第8話〜4月7日〜
渡部明日香はテニスコートの前で唖然としていた。
時刻は早朝。普通の生徒ならばまず間違いなく、寝ているか起きぬけの時間帯のはずだった。
にもかかわらず、目の前のコートには2、3年生の女子部員の数人が、練習している状況を見たからである。
「ど、どうして…」
明日香は、眼前の部員の、熱の入ったプレーを見て、思わず呟く。
と同時に、自分の読みが甘かったことも感じざるを得なかった。
「やっぱりメーリスのことだよね…」
ふう、と息を吐きだして気分を落ち着ける。
どうやら、昨日の夜に送られて来た1通のメールがもたらした影響は、とても大きかったようだった。
「…よしっ、わたしも頑張らないと」
明日香は、小走りで部室に向かう。
ライバルは多いが、自分から引くつもりはない。
(…だって、智くんと約束したんだから)
急いで着替え、部室を飛び出していく明日香。
明日香に気付いた部員達は、挨拶もそこそこに、練習を止めようとはしなかった。
(な、なんかリーグ戦の直前みたい)
大事な試合前の、緊張感漂う練習を思い起こさせるような光景は、始業のベルが鳴る直前まで繰り広げられることとなった。
(あ、そういえば美沙、来なかったなあ…)
朝練終わり、教室へと向かいながら明日香は考える。
現状では、テニス部のメーリスは携帯電話を持っている生徒にしか、転送していない。
もちろん、メーリスで流した情報は、逐次、部の掲示板に張り出して対応しているので、特に問題は出ていなかった。
だから今日の朝、携帯を持っていない美沙が来ていないのも当然といえば当然であった。
(一応、言いに行こうかな…)
同じ夕陽丘中学出身で、先輩後輩であり、なにより恋のライバルでもある美沙の顔を思い浮かべる。
色々考えたが、後で、何か文句を言われる前に、先に言いに行こうと決める明日香。
(あっ、美沙って確か、智くんと同じクラスだよね…)
校舎の玄関口、下駄箱の前で動きが止まる。
(うふふ、楽しみになってきたなあ〜)
昨晩から今朝と、連続してのトレーニング疲れもどこへやら。
軽い足取りで、明日香は階段を昇っていった。
桜舞い散る、4月7日の朝の出来事だった。
第8話〜4月7日〜
明日香達が必死に朝練をしている頃…。
智也は、恒例の朝のトレーニングを終え、家に帰宅。
朝ゴハンも済ませ、家を出るところだった。
あまり時間も無かったので、急いで玄関へ向かう。
「優花〜。行って来るから」
「うん、いってらっしゃい」
制服にエプロン姿の優花が、玄関まで見送りに来てくれる。
夕陽丘中学は、晴海高校より若干近い所にあるため、智也のほうが早く家を出ることが多い。
「優菜にも宜しくな」
「うん」
優花は頷く。
姉の優菜は現在、朝風呂に入浴中。
このままでは遅刻しそうな状況だった。
ガチャ
「じゃあ」
「あっ、お兄ちゃんっ」
智也が玄関を少し開けた時、優花が袖を引っ張った。
と同時に、胸に飛び込んでくる。
そして。
「んっ」
智也の頬に、軽くキスをした。
「ゆゆ優花?」
「い、いってらっしゃい…」
「あ、ああ…」
ぎこちない足取りで、玄関を出て行く智也。
優花の顔も真っ赤だった。
パタン
(い、いってらっしゃいのキス…)
しばらく余韻に浸る優花。
(し、新婚さんみたいなことしちゃった…)
エプロンをいじりながら、ちょっと上の空になる。
優菜は昨日、暇つぶしに見ていたテレビドラマで『新婚さんの朝のお約束のシーン』を見た。
そして、自分もチャンスがあれば、好きな人(もちろん智也)にやってみたいなあと思っていたところだった。
それがいきなり、今日になるとは思っていなかったが、その場の勢いというものだろうか。
案外うまく?いったことに大満足だった。
(あ、明日もやろうかな…)
今日は始まったばかりだが、思考は既に明日の朝のひと時をシミュレートし始めている。
(あ、明日はくくくちびるのほうに…)
そんな優花に、慌しく登校準備を整えた優菜が声を掛けた。
「お待たせ優花っ」
「…おおお姉ちゃんっ。もう準備出来たの?」
優菜に呼びかけられて文字通り、優花は飛び上がった。
「ん、もちろん。優花もカバン、取ってきたら?」
「わ、わかった」
優花は、慌てて2階の部屋に向かう。
そんな妹を見て、優菜は首を傾げる。
「…どうしたんだろ?」
普段、優花は家の中でも落ち着いていて、みだりに取り乱すことはあまりない。
そんな優花だが、唯一取り乱すことがある。
それは勿論、智也絡みのことである。
なにしろ、自他共に認める、重度のブラコン姉妹である。
兄の帰宅時間が少し遅くなっただけで、わざわざ心配してバイト先に押しかける位である。
優菜は外見と同様に、自分と思考パターンも似通っている妹の様子を見て、『これはお兄ちゃん絡みのことだな』と見当を付ける。
(…これは尋問しないとね)
兄のことに関して妹とは、『抜けがけしないようにしようね』と、話をつけていた優菜。
(もし、いかがわしいことだったら…)
玄関で靴をトントンしながら、登校中にどうやって妹を問い詰めていこうかと考える。
とそこへ、優花がパタパタと降りてきた。
「お待たせ、お姉ちゃん」
「うん、行こっか」
さっきとは逆のやり取りを済ませ、安達家を後にする2人。
早速、優菜は尋問を始めることにした。
「さて優花…」
「ど、どうしたのお姉ちゃん。ちょっと顔が怖いよ…」
自分と同じ顔をした姉の表情に、ちょっと引く優花。
「正直に答えなさい。朝、お兄ちゃんと何かあったでしょ」
「…ええっ!?」
びっくりする優花。
確かに優菜とは付き合いは長いが、自分の変化を一瞬で看破されたことには、流石に驚きを隠せない。
まあ、根がマジメな優菜だから、すごく顔に出やすいからなのだが。
「証拠は上がってるんだからね。正直に言った方が身のためよ」
「あうう…」
姉のプレッシャーに負け、優花は結局、素直に朝の出来事を白状する。
それを聞き、優菜は思わず優花の肩をつかみ、声を張り上げる。
「優花、よくやったわっ」
「お、お姉ちゃん?」
肩をガクガクさせられながら、優花は周りを見渡す。
まだ住宅街のため、幸い人は少なかった。
だが、ちらほらと夕陽丘中学の制服を着た生徒も目に付く。
本人達はあまり自覚していないが、夕陽丘の安達姉妹といえば、近隣の中学でも美人姉妹として聞こえた有名人である。
朝っぱらから騒ぎを起こして、要らぬ注目を浴びることは避けたかった。
「お姉ちゃん、ちょ、落ち着いて、ね?」
「う、うん。ごめんごめん」
何とか我に返る優菜。
「でも、優花もすごいことするようになったわね」
「わ、悪気は無かったんだよ?今日のはその場の勢いというか、なんと言うか…」
「わたしは悪いとか、そんなことは思ってないよ。だからね…」
そう言って、優菜は優花の耳になにやら囁く。
「ええっ!?」
「ね、いい作戦でしょ?」
真っ赤な顔の優花に、優菜は同意を求める。
「わたしだって、お兄ちゃんとしたいんだから。優花も同じでしょ?」
「…うん」
「じゃあ、決まりね。早速今日からやるわよっ」
「ええっ、今日から!?そ、それは心の準備が…」
「な〜にが心の準備よ。朝から『あんなこと』してたクセに」
「あうっ」
結局、2人の議論は優菜の勝利で幕を閉じた。
ちなみに優花は、この時ほど『身から出た錆』という諺を思い出すことは無かったという。
そんな会話を妹達が交わしている時。
渦中の人物、智也は1枚のプリントを見つめつつ登校していた。
その姿は真剣そのもので、テスト直前の風景を想起させるような光景だった。
そんな智也に、今まで声を掛けることも出来ずに隣を歩いていた美沙が、若干上擦った声で問い掛ける。
「ね、ねえ智也、なに見てるの?」
美沙の顔は少し赤かった。
なにしろ、智也がプリントに集中しだした時からずっと、声を掛けずに横顔を見つめていたのだから、無理もなかった。
美沙が、今回声を掛けたのも、周りの女子生徒から智也に発せられる熱視線の多さに気付いたからである。
そんな周りの事情は露知らず、智也はプリントから目を離さずに答える。
「ん、部活の名簿」
「ふうん。なにか気になることでもあるんだ?」
「まあ、気になるといえば」
ちょっと言葉を濁す智也。
明日の校内戦時、智也はミックスダブルスのペアを決める為に、女子の試合を見て回ることにしている。
部員名簿を見ていたのは、明日の下準備の為だった。
「それより、美沙に1つ聞きたいことがあるんだ」
「ん、いいわよ」
「2年の奥村先輩って、上手いのか?一応ランキングは6位って聞いたから、それなりの実力はあると思うが」
