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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔女の保管庫*短編集*

魔女が抱く黒曜の王器

作者: 因果論

 *



 狂気などという言葉では、生温い。

 常闇の瞳を階上に見出した瞬間、それは十分すぎるほどに伝わってきた。



 静寂の王宮、謁見の間。

 魔女は、その階の上に王を見仰ぐ。

 背後に開け放ったままの扉から吹き込んでくる風に、舞い上がる外套。

 宵闇を切り取ったような、艶やかな黒の色彩をしている。

 バタバタと耳朶を打ち、その頬を掠める外套越しにふと思う。

 ――尋ねてみようか。


 魔女は久しく覚えていなかった感情を抱き。

 その心のままに、低く問う。


「紅き王座を、そこまでして望む意味は?」



 *


 ――人の世における、唯一の不変は喪失。要するに、いずれは迎える死くらいなものだろう?

 それはかつて私が唯一愛した、とある変人の言葉。

 思えば、あの変人の死を境に、私の涙は枯れ果てたようである。いや、正確には涙ばかりではないのかもしれない。

 感情らしい感情も、正常な人が持ちうるべき生に基づくあらゆる欲も、枯渇した。

 元より、それ程感情の起伏の大きい性分ではなかったが。

 それにしても欠損は大きい。事実、周囲からすればそれは異様であったのだろう。

 今では魔女などと称されるまでになった。


「人というものは、本当に移り気の激しい生き物ですね」

「……ほぅ、それは先に『聖女』などという大仰な名を与えられ、神殿へ幽閉同然に囚われかかった君らしい言葉だな」


 茶器の中で揺れる、澄み切った赤茶金(ティー・ローズ)

 口に含んで「甘い……」と呟いた後にカップを戻せば、対面している彼女――黄水晶(シトリン)の魔女――は喉の奥で微かに笑う。


「国が滅びる前触れとして、かの神殿は紅蓮に染まったのだったか? 君も肝心のところでは、中々に運がいいとみえる」

「……そうですね。確かに、あの折、あの変人に見つかっていなければ……先んじて全てが終わっていたのかもしれません」


 少なくとも、魔女としての自分はなかった。

 そう告げながら入れ直したカップを傾ければ――ほのかに香る、カモミールが芳しい自家製ハーブティーである――対面の彼女から、呆れを滲ませた微笑みが向けられた。


「淡々とした顔で、さりげなく惚気るのは君の癖なのかな?」

「いいえ? そのようなつもりは欠片もありませんが」

「無自覚というのは本当に救いようがない。まぁ、仕方もないのか。何せ君、感慨らしい感慨も抱くことが出来ないのだろう?」

「……それこそ、今更なお話ですね」


 先の王家が終焉を迎えた時でさえ、彼女は何一つ感慨らしいものを抱かなかった。

 終わりを迎えた事だけを目の前にいる魔女経由で伝えられ――その経緯は、事細かに語られたのだが――それにもただ、頷くばかりで。その淡々とした反応に、終いには「つまらん」と零されてしまった。

 いずれは朽ち果てるものと予期していた自分へ、寧ろどのような反応を望んでいたものか。

 それは今もって分かりかねる。直接尋ねてみたものの、曖昧に濁して答えてはくれなかったから尚更だ。

 事実。憎悪も、安堵も、憂さが晴れた様な清々しい思いすら、この胸に去来することはないというのに。

 虚の心に、響くものなど端からある筈もない。

 その後も何一つ、思い返すところなどなかった。そもそも思い返せるほどに、残るものなどあの場所には見出せなかった。

 彼女にとっては、たったそれだけの話。


 あの変人が、彼女を拾い上げてからの数年間。

 それが彼女にとっての生きた年数に等しく。

 それに勝るものなど、ありはしない。

『いつか』伝えようと思っていた数々の言葉は、今はもう行き場を喪って揺蕩うばかり。

 人が創る繁栄も、栄華も、発展も、充足も。――凡てはいずれ、朽ち果てるだけのもの。

 この平坦な眼差しは、何処に向けられている訳でもない。

 ただ、見届ける。それだけの為に、与えられた魔力は人一人の生涯には納まりきれぬほどで。

 結果、今もまだこうして無駄に命を長らえる羽目になっている。


(ちまた)で、今現在の君に纏わる風聞が面白いことになっていてね……それも聞いていないのか?」

「このような辺境に、雑多な風聞など届く余地はありませんよ」

「ならば聞かせてやろう。――曰く、黒曜の魔術師を弑した黒曜の魔女は先の王家の動乱の折に、王家の忌み子を己が野心のために解き放った。今やその忌み子は大陸全土の覇権を勝ち取ったが、血を求める意思は納まるどころか増すばかり。続く遠征で向かうは、かつて彼を解き放った黒曜の魔女が住まう最果ての地。そこで双方は手をとり合い、嘗ての野心を成就させることだろう――とね」

「……物好きですね、シトリン」

「ああ、民衆の愚かな噂話は大好物だよ。束の間でも、この安寧に満ちた退屈を忘れさせてくれる術には違いあるまい?」


 ――それで、当人の感想を聞かせてくれるかい?

