子の言葉も、明日香はあっさりと認めた。
「昔っからあんな感じなの?」
「ううん。いくら幼なじみでも中学時代はこんなこと、してなかったと思う」
「そうなんだ?」
「うん」
 しっかり確信を持って、明日香は頷く。
 彼女の知るところ、中学時代の智也は数多くの女子からの告白を受けた。
 しかし、1度として首を縦に振ったことがなかったという。
 当時、智也が彼女を作らない理由は色々取り沙汰された。
 当然その中には、『日頃から仲の良い美沙と、付き合ってるんじゃないか』と噂もされたが、これは美沙本人が否定。
 結局、事実は分からず仕舞いだった。
 家族である姉妹を除けばただ1人、幼なじみの美沙を除いてだが…。
「じゃあ、尚更鈴木さんの様子が気になるわね。明日香の話を元にすれば、高校入学前後に、2人の間に何かあったと考えるのが普通だし」
「うん…」
 明日香は前を見る。
 相変わらず美沙は、智也にべったり張り付いていた。
「ま、どっちにしても、明日香も大変よねぇ。やっと、愛しの王子様が入学してきたと思ったら、いきなり三角関係だもんね〜」
「な、夏子っ」
「なによ、『やっと』っていう表現は正解でしょ?片っ端から男子の告白、振ってるんだから」
「うっ…」
 言葉に詰まる明日香。
 明日香は入学以来、その容姿と人当たりの良さも相俟って、かなりの数の告白を受けていた。
 ただ、明日香は誰から告白されようが、一向に誰かと付き合うことは無かった。
 その理由は、推して知るべし、である。
「それにさ〜、これは和田君から聞いたんだけど、今年の『新入生プロフィール集・男子編』の表紙、安達君らしいわよ」
「え、ええっ!?」
「いつもだったら、適当な見出しだけなんだろうけど。これじゃあ、ホントに『王子様』になっちゃいそうね」
「ううっ…」
 夏子の口からトンデモ発言が飛び出したが、智也が表紙を飾ることを聞き、思考がストップしてしまった明日香。
 確かに、プロフィールがそのまま販売されれば、文字通り王子様またはアイドル級の扱いを受けることは間違いなかった。
「なんで和田君がそんなこと知ってるのか、ちょっと気になるけどね…って、なに深刻な顔してるのよ〜」
「だ、だって…」
 引き攣った明日香の顔を見て、自分の発言が間違いだったと感じた夏子。
 智也絡みのことになると、冗談が通じない女の子がここにも1人いた。
 夏子は、慌ててフォローする。
「き、気持ちは分かるけど、さっきの話はそれこそ取らぬ狸の…ってやつよ。まだ販売もされてないんだし、考えるだけ無駄無駄」
「…そうかなぁ」
「そうよ。それに今は、校内戦のほうが大事よ。もうちょっとで始まるんだから」
「あっ、そうだった…」
 夏子の切り札は、校内戦だった。
 やっと、明日香がいつも通りになる。
「というわけで、頑張るわよ。今回はわたしも負けないんだからね」
「ふふっ、分かった」
 くす、と笑う明日香。
「あっ、今笑ったでしょ。どうせ夏子には無理なんだ〜とか思ってるんでしょっ」
「お、思ってないよぉ」
「ふ〜ん、まあ見てなさいよ。今日は絶対勝つんだからね」
「うん」
 明日香は現在、シングルスの3番手。
 夏子の頑張りようによっては、本日の対戦も予想出来た。
「あれ、あの2人は?」
「わかんない。先行ったんじゃないかな?」
 校門まで差し掛かった所で、先行する後輩たちを見失ってしまった2人。
「まだ時間はあるけど、一足先に行っちゃったんじゃない?」
「うん」
 またまた表情を曇らせ、早足になる明日香。
「ちょ、ちょっと。明日香ったら」
「…夏子、遅いよ。先行っちゃうよ」
「ま、待ってったら〜」
 走り出しそうな勢いで前を行く明日香。
 その背を小走りで追いかけつつ、夏子は苦笑した。
(安達君絡みのことは、発言する場を考えないとマズイわね…)
 夏子が明日香と出合ったのは、高校入学の時。
 迷うことなく入った部活で、実力も近いということもあり、たちまち意気投合。
 今では、親友と呼べる間柄だった。
(でも、あの明日香がねぇ…)
 夏子は、小走りでもなかなか追い付かない親友を見る。
 夏子の知る明日香は、日常生活ではいつも穏やかな笑顔を浮かべ、大抵の事にも動じず、落ち着いた物腰を見せていた。
 そして部活内での明日香は、常に冷静なプレースタイルで相手より優位に立ち、たちまちレギュラーの地位を掴む。
 リーグ戦終了後の秋には、部員満場一致で副将に任命されるほど、周囲からの信頼は厚かった。
 そんな優秀な生徒を地で行く親友が唯一、目を輝かせて語る男子がいた。
 それは、夏子が明日香の家に遊びに行った時。
 夏子は、ベッドの下に隠すかのように置いてあった、明日香の2ショット写真を目ざとく発見。
 全く男っ気の無かった親友を、ここぞとばかりに問い詰めた。
 最初は、顔を真っ赤にするだけで、何も言わなかった明日香だったが、夏子の剣幕に遂に折れ、写真に写っている男子について語り始めた。
 明日香が語るところに寄るとその男子は、自分より1つ後輩だがとてもかっこよく、それでいてしっかりしていて、テニスも抜群に上手い。
 勿論成績も常に上位をキープしていて、まるで王子様のようだった…と、一旦箍が外れた明日香は賛辞を連発。
 結局、その日は夕方までのろけ話?を延々聞かされ続け、解散。
 それ以来、事あるごとに耳がタコになる程、夏子はその男子のことを聞かされたものだった。
(確かに、王子様かもね…)
 明日香に智也のことを聞いた後は、そのことを激しく後悔したものだが、実物を前にした今となっては、そんな感情も綺麗に消え去っていた。
 新入生でありながら、レギュラーに食い込む程の実力者。
 本当にアイドルになっても大丈夫なのではと思える程の容姿。
 何より男女関係無く、沢山の人を引き付ける内面を持っていることが、夏子にはとても好印象だった。
 そんな魅力的な彼を、もっと間近で見てみたいと思う。
「な〜つ〜こ〜」
 そんな時。
 腰に手を当てて、ちょっと怒った明日香の声が聞こえてくる。
「何してるのよ〜。先行っちゃうよって言ったじゃない」
「ごめんごめん。ちょっと考え事しちゃって」
「んもう、急に立ち止まるから心配して戻って来ちゃったよ」
 少し頬を膨らます明日香。
 その姿が怖いというよりも可愛らしくて、思わず夏子は笑ってしまう。
「な、何で笑うのよ〜」
「ううん、なんでもない」
 そう言って、夏子は歩き出す。
「あ、そうだ明日香」
「どうしたの?」
 追い付いて来た明日香に、夏子は言う。
「わたしのほうが、スタイル良いんだからね」
「えっ」
「…負けないわよ」
 夏子は、とても良い笑顔を浮かべ、小走りになった。
「…ま、待ってよ〜」
 今度は明日香が追う番だった。
 何はともあれ、そんなこんなで仲の良い2年生コンビの朝は過ぎていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一方その頃。
 先行していたはずの智也と美沙は、テニスコートに程近い場所にある、グラウンドにいた。
「凄い人だな」
「うん」
 2人が立っているのは、芝生の敷き詰められたグラウンドの横の観客席。
 何段かある観客席には、満遍なく観客の姿が見受けられた。
「ねえ智也。ここで何があるの?」
 事情のわからない美沙が聞いてくる。
「あ、そういえば言ってなかったよな」
「そうよ。テニスコートと同じ方向だから、全然わかんなかったし」
「はは、悪い悪い」
 先程、校門を過ぎたあたりで、智也は時間に余裕があるのを確認したきり、美沙に何も言わずにここまでやってきたのだった。
「で、何があるの?」
 辺りを見渡しながら美沙が聞く。
 客席には、新聞部や生徒会の腕章をつけた生徒もおり、見た目でもなかなかの注目っぷりが伺えた。
 美沙は、元来スポーツ好きでもあり、早朝から観客を集める程の試合があることがやはり、気になるようだった。
「そうだな…腕を離してくれたら教えてやってもいいぞ」
 智也は、自分の腕を見る。
 校門通過時から変わらず、腕には美沙がくっついて離れようとはしなかった。
 智也個人としては、決して嫌ではないのだが、場所が場所である。
 自らが蒔いたタネとはいえ、美沙にはもう少し、恥じらいを持って欲しいと切に思っていた。
「むぅ、じゃあ教えてくれなくても良いわよ」
「…おいおい」
 ここがわたしの居場所だと言わんばかりに、ぎゅっと抱きついてくる幼馴染みを見て、智也は軽くため息をついた。
(うっ…)
 思わず声が大きくなっていたのだろうか。
 徐々に、周りからは好奇の視線を浴びつつあるが、そこは気にしないことにする。
「今日は、サッカー部の試合があるんだよ」
「サッカー部の?」
「ああ。うちのサッカー部は強豪だからな。かなりの実力選手もいるらしい。試合ともなれば、かなりの人が見に来るんだよ」
「ふぅん」
 美沙は、改めて観客席を見る。
 客層としては、明らかに女子生徒の数が多かった。
「それで、今日は大樹が出るかもしれないんだよ」
「えっ、浜田君が?」
「ああ。先発メンバーかは微妙らしいけどな」
 昨日の夜、智也は大樹から電話を受けていた。
 なんでも、土曜日の試合に早速出場する見込みがあるとのことで、時間があったら見学しに来いとのこと。
 智也も、部活がある為にその場では確答出来なかったが、幸い時間もあったのでグラウンドに顔を出すことが出来ていた。
 ちなみに、『頼むっ、森井さんも連れてきてくれっ!』という大樹の魂の叫びは、丁重に受話器を切ることでお断りしておいたが、それはまた別の話。
「すごいじゃない、まだ入学してから1週間だよ?」
「いや、あいつの場合はそうでもないさ。なんせ、サッカー馬鹿だからな」
「あ、あはは…そうね」
 智也の言い様に、美沙も否定はしなかった。
 大樹は中学時代、サッカーは県の選抜に選ばれる程の腕前で、周囲では早くも、将来はプロ選手としての活躍が期待されていた。
 ただ、そのかわり勉学面の成績はとても悪く、いつも補習授業の常連だった。
 そんな大樹が晴海高校に合格できたのも、一重にスポーツ推薦枠の恩恵があったからに他ならない。
 晴海高校では、スポーツで優秀な成績を収めた生徒をターゲットに、推薦枠を設けている。
 この推薦枠に選ばれて受験をすると、大抵の生徒は合格するというものだった。
 受験前日、『夕陽丘中学からスポーツ推薦で晴海高校を受験する生徒がいる』とのウワサが流れ、その当時は智也が1番の容疑者だったが、蓋を開けてみれば、本来合格するはずの無い人物が合格していた。
 その人物こそ、大樹だった。
「まあ、入学してからは他の生徒と変わらない扱いになるわけだし。あいつにとっては良かったんじゃないか」
「…そ、そうね」
「ん、どうした?なんか歯切れが悪いぞ」
「な、なんでもないわよ」
 入学時、美沙は安達姉妹と共闘して、智也の学生寮への入寮を阻止した記憶がある。
 その為、大樹の推薦入学について、とやかく言うのはちょっと後ろめたかった。
 そんな美沙を、智也が不思議そうに見ていた時。
 周囲の観客から、わっと声が上がった。
「あっ、メンバーが出てきたっ」
「おっ、どれどれ…」
 美沙が、ちょっと大げさに指差した方向を智也も眺める。
 グラウンドに隣接する形で設置してある部室から、続々とユニフォーム姿の部員が出てくる。
 ジャージ姿の部員もいることから、ユニフォームを着ている選手が、先発メンバーだと理解できた。
 その中に、智也の見知った人影が1つ。
「あっ、先発みたいね」
「そうだな」