智也は前日の練習で、美沙が奥村夏子と形式練習に入るところを見ていた。
試合自体は、残念ながら自分の試合と監督の呼び出しがあった為に、見ることが出来なかったので、結果が気になっていた。
「ああ、夏子先輩ね。うん、かなり強いと思う。昨日試合してみたけど、3−6で負けちゃったし」
「3−6か。内容はどんな感じだったんだ?」
少し突っ込んで、智也は質問する。
テニスの場合、例え3ゲーム、4ゲーム取っていようが、相手に6ゲーム取られれば負けである。
だが、負けゲームでも、内容の良いものとそうでないものとでは、周囲の見る目がまるで違ってくる。
更に付け加えると、3ゲーム取ろうがそれに内容が伴っていなければ、大した意味がないとも言える。
そのあたりの感触を、智也は美沙に聞きたかったのだった。
「う〜ん、実はあんまり覚えてないのよねえ。良く言えば集中していた、悪くいえば…」
「ただ試合してただけだと」
「…うん」
少し俯く美沙。
形式練習で、自分より実力が上の選手と当たった場合、ただ漠然とゲームに臨むことはあまり望ましくない。
なにせ、普通にやれば相手のほうが強いのだから、負けるのは当然である。
だから通常は、『せめてチャンスボールは積極的に打ち込んでいこう』とか、『長いラリーが出来るように、粘っていこう』といったような、自分なりのテーマを持って試合に入ることが重要になる。
智也が推察するに、今回の美沙は、レギュラー格と試合をするにあたり、特に何も考えずにゲームに臨んでいたようだった。
「まあ、そういうときもあるだろ。次だな次」
「うん」
「それに、3ゲーム取れたんだろ?逆に考えれば、特に意識してなくてもある程度、やり合えるってわかっただけでも良かったんじゃないか?」
「…そう、だね」
智也の励ましに、美沙の表情に少し、明るさが戻る。
「だから今度の形式は、頑張れよ。俺も応援してるからな」
「ん、ありがと」
一通り会話を終え、ちょっといい雰囲気でしばし歩く2人。
住宅街を抜け、人通りの多い交差点に差し掛かったところで、美沙が気になっていたことを話し出した。
「ねえ、智也」
「どした?」
「1つ聞いてもいいかな」
「おう」
「さっきの話の続きなんだけどね。夏子先輩が試合に入る直前に、『もうちょっと意識を高く持たないといけない』って言ってたんだけど…どういう意味か分かる?」
「そうだな…」
智也は、眺めていた名簿をバッグに入れ、ちょっと考える。
「憶測でしかものは言えないが。多分奥村先輩は、美沙にいつでもレギュラーとして試合に出る準備をしておけって言いたかったんじゃないのか?」
「えっ、わたしが?」
「ああ」
智也は頷く。
「でも、わたしなんて新入生で、まだランキングも何もないし。試合なんて…」
「…じゃあ美沙、1つ例え話をしよう」
歩みを止めることなく、智也は続ける。
「例えばお前があと少しでレギュラーになれるかもしれない順位にいるとする。まあ、ランキング7位とかそこらの順位だな。そして、週末には大事な対抗戦があるとしよう。そんな中、自分より少しランクが上の人と形式をやると決まったら、お前はどうする?」
智也の問いに、美沙は淀みなく答える。
「それは勿論、全力で勝ちにいくよ」
「なんでだ?その形式練習は、あくまで練習であって、例え勝ったところでランキングが変わることはないんだぞ」
「…だって、順位が7位なんでしょ?その形式で勝って、自分の調子の良さをアピールできれば、代わりに週末の試合に出れるかもしれないじゃない」
美沙はそう答える。
確かに校内ランキングは、頻繁に校内戦を行うことで、部員の最新の実力を反映している。
ただし、レギュラー格のボーダーラインである、ランキング5位〜8位といったあたりは、その日の体調や、ささいなことで勝敗に差が出ることがある為、実力的にはあまり大差のない選手が多い。
特に試合前になれば、調子の良し悪しを首脳陣がチェックして、調子の良いランキング下位の選手を試合に出す、というようなことは多々ある。
これは強豪校になればなるほど顕著で、そういったレギュラー格の選手を何人もいることが、選手層の厚みを示すことになるのである。
「なんだ、分かってるじゃないか」
「えっ」
「多分、意識を高く持てっていうのは、美沙に対する先輩なりの褒め言葉なんだろ。ランキングを気にしていると、どうしてもモチベーションが上がらないからな」
校門へと続く、最後の長い桜並木道に入ったところで、智也は美沙に笑いかける。
周囲では、晴海高校の生徒も増え、一様に校門目指して歩いている。
「…なるほど」
神妙な面持ちで、美沙も考える。
確かに、1年生の中では現状、自分が1番実力があると思っていた。
智也の説明を真に受けるとすれば、かなりの期待を先輩達から受けていることになる。
「とまあ、勝手に推測したわけだが、先輩の本心は分からないからな。ちゃんと聞いた方がいいぞ」
「わかった。ありがと」
美沙は、疑問がとりあえず解決して笑顔になる。
そんな2人に、後ろから声を掛ける人物が現れた。
「よっ、おふたりさん」
「あっ、和田先輩」
「…周先輩、おはようございます」
声を掛けてきたのは、周だった。
手には何も入っていなさそうな、随分薄いカバン1つという軽装である。
「おはようさん。今日も2人で登校か?相変わらず『おアツい』ことだねえ」
周は手をパタパタと扇ぐ仕草をする。
「そ、そんな…」
頬を赤らめる美沙。
「…人聞きの悪いことはやめてください」
対照的に、智也の表情は渋かった。
「むう、智也。人聞きの悪いっていうのはいくらなんでも言いすぎじゃないの?」
「い、いやそれはだな…」
夫婦漫才みたいなことを繰り広げる2人に、周は笑う。
「ははっ。鈴木も、それくらいにしといてやりなって」
「…わかりました」
美沙は渋々承知する。
「時に智也」
「あ、はい」
「昨日の練習終わりの監督の話、どうだった?」
「ああ〜そうですね…ちょっとビックリしましたけど」
「まあ普通はそうなるわな。で、話は了解したのか?」
「あ、はい」
監督という単語が出た瞬間、隣の美沙から強烈な視線を浴びたが、何とか普通に答える。
「そうか、なら話は早い。早速だが、来週の対抗戦にはシングルスとダブルス両方出るからな。ちゃんと準備しとけよ」
「…わかりました」
周の真剣な表情に、同じく顔を引き締めて了解する智也。
対して、美沙は全く状況が理解できていなかった。
あわてて智也に聞く。
「と、智也。対抗戦に出るって、どういうこと?」
「なんだ鈴木。智也から聞いてなかったのか?」
呆れたような顔で智也を見る。
「いや、さすがに昨日の今日ですから」
「まあ、そうか。鈴木、智也はレギュラーになったんだよ」
「…えええっ!?」
「智也は特例だが明日の校内戦はなくて、ランキング6位確定でな…おっと、時間がないから後は本人に聞きなっ」
周はダッシュで校舎へ向かった。
おそらく会話に時間を掛けすぎていたのだろう。
智也が辺りを見渡すと、小走りの生徒が大半を占めていた。
「と、智也っ」
「…まあ、奥村先輩の言葉じゃないが…要はモチベーションさえ保っていれば、こんなこともあるって証明だな」
「あっ」
苦笑して、智也も走り出す。
美沙はしばらく立ち止まっていたが、予鈴のチャイムが鳴ったところで我に返り、同じく走り出した。
(…やっぱり智也はすごい)
おそらく、今週から始まった練習と、形式での結果を踏まえてレギュラーになるという話は出たのだろう。
美沙は、前例を覆す決断をした男子の首脳部に驚くと同時に、改めて智也の凄さも感じていた。
(わたしは…)
前日の、身の入っていなかった自分と比較する。
ランキングが低くても、モチベーションを落とさず、常に全力で練習に臨む姿勢は、簡単なようで難しい。
新入生ならなおさらである。
ただ今回、それを智也はやりきって、見事レギュラーとしての地位を勝ち取ったのだった。
(…頑張らないとね)
すっかり見えなくなった、智也の後姿を追いかけて、美沙は改めて走り出した。
授業の休憩時間。
1年の廊下は、突然現れた1人の女子生徒の存在により、ざわついていた。
「お、おい。誰だよあの人」
「うわ、すっげえ美人…」
肩まで伸びた黒髪に、モデルのようなスタイル。
加えて、同学年の女子には感じることの出来ない雰囲気。
そんな、どこにいても人目を付く美少女とは、女子テニス部2年、副将の渡部明日香だった。
彼女は現在、休み時間を利用して美沙の元へ訪問しようとしている最中だった。
(えっと、7組だよね…)
周りの注目を一身に集めつつ、7組を目指す。