 そう言わんばかりの視線をまじまじと向けられ、無表情ながらも若干辟易としたものを覚えながら。

 彼女は、ほぅと静かに吐息を吐く。


「そもそも野心など、持った覚えはありませんよ」

「……ふふ、そうだよなぁ。端から予想はつけていただけに、心底つまらない返答だ」

「つまらなくても別段構いません」

黒曜(シディアン)――君はもう少し、見るだけではなく知ることを覚えた方がいい。状況を把握することで、君も魔女としてもう少し生きやすくなるだろう」


 それは、遠回しな忠告。

 それを十分に分かった上で、黒曜と呼ばれる彼女は「その言葉だけ、受けておきます」と言うに留めた。

 やんわりと、魔女として今後を生きていくこと自体(そのもの)を拒んでいるのだ。

 それに対して返るのは、小さな溜息。率直に言葉にして告げることは無いにしても――そこはやはり魔女たる性とも言えよう――それは彼女たちの普段でもあった。


「……意欲がないという割に、その頑固さは幾年経ても変わらないのだね」


 寧ろ年々、頑なになっているようだ――と。

 そう呟きがてら席を立つ黄水晶の魔女。その背に見事な黄昏色の髪が流れ落ち、開いた扉から吹き込む風にふわりふわりと靡いた。

 それはいつ見ても、本当に美しい光景だった。


「次に私が会いにくる時まで、その命を散らすことは許さないよ」


 そう言って、今日も彼女は去ってゆく。

 夕暮れの空に、その黄昏色の髪がよく映えていた。



 *


 ――黒曜の魔女、そう称されるようになったのは私が最愛を喪った後の話。

 最愛の名は、クロード・フェルリアという。名門魔術家フェルリア家の落胤にして、時の王宮においては最強にして最恐と謳われる実力者であった。

 見据えられただけで凍えそうな怜悧な美貌を持ちながら、紛れもない変人として当時から名を馳せており。

「そのギャップが堪らない」云々と、王宮を行き交う少数派の侍女たちは零していたようであったが。

 当の本人は僅かも興味を得ていない様子。

 実際、さりげなく伝えてみたことはある。

 しかし返って来た返答はどう考えても斜め上にズレたものだった。


「ふぅん――それでお前は、それを伝えた時の俺の反応を見たかったのか?」

「いいえ、さして興味はありません。ただ、ちょうど話題が途切れたところでしたから。……この機会に、当人の認識を聞いておくのも良いかと思いまして」


 それは丁度、魔素材を整理している最中であったと思う。別段珍しいことではなかった。

 変人奇人と称されるだけあって、かの人の薬材庫はありとあらゆる素材をごったに詰め込んでいる魔窟であり、週に一度は大掛かりな整理整頓が必要であったのだ。


「ほぉ。そんな無駄な時間があるくらいなら、そっちの資料を纏めておいてもらえるか? 二日後には、この煩わしい檻を飛び出して素材採集に向かうからな」

「……王宮を煩わしい檻と称するあたり、毎回ながら独特な感性をお持ちだとは思いますが」

「へぇ、お前も随分分かるようになってきたじゃないか。よし、次回の採集にはお前も同行しろ」

「クロード様、行けないことを分かっていて仰るのは――」

「誰が、行けないって?」


 ――俺が、お前を連れていくと言った以上は連れていく。


 迷いなくそう言い切ったあの人に、思わず見開いた双眸と――自らが抱いた感情。

 それらは今も尚、鮮やかに胸に残っていて。覚えている。見開いた後には柔らかに細められていたことも。

 嘗ての澄んだ菫色で見つめる先は、いつでも同じ背を映していた。

 我ながら、分かりやすい事この上ない。

 ただ、けれども、それでも――どのような言葉を乗せるにしても。重ねるにしても。

 それはもう、二度と取り戻せるものではなく。今はただ、抜け殻だけになった記憶に過ぎない。

 残ったのは、それが確かに在ったことだけ。

 忘れ得ず――長い歳月を経ても、喪われていない唯一と言っていいモノ。

 それを手放せないままで、今に至る日々を生きてきた。

 あの頃に抱いていた淡い想いも。

 一度は吹き消された筈の、誰かを信じたいと思う心も。

 すべてはもう、喪われた後だというのに。



 ――夕暮れを過ぎて、宵闇に包まれた辺境。

 その窓から差し込むのは仄白い、月明かりだけだ。そこにゆるゆると掌を翳した。

 時を留めたこの身体は、あの日から寸分も変わっていない。

 かの人をこの手に掛けた、あの日から。

 それを限りに、漆黒の色彩に染まってしまった双眸を閉じて想う。


「貴方が望んだようには、生きてはいけない私に――クロード様。他ならぬ貴方はきっと幻滅なさっている事でしょうね。それでも、どうかお許しください。ようやく叶う終焉の(とき)なのですから」


 貴方が忌避し続けた王家が滅び、嘗ての国も失われた後――――『覇王』と称される彼によって平定された現在の都。新たなる国の形。

 ここから先、時代は新たなる王の下で変わることのない盛衰を繰り返してゆくのだろう。

 見届けるべきものは、あらかた見終えた。

 これ以上、無為に生き繋ぐことに意味を見いだせない。

 私にしてはもう、十分すぎるほどに生を全うしたのだと思うのだ。

 眩暈を覚えそうなほどに長い年月と共に。本当に長い間、よくもまぁ生きてきたものだと溜息も零れ落ちる。

 ようやく終止符を打てる見込みが見えてきた現状に抱くは、深い安堵。

 今の自分が望むのは、ただ一つだけ。


 黄水晶の魔女が危惧した通り、やがてこの辺境にも兵の手は伸びてくるだろう。

 既に周囲の守護を解いている以上、守護する土地を穢された魔女は遠からずその力を失う。それが魔を宿す血を継いだ者の定め。

 ――力を失えば、遠からず緩慢な死を迎えられる。


「血の覇王、などと呼ばれるほどにあの子はもう大きくなったのですね」


 歳月が過ぎるのは、瞬きをするほどの間。

 それにしても――といった心情を抱えながら。薄らと、口元が緩むのも仕方がない。

 出会った頃は、死に掛けていたといっても過言ではない様相であった『彼』。

 大陸を手にするほどの歳月を経た今、恐らくは目を瞠るような強さと美しさを兼ね備えた王となっていることだろう。



 *


「――っ、触るな!!」

「……ほぉ。弱っていると思った割に、威勢のいい声だ。この分なら、そう心配もいらんな」


 それに初めに気付いたのは、クロードだった。

 王宮の官吏達曰く『まさに変人らしい目線』ということになるらしい。しかし常日頃から方々へ視線を遣っているからこそ見出せるものも多い。それに気付いているのは、当時の王宮でも恐らく少数でしかなかった。

 その時も、彼の視線があってこそ目に留まったのだろう。

 王宮の中庭、蔓草に覆われて打ち捨てられた風情の東屋。

 その陰に、襤褸(ぼろ)切れを纏って蹲る何か。

 クロードの背中から垣間見えたそれを、よくよく目を凝らして見てみれば幼子だと分かる。

 正直なところ、クロード自身は自他ともに認める変人であった。それは決して、善人と言い切れぬ性。そもそも私を拾い上げた経緯からして、「別段、助けようと思ってそうなったわけでもない」と時折零しては呵々として笑っていたくらいだ。

 その幼子を前にしても、満身創痍のそれを見ていられずに駆け寄った……という美談的なそれではなく「何だろうな、あれ」に近い感覚であったことは疑いようがない。実際そう呟きながら歩み寄り、指先で突いていたくらいだ。

 その上の、拒絶である。これは極めて自然な反応と言えた。


「おい、帰り際に採取してきた痛み止めの薬草があっただろう。効能収集がてら、貼ってやれ」

「――俺に関わるな。王宮に留まりたいのなら、尚更だ。過ぎて見ぬふりをしろ」

「ほぉ。この餓鬼面白いことを言う。そこまで言われたら、余計に手を出しておく必然性が上がったな」

「……お前、言葉、通じてるか?」

「よく聞けよ、餓鬼。俺はこの王宮という場所が昔から大嫌いでな。叶うことなら、地方に左遷されて二度と還ってきたくないくらいだ。――ここまで言えば理解できるか? お前のその提案は、俺にとってはメリットでしかない」

「…………」


 他ならぬ王宮内で、そのような発言を返されるなどとは思いもよらないところであっただろう。

 その感覚は正常だ。普通であれば非常識、では到底看過されない。

 けれども、周囲は聞いて聞かぬふりをする。

 それも全て、その言葉を発していたのがクロード・フェルリアであったことに所以していた。

 国の魔術師の要にして、決して手放せぬ強大な駒。黙認もされよう。


 それに対し、唖然としたというよりかは呆然とした面持ちで絶句したままの幼子が一人。

 傍らに膝を付き、その指示通りに薬草を準備していた私は、同情に近しい思いを抱いたことをぼんやりと覚えている。

 それから暫くは沈黙するばかりであった。傷だらけな上に、腫れ上がった箇所も一つや二つではない。思わず眉をしかめたのも、無理はなく。そう断じれるほどに、その程度は常軌を逸していた。

 加減を知らぬ、複数の傷。思わず理由を尋ねそうになり――けれどもそれは辛うじて言葉にならない。

 近くで見れば分かる、無個性に整った人形のような顔立ち。加えてその色彩。

 言わずとも、彼が王家に連なる事実を物語っていた。

 ――国で最も高貴とされる、常盤色(エバー・グラス)の双眸。黄玉(トパーズ)の柔らかな髪。元々は高貴であっただろう出で立ちも含めて。


 そんな視線に気づいたのか。どこか諦観に満ちた様子でぽつりぽつりと自身について語り始めたのに、耳を傾けるどころか退屈そうな様子を隠しもしないクロード。これはさすがに見逃せず、背後からその背を抓っておく。当然の処置だった。

 間を挟まずにささやかな不平不満が挙がったものの、そこは微笑みで押し通す。

 主従に等しい間柄とは言え、そもそも声を掛けた当人がとる態度ではない。そこを履き違えてもらっては困る。

 仮にも主と呼べる人には、相応の良識を求めたいところ。

 その為には、主の間違いを示す役割もまた、使える者の義務と言えるだろう。

 結果。渋々といった風情でも、一応最後まで聞き終えたクロードは長い長い溜息の後に、幾らか据わった目で言い捨てた。


「……はぁ。そもそもな、王家の血筋にどれだけの価値がある? それは周囲の評価に影響こそすれ、お前当人の価値とは根本的に関係がない。気にするだけ無駄だ。現状が気に喰わないのであれば、自ら動け。気に喰わないモノは改変しろ」