 忙しくシャッターを切る音と一際大きい歓声を背に、大樹がグラウンドに降り立った。
 あまりの熱の入りように、思わずビックリする2人。
「な、なんか凄いことになってない?」
「…まあ、黙ってれば良いヤツに見えるんだよ」
 結構冷静な智也。
 智也と大樹、いつも智也が注目されているように思えるが、実は2人で居る時のほうが盛り上がりが凄かった。
 智也の言うとおり、大樹も黙っていれば相当カッコイイ部類に入るからである。
(ほんと、今だけだよな…)
 この前の実力テストはともかくとして、中間テスト(もちろん補習あり)が終わるまでは、凄い盛り上がりを見せるだろうと思っている。
 なにせ、晴海高校はスポーツの強豪校を目指してはいるが、元々は進学校がベースの校風だ。
 勉強面で落ちこぼれていくと、たちまちそっぽを向かれるような気がする。
 そう考えると、大樹がちょっと哀れに思えてきた。
(せめて、サッカーでは1番になってくれ…)
 自分のことを棚に上げてそんなことを考えていると、大樹と偶然目が合った。
 大樹もこちらに気付いたようで、何かを叫びながら手をぶんぶん振っている。
 仕方が無いので、智也はぎこちなく手を振りかえした。
(…おいおい、長くないか?)
 智也は頭をひねる。
 肝心の大樹は、智也が手を振り返した後も、未だ手を振ることを止めていなかった。
 ようやく隣にいた先輩が一喝し、選手の輪の中にと戻っていった。
 各校の選手が気合を入れた後程なくして、審判のホイッスルの音と共に、晴海高校サッカー部の試合が歓声をバックに始まった。
(ようやく始まったな…)
 智也は軽く息をつく。
 見たところ、大樹は中盤の攻撃的な位置。
 いわゆるトップ下と呼ばれる、チームの司令塔的なポジションだった。
「さて、俺達も頑張らないとな」
 最後に心の中で大樹にエールを送り、智也は美沙を見やる。
 美沙は、無言で腕にくっついたままだった。
「どうした?」
「…」
 美沙は、智也の問いに答えない。
「?」
 いきなり表情の固くなった美沙を不思議に思っていた智也。
「…智也くん」
 そんな時、金糸のような綺麗な髪を靡かせた女子生徒が、智也に声を掛けてきた。
「お、おう千尋か」
「…おはよう、智也くん」
「お、おう」
 ちょっと慌てて、智也は挨拶する。
 千尋の表情は固かった。
「…おはよう、美沙ちゃん」
「…おはよ」
 美沙は挨拶と同時に、先ほどよりも強く智也の腕に密着する。
(むぅ…)
 その様子を見せ付けられて、千尋の形の良い眉が釣り上がる。
 いきなり訪れた危うい雰囲気に、智也は大いにため息をついた。
「あのな千尋。これには深いワケがあってだな…」
「美沙ちゃん」
「…何?」
 智也の言葉を遮って、千尋は美沙に問いかけた。
「今日の試合、頑張ろうね」
「…」
 返事の代わりに、美沙はコクリと頷いた。
「智也くん」
「な、なんだ?」
 この場面だけを見れば、2股がバレた情けない彼氏にしか見えないだろう。
 智也の顔は、引き攣っていた。
「今日は試合だからダメだったけど、明日はどうするの?」
「あ、ああそうだな…。明日はちょっと、午前中から用事があるんだよな…」
「じゃあ、やめとく?」
「そうだな…」
 千尋が言い出したのは、この1週間で恒例となった、早朝のトレーニングのことだった。
 当初は智也が始めていたトレーニングに、偶然居合わせた千尋が乗ってきて始まった、朝のトレーニングだったが、美沙に大きく溝を空けられている(と思っている)千尋にとっては、美沙に対しての大きなアドバンテージとなっていた。
「い、今すぐじゃなくてもいいか?今はちょっと答えづらいんだが…」
 ちら、と傍らの美沙を見やる。
 美沙の顔は明らかに、『どういうこと?』と言っていた。
 千尋も、そんな美沙の表情に気付いたが、構わず智也に語りかける。
「うん、いいよ。じゃあいつでもいいから、声掛けてくれるかな?」
「了解。そうさせてもらうよ」
 途端に笑顔になる千尋。
 その表情は実に晴れやかだった。
「…智也、そろそろ行かない?」
 そんな光景を見ていた美沙は、智也の二の腕を抓った。
「(いっっ…)そうだな…」
 刺す様な痛みを堪えつつ、智也は近くの時計を見上げた。
 確かに、そろそろ良い時間帯だった。
「じゃあ、行くか」
「うん」
 智也はグラウンドを振り返る。
 得点こそ入っていないものの、試合自体は白熱しており、熱い歓声が止む事は殆ど無かった。
 大樹も、精力的に動き回ってチャンスを演出しようとしている。
(大樹、頑張れよ)
 親友に最後のエールを送り、今度こそ智也は歩き出した。
「…」
 歩き出してすぐ。
 美沙がいる腕とは逆のほうへ、千尋がくっついてきた。
 千尋が腕を絡めると、甘くて良い匂いが漂ってくる。
 思わず緊張する智也。
「…あ、あの〜、千尋さん?」
「な、何かな?」
「なんでくっついてくるんだ?」
「だ、だって…」
 千尋は、逆となりの美沙を見る。
 やっぱり恥ずかしかったのだろう。
 恥ずかしそうにこちらを見るその顔は、耳まで真っ赤だった。
(うっ、それは反則だろ…)
 さすがにそんな顔を見せられると、智也も言いたいことが言えなかった。
「…ちょっとだけだからな」
「うんっ」
 嬉しそうにくっつく千尋。
「さて、と」
 両側から伝わってくる、柔らかい感触と甘い香り。
 思わず抱き締めたくなる、そんな誘惑に必死に抗いつつ、智也はゆっくりと歩き出した。
 その両腕には。
「えへへ…」
 1度恥ずかしい思いをしたから、もう開き直ってしまった。
 金の髪をなびかせて、嬉しそうにぴったり寄り添う千尋。
「…負けないんだから」
 誰にも聞こえない位の小声で呟き、新たなライバルの出現に闘志を燃やす美沙。
 もはや2人とも、ここが公衆の場であることなどすっかり忘れてしまったかのような、見事な壊れっぷりだった。
「はあ…」
 大きなため息をつく智也。
 美少女2人が密着しているため、もの凄く歩きづらい。
 加えて、智也の容姿の良さも手伝って、余計に周囲からの視線が智也には痛かった。
(今日は早く帰ろ…)
 まだ、校内戦も始まっていない朝の時間。
 智也は、腰に手を回そうとしてくる美沙と、それに対抗して抱きついてくる千尋を何とかあしらいつつ、ぎこちない足取りでテニスコートに向かって行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 予告通り、部活は始まった。
「よ〜し、全員揃ったな。今日は周知の通り、男女共に校内戦を行う」
 茂雄の声が、部員全員に響き渡る。
 今日は1年生以外は、試合で着るユニフォームを着用していた。
「1年は初めての校内戦だから緊張しているかもしれないが、やることは普段と同じだ。練習の成果を出すように努力すればいい。いいか?」
 はい、と声が返ってきたのを聞いてから、茂雄はポケットからプリントを取り出した。
「じゃあ、組み合わせを発表する。まずは1面。平岡と間淵。シングルスだ」
 近くにいた周が、2人に1球ずつボールを渡す。
 勿論新しいボールだった。
「2面。大川と星谷、シングルス」
 同じように、周がボールを配る。
 1・2面は予想通り、1年生同士の対決となった。
「次に3面…」
 茂雄が次々とメンバーを読み上げ、対象の部員がコートに入っていく。
 試合の無いことが決まっている智也は、その光景を少し、羨ましそうに見ていた。
「…以上が男子だ。残ったメンツは、適当に散って審判に入ってやってくれ」
 そんな茂雄の指示も慣れたように、呼ばれなかった先輩達はコートに散る。
 当然、今入っている試合のどこかが終了すれば、次は自分の試合が入る可能性が高いわけである。
 その視線は、真剣そのものだった。
「6面からは、女子の試合になります」
 茂雄の後を継いで、順子が指示をする。
 こちらは部活専用のノート持参。
 敬称略で発表するからあしからず、と先に告げ、組み合わせを読み上げていく。
「6面はシングルス。川竹とわたし、安田が入ります」
 早速6面では、現在シングルスランキング1位の、川竹ひかると、2位の順子のシングルスが組まれた。
「…今回は勝たせてもらうわよ」
「はいはい」
 ひかるにボールを渡しつつ、順子は闘志を燃やす。
「7面もシングルスね。渡部と樋村」
 3位の明日香は、4位の樋村真弓の挑戦を受ける形になった。
「何回目かしら」
「そうですね…かなりの回数になってるかと」
 2人はこれから練習をしに行くかのような態度で、コートに入っていく。
 明日香と3年生の真弓は、数多くの対戦を経験してきているので、対戦が決まったあともまるで緊張感が無かった。
 だが、それも試合が始まるまでのこと。
 試合開始と共に、激しい戦いが始まるのは、毎回のことだった。
 それを知っているだけに、順子達も何も言わなかった。
「次、8面。藤沢と奥村、シングルス」
「…」
「どうしました、緑先輩?」
「な、何でもないわよ…」
 ボールを受け取りながら、夏子は藤沢緑に声を掛ける。
 現在夏子はランキング6位。
 先輩であるランキング5位の、藤沢緑にはこのところの猛練習が実って、かなり勝つことが出来るようになってきており、今回の対戦は願ったり叶ったりの状況だった。
 ランキング降格の危機を感じていた緑は、順子に名前を呼ばれないことを祈っていたのだが、そうそう都合の良いことは発生することもなかった。
「緑先輩、今回は覚悟してくださいね」
「か、返り討ちにしてやるわよ…」
「あれ、声が小さいですよ」
「ううるさいわねっ」
 軽いトークを交えながら、コートに向かう2人。
 そんな2人を目で追いつつ、順子は続ける。
「9面は1年生ね」
 残っている1年生に、緊張が走る。
「…9面、シングルスで西山と鈴木」
「うっ」
 思わず声が漏れた貴子を尻目に、美沙は順子からボールを受け取った。
「貴子、行くわよ」
「…はあ」
 貴子は中学時代の校内戦で、美沙には絶好調の時以外、殆ど勝った試しが無かった。
 しかも今回の美沙は、智也の前でプレーするとあって、並々ならぬオーラを感じる。
(…やだなあ)
 美沙は引きずるように、往生際の悪い貴子を連れて行った。
「最後に10面。10面は森井と水島、シングルスね」
 最後に呼ばれたのは、両手両打ちに改造中の千尋と、ソフトテニスから転向してきたサウスポー、彩音の対戦だった。
 両者共に緊張した面持ちで、コートまで歩いていく。
(初々しいわねぇ…)
 まるでおばさんのようにその後姿を眺めてから、順子は一旦締める。
「というわけで、最初の組み合わせは以上よ。あとは試合の進行状況と判断して、適宜、次の試合も入れていくから、まだ試合の無い人も準備は怠り無いように」
 残った女子部員も頷き、各コートに審判として入っていく。
 最後に順子は、コートの玄関にいる志穂に視線を送る。
 志穂は静かに頷いた。
「…じゃあ、始めてください!」
 お願いします、と順子が掛け声をしたと同時に、男女共に各コートで熱戦の火蓋が切って落とされた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ふっ!」
 パン、と小気味の良い音を立てて、ボールを相手コートに打ち込む。
 狙いは相手のバックハンド側。
 打った勢いそのままに、美沙は素早くネットに詰める。
 貴子が何とか返球してきた力の無いボールは、吸い付くかのように美沙のところへと向かっていく。
 美沙は、そのボールを丁寧にボレーするだけでよかった。
 