途中、新入生恒例の実力テストの結果が、掲示板に張り出されているのが視界に入ってきた。
幾人かの人だかりに混じり、ちょっと掲示板を眺めてみる。
「…わわ、すごい…」
張り出された成績上位者の名前、特にトップに書いてある『安達智也』の名前をみて、思わず声が漏れる明日香。
(やっぱり高校でも凄いな〜)
明日香は、こんなところで改めて智也の凄さに感心する。
だが、現在の自分の目的を思い出したのだろうか、慌てて7組のドアに近付き、1人の生徒に声を掛けた。
「あの、ちょっといいかな」
「あ、はい。なんでしょうか?」
声を掛けられたのは、たまたまドア付近にいた松原あゆみだった。
「…鈴木さん、いるかな?ちょっと部活のことで話したいことがあるんだけど…」
「わかりました。ちょっと待ってください」
明日香は、ちょっと迷ったが美沙を呼んでもらう。
別に、ストレートに智也に会いに来たといってもいいのだが、あくまで今回のメインは美沙なので自重することにした。
まあ、どっちを呼ぶかで悩んでいる時点で、既に手遅れの感は否めないのだが…。
あゆみはすぐに戻ってきた。
申し訳なさそうに切り出す。
「すみません。美沙なんですけど、今はちょっといないみたいです。多分、すぐに戻ってくると思うんですけど…」
「そうなんだ…。わざわざありがとう。また来るからって言っといてもらえるかな?」
また時間を変えて言いに来よう。
そう思い、お礼を言って明日香が立ち去ろうとしたその時。
「あれ、明日香先輩?」
教室の中から、智也の声が聞こえてきた。
智也から声を掛けてくれて、内心嬉しい明日香。
「あっ、智くん」
ちょっと弾んだ声で、智也に返事をする。
「どうしたんですか、こんなところで」
「えっとね、美沙にちょっと用事があったから来たんだけど。今はいないみたいだね」
智也も振り返り、教室内を見渡してみる。
確かに美沙の姿は見当たらなかった。
「そうですか。じゃあ、何か伝言でもあれば言っておきますけど?」
「あ、そんな大したことじゃないからいいよ。それより智くん…」
「なんでしょう?」
「明日の校内戦のこと、部活のメーリスで回ってきたよ。ダブルスのペア探しするんだってね」
「そ、そうなんですよ…」
まだ2時間目が終了したところなのに、明日香までその情報を知っているとは思っていなかった智也だった。
同時に、携帯メールの情報網って凄いなあと感心する。
「…智くん。現時点では、誰を選ぶつもりなの?」
明日香は、1番知りたいことを質問した。
「え〜とですね…」
智也は正直、まだ何も決めていなかった。
「黒澤監督からは、どんな基準で選べって言われてるの?」
「それがですね、『良い人を選んでね』ってことだけなんです」
「そ、それはまたアバウトだね」
「はい…」
空笑いの智也。
通常、ミックスダブルスのペアを選ぶ時は、男子の実力及びプレースタイルを念頭に置くことが多い。
今回のケースで言うと、『あの子はボレーが上手いから、前衛にいる時はかなりの力になるわ』とか、『智也くんの実力を考慮すると、3年生がいいかしらね』といったアドバイスくらいは欲しいのが、智也の率直な気持ちだった。
「あ、それでも何人かには絞ってますよ」
「そうなの?」
「はい」
そう言って、智也はポケットから名簿を取り出し、明日香に見せる。
「この名簿って…」
「昨日、志…黒澤監督がくれたんですよ。参考までにってことで」
智也は何気なく言っているが、明日香の目にはただの名簿とは写っていなかった。
(こ、こんなに細かく…)
名簿には、女子部員の詳細なデータが記載されていて、現在のランキングはもちろんのこと、得意なプレーや苦手な相手、今後の課題等まで、微細に記されていた。
(監督がきて、未だ2、3週間しか経ってないのに…)
改めて志穂の観察眼の鋭さに驚く明日香。
「それでですね、今回は最初の試合ということもあるので、顔見知りの人に頼もうかと」
「えっ」
智也の言葉に、敏感に反応する明日香。
思わず鼓動が早くなる。
「監督は誰を選んでもいいって言ってくれましたけど、さすがに俺も鵜呑みにはしてないですからね。ある程度結果は出していきたいなと」
「…なるほど」
智也の言い分に、明日香も納得する。
今回の試合は、志穂から智也への『ご指名』での参加である。
それだけに、会場では『志穂推薦のペア』ということで、それなりに注目を浴びるだろう。
試合の経験を積むのが目的とはいえ、不様な結果に終わり、志穂の面目を潰すことは智也的に許すことが出来なかった。
「智くん。ということは…」
「はい。現状では、昔ペアを組んだことがある人にお願いしようかなと思ってます」
智也は、明日香にニッコリ笑いかける。
「あ…」
明日香は顔が真っ赤になってしまい、あわてて俯く。
「明日香先輩?」
「…あっ、ななんでもないよっ」
パタパタと手を振る明日香。
「まあ、あくまで今の所、考えてることですから。最終的には明日見させてもらって、監督とも相談して判断します」
「うん、わかった」
明日香も笑顔で頷く。
智也の言葉を信じるとすれば、自分が選ばれる可能性が高いだろう。
明日香はなによりも、智也が中学時代の約束を覚えていてくれたのが嬉しかった。
(あの時『もう1度、一緒にダブルス組もうね』って約束したもんね…)
明日香が、在りし日の思い出を少し振り返っているところで、2人の後ろから忍び寄る影が1つ。
「あら、智也くんと渡部さんじゃない」
「あ、噂をすれば黒澤監督」
「んもう、どんな噂してたのよ〜」
「そ、それは言えないです」
出てきたのは、志穂だった。
次の授業が自分のクラスなのだろう。
何冊か教材を持っている。
「…じゃあ智くん、わたしは帰るね」
明日香は、志穂と楽し気に話す智也を見て、ちょっと頬を膨らませる。
「あ、わかりました。じゃあ俺も失礼します」
そんな明日香の機微に、智也は気付くはずもなかった。
淡々と挨拶し、教室内に戻っていってしまう。
(むぅ…)
そんなご機嫌ななめの明日香に、志穂が声を掛ける。
「渡部さん、智也くんとなに話してたの?」
「えっと、明日の校内戦のことです。ちょっと気になっていたので…」
事の経緯を、かいつまんで話す明日香。
当初の目的は美沙に会うことだったが、それは考えないことにする。
「なるほどね。でもね渡部さん、1つ忘れてることがあるわ」
「なんですか?」
「最終的にペアを選ぶのは智也くんだけど、選ぶ対象は生徒だけじゃないのよ」
「えっ!?」
キーンコーンカーンコーン…
志穂がそこまで言ったところで、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
「またね、渡部さん」
「あっ、はい」
仕方なく、明日香も教室に戻ることにする。
付近の階段を上り、自分の教室へと急いで向かう。
(どういう意味なんだろ…)
自分の席に着いた明日香は、帰り際の志穂の言葉を思い出す。
しばらくしてふと、思い付いたことがあったので、携帯電話を取り出す。
(えっと、昨夜のメーリスは…)
明日香がもう1度本文を読み返してみると、最後に注意書きとして小さく文章が記されていた。
『※ダブルスのペアは、校内戦を参考に、わたしと安達君が相談して最終決定します。判断基準は、2人の眼鏡に叶うこと。ちなみに該当者が居なかった場合は、わたしが代わりに出ますので悪しからず』
「…た、大変だ」
ぽつり、と明日香は呟く。
昨日は興奮していて、メールをよく読んでいなかった。
おそらく、朝練に来ていたメンバーも同様なのだろう。
改めて見返してみると、さらりと衝撃的なことが記載されていた。
(…あの監督のお眼鏡には叶わないよ…)
ガックリ肩を落とす。
もしかして志穂は、最初から自分が智也と組むつもりだったのでは、と思ってしまう明日香だった。
(で、でも約束したんだし…)
最後までがんばろうと思う明日香。
明日の校内戦、一切気が抜けなくなったことは正直厳しいが、とにかく元気な姿で臨もうと決意する。
(智くん、待っててね…)
智也の知らないところで、校内戦(一部の女子限定)は既に始まっていた…。
休み時間。
智也は健一にアンケート用紙を返却するため、1年5組の教室前に来ていた。
勿論報酬と引き換えに渡すつもりである。
幸い、開いた扉から健一の姿が見えたので、直接呼ぶことにする。
「お〜い、健一」
「あっ、智也か」
「例の件、完了したぞ」
「サンキュ〜!助かったよっ」
健一は待ちわびていたようで、すぐに寄って来た。
早速、健一がアンケート用紙を貰おうと手を伸ばした時、智也は用紙を持つ手を引っ込めた。
「ど、どうしたんだ?」
