挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

遙かなる道標

作者:伽倶夜咲良

本作は、『文学フリマ短編小説賞2017』へ応募する目的で、投稿済みの既存作品「いつかの道標」を改稿して新規投稿したものです。
新規投稿に併せて、タイトルを変更しております。
挿絵(By みてみん)

 二時間あまりをかけて男は尾根に通じる細い山道さんどうを登ってきたが、大きく右にまわりこんで登りきったところで突然にその視界が開けた。
 そこはもう山頂。左右に広がる尾根の連なりが見渡せる場所だった。
 山道さんどうを出てすぐのところに、長年風雨にさらされていたことがありありと窺える木造きづくりの案内板が立てられていた。
 右の矢印は穀物の神様が祀られているという神社を指しており、左の矢印は、この山の名所のひとつともなっている滝を示している。矢印の下に、そこまでの距離が書かれていたので、目を凝らして見てみたが文字の擦れがひどくて読み取ることはできなかった。

 男は、肩で呼吸いきをしながらしばらく案内板を眺めていたが、ここまで来れば探している場所まではもうそれほどでもないだろうと思いながら、滝の方へ足を進めた。
 方向は間違いない。
 何度も地図で確かめてすっかり頭の中へ入っている。まったく地図のとおりだ。
 しかし、おやじが話していたあの時からかなりの年月が経っているというのに、その頃の地図から何も変わっていないというのは不思議な感じだった。
 自然というのは偉大なものなんだなあ、と、そんな当たり前のことをぼんやり考えながら男は尾根の道を進んだ。
 尾根の道は一メートル足らずの幅しかなく、その両側は深い谷間となって落ち込んでいる。尾根の少し下までは岩肌が見えているが、谷間のほとんどは手入れされている様子もなく鬱蒼とした雑木林が下から伸びてどこまでも続いているように見えた。
 男は、こういう場所に立つのは初めてだったが、まるで、ものすごく巨大な平均台の上をバランスを取りながら歩いているような変な感じだった。