 パン
 
「あっ…」
 
 体勢の崩れたままの貴子の横を、ボールがすり抜けていく。
 この瞬間、美沙の勝利が決まった。
『ゲームセット鈴木…』
 審判の声が響き渡る中、美沙と貴子はコートの中央で固い握手を交わした。
「完敗よ美沙。強くなったわね」
「なに言ってるのよ。あれだけ粘っておいて」
「あはは。だって、あっさり負けちゃうのもどうかなって思ったりもしたし」
 貴子は、自ら完敗と言っているが、本人以外はそうだとは思っていなかった。
 結果から言えば6−2で、あっさり終わったようだが、その実、試合時間は優に1時間を経過していた。
 試合自体は1セットマッチのために終了したが、これがもし、対外試合の3セットマッチで行われていたら完全に体力勝負にもつれ込むだろうことは予想出来た。
 何より、女子の首脳陣には貴子の粘り強さは、きちんと伸ばすことが出来れば、かなりの戦力になると印象を受けた一戦になった。
「ほら、みんな拍手してるじゃない」
「あ…」
 慌てて貴子が辺りを見渡すと、試合を見守っていた部員達が、惜しみない拍手を送ってくれている。
 貴子と美沙へ、勝敗を超えた健闘を称える優しい拍手だった。
「次、また頑張ろうじゃない」
「…そうね」
 貴子は素直に頷いた。
 結果、試合には負けはしたが、高校でも頑張って練習しようと決意する。
 そこには負けを経験することで、選手が成長する原点になった瞬間があった。
 そしてここにも、そんな負けを経験する生徒が1人。
 
 
 パン
 
「っ!」
 彩音は、予想外のスピードで返ってくるボールに手こずっていた。
 マッチポイントを握られた今になっても、なかなか相手のリズムを崩すことが出来ず、ただただ粘るのみだった。
 