「…健一、何か忘れてないか?」
ちょっとジト目で、逆の手を差し出す智也。
「な、何の話かな」
「…ふぅ、残念だ健一。お前には失望したよ」
智也はくるりと踵を返す。
「わわわかってるって。ほらっ、報酬だろっ」
「多謝」
慌てて健一は、食堂・定食ランチ用の食券を手渡した。
そして、念願のアンケート用紙を智也から受け取る。
「いや〜、それにしても助かったよ。よくインタビュー出来たよなあ」
「健一…」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
機嫌良く用紙をパラパラめくる健一を見て、思わず智也は目頭が熱くなる。
(言えないよな…お前が女の子受けが悪いなんて…)
健一はメガネを掛けてはいるが、普通のメガネだし、背格好や容姿もそこそこで、特別嫌われるような要素は持っていない。
健一のインタビューが不発に終わったのは、単に彼女達が男子と話すのが苦手だったからで、完全に智也の検討違いなのだが、それを智也が気付くのはかなり後のことになる。
「…ふむふむ、最後の問いもちゃんと埋めてるな」
「…あっ、思い出したぞ健一っ!」
「な、いきなりどうしたんだよ」
「健一ぃ〜」
不用意に発した健一の一言に、智也が沸騰する。
インタビューの最後の問いには、美沙の事を筆頭にして、かなり恥ずかしい思いを味わっていたので、今度健一に会った時には1発しばいてやると決意していたことを思い出したのだった。
「ま、待ってくれっ。俺も知らなかったんだって。智也に手渡してから気付いたんだよ」
「…言い訳はそれだけか?」
「そ、それにほら、報酬の額も見てくれって」
「…」
智也が手元で確認すると、5枚綴りの食券だった。
まだ使用していないので、5枚ともちゃんと残っている。
「事前の約束だったら、3枚だったろ?そこを今回、色々迷惑掛けたということで少しイロを付けたんだ」
「…なるほど、いわゆる袖の下というやつか」
「い、いや、ほんとに悪かったと思ってるんだって」
人目につく教室前にも関わらず、腰を低くして謝る健一を見て、智也もちょっと考える。
確かに報酬額が増えたのは、悪くなかった。
それに、今回の件で健一のカワイソウな面(智也主観)も見てしまったので、これで妥協することにする。
「わかった。今回はこれで手を打とう」
「ほ、ほんとか?」
「ああ。ただし条件が1つある」
「な、なんだよ」
健一は、安心してずれたメガネを直す。
「今回のインタビューは、あくまで健一が行ったもので、俺は関与してないってことで通しておいて欲しい」
「な、なるほど…」
智也の条件提示を聞いて、軽く頬が引きつる健一。
そんな顔には気付かず、智也は続ける。
「俺がインタビューしたってことが分かったら、いらぬ騒ぎの種になりそうだからな。自分からは出来るだけ、そういう波風は立たせたくない」
一理あった。
智也が代理でインタビューを行ったことが公になれば、『なぜ、健一じゃなくて智也がインタビュアーにならなくてはいけなかったのか?』と勘繰られ、痛くもない腹を探られそうな予想は出来ていたからである。
まあ最も、智也のプライバシー(特に女性関係)は茂雄や周には殆ど筒抜け状態なので、今更ではあるのだが…。
「…(もう立ってるけどね…)」
健一は、既に茂雄にバレているとはさすがに言えず、うまく返事が出来なかった。
キーンコーンカーンコーン
「じゃあ健一、頼んだからな」
「あっ、ちょ、智也っ!?」
健一に考えるヒマさえ与えず、予鈴の音と共に智也は去っていった。
智也の後姿をしばし呆けた顔で見送った後、健一は大きくため息をついた。
「はあ…」
最後の問いが大幅に変更されていたことに気付いたのは、智也に用紙を渡した後のことだった。
そのことを自分は気にしていた。
そして、智也が怒ってるだろうと予測もしていた。
だからこそ自腹を切って、報酬も増やしたと言うのに…。
思わず席に突っ伏する。
「お〜い間淵、授業開始早々に居眠りとは、見かけによらず豪快だな」
「今度からコンタクトにしてきますっ」
教師の指摘に、思わず突っ込む。
そんなやり取りに、教室内はどっと盛り上がる。
(うう、ほんとにハゲそう…)
1年5組のムードメーカー、間淵健一。
入学してわずか1週目にして、その苦悩は増すばかりだった。
「なんかあったのか?やけに機嫌良さ気だな」
「そうか?別に何もないぞ」
「まあ、いいけどな。それより急ごうぜ、今日は『ご飯おかわり自由デー』だからな」
「了解」
昼休み。
智也は大樹と食堂に向かっていた。
しばらくタダでご飯が食べれるので、いささかテンションが高かった。
「A定食か?」
「おう」
「B定食のマーボーさんも捨てがたいぞ?」
「さん付けかよ。今日はから揚げの気分だから、問題ないな」
「分かったよ」
今日は、大樹が定食を取りに行列に並ぶ。
智也は席取りの役目だった。
いつもの隅っこの席を確保し、大樹の到着を待つ。
智也がちょっと背伸びして確認したところ、定食の受け取り口ではかなりの長さの行列が出来ていた。
その中には当然、大樹の姿も見受けられた。
どうやら、昼食にありつけるのは少し後になりそうだ。
そんなことを思っていた智也に、後ろから声を掛ける人物が1人。
「智也くん」
「お、おう千尋か」
智也が振り返った先には、穏やかな微笑を浮かべる千尋が立っていた。
今日の朝も会っていたので、久しぶりというわけでもないが、千尋の見事な金髪と容姿には、改めて感じ入る思いの智也だった。
「1人なの?」
両手でA定食を持った千尋が聞いてくる。
「いや、席取り。連れを待ってるところだ」
「そうなんだ」
「千尋こそ1人か?」
智也は千尋に聞く。
見た限りでは、千尋の連れらしき生徒は見当たらなかった。
「うん。今日は友達が用事があるらしくて、一緒に来れなかったんだ」
ちょっと残念そうに、千尋は答える。
「そうか。じゃあ折角だから、一緒に食べるか?」
「えっ、いいの?」
「遠慮するなって。千尋が良ければ、こっちは問題無いぞ」
智也は、千尋に相席を勧める。
勿論、大樹の意向は反映していない。
「えっと、じゃあお願いしようかな」
「おう。先に食べ始めてくれていいぞ。どうせ俺達のほうが食べるのは早いだろうしな」
「うん」
千尋は、智也の隣の席に座った。
智也に誘ってもらえて、千尋は素直に嬉しそうだった。
幾分弾んだ声で、いただきます、と言って食べ始める。
そんな千尋を見ていた智也が、ふと気付いたように声を掛けた。
「そういえば、千尋って良い匂いがするよな」
「ふえっ!?」
不意打ちだった。
から揚げをポロリと落とし、千尋は固まった。
そんな千尋の様子を見て、智也は自身の失言に気付いた。
幾分慌てた風で続ける。
「い、いや、深い意味は無いんだ。ただ、何となく昨日から気になってたから。香水でも付けてるのかなあと思ってな」
「えっと、うん。少しだけと、付けてるよ」
「そ、そうか」
ちょっと照れくさそうに頬を掻く智也を見て、千尋も少し恥ずかしかった。
でも何より、智也に気付いてもらえて、とても嬉しいと感じているのも正直な気持ちだった。
自然と表情は緩み、うっすらと顔が上気してくるのが自分でも判る。
「あのね、智也くんは、香水の匂いは気になるほう?」
千尋はその場の勢いで、単刀直入に聞いてみた。
もし、智也の答えがノーであるならば、あっさり香水の使用を止めようと思っている。
そんな千尋の心情は知らず、智也は素直に答える。
「ん〜、別に香水の匂いが苦手という気持ちはないな。さっき口に出たのもただ、『良い匂いだなあ』って感じただけだし」
現に今、隣の席から千尋の動きに合わせて、良い匂いが伝わってくる。
時おり、ふわふわした髪が揺れて、智也の肩から腕付近に触れていた。
「…そっか」
「答えになってなくて悪いな」
「ううん。いいよ」
結局、良い匂いであれば香水を付けていようがそうでなかろうが、どっちでも良いということだろう。
智也の言葉に、千尋はそう判断付けた。
「でも、1つだけ言わせて貰うとだな」
「うん」
「千尋は付けなくて良いと思うぞ」
「えっ」
ぱっと顔を上げる千尋。
そんな千尋を見つつ、智也は言う。
「千尋の髪は、とても良い匂いがするからな。それで十分だろ」
「智也くん…」
智也が、初めて千尋と会話した時に感じたのが、千尋のキレイな髪から漂う、良い匂いだった。
髪のキレイな異性というと、これまでにも美沙や明日香、妹をはじめ、幾人も見てきていた。
ただ、千尋の金髪は、これまでに感じたことの無い、実に見事なものだったと、智也の脳裏は記録している。