「――っ、お前は知らないからこそ、そんな事が言える!!」

「生憎と、愚かな餓鬼と討論している暇はないな。同情を買いたいなら他を当たってくれ」


 バッサリと、音が聞こえそうなほどに躊躇いなく言い捨てる怜悧な横顔。

 それを見上げ、ふと兆した思い。

 それに、思わず言葉を差し挟んでいた。

 ――それは恐らく、当人ですら気付いていないだろう色。

 気付きながら、その場を去る背を見送ることなど到底看過できるはずもない。

 叶うなら、双方にとって良い道筋を選べればそれに越したことはないのだから。


「――クロード様、お待ちください。肝心な言葉ほど、遠回しに伝えては歪んでしまいます」


 二人分の絶句を横に、膝についた土を手で払いながら言葉を差し挟む。

 本来伝えたかったはずの主の言葉を代弁するのは使える側の務めだろう。それが如何に、面倒であっても。

 殊、多くの人間関係において今も昔も変わらない諍い、争い、憎悪、嫉妬、他諸々を生じさせる根本的な過ち。

 それは簡潔(シンプル)であればこそ、言葉にして交わすことを後回しにしがちになる人の性に端を発しているのだろう。

 どれ程長い歳月を重ねようとも、人の性はそう容易く変わるものでもなく。

 人は過ちを繰り返す。

 それは彼女が神殿に送られることとなった過程をして、自らそうと悟ったものでもあり。実際のところ人が過ちを防ぐ術というものは、どれ程月日が経とうとも変わることなく簡潔だ。

 肝心な部分を包み隠さずに伝えなくては、伝わるモノも伝わらない。

 無知こそが、人が抱く最大にしてもっとも身近な罪なのだから。


「何が、言いたい?」

「真実、興味本位だけでお声を掛けるような慈愛溢れる主でないことを、他ならぬ私が身に染みて存じております。それを踏まえて、まだ言葉が十分に足りていないのではありませんか、と。私がお伝えしたいのはただその一点のみですが?」


 そこまで告げれば、クロードの不機嫌さは近日稀に見るほどまで悪化していった――ただそれすらも、今となっては懐かしい思い出と言えよう。

 不機嫌な顔すらも愛おしく思えていたあの頃が、本当に幸せであったのだと。

 そう、幾度も胸の内で呟きながら。

 ゆらり、ゆらりと水鏡を覗き込むような心地で思い返す。


 結局、クロードはその口を貝の如く閉じたままだった。暫くそれを眺めていたものの、終いには「仕方のない方……」と溜息を一つ。

 代わりに歩み寄った先で、ふわりと膝を付いた。

 覗き込んだ常盤色は、困惑に揺れている。

 それを見て、思わず苦笑を零した。


「――どうか、今だけは耳を塞がずに。殿下、耳当たりの良い言葉は、優しく聞こえますか? けれども現実は本来優しいものではありません。それは他ならぬ貴方がその身をもって十分に承知されているところでしょう。その上で、一つ問い掛けを。優しく扱われるからといって、そこにまっさらな善意が存在すると思われますか? ……ふふ、それは早計と言わざるを得ませんね。何も考えずに生きてゆけるのなら、それはそれで才能と言えるかもしれませんが。ただ残念なことに、生まれる場所を生まれる当人は選べません。生まれたその場所で生きる術を模索する他に手だてなど存在しないのです。殿下、貴方は死を望んではいないのでしょう?」

「……死にたく、ない。」

「――それならば、生きる術を己の手で勝ち取るのです。それが真実、主が言いたかった言葉ですよ」

「おい、勝手に人の名を借りて自論を展開するな」

「クロード様が責任をもってお話されていれば、端から私に出番などありません」

「ああ言えばこう言う……一体誰に似たんだ」

「一般的には、庇護者のそれに似通ってゆくものらしいですね」


 再び絶句したクロードの横顔に、ほんの少し年相応の表情を滲ませた『彼』。

 互いに手を振って別れる際には、幾分か打ち解けた様子を見せてくれていた。


 こうして面識を持った私たちは、それから約半年に渡って時折顔を合わせては話交わす仲となる。

 遠目に見ていると、年の離れた兄弟にも見えないこともない――内心でそう、ひっそりと思う日々。

 少なくともその頃は、これからも続くものだと信じて疑いもしなかったほんの少し賑やかで、穏やかな日常。

 それは容易く、崩れ落ちて。

 全て、国に戦火が上がるまでのほんの一時でしかなかった現実を思えば、やはり平穏は望んで得られるとは限らないものなのでしょう。


 今となってはもう、思い返すことでしか触れられない過去の情景。

『変人』と呼ばれたあの人の傍らにいられた、優しい歳月。

 そして――――もう、取り戻すことのできない声。



「――シェリ、俺が大嫌いなものを、お前だけはずっと忘れずにいてくれるな?」



 今もまだ、時折耳の奥に木霊する。それは言うまでもなく、あの人のもので。

 国に、家系に、権威に、その自由を拘束されて利用されることを何よりも嫌ったクロード。

 彼に一つの逃げ場も許されなくなった、あの日。

 全ての業は、己が身に。

 そう呟いて、流し入れた致死量の毒薬。

 頬を伝い落ち、毒に混じったそれは人として流せた、最後の涙であり。

 伸ばされた腕の確かさも。

 掬い取ってくれた、その手の暖かさも。

 唯一愛した人が、手向けてくれた微笑も。

 脳裏にこびりついたまま、忘れ得ない。


 ――クロードは全てを、知っていた。

 毒入りの茶器を干した後に、告げられた一言。それが全てを物語っていた。


「シェリ、毒薬の調合に関してはもう及第点をやる」


 それは途方もなく残酷で、暖かい声。

 今振り向いたら、恐らく自分は狂ってしまうだろう。

 ――そんな確信に近い感覚に縋って最期まで、振り返ることはなかった。

 後悔などという言葉では、到底言い表せないほどの枷。それを自ら背負うことを、選択した。


 冷たくなったクロードの手を額に当て、一生分の涙を流し終えた私。

 国に仕える魔術師を殺害し、無事でいられる道理はない。

 既に死は、覚悟していた。考え得る限り、尤も残酷な刑罰の元に命を絶たれるだろうことを知っていた。

 それでも共に逝けるならば、と微笑みは隠さない。

 恐れがなかったと言えば、嘘になる。事実、その両腕は小刻みに震えていた。

 それでも、そこから逃れようとは。背を、向けようとは。生き延びようとは――思えなかった。


 自ら最愛を絶ったこの世界に、いまさら未練など覚える筈もない。

 全てが死によって喪われる刻限を、ただひたすらに待ちわびていた。


 それにも(かかわ)らず――耳元に落とされたのは、響くはずのない声。

 喪われた人が紡ぐ、最後の一葉(ことのは)

 それが指し示したのは、優しくも残酷な行先。

 思わず伏せていた顔を上げた刹那――それを見越して、予め組み上げられていたのだろう。クロードの身体から引き剥された潜在魔力が、抗う術もなく己が内へ染み込んでくるのが分かった。

 生半な術師では構築すら叶わないと聞く、死後(ディア)魔術(・レス)

 最期の最期まで、魔術師として最強を誇ったあの人らしい道しるべ。

 もう与えられた分だけ生きる他ないのだと、諦めと共に、そう思うほか無かった。



 *


「――――さて、この状況は流石に予想外です」


 黄水晶の魔女が訪れてから、既に一月近い日数が過ぎた。

 それにもかかわらず、辺境の地は相変わらず平穏そのものだ。肌に纏わりつく様な、確かな違和感だけが積み重なる日々。

 まるで深深と降り積もる綿雪のように、静かな日々だ。

 守護を解いてしまっている以上、広範囲の知覚が適わないことがここに来て自らの首を絞める結果となっている。


 誰の訪れもない以上、ぽつり、と自らが零した声に応える声もない。

 今まで一定の期間で来訪を欠かさずにいた黄水晶の魔女が、ここに来てパタリと顔を見せなくなっていた。

 この状況下では、選べる選択肢も限られてくる。


「……もう、待つ時期はとうに過ぎ去ったと。おそらく、そういうことなのでしょうね」


 緩慢な死が叶わないならば、それはもう、自ら動くことを求められているのだろう。

 薄らと兆したそれに、口許が微かに綻ぶ。

 いつしか自らの死に対して、傲慢であったことに思い至ったからかもしれない。


 伸ばした手が、漆黒の外套を掴んだ。



 *


 夜明けとともに、軽装を整えて辺境を出立した。空は澄み渡っていた。幸いなことに、風向きも良い。

 風の流れを読み、そのまま舞い上がって進路を北に取る。周囲には、物珍しげにこちらを窺う鳩の群れ。奇しくも同じ進路を取ることとなり、彼らの背を追うようにして向かう先は――嘗ての王都。


