図書室の彼
この学校にある七不思議の1つ。
図書室の彼。
一体いつから彼がいるのかは知られていないが、七不思議の彼に纏わる話は何処にでもあるものだった。彼は病弱で滅多に学校にこれなかった。
そんな彼が一番いた場所が図書室だ。
外で遊ぶ事の出来なかった彼の唯一の娯楽。
それが本を読む事だったのだ。
だけど病弱な彼は卒業を迎える前に亡くなり、未練を残して図書室に現れるようになった。
時々彼を見る事の出来る生徒もいるらしく、それが元になり七不思議のひとつとして数えられるようになったらしい。
私が見る事の出来る彼は、七不思議のイメージとはかけ離れている。
ただの読書好き。
本を読みまくりつつ、新刊を入荷しろとせがむ。
手のかかる弟のような、そんな存在になっていた。
そう。
時々見る事の出来る生徒の1人になったのが、私だ。
中学校の図書室制覇に機嫌を良くした私は、高校でも記録を作ろうと新学期早々に図書室へと足を踏み入れた。山ほどの蔵書。
中学のものよりも大人向けのものがあるのは高校だからだろうか。
うきうきとはしゃぐ心を落ち着かせる術もなく、する気もなく。私は欲求のままに本に手を伸ばそうとし、その動きを止めた。
〈おすすめだよ。それ〉
にっこりと穏やかに笑う彼。
「誰?」
咄嗟の事にそれしか言えなかった私と、彼の記念すべき出会い。
それが三年近くも一緒に居れば、彼の存在は随分と慣れたものになっていた。近くにいて当たり前。話してお勧めの本の良い所を語りつくして。
どの本を入荷しようと悩めば、彼も一緒に頭を悩ませる。
高校生活の中で出来た友人は勿論いるが、その友人たちよりも長い時間を彼と過ごした。
三年の三学期。
私は推薦をもぎ取り、受験のプレッシャーに追い詰められることもなく、こうして図書館で彼と向かい合って本を読む。
後何回だろうか。彼とこうして過ごすのは。
本を読む姿は見慣れたものだが、思いの他長い睫毛が影を作り、時々揺れる。
今更だが、彼は美形だった。
私は中の上だろうか。多分。
それなりに告白もされたりしたから、そのぐらいだと思いたい。
しかし彼の隣が似合うかと聞かれれば、その答えは何にしようかと頭を抱えてしまう。
私は溜め息を飲み込みながら、大好きな本に視線を落とす。
もうじきここの本も読めなくなる。
卒業を迎えるのだ。
大学はここよりも蔵書の多さでも選んでいる為、私が読む本に困るという事はない。ない、が、何かが心に引っかかる。
〈集中していないね。どうしたの?〉
そんな私に、彼が穏やかに微笑む。
儚げな印象を与える彼の笑顔だが、実の所病弱の為になくなって、ここに縛られているわけではないらしい。噂には尾ひれが付く事は珍しくはないが、彼の七不思議は随分と美化されたものだと思う。
私は頬杖を付き、彼を見つめた。
それに見つめ返す彼。
視線が交差する。
「こうして顔を合わせて本ばかりを読んで三年近く経つけど、図書室で本を読む生徒って少ないよね」
借りていく人は多い。
けれど座って本を読む人はほぼいない。
今更ながら、気になっていた事を口にだしてみる。
〈そうだろうね〉
ふふ、と笑う彼。
他者の目を通せば、本が勝手に浮かんでいる光景なのだろう。
それは不気味だ。
私は彼が見えるから不自然には思わないが。
「何かやってるの?」
意味ありげに笑う彼。
こうして長い時間を図書室で彼と過ごせば、腹黒だという事もわかってくる。
〈どうだろうね〉
もう一度彼が笑った。
腹黒だとわかっている彼らしい晴れ晴れとした笑みだ。ぞわり、と背筋に寒気が通り抜けたのは、彼の性格をわかっているからだろうか。
「まぁ、いいけど。静かに本が読めていいし」
時間が出来れば彼と顔を突き合わせて本を読む。
〈そうだよね。それに……〉
「それに?」
わざとだろう。言葉を続けたのは。
〈君と意見の言い合いが出来なくなっちゃうだろう? 誰かいたらさ〉
「そうだね。私も変人の称号は欲しくないし」
彼を見る事の出来る人間は、今の所私だけだ。
私の目を通せば不自然ではない光景でも、他の人間が見れば異様な光景でしかない。何せ勝手に本が動いているのだ。想像したらとんでもない光景が広がってしまった。
〈だってこんな風に本好きと話せる機会なんて滅多にないし〉
「そうだろうね」
彼が見える人間全てが、本好きというわけではないのだろう。