そう思っていたからこそ、今回も素直に、褒め言葉が紡がれたのだった。
まあ、まさかこんな恥ずかしいことを真顔で言うとは予測していなかったが…。
ともあれ、千尋には十分伝わったようで、とても感激した様子だった。
「あ、ありがとう智也くん。その、嬉しい…」
「お、おう」
から揚げをアセアセしている千尋。
まだ何も食べていないのに、備え付けのお茶をお代わりする智也。
周囲の喧噪もどこへやら。
共に顔は赤いまま、しばらく良い雰囲気を形成する2人だった。
「そ、そういえば智也くんのお連れさん、遅いね」
「あ、ああ、そうだな」
しばらくして、千尋が指摘する。
その言葉に、智也も我に返って視線をさまよわせる。
すると、すぐそばで所在なさげに突っ立っている大樹を見つけた。
「おい大樹、そんなとこで何してるんだ?」
「何ってお前…」
大樹の持っている食器が、カタカタと鳴る。
「まあ、とりあえず座れって」
「…そうだな」
大樹は、向かいの席に腰を下ろした。
その視線は先程からずっと、千尋に注がれたままだった。
そんな大樹の様子にようやく気付いた智也が、千尋に声を掛ける。
「千尋、こいつが俺の連れの大樹、浜田大樹だ」
「浜田さんですか。わたしは森井千尋です。宜しくお願いします」
「あ、どうも…」
大樹は、金髪の美少女に挨拶され、ちょっと頬が緩む。
「大樹とは中学からの腐れ縁でな、今も同じクラスなんだ。まあサッカーしか取り柄のない奴だが、仲良くしてやってくれ」
「わかりました」
折目正しく、千尋は返事をする。
別に猫を被っているつもりではないだろうが、智也と会話する時とは大違いの対応だった。
現に、口調も変わっていた。
「お、おい。サッカーしかっていうのは言い過ぎじゃないのか?」
大樹から抗議の声が上がる。
「そうか?じゃあ他に何があるんだ?」
「そ、そうだな…」
う〜ん、と考え込む大樹に、智也が呆れた声で突っ込む。
「ほら、サッカー馬鹿じゃないか」
「さっきより表現きついぞっ!」
そんな仲の良い2人のやり取りを見て、千尋は思わず微笑んだ。
そして智也に告げる。
「あの、智也さん」
「ん、どうした?」
「わたし、次の授業が移動教室なので、お先に失礼します」
「そうか。わかった」
食堂の時計を確認すると、確かにいい時間だった。
生徒の数も、大分少なくなってきている。
「じゃあな千尋。また部活でな」
「はい」
穏やかな微笑を浮かべた千尋は、軽く頭を下げて食堂を出て行った。
その後姿を見送ったのち、智也は定食を急いで食べ始めた。
そんな智也の肩を大樹がトン、と叩く。
「…おい、智也」
「なんだ?」
「さっきの森井さんって確か、入学式でスピーチしてたよな」
「…そうだな」
「テニス部だったんだな」
「ああ」
「カワイイよな」
「…」
最後のから揚げを口に入れ、智也は隣を見やる。
大樹の顔は、だらしなく緩んでいた。
残りのおかずを平らげ、最後の締めにお茶を淹れる。
「あの流れるような金髪…1回でいいから触らせてほしい…」
ぽつりと呟き、妄想の世界に旅立ってしまった大樹。
こうなってしまうと、折角の男前が台無しだった。
そんな親友の姿を極力見ないようにして、お茶を飲み干した智也。
そして一言。
「…犯罪だけはやめてくれな」
「おう!やるなら堂々とだな…って、おわっ、もうこんな時間かよっ!」
我に返った大樹は、時計を見て慌てふためく。
食堂では既に、生徒の姿はまばらになりつつある、そんな時間帯だった。
「…先行くからな」
「ちょ、待てって智也っ」
智也は食器を手に立ち上がった。
更に一言。
「その食器を全て空にしたら、お前の言い分を聞いてやるよ」
「うがっ」
哀れ大樹のマーボーさんは、殆ど手付かずの状態だった。
「じゃあな大樹。食堂のおばちゃんは、お残しに厳しいらしいからな。頑張って完食するんだな」
「覚えてろ〜っ」
中華料理は、冷めると味が格段に落ちる。
冷めたマーボー豆腐とさみしく格闘する大樹を残して、智也は1人食堂を後にした。
(流れるような金髪、触ってみたい、か…)
教室へと向かう道中、先ほどの大樹の言葉を思い出す。
そして、自分の過去の行動も同時に思い起こし、苦笑する。
(言えるわけないよな。もう触ったことあるなんて)
実は今日の朝も、同じベンチに座っているときに少し触ったような気がする。
先日に至っては、公衆の面前で抱きつかれてもいる。
そんなことを言った途端、大樹が激昂して騒ぐ→美沙にバレる→尋問のパターンになるのは目に見えていた。
(…触らぬ神になんとやらだしな)
1人納得して、教室のドアを開ける。
そんな智也が後ろ手にドアを閉めた次の瞬間、たまたまドア付近にいた松原あゆみが声を上げた。
「あれ、安達君」
「松原さんか、どうかした?」
「いや、安達君からなんか、香水みたいないい匂いがしたから、ちょっと声が出ちゃっただけ」
あゆみはそう言って、首をちょっと傾げる。
「安達君、普段香水なんか付けてたっけ?」
「いや、そ、そうだな…」
触らぬ神になんとやらの事態が、早速発生してしまった。
内心ドキドキの智也。
「付けてないよね?」
「…はい」
智也はただ、頷くことしか出来ない。
勢いの出てきたあゆみは、更に聞く。
「今日のお昼は、友達と食堂?」
「…はい」
「その友達の中に、女の子は居た?」
いつの間にか、教室全体が2人のやり取りを見守っていた。
「…」
「居た?」
「…居ました…」
有無を言わせないあゆみの圧力に負け、智也は自供する。
その答えを聞いて、周りの生徒、特に女子から黄色い声が上がる。
皆の頭の中では、智也が女子生徒と一緒にいて、香水の匂いが移るような行為をしている場面が想像できていた。
更に詳細を解明せんと、あゆみが問いかけようとしたその時。
キーンコーンカーンコーン
「…あ、チャイムだ」
「そ、そうですね…」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
(た、助かった…)
残念そうなあゆみを残して、智也は命拾いした思いで自分の席へ着席する。
直ぐに次の授業である、数学の教師が入ってきて、出席名簿を読み上げる。
「お〜い浜田〜、いないのか〜?」
ちょうど大樹のところで、教師が名簿から顔を上げて室内を見渡す。
まだ大樹の姿は、教室内に見当たらなかった。
引き続き教師の声が教室に響く。
「浜田〜、欠席にするぞ〜?」
ガララッ
「はあ、はあ、はあ。浜田大樹、います…」
欠席の宣告に反応したのか、絶妙のタイミングで大樹が入ってきた。
「浜田。お前、何してたんだ?」
「はあ、はあ…」
呆れたような教師の声。
大樹は弁明しようとするが、息が上がっている為、口をパクパクさせるだけだった。
「まあいい。とにかく座れ」
「…(コクリ)」
大人しく席に着く大樹。
そんな大樹に一言、教師は言わずにはいられなかった。
「なあ浜田。お前、マーボー好きか?」
「えっ、好きですけど…」
唐突な質問に、素直に答える。
「そうか。でもな浜田、ものには限度があるんだってことを、お前もそろそろ知らなくてはならない」
「はあ…」
とりあえず相槌を打つ。
教師の話は続くが、依然として核心が見えてこない。
ちなみに、授業時間は既に始まっている。
「そこでだ、お前の口と袖を見てみろ」
「…」
隣の生徒に手鏡を借りて、覗き込む。
「んなっ!?」
すると、口の端には米粒ならぬ豆腐のカケラが着いていた。
更に、手鏡を持つ手の袖にも同様のものがちらほら付着していた。
「どうだ、分かったか?」
「…参りました」
恥ずかしくて小さくなった大樹を見て、満足そうに頷く教師。
そのやり口は、実に数学教師らしく、理詰めだった。
「よ〜し、じゃあ前回の復習から…」
授業が本格的に始まり、回りの空気も変わる。
その中には、先ほどの智也の一件を引きずる空気は残されていなかった。
(先生、あんた良い教師だよ…)
智也は人知れず、数学教師に感謝した。
そして何より、大樹のことはこれから『マーボーさん』と呼ぶことにしようと、固く決意する智也だった。
「今日は男女とも、一通り練習したら解散だ。短い時間だが、集中してやるように」
茂雄の声にはい、と返事をして、男女の練習が始まった。
明日校内戦を行うために、今日の練習は短時間で終了する段取りだった。
早速各コートに部員が散り、まず最初のメニューである基礎練に入る。
「監督、お願いします」
「ええ、こちらこそ」
智也の相手は、いつもと同じく志穂だった。
周りと同じく、志穂とミニテニス練習をしながら智也は考える。
(俺の基礎練の相手って、監督で固定されたのか?)