 朝焼けに照らし出された王都は、戦火を経て大きく様変わりを遂げていた。

 鳩たちと共に、静寂の王宮へ舞い降りる。

 只人には見えぬよう、あらかじめ術式を纏っていたものの――どうやらそれも杞憂に終わったらしい。

 宮に仕える官吏も、まして衛士の姿さえも見渡す限り認められなかった。


「隣国に、滅ぼされて――? それにしても……」


 どこか妙だ。

 例え敗戦を迎えたとしても、敵国の兵士の姿すら見えないというのは道理に合わない。

 答えが見つからないまま閑散とした王宮を巡る。その足取りに、迷いはない。

 嘗て、クロードと共に歩いた日々を思い返しながら中庭を過ぎ、回廊を渡り――――……とうとう、その足取りは一つの扉の前で止まる。


「本来であれば、許しもなく開けられる筈のない扉ですが……」


 見上げたそれは大きく、黄金装飾の凝らされた両手開きの扉。

 王座へ続く、謁見の扉だった。


「ここにすら衛士がいないということは、やはり誰一人王宮には残っていない?」


 それでも、伸ばした掌。その先に待つものが空の王座一つだとしても、確かめてこそ意味があった。

 鈍い音を立てて、開け放たれた扉の向こうに広がる奥行へ目を凝らし――はた、と息を止める。


 壮麗な謁見の間。五色の垂れ幕が両側に伸びる、その最奥。

 灯一つ灯らない――その暗がりの中に。

 紅の王座に掛け、目を閉じていた。

 たった独り、薄闇に沈み込むようにして、王が在った。

 その人形じみた相貌も、色素の薄い肌も、王家の髪色もすべてが『彼』を示していた。

 静寂の王宮にただ一人、残された王の姿。それはまるで、一枚の絵画の如く静寂に満ちて美しい。


 それをただ声もなく、見上げる。

 静寂の中に、微かに響く衣擦れの音は――開け放った扉から吹き込む風によって外套が捲れ上がった為であったのか。

 それに、震えるようにして開かれた双眸。

 それは、陽の光が差し込んでいるにもかかわらず、常闇に染まっていた。


 ゾッと、背筋を走り抜けた『何か』に身を震わせる間にも、完全に開かれてゆく双眸。

 そこに嘗て見た色彩――木漏れ日を透かしたような柔らかな緑は、遠目にも見出すことは敵わない。

 狂気などという言葉では、生温い色だった。

 それは壇上に見出した瞬間に、十分すぎるほどに伝わってきた。


 ――尋ねてみたい。

 久しく感じた事のない、そんな感覚を抱いたまま。

 階上の王へ向け、静寂を裂いて問う。


「紅き王座を、そこまでして望む意味は?」


 ゆったりと、緩慢といえそうな動作で立ち上がった王は静けさに満ちた言葉を返した。


「生きる術だよ」


 ふわり、と壇上から崩れ落ちた身体を咄嗟に支えようとして駆け出し――けれども直観に等しい部分が、同時に言い様のない怖気を訴えてくる。

 それに気付き、咄嗟に間合いを取ろうとしたが、全ては遅きに失した。

 伸ばされた腕に巻き取られるまま、ごろごろと階下へ転がり落ち――期せずして王衣に包まれたまま見上げることとなった、人形じみた相貌。

 それは何かをやり遂げた者特有の、安堵の色に色濃く染まっていた。


「……はぁ。やっと辺境から引きずり出せた」


 溜息の後に続く言葉は、意図して耳に吹き込まれる距離で紡がれる。

 艶めいたそれに、咄嗟に身を捩ろうとして――外套越しに至近距離で見合う羽目になった。


「――貴女は幾年経ても変わらずに美しいね。国を挙げての一芝居に見事に引っかかってくれたおかげで、この国の繁栄は約束されたようなものだよ?」

「外見が変わらないのは、魔の血の影響に依ります。……とりあえず、重いので退いてもらえませんか?」

「それは駄目。魔女を安易に離すなんて、それこそ愚者のする行為だから」


 その発言に、眩暈を覚えた。内心で嘗ての自分の言動を後悔する。

 ものの見事に、反省を生かされてしまったらしい。

 何よりも問題なのは、こちらが予め予防策を講じておかなかった一点に尽きる。


「……国を挙げての、と仰る?」

「そう。国を挙げての、大芝居。実を言うと、隣国との戦も一息ついて停戦協定を結び終えたところなんだ。先月帰還したばかりなんだよ? その折に宰相を筆頭に、そろそろ身を固めてはどうかとこぞって話を挙げてきてね。下手を打てば、そのまま隣国の王女を押し付けられそうだったから、先手を打って相談役を呼び寄せておいたんだ」

「……相談役ですか?」

黄水晶(シトリン)の魔女。今回の舞台設定は、全て彼女の意見を参考に組み上げてみたんだよ」

「つまり、あれが私を売ったとそう仰るのですね?」

「――そうなるね。貴女はもう、この腕を解けないでしょう?」


 人形じみた顔が、一転して柔らかな微笑に崩れる。

 ぎゅうぎゅうと一縷の隙間もなく抱き寄せられ、再度身を捩ったものの。

 どうやら以前よりも格段に成長した体格に逃れようもないことが分かった。

 前々から気付いてはいたものの、彼が微笑むとどこか幼い印象になることも併せて再認識する。

 ただ、気付いたのはそればかりではなかった。


「――フレイル? 貴方、泣いているの?」

「この数十年というもの、ずっと貴女の足取りを追って生きてきたんだよ。そんな貴女とようやく再会が叶って、感極まるのも極自然なことだと思うけど……?」


 肩口に埋められた彼の頬が、しっとりと湿ってきているのに思わず問うていた。

 そうか、泣いているのだと。そう思えば、自らの涙がもう流れることのない事実に改めて気付かされる。

 ――――あの日の慟哭が、過る。


「騙し討ちのような策を選んだことを、申し訳ないとは思うよ。でもね、黄水晶の魔女から残された猶予は少ないと伝えられた時、貴女を喪うのを何より恐れていることに気付いた。だからこそ、もう手段は選ばないと決めたんだよ。周囲の説得も済ませた上で、今回の芝居を決行させてもらった」

「……成長しましたね、フレイル。貴方が自ら選んだ道の上にいるのは私にとっても喜ばしいことです。けれども無理強いは、褒められた行いではありませんが?」


 王の腕の中で、組み敷かれたままの魔女は静かな眼差しを上に向ける。

 それと見合うようにして束の間、声を途切れさせていた王。

 やがて、その常盤色の双眸に影を滲ませ――頬を寄せる。


「約束が欲しい――この手を離しても自ら死を望まないと、今ここで告げて」

「フレイル。私は自らの道を見失った後、今に至る長い歳月をずっと彷徨い歩いてきました。そしてもう、道を外れたい。その思いを否定するのなら、私は貴方の敵になる他に道を選べません」