 しばらく進むと、両端が切り立った尾根は少し下り勾配となり、道の左側には別の山肌が迫り、右側はこれまでと同じような切り立った崖になっている山道へと景色が変わっていった。
 山道を少し入ったところで、左側の斜面から突き出すような形で大きな岩がせり出しているのが見えた。
 腰を降ろすのにちょうどよさそうだ。
 そう思って、男はそのせり出した岩に腰をかけ、しばらく休むことにした。
 背中のデイパックを降ろして、小型の保冷バックを取り出し、その中から用意してきた350mlの缶ビールを一つ手に取った。そして、プルタブを引き開けた。
 背中で揺れてきたせいなのか、気圧が低いせいなのか、ビールの泡がプシュッ!と、勢いよく吹き出した。鼻の頭にかかった泡を手の甲で拭いながら、ごくごくと一気に喉の奥へとビールを流し込んだ。
「うまいっ!」という一言が思わず口から漏れた。
 食道を通って胃の中へ拡がっていくビールの泡のはじけるような感じが何とも言えず心地よかった。
 冷蔵庫から取り出したばかりのようにキンキンに冷えているというわけではなかったが、そんなことは帳消しにしてくれる多くのものがここにはあった。
 身体から噴き出してくる汗。
 肌にその圧力を感じられるほどのカラッとした日差し。
 風。空。雲。緑。鳥のさえずり。まわりを包む空気の匂い。
 そんな景色と、荒い呼吸が折り重なった絶妙のバランスが心地いい。
 男は、履いていたトレッキングシューズを脱いで足の裏を揉んだ。
 初めての山歩きだったので、靴の良し悪しもわからずデザインと価格だけで適当に選んだものだった。
 もう少し専門家に聞いて、本格的なものを選んでおけば、疲労感がもう少し和らいだのかもしれない。と、思いながら、踵から土踏まずへ、土踏まずから指の付け根の方に向かって手の親指で力を込めてしごくように何度も揉み上げた。
 今まで踏ん張っていた力が足の裏から、じわあっと、しびれるような感覚を伴って抜け出していくようだ。
 気持ちいい。
 初夏のこの季節に来たのは正解だった。
 清涼な空気の流れが谷間から吹き上げてきて、そのまま男を撫でるように巻き込んで、反対側の斜面に駆け上っていく。
 Tシャツに沁みた汗が冷たく冷える。
 蒼い空を背景に切れ切れの薄い膜のような白い雲が流れていく。
 眼下の雑木林のわずかに開いた隙間からところどころに見える林道は、先ほど入ってきた登山道の入り口からつながる道なのだろうか?
 登ってきた山道は深い木々の枝葉に埋もれて見ることはできない。
 谷間は次の山の稜線へと続き、その稜線はまた深い谷間へと落ちていく。
 そうした山々の連なりが遙かな先へと広がっていく。
 何種類もの鳥や、虫の声が風に運ばれてきて、どのあたりで鳴いているのかさえ判別することはできない。
 緑の色合いがこれほど変化にとんでいるものとは考えてもみなかった。草木くさきの枝葉どれ一つをとってみても、同じ緑など存在しなかった。
 山と山の間に挟まれるようにして、下の方の、遠くに小さく見える集落の屋根の一部が日差しに反射してきらりと光った。
 男はまたビールを流し込んだ。
 缶を右手の地べたに置いてその脇をふっと見ると、今腰をかけているせり出した岩に、身体を寄せるようにして咲いている一輪の首のひょろっと長い、白い花弁の花が目にとまった。
 摘んで匂いを嗅ごうかと手を伸ばしたが、思い直して鼻を近づけることにした。他愛もないセンチメンタルが自分でもおかしくてついつい顔がほころんでしまう。そして、センチメンタルという今時あまり耳にしなくなった言葉を思いついたことにまた苦笑してしまった。
 男が顔を上げるのとほぼ同時に、どこからか一匹の小さな蜂が飛んできて、二三度その花のまわりをくるくると回っていたが、またどこかへ飛んでいってしまった。
 見えなくなった蜂から視線を戻すと、男はデイパックから一枚の地図を取り出した。
 それは、破れかけた折り目をセロハンテープで補強してあるような、その紙の色も色あせてセピア色にまだらになった、見るからに古ぼけた粗末な地図だった。
 丁寧に、こわれものを扱うようにして膝の上に広げると、一本の海老茶色の線が、とある道をなぞって引かれていた。
 この地図に引かれた線も、元は赤い色のサインペンで書かれたものだろうが、退色して滲んだようにぼやけたものになっていた。
 まるで、お伽話に出てくる宝の在処ありかを記された地図のようであった。
 男は、その線でなぞられた道を目で追いながら思い出していた。