基本的に、基礎練では実力の近いもの同士がペアになることが多い。
それは基礎練が、2人で打ち合う練習であるために、レベルがある程度拮抗していないと練習にならないからである。
当然、部員の人数が少ない時は、その例に限った話ではないが、一般的には同レベルの相手とやりあうのが通例である。
今回の智也の場合でいうと、レギュラークラスの相手と基礎練をしたらいいのだが、そこは監督権限の発動である。
『安達君の実力を見究めるため』という名目で、志穂が智也の相手を独占中であった。
(まあ志穂先生上手いし、全然いいんだけどな)
男女の身体能力差を考慮しても、志穂の実力は確かなものだった。
ミスらしいミスが殆どなく、しかも相手の打ちやすい所にボールを返球してくれる気遣いさえ見せている。
そんな志穂が基礎練の相手で、智也は全く不満は無かった。
もっとも志穂としては、あわよくば来週の大会に自分が出ようとしている為、積極的に智也と打とうとしているのが本音である。
そんな裏事情を当人が知る由もなく、基礎練は滞りなく進んでいく。
一方。
女子の練習はというと、男子とは雰囲気が大違いだった。
いつもは和やかムードで始まる基礎練が、一変して試合前独特の緊張感に包み込まれていた。
そんな緊張感の中、女子も基礎練が終わる。
「集合〜」
コートに順子の声が響く。
「今から5分休憩に入ります。その後は球出し練習をするので1年生はコーンを並べておいて」
順子の声で休憩に入る女子のメンバー。
各自、周辺のベンチに座り、つかの間の休息を取る。
そんな中、1年の貴子と美沙は次の練習で使用するコーンを持ってくる為、コート隅の物置へと歩いていた。
そんなに時間もないので、少々早歩きで向かっている。
コーンを4つ抱えつつ、貴子は美沙に呼びかけた。
「ね、ねえ美沙」
「…」
「美沙ったら」
「…なによ」
「もう機嫌直してってば」
「…」
美沙はすこぶる機嫌が悪かった。
それもそのはずで、智也のダブルス候補を選ぶのが、まさか明日の校内戦中にあるとは聞かされていなかったからだった。
美沙は携帯を持っていないため、何か重要な連絡事項があった場合は、同クラスの携帯保持者である貴子から連絡をもらう手筈だった。
それが今回、貴子から美沙には連絡が無かった為、美沙はご機嫌ナナメな状態だった。
「わたしも悪かったって。携帯がさあ、ちょっと調子悪くてね…」
「その割には昼休み、誰かと電話してなかった?しかも長時間」
「うっ…」
言葉に詰まる貴子をおいて、美沙はコーンを同じく4つ抱えた。
同時にため息をつく。
「別にもういいわよ。済んだことだし」
「ほんと?」
「まあ、いつまでも怒っててもしょうがないしね」
「ありがとう美沙っ」
嬉しさのあまり、貴子はコーンを手放して両手を合わせた。
そこらへんにコーンが転がる。
「わ、わかったから。そのかわり、今度は気を付けてよ」
「了解〜」
一応和解したので、2人揃ってコートに戻る。
「それより美沙さあ」
「なに?」
「明日の校内戦なんだけど」
「うん」
途中、男子の練習風景が目に入ってくる。
2人は何気なくそちらを見やりながら、会話を続ける。
「安達君はいいとしても、黒澤監督が首を振らなかったら、選ばれないわけでしょ?正直、1年生には厳しくない?」
「…そうなのよねぇ」
「普段の校内戦だったら、勝ちにこだわるテニスが要求されるけど、監督に認めてもらおうとするんだったら、相応の内容も必要でしょ?」
「そうね…」
美沙は、貴子の言い分を素直に認める。
そもそも校内戦は、校内ランキングが決まるゲームでもあるので、内容よりもまず勝つことが要求される。
なので通常は、相手の苦手な箇所を徹底的に狙ったり、心理面でもプレッシャーを与えて勝ちにいくことが多い。
だが今回、志穂の目が光っているとなると、話は違ってくる。
美沙は、『志穂の目に適うようなテニス』を、試合の中で見せなければならない。
そう考えると明日の校内戦は、思った以上に厳しい戦いになりそうだった。
「とにかく、1戦1戦頑張る姿を見せるだけよ。貴子だってそうでしょ?」
「ん、まあね」
「それにまず、誰と対戦するのか分かってないし。もしかしたら初戦は貴子とかもね」
「うっ、それはまたの機会ということで…」
くすりと笑って、美沙はコーンを設置していく。
貴子も同様に、横のコートへ並べにいった。
先に設置し終わった美沙が、今は球出し練をしている男子の練習を見やる。
その視線の先には、美沙の思い人が、相も変わらずナイスショットを連発していた。
「智也…」
美沙は小さく呟き、集合場所へと向かった。
明日の校内戦まで、あと少ししかない練習時間を精一杯頑張ろうと思いながら。
部活が終了してすぐ。
智也は荷物をまとめて、コートの玄関を開けた。
そして、出口付近で話をしていた志穂と茂雄に挨拶する。
「監督、主将、お疲れ様でした」
「お、智也。もう上がるのか?」
茂雄が腕時計を見ると、まだ夕方も早い時間帯だった。
「はい。今日はちょっと用事があって」
「タイムセール?」
今度は志穂が声を上げた。
「残念ですけど、違います」
智也は、ちょっと笑う。
「じゃあ、失礼します」
「また明日ね」
「はい」
智也は最後に礼をして、足早に去っていった。
「あいつ、早いですね」
「まあ、明日試合無いんだし、いいんじゃないかしら?」
残った2人は、智也のことを話題にする。
ちなみに他の部員はまだ、殆どが残って自主練習をしている状態だった。
「それにしても、部室にも寄らずにジャージ姿のままで帰っていきましたよ」
「確かに。そんなに急いでどこいくのかしら?」
志穂は首を傾げる。
普段の智也は、部室で制服に着替えてから、下校する。
今日は余程急いでいたのだろうか。
晴海高校テニス部のジャージとテニスバッグの姿で、帰っていった。
「それより監督。明日の校内戦の対戦表ですけど…」
「そうね。ちょっと検討しましょうか」
茂雄は1枚の紙を取り出す。
その差し出された紙を見て、志穂は頷いた。
「来週末の一高との対抗戦を見越してですね、岩尾と高野は…」
「なるほど…」
それから小1時間。
校内戦に向けて、志穂と茂雄の綿密な協議は続けられた。
智也は現在、駅前のとあるファミレスにきていた。
腕時計で、時刻をさっと確認する。
「もう来てるかな…」
カランカラン
智也は、店の扉を開ける。
店内には夕方の時間帯と相まって、そこそこの客がおり、なかなかの賑わいを見せていた。
智也はすぐに店内を確認し、目的の人物を探す。
「いない…な」
どうやら相手より早く到着したようだった。
店の入口がよく見える席に座り、智也はしばし待つことにする。
「何にしましょうか」
「あ、ドリンクバーで」
「分かりました」
注文を終え、ひとまずコーヒーを飲む智也。
それから、入れ替わり立ち代り客が出入りすること数分。
店内に1人、目を引くような美人の客が入ってきた。
背は少々高めで、スタイルも良い。
少し茶色がかったセミロングの髪を綺麗に揃え、紺色のスーツを無難に着こなしている様は、やり手のキャリアウーマンを想起させた。
一瞬でバイト中の店員を含め、店内にいる多くの男性の注目を集める。
「い、いらっしゃいませ」
男性の店員が、おそるおそるといった感じで声を掛ける。
「何名様でしょうか」
「あ、ちょっと待ってね」
店員の質問に笑顔で答え、女性は店内を見渡す。
女性の目はすぐに、智也の姿を捉えた。
「連れが先に来てたわ。ありがとう」
「わかりました。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」
女性はそのまま、智也の席に歩みよってきた。
「智也、ごめんね。待ったでしょ?」
気さくに、智也の肩に手を乗せる。
「いや、俺もさっき来たところですから」
「ふふっ、そういうことにしとくわね」
「はい」
智也の受け答えに満足したのか、女性は笑顔で智也の向かいの席に座った。
「あ、コーヒーでいいですか?」
「いいわよ」
智也は店員に、もう1つドリンクバーの注文を追加して、コーヒーを取りに行く。
女性は、そんな智也の後姿を嬉しそうに眺めている。
智也は席に戻り、改めて女性に挨拶をする。
「改めてですけど、遥さん。お久しぶりです」
「そういわれれば、久しぶりね。いつ以来かしら?」
「そうですね…前に会ったのが正月だったから、3ヶ月ぶりくらいですかね」