 パサッ
 
「あ…」
 彩音が必死に返球したボールは、無情にもネットに掛かってしまい、遂に試合が終了してしまう。
『ゲームセット森井…』
 試合は、千尋の粘り勝ちで、6−4という僅差のスコアだった。
「ありがとうございました」
「うん、こちらこそ」
 コートの中央で握手し、お互いの健闘を称えあう2人。
 初戦の緊張感から開放されたお陰だろうか。
 その表情には明るいものが戻っていた。
 2人は揃ってコートを後にし、順子の居る場所へと小走りで戻る。
「2人とも、お疲れ様」
 順子はねぎらいの声を掛ける。
「はい」
「ありがとうございます」
「初めてにしてはよくやってたわよ。あれだけ出来れば、今後に期待が持てるわね」
 珍しく、賛辞を惜しまない順子。
 その声は少々弾んでおり、裏腹に、すぐそばに居るひかるには何となく元気が無かった。
 そんな様子を見る限り、ランキングの順位に変動があったような気がした2人だった。
(主将、勝ったみたいだね)
(はい…)
 アイコンタクトする2人。
 しかし、勝負の結果を聞く度胸はまだ無い。
 順子はしばらく2人の試合の総括を話した後、今後の試合について伝える。
「2人とも、しばらく休憩に入って頂戴。次の試合で恐らく最後だから」
 千尋はシングルス、彩音はダブルスになると思うけどね、と順子は補足する。
 現在もなお、10面あるテニスコート全部を使用して熱戦が繰り広げられている校内戦。
 特に1年生同士の初顔合わせや、上位陣同士の対決は、思った以上に長引いており、1人当たりの試合数は、2試合。
 場合によっては1試合で終了する可能性も出てきていた。
 1試合で終了する部員は、折角のランキングアップのチャンスを逃すことになり、勿体無い気もするが、そこはちゃんと押さえている首脳陣である。
 次回の校内戦では、ランキングのジャンプアップが可能になるよう、かなり上位の選手と組み合わせを調整するようにしたりと、皆が納得するように便宜を図るようにしている。
「あの、主将」
「なに、彩音?」
「その、ダブルスのことなんですけど…」
 彩音は、おずおずと話す。
 そんな様子を見て、彩音が何を言いたいのか順子はぴんと来た。
「ああ、そういえば彩音はダブルスの練習、してなかったのよね」
「はい…」
 彩音は入学当初から、ソフトテニスから硬式テニスに転向したということもあり、とにかく球質に慣れるよう、多くのボール数を打つ練習ばかりしてきていた。
 その甲斐あって、今回は千尋とかなりの時間、試合が出来たわけだが、その代わりに戦術練習が必要な、ダブルスの練習には一切手をつけていないのが実情だった。
 もちろん、本来なら居るべきダブルスのパートナーは存在していない。
「う〜ん、そうねえ…」
 順子は(智也から借りている)ラケットを大事そうに抱える+撫でる彩音を見る。
 次の試合は順当に行けば、美沙と千尋の試合を組む予定にしていて、彩音はダブルスの試合をさせる方針で決まっており、彩音のダブルスの対戦相手も既に決まっていた。
 ちなみに、美沙は現在待機中。
 他の先輩達と同様に、審判の任務についている。
(しまった、失念してたわ…)
 ひかるとの決戦に勝ち、思考が止まっていたのだろうか。
 彩音もてっきり、ダブルスのパートナーが存在していると勘違いしていて、そのまま試合を組んでしまっていた。
(どうしよう…)
 ここにきて思わぬ事態が発生してしまっていた。
 とりあえず、目の前に居る2人は休憩に入らせるべきと、順子は判断する。
「2人とも、次の試合になったら呼ぶから、それまで休憩しておいて頂戴。彩音も何とかするから、心配しないで」
「は、はい」
 2人は揃って軽く頭を下げ、1度コートを後にするべく歩き出した。
 順子は軽くため息をついた。
 そんな時。
「どうしたんですか、安田主将?」
 順子に声を掛けてきたのは、女子の試合をつぶさに見ていた、智也だった。
「あ、王子様」
「…王子様は止めてください」
「あはは、ごめんごめん」
 順子は軽く手を振って謝る。
「それで、どうかしたんですか?何か深刻そうな顔されてましたけど」
「あ、やっぱり分かっちゃう?」
「そりゃあ分かりますよ。いきなり目の前でため息なんかつかれたら、ね」
「…それもそっか」
 先ほどの自分の行動を思い出し、苦笑する。
 どうやら、智也の接近にも気付いていなかったらしい。
「あ、わたしのことはいいんだけどさ、智也君のほうは終わったわけ?」
「あ〜、それがですね…」
「まだなんだ」
「はい…」
 智也は、ちら、と志穂を見やる。
 志穂は今、男子の校内戦をとても真剣そうな眼差しで見ていた。
「一応今日の試合を見せてもらって、何人かには絞らせてもらったんですが…」
「…監督からのOKは貰えてない、と」
「その通りです」
 智也は1枚のプリントを取り出し、順子に見せる。
 順子が見たのは、女子部員の選手名簿だった。
 データ別に、細かく戦力分析された名簿の中に、これまた細かく書き込みがある。
 順子が察するに、プリントの作成者は志穂で、綺麗に書き込んである字は智也のものだろうと思った。
 さらに注意深く見てみると、格部員の名前の横に、小さくマルやバツ、ハテナマークなどが付いている。
「…なるほど、このマークが基準なわけね」
「はい。本来なら監督以外に見せるのもどうかなと思うんですけど、主将なら問題ないかなと思いまして」
「あ、ありがと」
 褒められたわけでもないが、ちょっと顔を赤くする順子。
 特別扱いされて、ちょっぴり嬉しかった。
 気を取り直して、プリントを凝視する。
「どうですかね?」
 意見を求めてくる智也。
「あ、あのねえ智也君」
「はい」
「これじゃあ、監督が首を縦に振らないのも、無理ないわよ」
 呆れたような声で、智也をたしなめる順子。
「えっ、そうですか?」
 智也は素直に驚いた。
 順子はプリントを指先でトン、と叩く。
「このマルをしている子、智也君が選んだんでしょ?」
「そうですけど…」
 智也がプリントにマルをつけていたのは、明日香と美沙の2人だった。
「なんとなく分かるけど…一応理由を教えてくれない?」
「えっとですね…」
 順子の問いに答える形で、智也は理由を言う。
「なるほど…」
 じっと聞いていた順子は、腕組みを解く。
「要するに、中学時代に組んだ経験があるから、やりやすいということね」
「そうです」
「はあ。そんなの、監督が納得するわけないじゃない」
「えっ」
 順子はたしなめる様に、人差し指を立てる。
「だって、そんな理由で選んでたら、わざわざ校内戦を使って選ばせることなんて、まるで意味が無いじゃないの」
「そう言われれば…」
「でしょ?智也君、今日の女子の試合、殆ど休まずに見てたんだから分かると思うけど、うちの子たちはみんな良い選手よ。もちろん、明日香と美沙も含めてね」
 順子は、まだまだ熱戦を繰り広げている部員達を見る。
「今回のパートナーの選出は、ただ単なる智也君のパートナー選びだけじゃないのよ。女子全体のチーム力の底上げも兼ねてるんだから」
「そうだったんですか…」
 順子の言葉に、智也は頷かざるを得ない。
 今回、智也のパートナー選びは、予想以上の盛り上がりを見せた。
 当初、志穂や女子の首脳陣は、この盛り上がりに便乗して、各部員達の最新の実力を測ろうという程度の認識でいたのだが、肝心の首脳陣達も大盛り上がり。
 結果的に、殆どの部員が予想以上の実力を披露してくれて、校内戦は大いに沸いていた。
「だから、監督がなかなかOKしないのも分かるでしょ?誰を選んだのかっていう結論はともかくとして、智也君がこの校内戦をどう見たのか、出てくるわけなんだからね」
「…なるほど」
 智也はう〜ん、と唸る。
 今回、そこまで深い意味が隠されているとは、智也は予想だにしていなかった。
 ただ、女子部員の試合を見ている限り、皆のプレーが本当に一生懸命で、自分も頑張らないといけないなと、ひどく感銘を受けていたのは間違いなかった。
(そうなると、もう1回考え直さないといけないな…)
 この場にはいない志穂を見る。
 智也はこの1週間のうちに、かなり志穂に信頼を寄せていた。
 そして今回自分が選んだのは、試合をつぶさに観察していたとはいえ、昔組んだことのある美沙と明日香の2人。
 恐らく順子が指摘したように、志穂も校内戦をしっかり見た上で判断した結果が欲しかったのだろう。
(流石だな志穂先生。こんな気持ちで選んでたら、OKする訳ないよな…)
 やはり、心のどこかで浮かれていた気持ちがあったのかもしれない。
 智也は素直に反省すると同時に、改めて、志穂に対する尊敬の念を強くした。
「で、智也君」
「はい」
「ものは1つ、相談があるんだけど…」
「何でしょう?」
 改めてプリントを見直していた智也に、順子が声を掛けた。
「あのね…」
 ちょいちょい、と手招きをする順子。
「はい?」
 少しかがんだ智也の耳元に、順子は口を近づけて耳打ちする。
 どさくさに紛れて抱き付こうかと思ったが、今は部活中。
 何とか自制した。
「…というわけなんだけど」
「はあ、俺は別にいいんですけど」
 どこか歯切れの悪い智也。
「あ、監督にはちゃんと言っておくから心配しないで。相手は女の子のペアになるけど、思いっきりやっちゃって構わないわよ」
「…分かりました。じゃあちょっと彩…水島さんのところ、行って来てもいいですか?」
「いいわよ。わたしも監督のところに行くから」
「はい」
 智也は、待機中の彩音がいると思われるコートの外に向かって行った。
 やっぱり試合がしたかったのだろう。
 どことなく嬉しそうな智也の後姿を見送ってから、順子は志穂の座っているベンチへと歩み寄った。
「監督」
「どうしたの安田さん。予定してた試合、全部終わっちゃった?」
 順子に気付いた志穂が、女子の試合が続いているコートを振り返る。
 志穂は、事前に男女の首脳陣と今日の予定試合を話し合いで決めていた。
 1通り、女子の全部員の試合を観察し終わったので、今は男子の試合を見ているところだった。
「いや、それがですね…1つ困ったことが起きちゃいまして」
「困ったこと?」
「はい。これを見てください」
 順子から差し出された部活のノートを、志穂は受け取る。
 その中には今日の全部員の対戦表と共に、結果と試合総括がびっしりと書き込まれていた。
 しばらく目を通した後、志穂は軽く息をついた。
「なるほど、水島さんのダブルスね」
「そうなんです」
「わたしも失念してたわ」
 ごめんね、と付け加えて、志穂はノートを順子に返す。
「当初はシングルスを2試合行う予定だったんですけど、予想以上に長引いちゃったものですから」
「その試合ならわたしも見てたわ。水島さんの相手、森井さんね。結構良い試合だったものね」
「はい。そのせいで片桐さんが待たされてたんで、先に試合に入れちゃったんです」
「なるほど」
 志穂は、9面コートでシングルスの試合をしている、1年の片桐渚かたぎりなぎさを見る。
 渚は当初の予定では、彩音とシングルスの試合を行う予定でいたのだが、予想以上に彩音の試合が長引いてしまい、かなりの待機時間となってしまっていた。
 その為、先に試合の終了していた、貴子とのシングルスを優先的に組むことにしたのだった。
「それで、水島さんにはダブルスをしてもらおうと思ってたんですけど…」
「ペアがいなかったのに気が付いたわけね」
「はい…」
 志穂は、申し訳なさそうにしている順子に顔を上げさせる。
「いいわよ、智也くんを使って頂戴」
「えっ、いいんですか?」
「いいも何も、もう本人には言ってあるんでしょ?」
「あはは…そうです」
 志穂はコートの外を見る。
 そこでは、一足先に休憩に入っていた彩音の元に、智也がなにやら熱心に話し込んでいる姿が見受けられた。
「まあ、水島さんにとっても相手にとっても良い機会になると思うわ。智也くん程の実力を持っている選手と真剣に試合をすることは、そうそう無いからね」
「はい」
 ここで志穂は、近くにいた茂雄に声を掛ける。
 茂雄は男子の試合をこまめにチェックし、順子同様にメモを取っていた。
 志穂の呼びかけに気付いた茂雄が、小走りで寄ってくる。
「なんでしょうか」
「丸山君。部室にビデオカメラってあったっけ?」
「そうですね…確かもう1台、部室にあったと思いますけど」
 茂雄は、1面に設置されているビデオカメラを見る。
「そう。じゃあ面倒だけど、1台出してもらえるかしら?」
「分かりました。どこに持って行きましょうか」
 設置するのに時間が掛かるわけでもないが、一応茂雄は確認する。
「ありがとう。じゃあ…10面のところに持ってきて頂戴」
「わかりました」
 すぐさま、茂雄は準備に向かうため、コートを後にした。
 その姿に気付いた健一たち1年が、慌てて後ろを追っている。
「監督、ありがとうございます」
「いいのよ。あるものはどんどん使わないとね」
 そう言って、志穂は笑う。
 ビデオカメラは、撮っている内は良いのだが、編集やダビングといった作業が意外と面倒で、男子はともかく、女子はあまり使用していなかった。
 そんな状況を知った志穂が、知り合いの業者に頼んで安く買い入れたのが、今から使おうとしているビデオカメラだった。
 このカメラは高性能で、PCに接続するだけでダビングも簡単に出来るという、いわゆる流行りのハンディカムだった。
 男子も女子も、これまで遠慮して使っていなかったのだが、これを良い機会にして、志穂はカメラを有効活用していこうと思っている。
「なるほど。水島さんたちにも良い財産になりますよね。後で見返せば、1人で反省会も出来るし」
「…そうね」
 感心しきりの順子。
 志穂の本音は、智也の試合を録画したかったというのが半分ほどあるのだが…それは本人だけの秘密である。
「とりあえず、あと5分後くらいに始めますので」
「分かったわ」
 順子は一礼し、対戦相手の小泉香代子こいずみかよこと、一柳早紀いちやなぎさきにコートに入るよう、2人の下へと去っていった。
「さてさて…」
 1度大きくのびをして、志穂もベンチから立ち上がった。
 校内戦もそろそろ大詰め。
 気持ちの良い熱気と共に、時間はゆっくりと過ぎていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 パン
 