 ――二年ほど前のことであった。母親の三回忌の夜。
 親戚の者たちも帰り、急に静かになった茶の間で、おやじはめずらしく酔っ払っていた。
 客たちが帰ったあと、湯飲み茶碗で、手酌しながら一人酒を飲んでいた。
「なぁ、はやいもんだな」
 お客用に置いた大きめのテーブルの上に片肘をつきながらおやじは言った。
「ん?」
 残りの片付けをしていた俺は、その言葉に振り向いた。
「それ、もう明日でいいから、おまえもこっちきて飲めよ」
「ああ」
 こんなに小さく見えるおやじは初めてだった。テーブルの向かいに座って、おやじが酌してくれた酒を口にしながら、妙に寂しい空気が流れていたのを覚えている。
 外でジーィーと鳴いていた夏の虫のせいかもしれない。
 おやじは、母さんの思い出をとりとめもなく独り言のように喋り続けた。時間の流れを無視するようにそれは前後の脈略がばらばらで、急に話が飛んだかと思うと、また元の話に戻ったりした。
 子供の頃の俺が登場する話もあれば、結婚する前の話もあれば、おやじと母さんふたりだけの思い出の話もあった。
 話の中には、俺も記憶しているものがあって、そんな話は、『懐かしいなあ』と思い出しながらおやじの話を黙って、軽く相づちのように頷きながら聞いていた。
 そんな中で、はっと思いついたようにおやじが言った。
「そうだ!いいものを見せてやろう!」
 そう言うなり酔っ払ったふらつく足でいきなり立ち上がったかと思うと、しばらくの間奥の部屋でごそごそとやっていたが、古い四角いお菓子の缶のようなものを持ち出してきた。
 どこにしまっていたものだろう。見たことのない缶だった。もしかして母さんの遺品?小物入れの代わりにでもしていた缶なのだろうか?
 そんなことを漠然と考えていたら、おやじが缶の蓋を開けながら言った。
「これだ、これ。これがな、父さんと母さんの思い出の宝箱なんだ」
 おやじが急に幼く見えた。
 小さな子供が、おもちゃや、がらくたを集めて箱に詰めて、大人たちに自慢するようにはしゃいでいる。そんな風な表情に見えた。
 缶の中には、写真やら何かの紙切れやらが無造作に折り重なって入っていた。
 そんな中から、おやじは四角く折りたたんだ一枚の紙を取りだしてテーブルの上に広げて見せた。
 それは、A3ぐらいの大きさで、色褪せた折り目がところどころ破れかけている地図だった。
 おやじは、うつむき加減で、まるで昔に帰るのをじっと待っているかのように、無言でその地図をしばらく眺め入っていた。
 そして、湯飲み茶碗の底に残っていたわずかばかりの酒を一気に飲み干しておやじは喋り始めた。
 俺は、空になったおやじの茶碗に酒を注ぎながらその話を聞き始めた。

「あれは、父さんたちが結婚する一月ぐらい前だったかなあ……もう少し前だったかもしれんなあ……
 二人で山を登りに行ったんだ。山と言ってもそれほど高いところじゃなくて、初心者でも気軽に登れるくらいのところを選んで……。
 母さんが初めてだったからなあ。俺は学生の頃から好きでよく山登りはしてたんだけどな、母さんは登ったことがなかったから……。
 俺が登った山の話をすると、『行きたい、行きたい、自分も連れて行け』って、よく言われていたんだ。でも、慣れた俺たちが登るところと、初心者の女の子が行けるようなところは違うからな……なんとなく、ずるずると延び延びになっていたんだ……でも、結婚する前に一度は連れて行ってやりたかったんだ。それで、母さんも登れそうな山を選んで、二人だけで登りに行ったんだ。
 時間をかけて、休みながらゆっくり登れば、初心者の女の子でも登れるような高さの山を選んでな。
 いい山だよ。そこは。山頂まで登れば、景色が開けていて、まわりの山の連なりも見えて、とてもきれいなんだ。山登りがほんとに楽しいって思える場所だよ。つらい思いをせずに登れる山なんだ」
 そう言いながら、おやじは顔を赤らめてわずかに微笑んだ。酔って紅潮しているんだろうけど、なんだか、はにかんで頬を染めているようで、また、おやじの顔が幼く見えた。

「結婚前のなあ、独身時代最後の二人の思い出づくりだって、母さんも行く前から喜んでくれていてな……登る当日もずいぶん楽しそうだった……」
 おやじは、そこまで話して一息つくと、また酒で喉を潤した。その時のおやじは、外で遊んできた報告を夢中で喋っている子供のような表情をしていて、『おやじもこんな顔をするんだなあ』と、自分の父親の顔とは思えない表情に、今まで知らなかった表情に、見ているこちらもなんだか気恥ずかしかったような印象が残っている。