 ――――黒曜の魔力を守護した土地へ遺し、ずっと待ち望んでやまなかった死を選ぶ。

 言外にそう告げた腕の中の魔女と、見下ろしたまま、再び仄暗い双眸を戻して来た王。

 王はその常闇を細め、伸ばした指先で艶やかな黒髪を梳く。

 口許に浮かべた艶笑は、魔女たちの十八番――蠱惑的な微笑みをも凌ぐほどのそれだった。


「なら――いっそのこと貴女の敵になってみようか?」

「ふふ、一国の主が魔女の敵になることを甘く見ていらっしゃる? もしくは冗談と? いいえ、これは紛れもない警告ですよ、王様?」

「警告、ね……要するに、それだけ貴女が本気で向き合ってくれている証とも言えるよね。これ以上望むべくもない展開だ」


 睦み合うが如き距離で囁く王へ、呆れを滲ませた魔女は溜息を零す。

 そのタイミングを図っていたのか、薄く開いた唇にふわり、と自らのそれを重ねようとし――――


 それは極自然な動作で広げられた掌に阻まれ、苦笑に終わる。


「やっぱり、そう易々とは口付けさせてはくれないんだね?」

「そこは敢えて確認する必要もないと思いますが?」


 にべもない。

 くつくつと笑った王へ、二度目の溜息を零した彼女は――刹那、その視線を窓の外へ向ける。窓のすぐ傍を過った『それ』に気付き、ほんの少し口許を綻ばせる。

 ――どうやら、ぎりぎりで間に合ったようだ。


「フレイル。最近では『覇王』などと称される貴方が、魔女の末席などで王妃の席を間に合わせるという愚行。それそのものが、夢物語と一笑に付されても仕方がありませんよ?」

「貴女を笑うような者がいれば、その場で首を落としてあげるよ? まぁ、勢い余って飛ぶかもしれないけれど、その時は君に穢れた血がかからない様に調整するから心配はいらない」

「あらあら……、これは予想を遥かに上回る解答を頂いてしまいましたね」

「心配は拭えた?」

「いいえ、むしろ真逆です」


 なるほど、まさに覇王と称されるに相応しい変貌を遂げてきたようだとこちらも再認識するに至った現状。

 因みに上の会話を続けている合間も、互いに無言の攻防を繰り広げていたのは言わずとも察してもらえることと思う。

 当初は愉しげだった双眸の光に、少しずつ捕食者じみた色がチラつき始めた時点でそろそろ限界だと察した。


「フレイル、貴方の御代が平穏に満ち溢れたものとなることを、彼岸(エラ)(・ベステ)から願うことをお約束させて頂きます。目的も果たせましたし、そろそろ私はお暇させて頂きましょう」

「――この腕を逃れて? 面白いことを言うね。それを見逃すと思うの?」

「魔女の知恵を、見縊ってもらっては困ります」


 ――おいで、黑鴉(ダリア)

 魔女の声に応えるようにして、謁見の間――部屋一面に嵌め込まれた巨大な硝子が、音を立てて崩落した。

 そして滑り込むように、頭上を過る飛影が一つ。

 大鷲を思わせる漆黒の両翼を羽ばたかせ、巨大な鴉が王座を睥睨するように舞い降りた。


「コーデル、今だ。魔獣を捕縛しろ」

「――毎回のことながら、我が主殿は無理を仰いますね!!」


 二人の他に、何者も存在を感じ取れずにいた謁見の間に突如として現れた第三者。

 深緑色のローブをはためかせ、捕縛用の魔術を行使した栗色の髪の青年は、けれどもここで驚嘆の声を上げる。


「うわぁ!! 無理、無理ですって!! 聖獣由来の魔獣なんて、捕縛した時点で呪いを受けること間違いないですよ?!」

「お前が呪いを受ける分には、さして問題ないよね?」

「うわぁ!! 分かってはいたけれど、この人最低最悪のことを平然と言ってのけた!! あと、補足させてください。呪いを受けるの、僕だけに限らないと思いますけど?!」

「あとで解呪すればいい」

「そんな簡単な話だったら、そもそもこんな必死に抗議してませんけどね?!」


「――――仲が良い様子で、何よりですね。フレイル」


 王とその側近――王宮の筆頭魔術師はその頬に物凄い風圧を感じながらも、辛うじてその声を辿って視線を上に向ける。

 そこには、大鴉の背に乗って微笑む魔女の姿があった。

 あらゆる感情を枯渇させた、黒曜の魔女。

 その彼女が、まるで慈愛の女神の如く微笑んでいた。

 まさに真昼の陽光のように、それは柔らかで――――けれどもどこか、深い憂いに満ちている。

 声もなく立ち竦む彼らを見渡して、そのまま飛び去ろうとしていた背をふと、何かを思い至った様子で止めた。

 僅かな逡巡の後の、静かな声。

 一人の王と一人の魔術師を前にして、魔女はその口を開く。


 ――お別れの挨拶を兼ねて、すこしだけ私の話を聞いて頂けますか?

 そう告げて、寂しそうに笑った魔女は、普通の少女のようにも見えた。



「嘗て――私が暮らしていた村は、王国の兵によって焼き尽くされました。私に『聖女』としての資質がある、ただそれだけを理由に攻め入った彼らは……私の両親を、祖父母を、兄を、弟を、守ってくれようとした人たち全員を欠片の慈悲も、躊躇いも持たずに虐殺したのです。私はその光景を、全て目の前で見ていました」


 不可侵の森と呼ばれていた薄闇の森。その傍らにあった平穏で、優しさに満ちた小さな村。

 今はもう、何も残らない故郷。

 思い返すことすら億劫になるほどの歳月を経た今も尚、あの夜の喧騒が忘れられない。

 夜空に響いた慟哭と悲鳴は、耳の奥に焼き付いたように残っていて。


「宣託を下したのは、王都の神殿であったと聞きます。書面一つ送ることなく、武装した兵が突如として村に押し掛けたそんな状況下で、当然のことながら村人たちはその理由を問おうとしました。……けれども、武装した兵たちが向けたのは言葉ではなく、無数の刃。そんな彼らの言うことを信用できたでしょうか? ……いいえ。当然のことながら私たちは皆、抵抗しました。その結果が、一方的な虐殺だったのです。すべてが焼き尽くされた後、王都に向けて揺られる馬車の中で彼らは私にこう言いました。『無駄な抵抗などせずに、素直に従ってさえいれば命までは奪わなかった』と。その発言をした男は私の母と、弟を殺した張本人でした」


 淡々と響く声は、激情を響かせるわけでもない。

 それはとても静かで、まるで幼子に物語を読み聞かせるような柔らかさを感じさせた。

 けれども、内に籠るものは隠し切れていない。

 それは確かな深い怒りと、憎悪と、『人』というモノに対する絶対的な諦観に満ちている。


「それを耳にした瞬間、己が身をもって知ったのです。人の身に巣食う『憎悪』という感情を。人が、自身の抱ける怒りの許容を超えた時、恐ろしいほどに冷静になるものだということを知ったのも、その時でした」


 漆黒の双眸は、その紅き玉座に向けられる。

 ほんの僅か、間を置いて。

 語られた言葉に、ゾッと身震いをさせたのは――誰だったのか。


「馬車に揺られて王都へ向かう最中、私はずっと思い馳せていたのです。村を襲った兵士たちの、その四肢、その首、その胴、全てを引き裂いて殺す術を。彼らを村に遣わせた国の役人という役人の、その息の根を止める術を。国の中心たる王族どもの、絶望と死を。そんな国を傍観していた全ての国の民の不幸を。咎なく殺された私の家族、優しくしてくれた隣の家の人々、村長さま、村人たち、全員が味わった痛みを、絶望を、怒りを、同じだけの苦しみを――私は確かに、願ったのです。そして誓いました。紅き焔の下で、すべてが崩壊していく様をこの目で見届けることを。その後、自らの命を終えて死の眠りにつくとしても。たとえその業によって、罪過の炎に焼かれるとしても。ただ、その時まではどんなことがあろうと生き続けなければならない。自らにそう言い聞かせながら、『聖女』の私は国の滅亡を夢みたのです」


 ――他でもない。

 お前たちが望んだ『聖女』となろう。

 表面上は従順な駒として、その時が訪れるまでは確かな信頼を得てみせる。

 心を殺し、意志を暗き闇の中に沈ませ、柔らかく微笑んでみせる。

 偽りの言葉を重ね、それがどれほど自らの身を苛んでも。

 目的の刻までは『聖女』として微笑みながら、国の亡びを祈りつづけよう。


「――けれども、私の押し隠した憎悪など、果たして神殿側からすれば想定の範囲内だったのでしょう。滑稽で、愚かしく、無知で、扱いやすい駒。彼らにとっては、ただそれでしかなかった」