「あっ」
 彩音の打ったボールは、前衛にいた早紀とネット前に詰めてこようとしていた、香代子の間を綺麗に抜けていくボレーだった。
 周りからは、思わず歓声が上がる。
「彩音、ナイスショット」
「はいっ」
 智也の声に笑顔で答え、2人はがっちりとハイタッチする。
「あのタイミングで良く出れたな」
「いえ、智也さんが良い所に打ってくれたので、出れると思ったんです」
「そっか。よし、これで1本リードしたからな。次のリターンは思い切って打って良いぞ」
「わかりました」
 ポン、ともう1度タッチをして、智也と彩音は定位置につく。
 今度は彩音がリターンする番だった。
「…」
 サーバーは香代子。
 今度もセオリー通り、ファーストサーブをきっちりと入れて、前に出てくる展開を狙っているようだった。
「っ!」
 香代子のサービスは、1球目はフォールト。
 セカンドサーブとなったところで、彩音はリターンの位置を少し、半歩前へと上げる。
「ふっ!」
 入れることを重視した、力の無いセカンドサービスが入ってきた。
 少しコースがセンター寄りだったが、彩音は強引に回りこんで、フォアハンドで打ち込む。
「あっ」
 彩音がしっかりと打ち込んだボールは、前に出ようとしてきていた香代子の足元へと沈み、香代子は返球するので精一杯だった。
「…」
 浮いてきたボールはコートのセンター正面。
 そこを難なくボレーして、智也は相手コートにきっちり返した。
『ゲーム安達・水島、5−0』
 審判の声が響き渡る。
「智也さん、ナイスボレーですっ」
「彩音もナイスリターンだったぞ」
 2人は先ほどと同じくハイタッチをし、一旦自分達のベンチへと戻る。
 もはや試合は、一方的な展開となっていた。
 そんなゲーム間の休憩タイム。
 先ほどまで横のコートで試合をしていた貴子が、一際盛り上がりを見せている10番コートへとやってきた。
 近くで熱心に試合を見ている、同期の渚に声を掛ける。
「渚、今何ゲーム目?」
「今は5−0で、水島さんと安達君のペアが勝ってるわよ」
「ふぅん…」
 先ほどまで試合を行っていた両者。
 試合自体は、渚が硬式ボールに未だ慣れていないこともあって、すぐに決着がついていた。
「あ、ビデオカメラも回ってるんだ」
「ほんとだ」
「なんか、本格的ね」
「そうね」
 貴子の声で、渚もカメラの存在に気が付いた。
 コート全体を映すように、ビデオカメラが1台回されている。
 撮影者は健一だった。
(それよりも…)
 貴子は、美沙の姿を探す。
 貴子の見たところ、本日の美沙の試合は全て終了しているはずだったので、こちらのコートの観戦に来ているものと踏んでいた。
(あ、やっぱりいた…)
 自分とは逆サイドの場所に、美沙はいた。
(怒ってなければいいんだけどなあ…)
 そんなことを思いつつ、休憩中で誰もいないコートを素早く横切り、貴子は美沙に声を掛けた。
「おつかれ、美沙」
「うん」
 美沙は、意外と冷静だった。
 視線は智也のほうを向いたきりだったが。
「どうだった、2試合目は?」
「…なんとか」
「勝ったんだ?」
「うん」
「そう、良かったじゃない」
「うん、ありがと…」
 美沙は貴子との長い試合を勝利した後、2試合目のシングルスを行った。
 相手は、同じ1年の森井千尋。
 千尋の両手両打ちの変則的なプレースタイルとセンスの良さ、それに貴子との試合の疲労感も重なって、なかなかリードを奪えない美沙だった。
 最終的には7−5という僅差で勝利を収めたのだが、美沙にとっては課題の残るゲームとなってしまった。
「やっぱり体力が持たなかったわ。最後のほうなんて、ほとんど森井さんのミスに助けられたもん」
 美沙は振り返る。
「ふうん。そう考えると、わたしの頑張りも無駄じゃなかったみたいね」
「…体力バカ」
「なんか言った?」
「い〜え、何にも」
「もう…」
 お互いひとしきり笑いあったあと、試合の再開しそうな目の前のダブルスに意識を戻す。
 第6ゲームは、彩音のサービスゲーム。
 智也は、前衛でゆったりと構えていた。
(…あれ?)
 貴子が疑問に思った瞬間、彩音はファーストサーブを相手コートに打ち込んだ。
 打った後、前衛にいる智也は、すかさずコート中央に飛び出す動きを見せる。
「っ!」
 その動きが視界に入ったのだろうか。
 早紀は、リターンしたボールをネットに掛けてしまう。
 笑顔でタッチをかわす智也と彩音。
 智也は彩音にボールを渡しながら、次の作戦を指示している。
(安達君、相変わらず巧いわね…)
 拍手を送りながら、貴子は心の中で唸る。
 今のプレー、記録上では単なる早紀のリターンミスだが、内実は智也のプレッシャーが相手のミスを誘った結果であることは、誰の目にも明らかだった。
(あの動き、分かっていてもなかなか出来ないのよねえ…)
 相手にプレッシャーを掛けるのがダブルスの基本的な戦略である。
 その中でも、智也の何気ない動きは際立っていた。
 短い作戦会議を終えて、彩音と智也はコートに散る。
 今度も智也はゆったりと構えたきりだった。
(やっぱり、ノーサインなんだ…)
 ファーストサービスをネットに引っ掛けた彩音を見つつ、貴子はコートを眺める。
 通常のダブルスの前衛というのは、相手の立ち位置等を判断して、サーバーにサーブを打つコースを指示するのが普通だった。
 勿論、サーバーがコースに打ち分けるスキルを持っていることが最低条件なのだが。
 セカンドサービスはしっかりと入った。
 コースは甘かったものの、サービスライン上深くに入ったので、リターンの香代子は強打することが出来ない。
 結果、先程の早紀と同じような形で、リターンをネットに掛けてしまった。
「打ちにくそう…」
 貴子の隣にいた、美沙がぽつり、と漏らす。
 誰かに言ったわけでも無さそうなので、あえて返事はしなった。
(確かに…)
 ポンポン、と何度もタッチをかわす彩音と智也ペアとは逆サイドの、早紀と香代子のほうを見る。
 2人ともしきりに首を傾げ、なにやらスイングの確認をしているようだった。
 ただ、ポイント間で与えられた猶予は2、30秒。
 そんな時間では、スイングの修正が出来るほどの時間は無かった。
『アウト。40−0』
 次の彩音のサービスを、早紀は大きくアウトした。
 早紀と香代子は、良いリターンを返すことがなかなか出来ないでいる。
(なんか、和田先輩に似てるかも…)
 なんとなく、貴子はそう思った。
 中学時代、智也は周とダブルスのペアを組んで、晴れて全国大会の切符を手にしている。
 その時の周のサービスは、サウスポー特有のクセのあるボールで、初めて対戦する相手はなかなかリターンを返せないケースが多かった。
 そんな光景を、貴子は彩音のサービスゲームに垣間見た気がした。
「智也さんっ」
 コートに彩音の声が響く。
 貴子がコートに視線を戻すと、智也のところに、ボールが落ちてくるところだった。
「ふっ!」
 
 パーン
 
 気持ちの良い音を立てて、智也はコートのセンターにスマッシュを叩き込んだ。
 早紀と香代子は一歩も動けない。
『ゲームセット安達・水島。6−0…』
 周囲からの拍手を背に、4人ともコートの中央で握手を交わす。
 そこに志穂がやってきて、4人に声を掛ける。
 どうやら、試合の総括をしているようだった。
「終わったわね」
「…そうね」
 拍手がやみ終わった後、貴子は美沙に声を掛けた。
 美沙は智也のほうを見たきり、まだその場を動こうとしない。
「新たなライバル出現ってとこね」
「…っ!」
 図星だったのだろう。
 びく、と肩を振るわせた親友に、貴子は苦笑する。
「ほら、悩んでてもしょうがないでしょ。次の試合の応援に行くわよ」
「うん…」
 美沙の背を押し押し、貴子は10番コートを後にする。
 その途中、志穂の話を神妙に聞いている智也のほうをちら、と見やり、貴子は小さく呟いた。
「安達君、その内美沙に刺されそう…」
「なんか言った?」
「な、何にも言ってないわよ…っていうか、聞こえてるんだったら自分で歩きなさいよねっ」
「わ、わかったわよ…」
「んもう…」
 貴子はため息をつく。
 校内戦も終盤の出来事だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「じゃあ最後に、監督から試合の総括をいただきます」
 お願いします、と志穂に言い、順子は一歩下がる。
「まず最初に、皆お疲れ様。全体的に良いプレーが見られてほっとしたわ」
 更に志穂は続ける。
「特に1年生。部活が始まってまだ間もない中で、よくやっていたと思う。大いに満足しました」
 次に上級生のほうを見る。
「上級生は、今回の勝敗をきちんと自己分析して、次回の校内戦につなげる事。特に来週からは、練習試合も多くなってくると思うからね」
 男女共に、威勢の良い返事が返ってくる。
「最後に一言。明日は休みだから、しっかり休んで頂戴。そして、また来週から頑張りましょう。わたしからは以上です」
 ありがとうございました、と順子は言い、目線で茂雄に合図する。
「というわけで、今日の部活は終了する。何か連絡事項のある人は?」
 その声に、副将の周が手を上げる。
「じゃあ、周」
「はい」
 周は茂雄の横に出て、ポケットから一枚の紙きれを取り出す。
「校内戦、お疲れ様でした。1年生ははじめてだと思うので、今日の結果がどうなったのか、よく知りたいと思う人もいるかと思います」
 周の言葉に、智也たち1年生は頷く。
 校内戦は滞りなく終了したとはいえ、すべての試合を観戦できたわけではない。
 先輩達の試合も含めて、1つ1つの試合の詳細を知りたいというのが正直なところだった。
「今日の校内戦の結果は、うちの部活のHPで更新しますので、そちらを見て下さい。アドレスは…」
 淡々と説明を続ける周を尻目に、周囲がざわめく。
 何でも、生徒会と松風寮の全面協力のもと、校内戦の様子は逐次、画像情報として記録されていたそうなのだ。
(ま、全く気付かなかった…)
 試合が無くて、比較的周囲を満遍なく見ていた智也も、全く分からない仕事ぶりだった。
(先輩たちも知らなかったみたいだな…)
 みんなの様子を見る限り、ほとんどの上級生達も知らなかったようだった。
(まあ、1歩間違えれば犯罪だもんな…)
 智也は苦笑する。
 おそらく、周や祐樹の発案でHP作りは進行していたのだろう。
 茂雄はメガネをくい、と上げたきり、ひそかに笑いをこらえている。
 そんな中、自分の隣で大げさに肩を落とす健一の姿が目に付いた。
「どうしたんだ?」
 小声で健一に問いかける。
「いや、また忙しくなるなと思ってさ…」
 力の無い笑いを浮かべて、健一は言う。
(多分、周先輩達にいい様に扱われているんだろうな)
 健一はこの1週間で、部活内でも『いじられキャラ』としての存在感を発揮しつつあった。
 向きになって反論したがる、元来のツッコミぐせが、かえって面白いと評判らしい。
 智也は、あえて何も聞かなかったことにした。
「…ドンマイ。今度東屋でラーメンでも奢ってやるから」
「ほんとか!?」
「チャーシューだけな」
「お前はチャーシューかい…」
「んっ?煮玉子が良かったか?」
「あんまり変わらんだろっ」
 健一は思わず突っ込んでしまった。
 我慢できなかったらしい。
「おい、ちょっとうるさいぞ間淵っ」
 当然、気持ちよくしゃべっていた周の逆鱗に触れた。
「す、すいません!」
「あとで絞ってやるからな」
「うう…」
 あたりでちらほら、笑いが起きる。
 そんな健一に構わず、そ知らぬ顔で智也が視線を前に戻すと、今度は祐樹がHPへログインするための方法を、皆に説明していた。
 なんでも、PCからだけではなくて、携帯からでも閲覧が可能らしい。
 そこらへんの事情にあんまり詳しくない智也は、随分本格的なんだなと感心しきりだった。
 まあ、今のネット社会では普通なんだが…。
「今のがパスワードです。もし忘れた人は、誰かに聞いてください」
 では、と締めくくって、祐樹は茂雄にバトンタッチした。
「まだ連絡事項のある人は?よし、じゃあ解散」
 茂雄の声を受けて、各自が緊張感から解放される。
 各々、今日の試合内容を話したり、早速自主練習に入る者など様々だった。
 智也はその中にいて、1人の部員に声を掛けた。
「彩音、ちょっといいかな?」
「あ、はい」
 智也が声を掛けたのは、彩音だった。
 彩音は少し緊張した風で、智也のほうに向き直る。
 周囲では、彩音と智也の会話風景を見逃すまいと、何人かの部員達(全員女子)が聞き耳を立てている。
「あのな、今日のダブルスのことなんだが…」
「はい」
「最初は緊張していたけど徐々に良くなってきていて、最後には良いプレーが出来てたと思うんだが、正直なところどうだった?」
「そ、そうですね…」
 まっすぐな目で見つめてくる智也に、思わず顔を赤らめてしまう彩音。
 頭では智也は真剣に今日の試合内容を聞いてきているだけと理解しているのに、身体は言うことを聞いてくれない。
(い、いけない。ちゃんと答えなくちゃ…)
 軽く頭を振って、彩音は試合の感想を口にした。
「智也さんの言うとおりだと思います。最初は確かに緊張していて、つまらないミスが多かったんですけど、最後は良い感じだったと思うので…」
「やってみて良かった?」
「はい。良い勉強になりました」
「そっか…それは良かった」
 智也は、安心したと言わんばかりに、笑顔になる。
(あ…)
 そんな、智也の邪気の無い笑顔を見て、またまた彩音は顔を赤くしてしまう。
 まだまだ慣れていない彩音だった。
「じゃあ、来週の水曜日も、一緒に試合に出てくれないか?」
「えっ」
「実はな…」
 彩音が顔を上げると、智也は1枚のプリントを出してきた。
 そこには、市民大会ミックスダブルス開催要項と銘打たれていて、当然彩音も周知のものだった。
 智也は、出来ればでいいんだがと前置きしてから、彩音にお願いする。
「一応、公欠扱いになるから授業は心配しなくていいんだ。あ、もちろん彩音の用事もあるだろうから、無理強いは出来ないんだけどな…」
「出ますっ」
 放って置けば、際限なく話しそうな智也の言葉を遮って、彩音は一言声を上げた。
「い、いいのか?授業も休むことになるんだが…」
「公欠扱いになるんですよね?だったら大丈夫です」
「そ、そうか…」
 あっさり返事をもらえて、思わず聞き返してしまった智也だった。
 1度こほん、と咳をして、改めて彩音に向き直る。
「じゃあ彩音、お願いするよ」
「はいっ、こちらこそお願いします」
 その瞬間、周囲からは諦めとも納得ともつかない、微妙な空気が流れた。
 今日の2人のプレーを見る限り、即席ペアにしては上出来の結果だったので、認める空気が半分、なんとなく認めたくない空気半分といったところだった。
 そんなことを考えているのは女子だけで、男子はほとんどが興味無い風だったが…。
 ともあれ、智也のミックスダブルスのペアは、同じ1年の彩音に決定した。
 一応監督に最終報告のため、連れ立ってコートを後にする智也たち。
「あっ、そうだ彩音」
「なんでしょうか?」
 思い出したように話しかける智也に、彩音は嬉しそうに返事をした。
「…試合前にはラケット、返せよ」
「あっ、そういえば…」
 智也は、彩音が大事そうに抱えている自分のラケットを見て、軽くため息をつく。
 彩音が大切に使用してくれているのは、とても嬉しいことだったが、それはそれ。
 今は千尋にも貸し出しているので、試合前には返却希望したかった。
「あの、智也さん」
「なんだ?」
「このラケット、譲ってもらうことは出来ないですか?ちゃんとお代は払いますから」
「それはダメだ」
「えっ、ダメですか?」
「あ、あのなあ…」
「あうっ」
 拒否されたことに、割と意外そうな彼女の顔を見て、智也は思わず頭を突いた。
 どうやら、その内貰えると思っていたらしい。
「この前も言っただろ?自分で選んだラケットっていうのは、それなりに愛着があるんだ。勿論彩音が持っているやつにだって、俺はそれなりに思い入れがある」
「はい…」
 もの凄く残念そうな彩音。
 智也は、自分が悪いことをしでかしたような、そんな気分になってきた。
(そ、そんな顔をしないでくれ…)
 自分の目の前で、カワイイ同級生が憂いの表情を見せている。
 とことん女性には弱い智也は、しばらく悩んだ後、大きくため息をついた。
「…ちょっとラケット貸してくれ」
「あっ、はい」
 彩音は、抱えて持っていたラケットを智也に渡す。
 智也はラケットをくるくると回し、感触を確かめるように何度か上下に動かした。
 最後に一言声を掛けて、智也は彩音にラケットを返した。
 そして。
「わかった、譲るよ」
「…えっ、いいんですか?」
「ああ、存分に使ってくれ。今、別れの儀式は済ませたから」
「あ、ありがとうございます!」
「いいって。その代わり、大事に使ってくれよ」
「はいっ」
 満面の笑みを浮かべて、彩音は何度も頭を下げる。
(俺もとことん甘いよなあ…)
 自覚してるだけなおさら始末が悪い。
 彼女が元気になってくれたお陰で、むしろ喜んでいる自分がいる。
 智也は苦笑するしかなかった。
「まあとにかく、来週はよろしくな」
「はい!」
 元気の出てきた彩音と共に、智也は監督室へと向かっていく。
 来週には、千尋に貸しているラケットも無くなりそうだなとリアルに思いつつ…。
「ちなみにだけど」
「なんですか?」
「いつもの髪型もいいけど、ポニーテールも似合うな」
「あうっ」
「あ、わ、悪い…」
 とにかく、来週も苦労しそうな智也だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 カランカラン
 