「登るときも途中、何度も何度も休みながら登ったよ。舗装してある道路から山道さんどうに入るとな、ごつごつした大きめの石が道に埋まっていることもあってな、そういうの踏むたびに母さんが痛がるもんだから、ほんとに登っているより休んでる時間の方が長く感じたもんさ。でも、痛がってるわりには母さんも楽しそうだったよ。まあ、登山ていうのはそういうもんだけどな。辛いって思うことが楽しい、みたいな。そんなものなんだ。

 それからな……山から下りてくる人と時々すれ違うんだけど、すれ違う人みんなが、『こんにちわ~』とか、『がんばってくださ~い』とか声かけてくれて、道の端に避けてくれるもんだから、母さん、それに感動しちゃって、『山登りする人はみんな親切でいい人ばっかりなんだね!』って言ってにこにこ笑っててな……一応、登山のマナーだからって教えてあげたりして……『それでも、みんな笑顔で挨拶してくれるからうれしい』って言って……そんな話をしながら登ってたんだ。

 予定よりは少し時間がかかって……尾根の道に辿り着いた時には、母さんがほんとに喜んでなあ……『こんな景色初めて見た!』って。山のてっぺんって、ほんとにとんがっているんだぞ。知ってるか?尾根の道は幅が一メートルもないぐらいで、両端は崖で、なんていうのかなぁ、四角錐のてっぺんがまっすぐ道になっているみたいな……そこから見る景色は登らないと見えない風景だからなあ……登ったものだけが味わえる特別な景色なんだ。それを見て、母さん喜んでくれたんだ、『足が痛かったの忘れちゃった』って言ってな。

 その尾根の道から少し逸れて下ったところに滝があるんだけど、その山の名所になっている滝で、最初の目的地はそこを目指していたんだ。滝壺のすぐ近くまで山道さんどうが続いていて、上から落ちてくる滝を見上げることができるんだ。条件がいいと小さな虹が滝の途中にかかっているように見えることもあって、それも母さんに見せたくてな、この山を選んだもう一つの理由がこの滝だったんだ。

 だけど、そこに行く途中で急な雨に降られちゃってな……『さっきまで晴れてて良い天気だったのに、こんなに急に降り出すなんて、山の天気は変わりやすいって本当なのね』とか言ってたんだけど、そのうち、そんなことも言ってられないぐらい本降りになってしまって……
 雲行きが怪しくなって、ぽつりぽつり雨粒が落ちてきたからすぐに雨具は着たんだが振り方はどんどんひどくなるし、母さんがさすがに辛そうでな……無人の避難小屋に逃げ込んだんだ。
 念のためにと思って、事前に調べておいてほんとによかったよ。ほんとに使うことになるとは思ってもみなかったけどな。ちょうど、滝に向かう途中の道沿いにあったのも運が良かったんだ。

 そのうちまわりがガスってきてな……ガスもだんだん深くなってくるし、日も暮れてしまって、まわりもよく見えないような状態になってしまって……あの時はほんとに、まいったなあ~って感じで……仕方なく、避難小屋で一泊することに決めたんだ。その時は避難小屋も俺たち二人だけで、母さんもよけいに不安だったと思う。小屋で二人だけってのは、ほんとに寂しいものなんだ。特に母さんはこういうの初めてで慣れてないしな。ほんとは、滝を見た後にちゃんとした宿泊用の山小屋を目指すはずだったんだけど……まさか、こんなことになるとは思っていなかったから……母さんも口数少なくなって、黙っちゃうから……ますます静かな空気になってしまってなあ……

 なんか、どうでもいいような話題を無理矢理に作って、一生懸命話しかけてたりしたなあ……
 少し話しかけては、ネタが切れて間があいて、また無理矢理考えて話かけて、間があいて……
 そんなことを何回かやっていたら、そのうち、そんな無理矢理なやりとり自体がなんかおかしくなってきてな……いつの間にか二人で笑ってた」