 血の香を纏う馬車に揺られ、辿り着いた王都。中心には王宮が据えられ、その西側に沿うようにして白亜の神殿があった。

 その神殿に迎えられ、まず服を着替えさせられる。全身に染みついていたのは、家族の流した紅の血。その血に染まった衣服を見ても、迎えた者たちは欠片も表情を変えない。始終、薄ら寒い笑みを崩すことはなかった。

 用意された部屋も、食事も、向けられる言葉も、全てが丁重といって間違いのないものであった。

 だからこそ、余計に滑稽でしかない。

 その手足には常に枷がはめられていた。それもただの枷ではなく、魔術によって強化されたものだった。

 眠る時でさえ、常に誰かの視線が張り付いていた。出歩くことを許されたのも、与えられた部屋と回廊に面した僅かなスペース、そして中庭だけに限られていた。

 想像すら及ばぬほどの、閉ざされた世界。血の通わぬ日々。

 ほんの一時でさえも、心の休まる暇を与えられない日々がそれから二年余りも続いた。

 擦り減っていく心に比例するように、用意された食事も殆ど喉を通らず、身体は衰弱していくばかりだった。


「王都に連れてこられてから、二年と二月。その日、神殿の長に呼び出された私は向かったその先で、この先全ての歳月を神殿へ捧げるようにと宣誓を迫られました。そうして与えられた選択肢は、二つ。宣誓に頷くならば『神の印』と呼ばれる呪印を授ける。宣誓に頷かないその時は、死のその刻限まで幽閉も止むを得ない、と。いずれを選ぼうと、神殿に飼い殺しにされる未来であったことは言うまでもありません」


 前者を選べば枷は外されるが、廃人同然となることを決して目の前の男が伝えることはない。

 そもそも選択肢など、与えるつもりがないからだ。

 その時、彼女は確かに嗤った。そうして飼い殺しにされるくらいなら、目の前に立つこの男の顔に唾を吐きかけ、自らの死を対価に呪詛を残した方がまだましだろうと思ったからだ。

 受諾した振りをして、歩み寄り、そのまま命を捨てるつもりでいた。


「――――おい、久しぶりに様子を見に来てみれば、何だこの惨状は」


 その声が、背後から唐突に響いた、その時までは。


 確かに踏み出した一歩を、遮るようにして目の前に立った漆黒の背。

 見上げたその先――尚も呆れた様な声音のまま神殿長に向かって、こう言った。


「二年近く、唐突に副都へ飛ばされた理由はこれか? はぁ、いい加減に学べよ下種狸。余計な仕事を増やしやがって。無能が隷属を多少増やしたところで、王家の傀儡化など夢のまた夢だと思いもしなかったのか?」

「――っ、フェルリア家の落胤如きがこの私に向かって!!」

「ほぅ。偶には面白いことを言うじゃないか、下種狸。お前の身分など、端から気にも留めていないが? それよりも、まずは自分の周囲に気を配ることを覚えた方がいい。今回の『聖女』を銘打った咎なき臣民の隷属化、全てが王家の連中に筒抜けだ」

「なっ?! ――そ、そんな馬鹿な、漏れる筈がない!!」

「へぇ、未だに自らが置かれている現状を知らずにのうのうとしていたとは。はは、ここまで来ると呆れるより感心してしまいそうだ。よくもまぁ、そんな浅知恵でその地位まで上ってこられたもんだな」

「……た、助けてくれ。どうか、命だけは。じょ、助命を、フェルリア家の名を貸してくれ!!」

「はは、今更あの連中に命乞いが通用すると思うのか? 随分と平和な(オツム)だな。いや、まさか本気でそう思ってるのか? おいおい……呆れて言葉も出ないぞ。一か八か、国境を抜けて逃亡できる伝手がお前に残されていればいいな?」

「あ、あ、ああああ!! もう、全て終わりだ!! 私は殺される!!」


 半狂乱になり、着の身着のまま駆け去って行った男の背を――――半ば呆然と見送る。

 正直に言えば、今一つ状況が掴めなかったのだ。

 その顔に、不意に落ちかかる影。

 ゆるゆると視線を上げてみれば、そこにはとても端麗な造りの相貌があった。


「ほぉ。お前、まだ隷属化を免れているな? ここに来るまでに何人か確認しながら来たが、心身ともに無事と言えるのはお前だけらしい」

「…………」

「まずは沈黙を選ぶか。どうやら少しは賢明と言えそうだな?」


 そう言って微かに笑った男は、不意に口許で何事かを呟いた。

『それ』が纏う気配に、咄嗟に身を後方へ翻したのは確かに『賢明』な判断だったと言えよう。

 間を入れず、立っていた場所に火花が散る。

 呟き程度の詠唱で、本来ならば顕現する筈もない大きさのそれに自然と背筋が冷えた。それと同時に、思い至る。

 ああ、恐らくこの男が本気で自分を殺そうとすれば、それを免れる術は今この場にないだろう、とも。


「ふむ、思った以上に勘がいい。お前、使えるかもしれないな」

「……誰かに使われるくらいなら、舌を噛んで死を選びます」

「ほぅ、いい目だ。お前、名は?」

「貴方、人の話を、聞く気はありますか?」

「必要とあらば、聞く。それ以外は知らん。――分かりやすいだろう?」

「…………」


 とうとう絶句した少女を前に、呵々として笑う漆黒の男。

 遠からず知ることとなったその男の名は、クロード・フェルリア。

 時の王宮において『黒曜の魔術師』と称されていた彼は、その癖のある髪を靡かせながら、こう言い放った。


「よし、決めたぞ。これよりお前は、俺の傍付き兼助手だ!」

「……は?」

「まずは、呼び名が必要だな。さあ、名乗れ。今から十数える間に名乗らぬ場合は――――」

「……名乗らぬ場合は?」

「はは。言ってはみたが、正直なところ咄嗟には思い付かない。――ということで、珍妙な呼び名を付けられる前に、自ら名を名乗っておいた方がいいぞ?」

「――何ですか、それは」


 本当に、なんなのだろう。

 これは、自分に何を望む。

 変だ。紛うことなく、目の前に立つこの男は――――変人だ。

 そして、そんな変人を見上げて思わず苦笑してしまった自分も、変だった。


 両手足に嵌められていた枷を事もなげに外し、目の前に膝を付いてこちらを見上げてきた男。

 それを見据える双眸に、ずっと長い間忘れていた筈の熱が籠っていくのを、止めようがなかった。

 溢れて、零れて、滴り落ちていく。

 唇を噛み締めて、無様に嗚咽など零すまいと、ただそれだけを思っていた。

 けれどもそんな思いを、目の前の男が斟酌する筈もない。何せ、変人の異名をとる男だった。


「はは、不細工な泣き顔だなぁ、お前。無駄に声を堪えようとしなくても、もう神殿内には俺とお前の二人だけだぞ? 存分に泣けばいい。寧ろこの後は一切泣かないくらいの気持ちで泣いておけ」

「……空気の読めない男」

「ほぅ、涙声で言う割には冷静なところをついてきたな? と、そうか。まずはこちらから名乗っておくべきだったな?」

「……特に貴方の名前に興味は……」

「クロード・フェルリアだ。今後はクロードとでも呼べ」

「…………」


 ――――本当に、人の話を聞く気のないひと。

 ここまでくれば、唖然とした気持ちが、すとんと胸の奥に収まった。

 それに加え、眦を濡らしていた熱さもいつしか治まっている。

 ゆるゆると視線を上げてきたところで、顔に押し当てられたハンカチの柔らかさに瞬いた。


「強情な泣き虫には、まずこれをやろう。この布一枚分の働きをしてから、お前自身が今後について決めていけばいい」

「……普段から、周囲に変人とは呼ばれませんか?」

「ああ、呼ばれるな」


 それがどうした? と言わんばかりの顔を、押し当てられたハンカチの隙間から見る。

 じっと、視線を向けても逸らさない。

 やがて、諦めにも似た心地に薄らと微笑んでいた。

 それは数年ぶりに感じる、穏やかな心象。

 ずっと忘れていた、信じたいと思う心のままで、笑う。


「――――シェリル・クロウと申します。名でも姓でも、好きな方をお呼びください」

「クロウ……か。薄闇の森の民を示す姓だな?」

「はい。そのご様子だと……わたしの故郷をご存じなのですね?」

「ああ、知っている。何度か採集の為に寄らせてもらったことがあるからな――森の民は皆寡黙ではあったが、信頼を置いたものへは総じて親切で、心持ちの良い人々だった。……生き延びたのは、お前一人か?」