「こんちわ〜す」
 智也は、喫茶店の玄関口に設置されているほうが正しいと思える、ベルを鳴らしながら店内に入った。
「おっ、智也か」
 すぐに、店主である健三が寄ってくる。
 智也がやってきたのは、不定期で入っているバイト先、テニスショップ高橋だった。
「おっちゃん、今日はヒマそうだな」
「まあ、土曜日の昼間はこんなもんさ。夕方から混み始めるだろ」
「そっか」
 智也は奥の棚に荷物を置いて、店内を眺める。
 今の時間は、健三1人でアルバイトもいない。
 店内にお客さんの姿は見受けられなかった。
「でも、張替え予約のラケットは大量にあるからな。ヒマってわけではないぞ」
 健三は、ガット張替え機の隣にある、ラケットの数々を指差す。
 確かに、今日受け取り希望のものから、来週仕上がり希望のものまで、相当数のラケットが陳列されていた。
「なるほどさん、じゃあ今日は来て正解だったかな」
「おう、大いに助かるよ」
 健三は上機嫌だった。
「そうだよな。おっちゃん、忙しいもんな〜」
「な、なんだその目は」
「…競馬新聞、見えてるぞ」
「うっ」
 動揺した健三は、後ろ手に隠していた競馬新聞をばさ、と落としてしまう。
 ご丁寧に、赤色の鉛筆付きだった。
「は、ははは…」
 慌てて拾い直す健三。
 智也はため息を1つつく。
「まあ、程々にしとけばいいと思うけど。お客さんも少ない時間帯だし」
「そ、そうだよな!大人の嗜みだよな!」
「いや、そこまでは言ってないけど…」
 智也の言葉に勇気付けられて、今度は堂々と机に新聞を広げる健三。
 もはや、智也には呆れるしかなかった。
「…お客さんが来たらちゃんとしてくれよな」
「おう!」
 これではどっちが店主かわからない。
 ひとまず健三のことはいいとして、智也は張替え希望のラケット達を見る。
「よし…」
 1つ自分に気合を入れて、まずは制服の袖を腕捲り。
 ネクタイをちょっと緩めて戦闘準備完了。
 1本目のラケットを機械に設置する。
 
 カシャーン パチッ
 
 しばらく作業に没頭して、1本目のラケットを張り終わる。
 時間にしておよそ20分と少し。
 隣にいた健三も感嘆するほどの、見事な仕事っぷりだった。
「智也、良い仕事するな」
「ん、そんなこともないと思うけど」
「いんや、1本張り終わるのに20分位だったら、十分プロのストリンガーでも食っていけるぞ。うんうん」
「ま、一応褒め言葉として受け取っておきますけどね」
 健三の手放しの賞賛に、くすぐったそうな智也。
 ただ、その手は止まることなく、2本目のラケットに着手している。
 今度のラケットは、ちょっと曲者だった。
「おっ、ナチュラルガットか」
「そうっすね」
「やったことあるか?」
「いや、ないっす」
 ナチュラルガットは、ガットの中でもいわゆる高級品。
 確かに使いやすいのだが、1本辺りの値段が高く、学生の身分では、そう何度も張れるものでは無かった。
 ちなみに智也は、頻繁にガットを張り替えるため、かなり安価なガットをロール単位で購入している。
「んじゃあ、代わるか?」
「いや、やってみます」
 智也は、ラケットを機械に設置して、先ほどより慎重に作業を進める。
「ほう…」
 見守っていた健三は、思わず声を上げる。
 
 ガシャ パチッ
 
「ふう…」
「いやはや、お見事」
「これ、やっぱ緊張しますわ…」
 ふう、と智也は息をつく。
 少々時間は掛かったが、出来栄えは上々だった。
「これで、うちに置いてある殆どのガット、張れる様になったんじゃないか?」
「そうっすね、結構制覇したかも…」
 ガット売り場を見る智也。
 種類はたくさん置いてあるが、確かに、触ったことのあるものばかりになってきた。
 達成感がちょっと嬉しい。
「これで、いつでもうちの店を任せられるな」
「なに言ってるんすか…」
「いやあ、良かった良かった」
「はいはい…」
 満足そうに、うんうんと頷く店長に、智也は苦笑する。
 智也は続けて、3本目のラケットに手をつける。
 
 ガシャ ガシャ
 
 機械を流れるように動かし、みるみる内にガットを張っていく。
 その様子を何気なく眺めていたオヤジは、1つ咳払いをして競馬新聞を畳む。
 そして、おもむろに智也に切り出した。
「なあ智也、今カノジョはいるのか?」
「な、なんすか急に」
 小指を立てるのはやめて下さい、と智也は付け加える。
 勿論、健三は止めなかった。
「いいから、いるのか?」
「い、いないっすよ」
「本当か?」
「まあ、こういうことは嘘言ってもしょうがないですしね」
 特別、カノジョが欲しいわけでもないが、自分で言っててちょっと哀しかった。
「あの金髪の女の子とは、うまくいってるのか?」
「…人の話はちゃんと聞こうぜ」
「聞いてるぞぅ」
「どうだか…」
 しばしのやり取りの末、結局、健三のごり押し相撲に敢えなく完敗。
 千尋との関係だけでなく、美沙や彩音、その他の女の子との交遊関係を話す破目になってしまった。
 大変満足そうな健三。
「な〜るほど。ということは、まだカノジョはいないって寸法だな」
「寸法って…」
 話し始めて数分。
 じっと聞き入っていた健三も、今では2台目の機械にラケットを設置し、作業を開始している。
 ただ、その歩みは非常に遅いものだったが。
「で、結局何が言いたいんすか?」
「いや、単なる興味本位だったんだが…」
「だが?」
 言葉尻を捕らえて、智也は健三に先を促す。
 やけに真剣な眼差しを向けられて、思わず姿勢を正す智也。
(な、なんだこの雰囲気…)
 しばしの間の後。
 健三は重い口調で、口を開く。
「実はな」
「な、なんすか…」
「正子を貰ってくれないか?」
「……は?」
 あまりに突然な申し出に、智也は頭が回らない。
「もう1回言おうか?」
「い、いやいいです…」
 智也は盛大に咳込んだ。
 とりあえず事情を聞くことにする。
「ど、どういうことです?」
「いや、これは話せば長くなるんだが…」
 健三がうむ、と頷いて、話し出そうとしたその時。
 