「でも、それってやばかったんじゃないの?一歩間違ったら遭難だったんじゃ?」
 気になって、思わずおやじの一人喋りに割り込んだ。

「そうだな、そこで母さんと遭難して戻れなかったら、おまえは生まれていなかったな。あははは」

「笑い事じゃないだろ?」
 そう言って、俺も湯飲みの酒を飲み込んだ。自分も少し酔ってきたみたいだ。

「それほどの山じゃなかったからな。それに、こんな感じの急な雨だから、翌朝には小降りになっているか、上がっていることが想像できたしな。悪天候が続くような時期でもなかったし、天気予報でも問題はなさそうだったから、その辺は安心してたかもな。
 でも、ランタンのを消すと明かりがまったくなくなって、ほんとに真っ暗だし、小屋の外の物音や、雨・風の音が響いていて、精神的にはけっこう恐いものがあったけどな……母さんの方は特にだよ……かわいそうなことをしたと思ったよ、ほんとうに、あのときは。

 実際に、何回も謝ったよ。だけど、その度に、『あなたのせいじゃないでしょ』って、反対に慰められてしまって……」
 おやじの、また気恥ずかしそうな表情。

「それでも、シュラフに入って、くっついていたら、いつの間にか眠っていたな」

「シュラフ?」
 聞き慣れない言葉に聞き返した。

「寝袋さ。隣にぴったり寝袋並べて入ったんだ。あの状況だったからな。二つの寝袋くっつけて首まで入っていたら、一つの布団にいっしょに入っているような感じになるだろう?
 寝袋に入るのも初めてだった母さんがな、始めのうち面白がって、寝袋越しに、隣の寝袋に入っている俺の手を掴もうとしてくるんだ。もぞもぞ動いて、わざとこっちに転がってくるようなこともしてみたり、小屋の中は真っ暗だったから、どんな顔してやってたのか、母さんの顔は見えなかったけどな……そんな可愛らしいところもあったなあ、そう言えば……

 しかし、朝起きて、二人で寝袋から顔出して、顔見合わせた時は、なんだかちょっと気恥ずかしくてな……さすがに。照れてしばらくうつむいていたような気もする……若かったなあ……あの時」

 今になって、おやじと、母さんのこんな思い出話を聞けるとは思ってもいなかった。母さんの三回忌のこの夜に。おやじの印象。母さんの印象。今頃になって、初めて知る一面があったなんて。これまでの自分の記憶の中にはいなかった父親と母親が、新たに居場所を作って、俺の記憶の一部となっていく。
 大切なものが一つ増えた。

 今夜のおやじは饒舌だ。
 酒のいきおいもあるんだろうけど、話し始めたら、次から次に過去の情景が浮かんできて、止まらなくなってしまったような感じだ。ところどころ、俺に話しかけているのか、自分自身に話しかけているのか、そのニュアンスが曖昧に聞こえるようなところもあった。

「朝日がな……きれいだった。雨の音はしていなかったけど、やっぱり天気の様子が気になって、シュラフから出て、二人ですぐに小屋のドアを開けてみたんだ。朝の風が冷たくて、一気に小屋の中に吹き込んできて、思わず声だして震えてたな。ほんとに冷たくて……それでも我慢しながら外を覗いてみると、うっすらと朝靄あさもやがかかった向こうに、真っ白なまん丸の太陽が見えて、朝靄あさもやのせいで眩しくはなくて、丸い形がはっきり見えてた。日差しは強くはなかったけど、もやの水滴にあたった光がきらきら光っているように見えて……あれは、あれできれいな朝日だった。

 外の様子が確認できて、安心できたから、今度はちゃんと上着着込んで、寒さに対する心構えして、二人で外に出てみたんだ。靄で和らいだ朝日の日差しがまわりの木々の間から差し込んでいて、風が吹くと木の葉っぱに溜まった朝露の滴がぱらぱらと落ちてきて顔に当たると冷たいんだ。あの頃は母さんも若くてな、朝日を受けた横顔がまぶしかった」