「はい。わたしを除く、村人は皆あの夜に――――」


 声が、途切れる。その先を言葉にして告げることで、あの夜に感じた全て――痛みが、絶望が、抱いた憎しみが。それら全てが、蘇るような気がした。

 忘れることなどなかったのだから、当然だ。けれども。

 それを恐れる気持ちに、誰よりも自分自身が混乱していた。

 今も、抱いた憎しみは同じだけある筈だ。それを、どうしてか認めたくないような思いが――ほんの一瞬、過る。


 不自然に途切れた言葉を、無理やりにでも紡ごうとした口を、まるで図ったようなタイミングで遮る声。

 それはこの上ないほどに、唐突だった。


「――シェリ! よし、決めたぞ。長いのは面倒だから、今後はそう呼ばせてもらうがいいな?」

「……構いませんが、あの」

「先んじて言った通り、お前は今後、俺の傍付き兼助手だ。それに関しては誰にも文句は言わせん。何か言う者がいたとしても、それらすべてを無視することを前もって命じておく。いいな、分かったら返事をしろ」


 まるで黒曜石を嵌め込んだような、鮮やかな黒の色彩。

 それはじっとこちらを見据えて、僅かも逸れない。本当に言いたかった言葉は、けして言葉にしない人なのだろう。そう、思った。

 そして言外に伝わる思いに、再び零れ落ちそうになるのを必死に耐える。

 それが誠意だと、そう思ったからだ。

 けして二度目の不細工発言を避けたかったから、という訳ではない。


「はい――クロード様、今後はそのように呼ばせて頂きます」

「ほぅ、様づけとな。まぁ、いいだろう。そろそろ行くか、シェリ。今だから言うが、この神殿というものが俺は昔から辛気臭くて嫌いでな。ランクで言えば王宮に次いで嫌いだ――だから、さっさと出たくて堪らん」

「ええ、それについては私も同感です」

「ほぉ、気が合うな。幸先は悪くない。やはりこの先を共に行くものならば、感性が似ているに越したことは無いからな」

「感性云々のところはともかくとして、お供します。クロード様」

「ああ、行こう」


 白亜の神殿を出て、二年と少し振りに見上げた空はどこまでも青く澄み渡って――――本当に、美しかった。



 *


「魔力が喪われていくにつれて、私は過去の己を取り戻し――今、本来在るべき刻にようやく追いつけました。嘗て抱いていた思いも、今なら本心より伝えられます」


 微笑みを取り戻した、嘗ての魔女。

 彼女は漆黒の双翼の上から、覇王に向けて言葉を手向ける。


「私が傍らに望むのは、今も昔もただ一人――あの変人だけなのです」


 そう告げた、少女の声は凛として、晴れ晴れとして、迷いなど一つもない。

 微笑みに、もう憂いの影も見えない。

 じっとそれを見仰いだ王――その双眸に宿っていた常闇が、やがて薄れて消える頃。

 人形じみた、その顔を柔らかな笑みに彩って、嘗て魔女に救われた幼子は告げる。


「……わかった。負けたよ、もう。昔から敵わないんだ、貴女ともう一人にだけはね――でも。貴女が微笑みを取り戻してくれたなら、それでもう、僕の目的は達せられたも同然だから」


 だからもう、いい。

 貴女が幸せであるなら、それでいい。

 泣きそうな顔でそう言って笑う王に、その傍らから驚愕の眼差しが向けられている。

 勿論これは、この場に居合わせた一人、第三者の魔術師からのものだ。


「……人形王が、笑ってるよ。ええ、何これ。夢落ち? 白昼夢なの?」

「煩いよ、コーデル。減給ね」

「現実的被害!!」


 両者の仲睦まじげな遣り取りを、その頭上から見守っていた少女が笑う。

 鈴の音のように、ころころと上がるそれに階下の王は、薄らとその眦を細めた。

 それは、とても懐かしい光景で。ずっと彼が望んで止まなかったものだったからだ。


「――ありがとう、貴女のお蔭で今の僕がある。そう、ずっと伝えたかった」

「確かに、幽閉塔から貴方を連れ出したのは私ですが――元を辿れば、クロードが東屋で貴方を見出したのが全ての始まりです。だからその言葉は、半分だけ受け取っておきますね」

「……ふふ、貴女は本当に変わらない。優しげな風貌に見合わず、頑固で時々凄絶で。でも、その芯は揺るぎなく優しいままだ」

「それは、褒められていると受け取ってもよろしいですか?」

「うん、これは本心からの――僕から、貴女への真摯な気持ちだ」


 肝心な言葉ほど、遠回しに伝えてはいけない。嘗て、僕の初恋の人はそう言ったからね。

 そう言って笑う王に、初恋の少女は「生涯で、まともに告白を受けたのは貴方のものが最初で最期です」と全く笑えない返答を返していた。


 ふわり、と漆黒の双翼が羽ばたく。

 嘗ての魔女が、その鈴の音の笑いを収め、ほんの少し思案したような表情を浮かべた後に舞い降りてくる。


 ふわり、と膨らんだ漆黒の外套は階下の王の頬を掠めた。


「……幾らなんでも、信用し過ぎだ。僕がもう一度、この腕を解く保証など何処にもないんだよ?」

「保証など、今更ですよ。わたしが、貴方を心から信頼している他に、必要なものがありますか?」


 その柔らかな腕に抱かれ、一時その双眸を閉じた王。

 その頬を伝う一滴は、当の少女には見えなかっただろう。けれども傍らにいたただ一人は、それをじっと見守っていた。


「憎しみが、完全に消えることなどないのかも知れません。それはわたしが、村の人々を愛していた気持ちを失うことと同義になってしまいますから。けれども、願うことは出来ます」

「僕は、貴女に恥じない王でありたい」

「フレイル、貴方は強くなりましたね。美しく、聡明で、だからこそ……忘れないでくださいね。現実は相応にして残酷で、国を統べるということは時に犠牲を余儀なくされるものです。けれども、私は非情な貴方も否定しない。弱い貴方も、血に塗れた貴方も、すべて同じ貴方であることに変わりないのですから」


 ――ただ、孤独は何にもまして闇を深くすることを自覚してくださいね。


 そう囁かれた声と、王の瞼に触れる熱。

 その柔らかな感覚に、思わずといった風にして閉じていた双眸を開けば――柔らかく微笑む彼女の横顔。

 伸ばした手は、あと少し、届かない。


「……何よりも残酷なのも、いつだって貴女だ!!」


 そう叫ぶ王の言葉に、困ったような笑みを隠さない少女。けれども既に、最後に残す言葉は決めていた。


「フレイル」

「……ああ、もう。本当にやだ。聞きたくない」

「――二度は言いませんよ? 貴方は、黒曜の魔女がただ一人認めた王の器。そして嘗て、先代の黒曜が見出した新たなる世界を担う唯一。忘れないで。貴方と共に在れた日々を、クロードと私が何よりも大切に抱えて先に逝く。そのことを、どうか覚えていて下さいね」

「……シェリル」

「魔女となった後、今に至るまで私の名を今生で呼んだのは貴方だけです。たとえ、その傍らに在れなくても。貴方は私にとって大切な人なのですから」


 告げられた言葉に、見仰ぐ王の双眸は透明を湛えた常盤色(エバー・グラス)