そんな彼の言葉に頷く私を、彼は満足気に見つめてきた。
〈だから、かな。ちょっと近付かないでほしいなぁって思ったぐらいだよ〉
「……」
胡散臭い。
思わずじとっと見つめれば、彼は笑みを濃くした。
どうやら、私の言いたい事は伝わっているらしい。
〈本を借りるぐらいは出来るようにしているんだからさ。そんな風に見ないでよ。ねぇ。僕の大切な本好きな友人さん〉
「そうだね。私もこんな風に話が出来る人は初めてだよ」
それが幽霊だった事に驚くけど。
「もうじきそれが出来ないかと思うと……」
〈思うと?〉
彼の笑み。
意味深な笑み。
「寂しいね」
言ってみて、違和感に気付く。
いや。気付かない。
気付かせちゃいけないんだ。
「もうじき卒業だと思うと、しんみりとしてしまうね」
そう。
だから寂しい。
折角出来た友人と離れるのは寂しくて当たり前だ。
〈そうだね。今度君みたいな人が現れるのは、一体何時になるのかな〉
「だねー。でも、君の目的が果たされる事を祈るよ。友人として」
七不思議の彼は、未練で図書室にいる。
でも実物の彼は、待っているだけなのだ。
大切で大好きで愛している女の子を……待っているだけ。
「さて。今日は買い物を頼まれているんだった。そろそろ私は帰るけど、その本の感想は明日聞かせてもらうから」
〈わかってるよ。君もね〉
「うん。このぐらいだったら超余裕で今日中に読んじゃうよ」
お勧めの本を紹介し、お互いが読んでからの感想の言い合い。この三年間で当たり前になった事。私は彼のお勧めする本をトートバッグにいれ、図書室をあとにする。
後何回。
私はここに来れるのだろうか。
三年の三学期の二月。
三月一日は卒業式だ。
指を1つずつ立てていく。それは、片手で足りるぐらいだった。
「あぁ。少ないな」
でも、それはよくある別れの1つなのだろう。
彼と私は、本好き仲間であって、最愛ではない。
明日には本の感想を言いあって、立てる指のひとつを折りたたむ。
そうすれば残り2回。
あぁ。少ないな。
七不思議は怖いけど、彼の七不思議は怖くない。
そんな怖くない彼の七不思議に関わる事が許された。それが偶々であり、ただの偶然だったとしても、私は幸福だ。こんなに本について語り合う相手とめぐり合えた。
例えそれが限られた時間の中の相手だとしても。
彼と出会えて幸せだった。
そうだ。
幸せなんだ。
だから笑顔で彼と別れよう。
そして彼女に会える事を祈ろう。
だって私は彼と、大切な友人というポジションにいるのだから。
後三回。
後二回。
後一回。
楽しい時間はあっという間に終わる。
時間が流れるのは早いのは、きっと彼との時間が楽しいから。
〈卒業おめでとう〉
卒業式が終わった後、私は最後を笑顔で締める為に、彼の元へと訪れた。
今日は本を読まない。
彼と。
友人にお別れを言いに来たのだ。
そして彼の幸せを祈るのだ。
「先に言われるとは思ってなかったな」
〈そう? 友人の卒業ぐらい祝うのは当然でしょ〉
「まぁね」
彼は寂しげな表情は一切浮かべず、笑顔で言い切る。
「ありがと」
〈どういたしまして〉
私の言葉に、淡々と言葉を返していく。
今日、私は卒業する。
この学校にある七不思議の1つである彼とも。
全て卒業するのだ。
真実を知る私が口を噤む事によって、彼の七不思議の誤解を解ける事はない。
でも、きっとそれでいいのだろう。
彼にとってみたら、暇潰しのネタになるだろうから。
だから言うんだ。
「祈っているよ。君の目的が果たされる事を」
心の奥底から。
「彼女と出会えるといいね」
彼は彼女に会う為だけに、ここにいる。
大量の本は、彼の暇潰しの道具でしかない。
その暇潰しをもってしても、彼の心の渇きを潤す事は出来ないのだ。
〈ありがとう。親友〉
「こちらこそありがとう。親友」
私は彼にとって、男女の壁を越えた親友でしかない。
だから涙は流さない。
彼に女としての涙を見せたくはない。ただそれだけで耐えて笑みを浮かべる。
私の最後の表情は、笑顔でありたい。
彼が見る私の最後の表情。
それは笑顔でありたい。
祝福を貰い、私は願いを口にする。
彼が彼女に会えますように。
彼の七不思議が消えますように。
そう願い。
想い。
言葉を紡ぐ。
涙は流さず。
願いを口にする。
私ではない彼女。
早く彼を迎えにきて。
彼の七不思議を消して。
そう、想わずにはいられない。