 遠い表情をしながら、おやじはまた、酒を口にした。心なしか、なんだか少し肩を落としたようだった。
「昨日は気がつかなかったんだけどな、」
 本当に、昨日のことを話すような口ぶりでおやじは続けた。
「昨日は気がつかなかったんだけどな……小屋に逃げ込むことに必死で、まわりが見えていなかったんだろうな……外に出てみたら小屋の隣に大きな木が立っていて、最初はその大きさに思わず見上げていたんだけど、よく見ると連理木れんりぼくだったんだ。連理木って知ってるか?」

 俺は、軽く首を横に振った。

「元々は別々の二本の木が幹のところでくっついて一本の樹木になっている木のことだよ。夫婦や男女の深いちぎりを象徴していて縁起のいい木とされているんだ。その木は、根元のすぐ上のところで一つに絡み合うような感じで、そこから一本の幹になって大木に見事に成長したものだった。それに気がついたときは、母さんと顔見合わせて、目の前の大木と自分たちを重ね合わせてすごく嬉しかったなあ。俺も嬉しかったが、母さんははしゃぐように喜んでいたよ。
 『昨日の大雨に降られたことも、この場所に導いてくれるために神様が用意してくれたものだったんだね』とか言ってな。凍えて辛い思いをしたことも、ぜんぶ、吹っ飛んでしまった。
 なんか、ちょっとしたドラマみたいだろ。父さんたちにだって、そんな日があったんだぞ」

 おやじの表情はまた、照れて幼い顔に戻っていた。

「何か記念に残して置きたいって、母さんが思いついたように持ってた小さなノートを持ち出してな、メモ書きとか書いて使用済みだった始めのころのページを綺麗に切り取って、『このノートにお礼のメッセージを書き残して置いていこう』っていうんだ。この小屋で雨宿りをさせてもらったことへのお礼と、りっぱな連理木に出会えたことのお礼を、まだ使っていないきれいなページに書き残して、小屋の中のしつらえの棚の上にそっと置いてきたんだ。『もし、この小屋を次に使った人たちが、私たちのメッセージに続いて、何かまた、このノートに書き残してくれたら素敵だよね』とか言いながら……あのノートも、そのあとどうしたかなあ……

 ここが、その場所なんだ」

 目の前に広げた地図の、海老茶色でなぞられた線の終着点。目的地を現すように丸がつけられたその場所を指しながら、おやじは言った。

「結婚して、おまえが生まれてすぐくらいに、父さんの仕事の都合でこっちに来てしまって、それっきりあの場所には行ってないんだ。あの日の登山で使って、そのまま持ち帰ってきたこの地図に、あの場所と道順を赤い線でなぞって引いて、『いつか、もう一度行ってみたいね』ってよく話していたんだ。何かある度に、この地図持ち出してきて、二人で眺めながら、いろんな話をしたもんさ。おまえのこともいっぱい話したんだぞ。『今度は三人であの山に登りたい』なんてこともよく話したよ。こんなに古ぼけちゃったけどな……

 だけど、その約束をとうとう守れなかった。母さん、死ぬまで連れて行ってやれなかった。ごめんな……。俺は、だめだなあ……母さん、ごめんな……」

 それ以上の言葉は聞き取れなかった。おやじは、口の中で何かもごもごとつぶやきながら、海老茶色に変色した赤い印を右手の人差し指で指し続けたまま、左手を枕にするようにして、テーブルの上に突っ伏していた。こんなに潰れるまで酒を飲んでいるおやじを見たのも今夜が初めてだった。

「風邪引くぞ、ふとん敷くから、そっちで寝なよ」
 そう言いながら、肩を数回揺すったところで、おやじは、急に顔を上げたかと思うと、俺の顔をまじまじと見つめながら、擦れたような消え入りそうな声で一言言った。