 バンッ ガラガラン
 
「お父さんっ」
 血相を変えた正子が、店内に乱入してきた。
 普段ならありえない音を立てている玄関のベルが、智也にはやけに印象的だった。
「おお、正子か」
「正子か、じゃないでしょっ!何て話、先輩にしてるのよっ」
 真っ赤な顔で、正子は父に詰め寄る。
 対照的に、健三は余裕たっぷりだった。
「ん、なんだ?聞いてたのか?」
「うっ」
「聞いてたんだろ?」
 健三はニヤリ、とする。
 智也の作業していた場所からは建物の構造上、玄関が見えない。
 が、健三のいた場所からは、玄関周辺が見える。
 健三には、智也と会話している最中に、自分の娘の姿が目に付いていたのだった。
「わ、わたしのことはどうでもいいのよ」
 強引に会話を切って、それよりも、と正子は続ける。
「なんで、わたしと先輩が、けけけ…」
「け?」
「け、結婚しなくちゃなんないのよ…」
 顔を真っ赤にして俯きながらも、正子は何とか言い切った。
 最後のほうは、蚊の鳴くようなか細い声だったが…。
「嫌だったのか?てっきり、賛成してくれるものと思ってたんだが…」
 残念だよ、と健三は付け加える。
 と同時に、智也に視線で合図する。
 その目は明らかに『(会話に)乗って来い!』と言っていた。
(しょうがない…)
 智也は、軽くため息をつく。
 そして、さも残念そうに正子に言う。
「俺も残念だよ、正ちゃん」
「…えっ!?」
 ばっと音がしそうな勢いで、正子が顔を上げる。
「折角、良い話だと思ってたんだけど」
「そ、そそそれは本当ですかっ!?」
 正子に、笑顔でゆっくりと頷く智也。
「あ、あうぅ…」
 あまりの展開に、正子はその場にへたり込んでしまった。
 ちょっと耳を澄ませてみると、正子は『け、結婚…せ、先輩と…』ぶつぶつ唱えている。
 やりすぎたかなと思いつつ、智也は親指を立てている健三に目配せする。
(おっちゃん、そろそろ…)
(ああ、大満足だ)
 健三が椅子から立ち上がり、放心状態の愛娘に声を掛けようとしたその時。
 
 バンッ ガラガラン
 
「「お兄ちゃんっ!」」
 
 ドンッ
 
「おわっ!」
 正子が入ってきた時に負けずとも劣らない勢いで、智也の姉妹がタックルしてきた。
「いつつ…」
 智也が痛がっているのも束の間、すかさず姉妹は声を荒げる。
「お兄ちゃん、さっきの話はなに!?」
「当然、嘘だよね?」
「う、嘘って…」
 優菜は勿論のこと、優花は特に辛口だった。
 そんな安達姉妹の言葉を聞いて、今度は正子が声を上げる。
「ちょ、ちょっと優花?いくらなんでも嘘っていうのは言いすぎじゃないの?」
「嘘だよね?」
 正子の言うことなど全く無視して、優花は智也を問い詰める。
「は、はは…」
 2人の姉妹に圧し掛かられたまま、智也は健三の姿を探す。
 健三は、我関せずと言わんばかりに、鼻歌混じりでラケットの張替えを行っていた。
(た、タヌキオヤジめ…)
 ちょっぴり殺意の芽生える智也。
 だが、今はそんなことを考えている場合ではなった。
「お兄ちゃんっ」
 緩めたネクタイを引っ張り引っ張り、抗議してくる優菜。
「お兄ちゃんは正子ちゃんなんて、眼中にないよね?」
「な、何言ってるのよ!先輩はわたしを選んでくれたんだからっ」
「さ、さっきのはお兄ちゃんの気の迷いなの。大体、正子ちゃんなんてわたしより背が低いのに体重が…」
「わ〜、ストップストップ!!」
 腕をがっちり掴んで、正子と壊れた口ゲンカをする優花。
「よ〜し、これで今日中仕上がりのラケットは終了だな」
 良い仕事をした後の1杯は格別だと言わんばかりに、手元のお茶を飲み干す健三。
「ははは…」
 智也は、この状況をどうやって丸く収めようか、回らない頭で考える。
 とりあえず、後で正子に、健三は仕事中に馬券を買いに行っていたと告げ口しようと固く誓うのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「お兄ちゃん、電話だよ〜」
「おう、すぐ行く〜」
 優菜の声に反応し、智也は自室のドアを開けた。
 時刻は夜の口。
 気楽な気持ちで出かけたバイト先から、ほうほうの態で帰宅をした1時間後のことだった。
「誰だ?」
 電話に出た妹の様子を見る限り、相手は男子のようだと思った。
 トントンと階段を降り、受話器を取る。
「もしもし」
『あ、智也か?』
 電話の主は、大樹だった。
「なんだ、大樹か」
『おいおい、結構な言い草だな』
 電話越しでも明らかに、大樹はテンションが高かった。
「…用件は?」
『なんだあ?今日はやけにせっかちだなあ…』
 まあいいけど〜、と呟いて、大樹は続ける。
『今日はありがとうな』
「はあ?」
『彼女、連れて来てくれてさ』
「彼女?」
 咄嗟に美沙の顔を浮かべるが、美沙は決して彼女と呼べる存在ではない。
『森井さんだよ森井さん』
「…ああ、千尋ね」
『そうそう』
 ようやく合点のいった智也。
 確かに、今朝サッカーグラウンドに着いたとき、自分のすぐ側には千尋の姿があった。
(あ、もしかしたら…)
 大樹は、こちらに手を振っていたが、あれは千尋に対して振っていたのかもしれない。
 というか、まず間違いなくその通りだった。
 ぎこちなく手を振り返した自分の行為が、とてつもなく恥ずかしくなってきた。
『いやあ、テニス部も部活がある中だったのに、わざわざ済まなかったなあと思ってさ。とりあえずお礼を言っとこうと思って』
「…切るぞ」
『ちょ、ちょっと待てったら…』
 ご機嫌ナナメな智也の意を汲んだのか、大樹は手短に試合の結果を話す。
 結論から言うと、晴海高校が3−0で勝利。
 得点こそ無かったものの、大樹も好機を幾度と無く演出。
 春のリーグ戦に向けて、弾みのついた勝ちとなったようだった。
「良かったじゃないか。まずはおめでとう、といっておくよ」
『ああ、サンキュ』
「凄い観客の数だったしな。来週、学校行ったら凄いことになってるんじゃないか?」
『はは、よせよ。テニス部だって、部内で試合してたんだろ?かなりのウワサになってたぞ』
「そ、そうなのか?」
『ああ。何でも、試合の結果は校内新聞で張り出すらしい』
 ということは、校内のランキング順位が皆に知れ渡るということである。
「…やりすぎだろ」
『ん、どうかしたか?』
「いや、何でもない」
 しばしとりとめの無い話をした後で、大樹はところで、と話を切り替えた。
『智也、明日はヒマか?』
「明日?何かあるのか?」
『実はな…』
 大樹は、手に持っていたと思われる紙を、受話器の前でピラピラさせる。
 智也には音だけ伝わってきた。
「紙、だな」
『そう。駅前のテーマパークは知ってるだろ?』
「ああ、あの建設途中のやつな」
 こないだ、智也は姉妹を引き連れて、そのテーマパークに出かけたばっかりだった。
『そうそう。それで、実は今日からボウリング場がオープンしたんだよ』
「地上部分にか?」
『ああ。よく知ってるじゃないか』
「まあ、な」
 この前行った時は、地下の映画館のみの営業だったが、どうやらボウリング場も営業を始めたらしい。
 何となく、大樹の話が見えてきた智也だった。
『でだな、ここにオープニング記念のチケットがある。2枚綴りで、1枚につき5人までが割引対象だ』
「…で?」
『良かったら、明日、一緒に行かないか?』
「2人でか?」
『ば、ばか言えっ!森井さんを誘ってだよっ』
 まくし立てるように、大樹は言う。
 聞いた内容は、智也の予想通りのものだった。
 智也は、今日何度目になるかわからないため息をつく。
「悪い、明日はダメだ」
『んなっ、どうしてだ!?明日は部活、無いんだろ?』
「千尋はともかくとして、俺の都合が空いてない」
 智也はちら、とリビングのほうを見る。
 リビングでは、優菜と優花が楽しそうに夕食の準備をしている。
 明日は、あの2人と一緒に出かける予定になっていた。
『…そうか。それは残念だな』
「悪いな」
『いや、いいさ。前日にいきなり誘った俺が悪いんだしな』
「お、おう」
 正にその通りだと言いかけて、智也は言葉を飲み込んだ。
『じゃあ、またな智也。わざわざ悪かったな』
「…ちょっと待て」
『な、なんだ?』
 あからさまに期待した声を出す大樹に、智也は一言。
「そのチケット、来週でも使えるのか?」
『あ、ああ。来週なら…』
「平日でも?」
『おう、全然OKだ』
「じゃあ来週の放課後、どこかで都合が付かないか、一応聞いてやるよ」
『ほ、ほんとか?』
「ああ。ただし、勘違いするなよ。部活の兼ね合いもあるんだから、絶対OKとは限らんぞ」
『分かったよっ、恩に着る!』
「…本当に分かってるのか?」
『頼んだぞ〜!』
 最後は一方的な展開で、大樹との会話は終了した。
「しょうがないな…」
 智也は受話器を置いた後、再度受話器を持ち上げた。
 手馴れた手つきで、相手先の電話番号をプッシュする。
「…」
 待つこと数秒。
『はい、森井です』
 鈴の鳴るような声が、受話器越しに聞こえてきた。
「あの、晴海高校の安達だけど」
『安達、君?』
「あれ、千尋、だよな?」
 智也は焦る。
 声の主は、千尋と全く同じ声だったからだった。
『安達君、だったっけ?』
「あ、その、はい…」
 どうやら、別人物のようだった。
 相手に見えるはずも無いが、とりあえず電話越しに軽く頭を下げる智也。
『わたし、千尋の姉の、千晴なんだけど』
「そ、それは失礼しました」
『別にいいわよ。顔もよく似てるって言われるけど、電話越しだったらまず間違われるんだから』
「そ、そうですか」
『とりあえず、よろしくね』
「は、はい…」
 ここで智也は、千尋に今年高3になる姉がいることをようやく思い出した。
 よろしくと言われてからでは遅いのだが…。
『そっかそっか、あなたが安達君ね。あなたのことは、よくお母さんから聞いてるわよ』
「えっと、お…千秋さんからですか?」
 その一言で、以前1度森井家を訪問した際、千秋からおばさんと呼ぶなと強烈なプレッシャーを浴びたのも思い出した智也だった。
『ええ、千尋には勿体無いくらいの好青年だって、ね。毎日のように言ってるわ』
「あ、あはは…それこそ勿体無い話です…」
 マイペースに話を続ける千晴。
 智也は、笑ってごまかすほかは無い。
『それで、千尋からわたしのことは聞いてるのよね?』
「そうですね…確か高校3年になるお姉さんがいる、と」
『うんうん』
「あ、あと、女子高に通学されている、と」
『それだけ?』
「えっと、はい」
『そうなの…』
 あからさまに、千晴は不満そうだった。
『まあいいわ。また今度、うちに来たら色々話しましょ?』
「わ、わかりました…」
『それで、千尋に用事があるのよね?』
「あ、はい。そうなんです」
『ちょっと待ってね…』
 カタ、と受話器を置く音が聞こえたと思うと、直ぐに『も、もしもし?』と探るような声が聞こえてきた。
「…千尋か?」
『あっ、もしかして智也くん?』
「ああ、そうだけど…」
『も、もうお姉ちゃんたら…』
 千尋は、かなり憤慨していた。
 受話器越しの智也にも、千晴の笑い声が聞こえてくる。
 どうやら、電話の相手を聞かされずに、交代したらしい。
『ご、ごめんね智也くん。変なこと、言われなかった?』
「いや、別に大丈夫だったぞ」
 ちょっと個性的なお姉さんだな、という言葉は、心のうちに留めておいた。
『良かったあ。お姉ちゃんが誰かと電話してるの、久しぶりに見たから、ちょっと気になってたんだ』
 電話越しに、変なことってなによ〜、と抗議の声を上げる千晴の声が聞こえる。
 千尋と同じ声なので、凄く分かりづらいが。
「それで、本題に入るんだけどな」
『あ、うん…』
 気を取り直して、智也は大樹の提案を伝える。
 話を聞いた後、千尋はしばしの間を置いて、小さい声で返事をした。
『あ、あのね智也くん』
「おう、どうだ?」
『返事はまた、明日でもいいかな?』
「明日?」
『うん…』
 千尋は、明らかに答えづらそうだった。
(そりゃそうだよな…)
 今回の申し出は、智也が間に入っているとはいえ、突き詰めれば大樹から千尋へのデート?のお誘いである。
 いくら顔見知りの大樹が相手でも、軽々しく返事をするのは憚られるだろうことは、容易に想像できた。
「わかった。じゃあまた明日、聞かせてもらうよ」
『ごめんね』
「いいって。こっちが無理言ってる立場なんだから、あんまり気にしなくて良いからな」
『うん、ありがとう』
 千尋は感謝する。
 実のところ、千尋の答えはイエスだったのだが、千尋は後ろで聞き耳を立てている姉の存在が気がかりになっていた。
 今回の智也からのお誘いが千晴の耳に入れば、お騒がせな姉のことだ。
 きっとわたしも行くとか言って、付いて来ようとするに違いないと思い、千尋はその場での即答を避けたのだった。
「じゃあな千尋、また明日」
『うん、こちらこそ、わざわざありがとう』
「おう」
『あっ、智也くんっ』
「ん、どした?」
『お、おやすみなさい』
「…おやすみ」
 