律儀に、智也は答える。
「そっかあ…もうそんなに経つのねぇ。優菜ちゃんと優花ちゃんは元気にしてる?」
「あいつらは相変わらずですよ。特に大きな病気もしてないですし、逆に元気すぎるくらいです」
「ふふっ、そうなんだ」
遥はうっすら微笑んだまま、コーヒーを一口飲んだ。
「それより、遥さんのほうはどうなんですか?随分忙しそうですけど」
「そうねぇ…仕事もやっと順調に回り始めた…ってところかしらね」
「なるほど…」
「今はなかなか時間が無いけど、その内落ち着くと思うから。心配しないで頂戴」
「わかりました。一応納得しておきます」
「ふふっ、そう言ってくれると助かるわ」
今、智也が会っているのは、安達遥。
母である時子の妹にあたる人物だった。
昔から智也や妹達とは仲が良く、事あるごとに、一緒に遊んでいた仲でもあった。
遥は大学卒業と同時に、難関資格である司法試験に1発合格。
現在は隣町で1人暮らし。
近隣の個人事務所に勤務しつつ、独立を目指して鋭意奮闘中である。
「それにしても、智也くんは相変わらずカッコイイわね」
「はあ」
「もう彼女は出来た?」
遥はコーヒーカップを両手で弄くりながら、智也に聞く。
「いや、まだですけど…」
「ふぅん。じゃあ、お隣の確か、鈴木さんだっけ。あの子とはどういう関係なの?」
「美沙とはただの幼馴染みですって…っていうか、その質問は前も聞かれましたよ」
「あ、そうだったっけ」
「知ってて聞いてるでしょ?」
「あはは…そうだ、コーヒーのお代わりお代わりっと…」
「ったく…」
少し芝居掛かった仕草で、席を立つ遥に、智也はため息をつく。
智也は別に、遥が嫌いなわけではなかった。
なぜため息をついたかというと、昔から遥と会話をすれば大抵、智也の女性関係の話に行き着いてしまうからだった。
今でこそ、仕事でなかなか会えない遥だが、昔は凄かった。
当初、遥の中では『歳の離れた姉に子供が出来た』との印象でしかなかった。
そんな遥だったが、ある日の出来事を境に、智也に対して、好意を寄せるようになる。
それからというもの、遥は週末ごとに家に寄り、智也と過ごす時間を作っていた。
まあ当然、そんな叔母の姿を優菜と優花は目撃しているので、対抗心を燃やしていたのは言うまでも無い。
そんな中、当事者である智也は、足繁く通ってくる遥が、自分に好意を寄せているとは思ってもいなかったので、毎回質問攻めしてくる叔母の姿を不思議そうに見つめていた。
そしてその印象は、遥が美しく成長した今の姿を目の当たりにしても、変わってはいなかった。
「お待たせ」
遥がコーヒーを手に、席に戻ってきた。
「じゃあ早速だけど、本題に入るわね」
脇に置いたバッグから、遥は何通かの紙を取り出す。
「はい」
「委任状ですね…」
「そうよ。一応確認してくれるかしら」
「わかりました」
智也は書類を手に取り、文章を読んでいく。
書面には『委任状』と大きく見出しが振ってあった。
「確かに3通、揃ってます」
「じゃあ、確かに渡したからね」
「はい、わざわざありがとうございます」
「大げさねえ、智也くん。こんなこと、なんでもないんだから。私たち、そんな他人行儀な仲でもないでしょ?」
律儀に頭を下げる智也に対して、遥は笑いかける。
「それにね、智也くん…」
「はい」
「私たち、もう、本当の意味で他人じゃないんだから」
「そう、ですね」
「それに、その内優菜ちゃんたちにもしっかり説明しないといけないのよ。気楽に、ね?」
「はい」
智也も真剣な面持ちで、頷く。
「あ、またそんなコワイ顔するんだから〜」
「す、すいません。つい…」
「まあ、気持ちは分からなくも無いけど。そんなに考え込んじゃダメよ?」
遥はテーブルに身を乗り出して、智也の頬をつまむ。
「わわ分かりましたからっ」
「ふふっ、ほらほら〜」
何が面白いのか、遥は頬をつまんだまま上下左右に動かし始めた。
「は、恥ずかしいから止めて下さいっ」
周りの視線を全身に感じた智也は、慌てて遥の手を掴む。
「もう、ちょっとくらいいいじゃない」
「だ、だめですって。周りを見てくださいよ」
遥が周囲を見渡すと、確かにかなりの数の視線を感じた。
皆一様に、美男美女のカップルのアツアツぶりを観察しているかのような雰囲気だった。
「あ、あはは…」
とりあえず笑ってごまかす遥。
だが、その手は智也の手を掴んだままだった。
「そ、それで話を戻すけど」
コホン、とわざとらしく一息つき、遥は仕切りなおした。
「手も戻してください」
「それはダメ」
智也のツッコミに素早く反応し、遥は続ける。
「智也くんも高校に無事入学して、少し経ったけど、改めて高校生活はどう?」
「そうですね。今のところ、特に問題は無いです。部活も順調ですし」
「高校でもテニス部に入ったのよね?」
「はい。とりあえず続けてみようかなと」
「そっか。じゃあまた、試合になったら応援に行かないといけないわね」
幾分弾んだ声で、遥は言う。
「そ、それは勘弁してください」
「なんで?」
「…遥さんが来ると、色んなところにカドが立つんですよ…」
智也は答えづらそうに言った。
中学時代、遥が智也の試合を見に来たことがあった。
その日の遥は、たまたま仕事が休みになったということもあり、事前に智也に連絡もせず、夕陽丘を訪問していた。
遥はしばらく、コートのそばから他の観客に混じり、智也の試合を観戦していた。
だが、智也の試合がやや劣勢で進行するにつれて興奮してきた遥は、思わず立ち上がり『智也くん、頑張って〜!』と叫んでしまったのだった。
当然、場の雰囲気は一変した。
部員と違って通常は、観客の応援は目立たないものである。
人気選手であった智也に対する応援ということを差っ引いても、美人なお姉さんの応援の声は、会場の注目を浴びた。
1番閉口したのは、応援された智也だった。
なんとかその試合は勝利を収めたが、その後が大変だった。
『あのキレイなお姉さんは誰だ?』
『どういう関係だ?』
『紹介しろっ』
といった、嵐のような質問攻めに合うはめになった。
適当なことを言って、その場は何とか切り抜けたものの、次の日には校内に噂となって駆け巡り、結局、噂に憤慨した美沙や妹達に弁解しに廻る結果となってしまった。
智也は、そのことを今でも鮮明に覚えている。
「なによう。カドが立つような説明を、智也くんがするからいけないんでしょ?普通に紹介してくれればいいんじゃない」
「そ、それはそうですけど…」
「だから、次回は大丈夫よ」
自信満々に、遥は言う。
「ちなみに俺との関係を聞かれたら、なんて答えるんですか?」
「えっと、『いつも智也がお世話になっています。智也の彼女です』って礼儀正しく挨拶して…」
「は、遥さんっ」
「もう、冗談よ冗談」
遥は、握った手を少し強く握る。
「でもね、智也くん。皆の前では本当のこと、言えないでしょ?」
「まあ、そうですけど…」
「だから、彼女ですって紹介したほうが無難じゃないかなって思うんだけど」
「全然無難じゃないですよ…せめて、従兄弟とかにしてください」
智也はため息をつく。
「ん〜、従兄弟かあ…」
「別に何でもいいんですけど、1番しっくりきませんか?」
「まあ、そう言われればそうかも…」
遥の表情がちょっと曇る。
「というわけで、本当に来るならその方向で説明してください」
ちょっと強引に、話を締めくくる智也。
「しょうがないわね。じゃあ智也くんの名誉の為に、そういうことにしておいてあげる」
「感謝します」
「あ、でもね智也くん」
そこでニヤリとする遥。
「はい?」
「従兄弟は結婚出来るんだからね。もしかして、そういう路線でウワサが立つかもよ?」
「うっ…」
「でも、智也くんが従兄弟って説明しろって言うんだから、仕方ないわよね」
「そ、それは…」
「そうよね?」
「は、はい…」
口先の勝負では、完全に遥の勝利だった。
それから2人は、しばらくとりとめの無い会話を交わし、会話を楽しんだ。
その情景は、周囲の目から見ると完全に、恋人同士のそれだったことは言うまでも無かった。
智也は帰宅後、リビングで優菜と優花に勉強を教えていた。
「お兄ちゃん、ここ教えて」
2人とも、数学の問題に取り組んでいた中、優菜が教科書片手に擦り寄ってきた。
「ん、どれどれ…」
チャンスとばかりに智也に密着した優菜に、優花は眉をひそめる。
いつもなら姉に対抗するところだが、朝の一件が尾を引いているのだろうか。