「今度、一緒に登ろうか……」

 そう言うなり、そのままテーブルに顔を伏せて眠り込んでしまった。
 海老茶色に変色した赤い印を右手の人差し指で指し続けたまま。

 そんなことがあってから二年足らず、おやじも母さんのもとに逝ってしまった。
 もともと、仕事のことしか頭にないような、昔ながらの仕事人間だったおやじだったけれど、母さんが亡くなってからは、ますます仕事にこんを詰めていたような気がする。
 定年も過ぎて、再雇用に入ってるんだから、もうちょっと休んで、楽すれば。と、何度も言ったが、ああ、そうだな。と曖昧な空返事をするばかりだった。
 そんな無理がたたったのか、あまりにも突然だった。会社で倒れて、そのまま静かに逝ってしまった。
 あの夜、酔ったおやじが話してくれた母さんとの話も、頭の片隅に残っていて少し気にはなっていたのだが、あれ以来、おやじがその話をすることはなかった。俺も、その後何も聞こうとはしなかった。
 おやじの残したものを整理していて、いつか見たお菓子の缶が出てきたときには胸が詰まる思いだった。
 缶の中には、やはりあの地図が大切に収められていて、破れかけていた折り目は丁寧にセロハンテープで補強されていた。

 おやじの話してくれたあの場所に、必ず行こう。
 そう決意したのはその時だった。
 それから、その場所を詳しく調べ直して、今、すぐそばまで来ている。
 もう少しだ。

 ――そう思って、男は立ち上がった。
 ごろごろした小石が転がり、ところどころで大きめの石が地中からかどを覗かせている、そんな山道さんどうのごつごつした感触を足の裏で感じながら、男は目的地へ向かって進んだ。
 しばらく行くと、山道さんどうはY字に分かれ、少しまた登る感じで左に続いている道は、先を覗くと更に道幅が狭くなっているように見えた。山道の脇からはみ出した雑草も今までよりも長く被さっているみたいだ。おそらく、そちらの道はあまり人が通らないのだろう。
 Y字の分かれ目のところに立つ小さな案内板は若干傾いてはいたが、右へ下る道を指していて、顔を近づけて見ると滝の名前が書かれているのが読み取れた。山道はその先に続いている。
 わずかに、沢の流れる音が風にのって、どこからか聞こえてくる。

 まずは目的地だ。その後で、名所になっているという滝にも行ってみよう。
 そんなことを考えながら、男は、滝に続く道を進んでいった。
 進むにつれて沢の音は少しずつ大きくなっていく。
 しばらく進んだところで、また左に入る小道があって、そこに立つ案内版には避難小屋と書かれていた。
 男は迷わず左の道へ進んだ。

 ここだ!とうとうやって来たのだ。

 男は、その場所をしげしげと眺め入った。
 そこは、山道の脇の林を切り開いたように不自然に空き地のようなスペースができあがっている場所だった。しばらく人が来ていないのか、向こう脛のあたりまで長く伸びている雑草もちらほらと見えた。
 小屋は、思っていたよりも小さかった。ほんとに一時的な避難で使う程度の広さしかなかった。
 何組もは同時に泊まることはできないだろう。宿泊用ではないのだから、当然か。
 それに、経年の劣化が相当に進んでいるようにも見えた。一応、管理はされているようだが、無人の施設だ。
 おやじと、母さんが訪れたという日からは、かなりの歳月が過ぎている。おやじたちが泊まった時は、もう少しましだったかもしれない。そうであって欲しいと思った。
 どちらにしても、この場所に間違いはない。確信した。
 目の前には、大きな古木がまわりの木々とは一線を画すようにして上へ伸び、枝葉を大きく広げている。
 その木は、予想以上に大きかった。
 男は、その大木の元へと雑草の中を分け入っていった。その幹は確かに根元のすぐ上のところで、二本に分かれている。元々は二本の独立した木だったのだ。
 上に伸びるにつれて、絡み合い、見ようによってはお互いが支え合うようにして、一本の巨木となって大きく枝を広げ、下から見上げるものにとっては、空全体を覆うほどにさえ見えた。
 男は、その存在の威圧感をひしひしと感じていた。そっと手で触れてみる。厚く、細かくひび割れざらついた樹皮はどこか優しく、この古木がこれまで生きてきた時間の流れが掌から沁み込んでくるようだった。