 ガチャ
 
 最後に明日の早朝トレーニングをする約束を交わして、千尋は受話器を置いた。
 すかさず、ニヤニヤした顔の千晴が近付いてくる。
「智也くん、おやすみなさいだって〜」
「…」
「わが妹もやるようになったわね〜。お姉ちゃんは嬉しいぞ」
「はあ…」
 自分と同じく、全く男っ気のない人生を歩んでいる姉に対して、ただため息をつくほか無かった。
「なあにため息ついてるのよ」
「…なんでもない」
 智也からの電話は非常に嬉しかった。
 だが、このうるさい姉をうまく煙にまけるかどうか、千尋は頭が痛かった。
「で、安達君からの用件はなんだったの?」
「こっちの話。お姉ちゃんには関係ないよ」
「ふぅん…そういうこと言うんだ〜」
 2人して食卓に向かいながら、千晴は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「な、なに?」
「だったら、安達君に直接、電話して聞いちゃおうかな」
「え、ええっ!」
 あからさまな反応をする妹の様子を楽しそうに見る千晴。
 今度は、千秋に声を掛ける。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
 千秋は夕食作りの真っ最中。
 火を掛けているお鍋から目を離さずに、千晴の声を聞いている。
「お母さんがいつも話題にしてる、安達君の家の電話番号知ってる」
「ええ、知ってるわよ」
「お、お母さん!?」
 慌てて会話に割って入る千尋を気にせず、千秋は言う。
「この前、1度家に来てもらったでしょ。その時に『一応、うちの住所と連絡先です。千尋さんには、これから部活も一緒でお世話になるでしょうから。何かあったら連絡下さい』って言って、書置きを貰ってたのよ」
「へぇ、そうなんだ。今時しっかりしてるわね」
「そうなのよ。ほんと、千尋には勿体無いくらいよねえ」
「あ、じゃあわたしが立候補してもいいかな?」
「千晴が?う〜ん、そうねえ…」
「あ、あうぅ…」
 勝手に妹の彼氏?の話題で盛り上がる母と姉。
 完全に、千尋の劣勢だった。
「で、どうするの?言うの、言わないの?」
「言います…」
 結局、千尋は来週のデートのお誘い(大樹ではなく、智也が誘ったことになっている)の件をしゃべらざるを得なかった。
 当然、千晴は大盛り上がり。
 わたしも行くから、うまいこと日をセッティングしなさいと約束させられ、今度は逆に、千尋が安達家に電話を掛けることになってしまった。
 その後、なんだかんだで智也との電話を終え、うまいこといったと言わんばかりに満足そうな姉を見ていた千尋。
 自分も行きたかったと、年甲斐も無く駄々をこねている母を放っておいて、自分の部屋に戻る千尋。
 その時、千尋は切実に感じた。
 携帯電話を持とう、と。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「お兄ちゃん、今日はお疲れ様」
「ああ、サンキュ」
 優花が持ってきた熱いお茶を受け取り、智也は少し口に含んだ。
「疲れたでしょ?」
 優花は、お盆で持ってきたもう1つのお茶を両手で持って、智也の隣に座った。
「いや、実は俺自身は試合が無かったんだ」
「そうなの?」
「ああ…」
 智也は、校内戦のいきさつを、簡単に話す。
「ふうん。じゃあ、その水島さんっていう人と試合に出るんだ?」
「ああ。雨天決行だしな」
 偶然点けていたテレビでは、週間天気予報が流れている。
 来週は、週末に近付くにつれて曇りがちになり、土曜日あたりには雨になるだろうとのことだった。
「その、水島さんていう人、キレイな人なの?」
「そうだなあ…」
 優花の問いには直ぐには答えず、智也は優菜の頭を撫でる。
「すぅ、すぅ…」
 優菜は現在睡眠中。
 智也に膝枕をせがんだと思っていたら、いつの間にか眠りについていた。
「鈴木先輩より?」
「おいおい…」
 美沙を基準にされると、智也は答えようがなかった。
 なんせ、美沙も相当の美少女である。
 彩音にはひけを取っていなかった。
「そんなに気になるか?」
「…」
 こくり、と優花は頷く。
 やはり、彼女ではないと分かっていても、気になるものは仕方が無いらしい。
(優花は特にその傾向が強いからな…)
 智也は苦笑する。
「じゃあ今度、写真を探してくるよ」
「えっ」
「1枚くらい、部活の集合写真とかであったと思うから。無かったら美沙に頼んでもいいし」
 そうしよう、と優花に笑いかける。
 優花はしぶしぶ頷いた。
「よし、じゃあ今日は寝るか」
「うん」
 智也は、残っていたお茶をぐい、と飲み干して、優花に渡す。
「さてさて…」
 優花がキッチンに行っている間に、智也は優菜の身体を起こし、そのまま抱きかかえる。
 いわゆるお姫様だっこという体勢だった。
「お、お兄ちゃん…」
「どうした?」
「そ、その格好は…」
 大きく開いた口に手を当てて、優花は驚いている。
「ん、今更起こすのもかわいそうだからな。部屋までタクシーだ」
 よいしょ、と大げさに気合を入れて、智也はリビングを後にする。
 その直ぐ後に、優花もついてくる。
 勿論、リビングの電気を消すことは忘れていない。
「優菜も成長したんだな…」
 階段をゆっくり上りつつ、智也は感慨深げに呟いた。
 今年、自分は高1で、妹達は中3である。
 ついこないだまで小学生だと思っていたのに、今では腕の中で、しっかりとした重みを伝えてくるまでに成長してきた優菜。
 なにより、後ろにいる優花と共に、まっすぐ育ってきてくれているのがとても嬉しかった。
「優花、ドア開けてくれるか?」
「うん」
 階段を上りきったところで、智也は優菜をもう1度抱え直した。
 優花が開けてくれたドアを通り、優菜の部屋に入っていく。
「…」
 ベッドに到着した智也は、ゆっくり優菜をベッドに降ろす。
 掛け布団をかけ直して、最後に頭を撫でる。
「ん…」
 多少くすぐったそうにしていたが、優菜は起きることも無かった。
 小さな声でおやすみ、と言って、智也は静かにドアを閉める。
「優花、ありがとな」
「あ、うん…」
 廊下で待っていた優花の頭を、智也は優しく撫でた。
「じゃあな優花、おやすみ」
 智也が自分の部屋のドアを開け、そのまま中に入ろうとした時。
 優花は智也の袖を引っ張った。
「どうした?」
「え、えっとね…」
 もじもじしている妹の様子にぴん、ときたのか、智也は軽くため息をついた。
「分かった分かった。抱っこしてほしいんだろ?」
「あっ」
 智也は、優花の足をちょっと払ってバランスを崩させて、ひょいと同じく抱き上げた。
「これでいいのか?」
「あうう…」
 顔を真っ赤にして俯く優花。
 首に回している腕に、きゅっと力が入っている。
 智也は構わず歩き始めた。
「はい到着、と」
 優花の部屋は、姉である優菜の隣。
 僅か数歩の小旅行であった。
「ほら優花、開けてくれ」
 智也はドアノブに近付いて、優花を促す。
 ドアを開けてくれなければ、中に入れなかった。
「…優花?」
 しかし、優花はひしと抱きついたきり、少しも動こうとはしなかった。
 後ろを少し振り返り、智也は優花を抱え直す。
「…ほんとにしょうがないな」
 智也はUターンして、先ほど開けた自分の部屋に入っていく。
 部屋に入ったところで、今度は優花が動いた。
 智也の首に回していた手を使って、器用にドアを閉めたのだった。
 もう、智也もとやかくは言わなかった。
「優菜には内緒だぞ?」
 と耳元で囁いて、ゆっくりベッドに横たえてあげる。
「おやすみ」
「(こくり)」
 智也の言葉に頷いて、優花もゆっくり目を閉じる。
 今は袖を掴んでいる程度だが、その内もっと密着してくることは間違いなかった。
(明日も晴れそうだな…)
 少し開いているカーテンの隙間から見える、綺麗な星空をしばし眺めて、智也も眠りに就いたのだった。
 
 
 
 



物価の上昇と共に、買いだめならぬ書きだめをしていた保です。

次回は、安達姉妹でお出かけ編です。
色んな人が偶然?出てくる予定ですが…。


宜しくお願いします。











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