「ここは……」
そこは薄暗い闇の中だった。周囲にあるものが判別できるくらいの明るさはあったが、如何せん判別できるものがない。目の前には、どこまでも続く大地が広がっていた。
「ここは、現世と隠り世の境だよ」
しわがれた声。振り向くと、そこには薄汚れた服を着た一人の老人が立っていた。
「かくりよ?」
俺は、聞きなれない言葉に思わず聞き返した。高校にもまともに行ってない身だ。情けない話だが、ボキャブラリーのなさには自信がある。
「あの世のことだよ」
――あの世。一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
今日は何をした。しこたま酒を飲んだのは覚えている。そして……、そう、唐突に海が見たくなったんだ。深夜にも関わらず、海岸線を一人、愛車と共に飛ばした。少し、眠気にウトウトしていたように思う。突然の衝撃。宙に投げ出される感触。そこで、記憶が途切れている。
馬鹿な俺でも分かった。
「俺は死んだのか……」
誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いた。不思議と、”死”を自分は冷静に受け入れていた。だって、誰か悲しんでくれる人はいるか、とか、気付けばそんなことを真面目に考えていたのだから。
「そうさね。ガードレールを突き破って海に真っ逆さま。呆気ないもんだ」
老人が淡々と言った。――本当に呆気ない。思わず笑ってしまいそうだった。
「誰も巻き込まなかったか」
「あぁ、誰も。アンタ以外は誰も死んでないよ」
「なら安心した。俺と一緒に心中じゃあ、そいつに謝っても謝りきれん」
二十代半ばでの死。普通ならば若すぎる死だろう。だが、俺にとっては長すぎた。生きるのが辛くなるほど、長かったのだ。
「ちょっといいかね」
老人が近付き、その右手をゆっくりと俺の左胸につけた。何かが吸い出される、そんな感覚。一瞬後、老人が右手を離すと、そこには手のひらくらいの大きさの球状の物体があった。
「これが、アンタの心だよ」
老人の右手が、俺の目の前に差し出された。薄暗い闇の中でもはっきりと分かる。漆黒の闇、完全なる黒。それは吐き気がするほど禍々しいものだった。初めて万引きをしたのは、小学生低学年の時だっただろうか。それからの俺の人生は歪みそのものだった。発覚こそしていないが、殺しまでしたのだ。こんな俺に、闇以外何があるというのか。
「アンタの場合、幼い頃の環境が違えばどうなったら分からんがね。父親も酷いもんだ。母親の死は、子供のせいじゃないってのに」
「いや、結局俺を産んだことでくたばっちまったんだ。俺にも責任はある。それに――」
思い出されるのは、繰り返される暴力の記憶。物心ついたときから、小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も。殴られ、蹴られ。暴力。暴力。暴力。怯える心。赤く染まる手。銀に光る刃。鉄の、臭い。
「――殺した言い訳にはならんよ」
目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。脂汗が額に滲んでいた。思い出したくはない。だが、決して目を背けてはいけない記憶。
「無駄話は仕舞いだ。そろそろ行こうや」
そう言って、俺は両手を仰々しく上に挙げた。この老人はきっと、門番のようなもの。だから、行き先までは言わない。あの世があるのなら、俺が行く場所など決まっているのだから。断罪。償い。やったことには、それ相応の罰を受けなければならない。
「まぁ、待て。そう急ぎなさんな」
老人の声。これ以上、他に何の用があるというのか。見ると、老人は俺から抜き取った黒球をまじまじと見つめていた。
「ふむ……、アンタ、一度だけ人の命を救ったことがあるね。十四の頃だ」
――十四の時。考える。うっすらと記憶が蘇る。
あれは夏休みだったか。目の前の道路に、三、四歳の少女が突然飛び出した。クラクション。気付くと、俺は少女を抱きかかえた状態で道路に倒れていた。集まる人々。こすった膝の痛み。泣きそうになりながらも、何度も俺にお礼を言う少女の母親。そして、状況も分からず、俺に無垢な笑顔を向ける少女。
そこで、思考を断ち切る。
「……残念だが、記憶にないな」
一の善行など、百の悪行の前にどれほどの光となるというのか。ならば、――あの無垢な少女を俺の身勝手で汚してしまうくらいなら、無かったことにしてしまった方がよっぽどマシだ。
老人を再び見る。老人の手の上の黒球は消えていた。代わりに乗っていたのは、小さな小さな光の粒。老人は柔らかな微笑みを浮かべていた。
「そっと、これを川に流しておやり。次のアンタだよ」
その小さな粒を受け取る。それは、小さいながらも淡く暖かい光を放っていた。俺も初めは、こんな風に一片の汚れなく輝いていたのだろうか。
――あの少女のように、無垢な存在だったのだろうか。
水の流れる音。いつの間にか、俺の横には小さな川が現れていた。腰をかがめ、清らかな川の流れにそっと光の粒を流す。光は、流れに飲み込まれそうになりながら、ゆっくりと川を下っていった。
「大丈夫なのか。あんな小さな光で」
少し、心配になる。
「分からん。今のアンタにできることは、ただ祈ることだけだよ」
ゆっくりと、目を閉じる。初めての祈り。それは、自分でない誰かのための祈り。
少しでも遠くに行けるように。
少しでも綺麗な光のままでいられるように。
少しでも強い輝きを持てるように。
涙が一筋、流れて落ちる。透明な水滴は、清流の一部になった。流した涙の理由は、馬鹿な俺には分からない。だが、この目の前に流れる川は、こんな風に様々な人が流した涙で出来たのではないかと、ふと、そんな風に思った。
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