 ――おやじと、母さんもこうして手を触れたのだろうか?
 この古き連理木れんりぼくの前で、笑顔ではしゃいでいる母さんと、おやじの姿が見えてくるようだった。この男女の深き絆を象徴すると言われる古木は、どのくらいの年月をこの場所で生きてきたのだろうか?その計り知れない年月の間のほんの一瞬に、おやじと、母さんは立ち会ったのだ。

「この連理木のわれのとおり、二人はその人生を終えるまでいっしょに支え合って共に過ごすことができました。父は母が亡くなった後も、母のことを想って生きました。二人とも幸せだったと思います。
 ……ありがとうございました」
 思いがけず、意識もしないままに、この古木へのお礼の言葉が口を衝いて出た。

「俺も将来を共にする女性が現れたときには、おやじと、母さんのようにまたここに来たいと思います。

 おやじ、母さん、いいだろう。そうしたいんだ」

 ――男はそうつぶやいて、何かの影を目で追うようにゆっくりと振り向いて、小屋の方に目をやった。
 あの日の父と母が、笑みを交わしながら小屋の中に入って行く姿が見えていたのかもしれない。

 ――小屋の中に残したという母さんとおやじのメッセージを記したノートはさすがにもう残っていないだろう。
 だけど、後で小屋の中もひととおり見せてもらおう。もしかしたら……そんな想いもわずかながらに心の内にある。
 でも、今はこうして、もう少しだけここにこうしていよう。古木の大樹の傍らに佇んでいよう。
 あの夜、酔っ払いながら母さんのことを話していたおやじのことを思い出しながら。
 いつも、おやじのそばに寄りそうようにしていた母さんの笑顔を思い出しながら。
 俺の知らないおやじと、母さんが、あの日、ここに居て笑い合っていた情景に思いを馳せながら。

 ――凜とした涼しさを伴った風が下の方から吹き上がってきてすり抜けた。
 細かく折り重なりながら、大きく広げた古木の枝葉がざわめいた。
 新緑の香りと、どこか懐かしい香りが混ざり合った、柔らかな空気の流れが男の身体を包み込むようにして尾根の高みの方へ流れていった。
 鳥のさえずり。草木くさきの下にひっそりと隠れている虫の声。遠くからかすかに聞こえる沢のせせらぎの音。いくばくかは混ざっているだろうと思われる滝の落ちる音。
 ここでは、それらのものが、折り重なり、絡み合いながら、ひとつとなって、遙かな過去から遙かな先へと向かって長閑のどやかに流れていくのだ。
 すべては、刻々と移りゆく陽炎の揺らぎにも似た時の積み重なりでしかなく、他には何も存在しない。
 時の余韻をその肌で感じながら、知らず男の頬には一筋の涙が伝っていた。
この作品をお読みくださり、ありがとうございます。
事件も起こらず、ドキドキハラハラの展開もない、ただただ静かな作品ですがいかがだったでしょうか?
話の途中で、三人称と、一人称が切り替わるので、そのあたりもうまく書けたか、少し心配ではあります。
評価、感想、ご意見などいただけると、とても嬉しく思います。
また、今後の創作の参考にもさせていただきます。
これからも、よろしくお願いいたします。
◆↓ よろしければ、クリックで応援をお願いします。↓◆
小説家になろう 勝手にランキング
ツギクルバナー cont_access.php?citi_cont_id=548133118&s

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼気になる点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