 木漏れ日が差し込んだように、柔らかな色彩だった。

 それを見届けた後、安堵して手を一振りすると――瞬きの間に、彼女を乗せた双翼は割れた硝子の隙間から、青々とした空へと飛び去っていった。



「――――行かれて、しまいましたね」

「うん、どこかの無能な魔術師が捕縛を躊躇ったからね」


 残された二人は並び合い、蒼穹に遠ざかる飛影を見上げていた。

 ぽつり、と傍らの魔術師が零した一言に迷いなく返る言葉は、普段の彼らを彷彿とさせる。


「……ああ、相変わらずだ。何だろう、やっぱりさっきまでのあれは夢? 白昼夢?」

「それ以上言葉を重ねたら、本当に減給にするよ?」

「それは困ります!!――っ、あれ? 主殿、双眸に掛けられていた呪いが解けてますけど!?」

「――うん、彼女の置き土産のお蔭でね」

「はぁ。本当に、大した方ですねぇ。魔女の末席とはいえ、恐るべき解呪力……感嘆しか抱けません。でも、これで隣国との会談も不利なく進めることが叶いますね……!!」

「やっぱり、今月は減給ね」

「何故に?!」

「それは勿論、八つ当たり」

「どこにも救いがない?!」


 理由の部分は、正確にはもう一つあった。数年前から、双眸へ呪いを受けた王。

 その双眸は徐々に漆黒に染まり、特に彼が『孤独』を自覚するたびに色彩を深めていった。

 まるでそのタイミングを見図ったかのように、いつしか国へ広まっていった謂れのない風聞。情勢を揺るがせようとしてか、絶えず何れかから流れてくるそれに新興国としての立場は少しずつ、けれども確実に揺らぎ始めていた。

 そして、隣国からの助力の申し出とそれが叶った暁には、姫を娶らせようとする密約が差し出されたのが数日前。

 呪いを掛けたのが、隣国であったことは言うべくもない。

 その呪いをもって国一つ傀儡化させようとすべく、投じられた企みであったのだ。


 ――コーデルは近年稀に見る魔力の高さと、それを扱う術に掛けては他の魔術師たちの追随を許さぬほどに突出している。それは否定しない。ただ、問題はそれを上回る勘の鈍さだ。

 絶対にこいつを外交の場には投じない様にしよう。

 改めてその致命的な弱味を認識した王は、小さく溜息を零す。


「……ふふ、ようやく巡ってきた機会だ。今までの貸しもあるし、この心が晴れるまで、あの高慢な鼻を折って二度と馬鹿な提案が出来ぬように叩き潰してやる」

「……主殿、いつになく不穏ですね。やはり失恋の痛手は大きいものですか……」

「コーデル、君は今月無給ね」

「自業自得?!」


 ――青く澄み渡る空、差し込む陽光の下で。

 飛影が見えなくなった後も、王はひたすらにそれを仰ぐ。柔らかに細められた眼差しに、手の中をすり抜けていった彼女を想いながら。



 *


「――――やれやれ、やはりあの器では君を現世に留めておくには役不足だったようだね?」

黄水晶(シトリン)、貴女の娯楽になる気は毛頭ありませんよ。その点で、あの子を選んだのは誤算でしたね」


 快晴に翻る、漆黒の双翼の傍らへいつしか横並びになって飛ぶ、もう一羽。

 その真白の翼から、黄昏色の髪が覗いた。改めて言うまでもないが、ここ暫く姿を見せずにいた黄水晶の魔女である。


「まさか君が残りの魔力を全て注いで解呪するなんて……とんだ誤算だよ。この苛立ちを、近々隣国へぶつけてこようかな……」

「あんなに分かりやすい形で呪いを目の前に示されたら、つい解呪をしてしまうのが魔女の性というものです」


 ふふ、と全く笑っていない目でそう告げる黒曜の少女へ「おぉ……笑顔だけど笑顔じゃないな」と黄水晶が苦笑混じりに、矛盾に満ちた呟きを零す。

 その後、気流が落ち着いたところで、つらつらと本音を語り始めた。


「君が王妃になるというのも、なかなか楽しいと思ったんだけどな。君ならば、あの人形王すらも傀儡化することが出来る。その上に、魔女による統治国家を打ち立てるという寸法だったんだけどね……はぁ。儚く消えた夢に、いつまでも縋っていては駄目だろうね?」

「ええ、夢は夢のままがよろしいかと」

「つれないなぁ……本当に、君はどうしたらこの先を望んでくれる?」

「寂しいのですか、シトリン?」

「あぁ、寂しいよ。どんなことをしても、君をこの世に留めておきたいと願うほどに」

「……たとえ、その結果嫌われたとしてもですか?」

「うん、たとえ君に金輪際顔も見たくないと突き放されてもね」


 二人の魔女――否、正確には一人の魔女と嘗て魔女であった少女は顔を見合わせて笑う。


「……ふふ、貴女は出会ったころから寂しがり屋でしたものね」

「ふ、そして君は出会ったころからずっと頑固だ」

「正確に言えば、不器用なだけですが?」

「だからそれを、不器用というんだよ」


 呆れた様な眼差しを受けて、漆黒の双翼の上で笑う少女。

 それをどこか寂しげに見詰めた黄水晶の魔女は、やがて小さく溜息を零す。


「……しかし、君が決めたことだ。友として、それを笑って見送るというのが正しい在り方だろうね?」

「シトリン、貴女もある意味では、魔女として生き続けるのが向いていない方かもしれません」

「……黒曜、君はもう魔女ではないのだから意味深な言い方を選ぶ必要はないだろう?」

「それもそうですね」


 肯定の意を返しながらも、敢えて言葉を続けない少女に黄水晶は半眼を返す。

 揺らがぬ微笑みに、そうして最終的に折れるのはいつだって彼女の方だ。


「……分かったよ、君。もうどこぞなりとも行けばいい。友よりも恋人を選ぶ薄情魔女め……!!」

「泣かないでください、シトリン。貴女の泣き顔は不細工ですから」

「…………空気読んでよ、君。一体誰の影響だ」

「ふふ、もう遠回しに伝えなくても良かったのでしたね。私は、唯一と言って過言でない友人の泣き顔よりも笑顔の方が好きなのです」

「な、なにを今更」

「そう、今更過ぎる事柄に対して人というモノは、大切な言葉を後回しにしてしまう性質を持っているのです。久しぶり過ぎて、忘れておりましたが。……本当は、大切な友人を泣かせてまで望んではならない事なのでしょう。けれども、不器用な私はこの刻を逃せば、生涯後悔し続けることも分かるのです」


 それに加え、既に家族を喪った自分が最期を一番の友人に看取ってもらえるほど幸せなことはありませんからね。

 そう付け加えて笑う少女に、茫然とした眼差しを隠せない魔女。

 その心に、じわじわと溢れてくる思いは、とても言葉にならない。

 ――ずっと、人に迫害され続けた彼女。その末に魔女となることを選んだ彼女が、人の言葉の暖かさに泣いている。

 ずっと求めて止まなかった、その温かさに触れて。

 頑なに、凍り付いたままの心が少しずつ解けていくのが分かった。


「……これ程に長い歳月を経て、ようやく得たものがただ一人の友人とはね」

「ええ、十分すぎるほどに幸福な事実でしょう?」

「ああ、その通りだ」


 ようやく微笑みを見せた黄水晶へ、安堵の表情を覗かせる少女。

 柔らかく、少しずつ薄れ始めた輪郭を、陽の光が照らしている。


「それでは、お先に」

「ああ、恐らくそう遠くない先で――――きっと君に追いついてみせるさ」

「ええ、お待ちしています」

「約束だよ」



 ふわり、と周囲を掬った風が漆黒の双翼を天空へと舞い上げていく。

 その後に残るのは、ただ静寂と一対の羽音のみ。


 やがて、頬を伝う一滴を風に流した黄水晶はその真白の双翼を羽ばたかせ、地上へと舵を切る。

 真昼の空に、その黄昏色の髪がよく映えていた。


ここまでお読み頂いた、読者の方々全員へ感謝を込めて本作を捧げます。


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