特に何も言わずに、黙々と問題を解いていく。
そんな姉妹の機微に気付くはずも無く、智也は問題を眺める。
「これは、さっきの公式をあてはめるだけだな」
「えっ、そうなの?」
「ああ。とりあえず、やってみな」
「うん」
優菜はノートに、式を書き込んでいく。
「あっ、できた」
「だろ?」
「うん。でもすごいねお兄ちゃん。応用問題だし、しかもぱっと見ただけなのに」
素直に感心する優菜。
「まあ、これでも一応年上だからな。分かって当然だ」
妹相手とはいえ持ち上げられて、智也も悪い気はしない。
「でもな、優菜。応用とはいえ、これくらいの問題は解けるようになっておいたほうがいいぞ」
「う、うん」
「高校は、晴海を受けるつもりなんだろ?」
「うん」
「じゃあ尚更だ。受験はそんなに甘くないからな」
智也は妹思いの兄として、あえて厳しいことも言う。
「まあ今すぐには無理だから、少しずつ出来るようになっていこうな」
「うん」
厳しいことを言った後、ちゃんとフォローも忘れていない。
優菜の性格を十分に承知した、智也なりの学習方針だった。
「さてと…」
智也は、優菜が宿題に戻ったところで、逆となりに座っている優花の様子を確認する。
優花も同じく、応用問題にトライしていた。
「優花はどうだ?」
「今のところ順調だよ」
「どれどれ…」
優花のノートをざっと拝見する。
確かに見たところ、特に分からない問題はなさそうだった。
あらかたの問題で、答えが導き出されていた。
「凄いな、優花。ほとんど出来てるじゃないか」
智也は思わず、優花の頭を撫でる。
妹たちを智也が褒める時は大抵、頭を撫でるので、無意識に出た行動だった。
「あ…」
褒められた優花は顔を赤らめ、とても満足そうだった。
当然、その光景を見ていた優菜は、面白くない。
「むぅ、お兄ちゃん。この問題もちょっと教えて」
「ん、ああ。どれだ?」
優花の頭から手を離し、向き直る智也。
「これ」
「ん〜と、これはだな…」
智也が問題のヒントを教えようとした瞬間、さえぎるように優花が声を上げた。
「お兄ちゃん、騙されちゃだめだよ」
「ん、どういうことだ?」
「ゆ、優花っ」
慌てた様子の姉をちら、と確認して、優花は続ける。
「お姉ちゃんがこれ位の問題、分かんないはずがないじゃない。お兄ちゃんの気を引こうとして、わざと聞いてるんだよ」
「そうなのか?」
「あう…」
小さくなる優菜。
優花の指摘は、まさしく図星のようだった。
「はあ…。優菜、ちょっとノート見せてみろ」
ため息をついて、優菜のノートを確認する。
すると、数ページ先のページから、ちゃんと解答済みの答えが出てきた。
「やっぱり…」
優花もため息をつく。
優花は、最初に優菜が質問したときから、姉の態度はアヤシイと感じていた。
それもそのはずで、優菜は優花と同じく、成績も良い。
妹の自分が楽々解ける問題を、わざわざ智也に聞くはずが無いと思っていたからだった。
「さて優菜。なんか言わないといけないことがあるんじゃないか?」
ちょっとコワイ顔で、優菜を促す智也。
「ご、ごめんなさい…出来心でした…」
こうなっては抗弁のしようもない。
優菜は、素直に頭を垂れた。
「俺もおかしいとは思ってたんだ。俺の知ってる優菜が、これ位の問題が解けないはずが無いだろう、とな」
「うう…」
そう言われては、優菜も何も言うことが出来ない。
「まあ、この件はここらで不問にしとこう。もう結構な時間だしな」
そう言って、智也は2人の頭を優しく撫でて、参考書を片付ける。
リビングの時計は、11時を少し過ぎた時刻を指し示していた。
「あっ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
2階に上がろうとした智也に、優菜が声を掛けた。
「明日は休みなんだよね?」
「ああ。うちは隔週の土曜日が休みだからな。明日は休みだぞ」
トントン、と階段を上がりつつ、智也は答える。
智也自身は部活がある為、どちらでも良いと思ってはいたが、それはそれ。
やはり、土曜日に授業がないのは、大多数の生徒には好評だった。
「それがどうかしたか?」
「ううん、なんでもない。ちょっと確認しただけだから」
「ふ〜ん…」
ガチャ
そんな優菜の態度を気にするでもなく、智也は自室のドアを開け、中に入っていった。
パタン
「…優花、そろそろいこっか」
「お、お姉ちゃん。ほんとにやるの?」
「なに言ってるのよ。朝の出来事、忘れたの?」
「うう…」
残された姉妹は、しばらくそのままでいたが、1階の電気を全て消す。
そして音を立てないようにして、2階へと続く階段をそろそろと上がる。
勿論、目指すは智也の部屋だった。
「…電気は消えてるみたいね」
ドアに耳をくっつけた優菜が、小声で優花に伝える。
「お兄ちゃん、ああ見えて疲れてたみたいだから」
「…そうだよね」
妹の声に、優菜も同調する。
自分達の精神的支柱である智也は、今週高校に入学したところだった。
いくら適応能力の高い兄だとはいえ、精神的にも1番疲れのたまっている時期だろうと姉妹は感じていた。
いつもならまだ起きていて、色々構ってくれている時間帯に、既に眠っているところを見る限り、その予想は当たっているようだった。
「じゃあ、そろそろいくよ」
「…う、うん」
やっと意を決した優花に目配せをして、優菜はそっとドアを開けた。
カチャ
「…」
優菜に続き、優花も兄の部屋に侵入して、静かにドアを閉める。
暗闇の中、器用に家具の中を通り抜け、智也の寝ているベッドに接近。
緊張した面持ちで、2人して智也の顔を覗き込んだ。
「すぅ、すぅ…」
智也は完全に熟睡していた。
よほど疲れていたのだろうか。
日課の、夜のトレーニングに使うダンベルがベッド脇に転がっている。
日頃、整理整頓はきっちりしている智也としては、珍しかった。
「やっぱり、疲れてたんだね」
「そうだね…」
優菜の声に小声で返事をし、優花は智也の顔を眺めた。
「お兄ちゃん…」
そして優花は手を伸ばし、智也の頬をそっと優しく撫でる。
その顔はまさしく、恋する女の子の顔だった。
(…優花、なにしてるの?)
そんな現場の真横から、ジト目の優菜が突っ込む。
(あわわっ)
慌てて手を引っ込める優花。
どうやら無意識の行動だったようで、ちょっと音を立ててしまっていた。
咄嗟に、2人して息を潜める。
「すぅ、すぅ…」
恐る恐る智也の様子を伺うと、先ほどと同じくの爆睡状態だった。
ほっとする姉妹。
(だから、抜け駆けは無しっていったでしょっ)
(ご、ごめんなさい。つい…)
ジェスチャ−だけで会話を成立させる2人。
そこらへんの呼吸は、確かに姉妹だった。
(まあいいよ。それより、今日はどっちがいい?)
(あ、えっと…じゃあ、左腕で)
(おっけー)
昨日と同じく、掛け布団をゆっくりめくり、智也の両サイドに潜り込む姉妹。
(ふう、やっぱりここが1番よね…)
(うん…)
2人とも智也の腕を抱えて、ぴったり張り付く。
その顔は安心しきっており、大層満足気だった。
(よ〜し、じゃあ優花、さっそく朝の作戦を発動するわよっ…って、優花?)
しばらく智也の温もりを味わった後、優菜は顔を少し浮かせて、目線を優花に送る。
しかし、優花は顔を上げることもなく、何も返事を返してこなかった。
不審に思った優菜は、もう少し首を持ち上げて、妹のいる方向をのぞきこんだ。
(優花…いっちゃったのね…)
優花は半分起きてはいたが、完全に意識を智也に奪われていた。
智也の腕に頬を寄せ、幸せそうにしている。
優菜は、小さくため息をついた。
そして。
(んっ…)
智也の頬に、軽くキスをした。
唇を離した後も智也の顔を眺め、しばし余韻に浸る優菜。
(えへへ…おやすみのキス、しちゃった…)
心底、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
優菜は、朝方の妹への尋問を行った結果、自分も智也にキスがしたくなった。
そこで、智也が寝た後に、おやすみのキスをしようと優花に持ちかけたのだった。
(お兄ちゃん、大好きだよ…)
おそらく、自分の隣で寝ている優花も、同じ気持ちでいるのだろうか。
そんなことを思いながら、優菜も再び智也の腕を抱え直し、夢の世界へ旅立っていった。
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