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可南子の肌を濡らす雨

“雨”というテーマで書いた企画小説です。他にも、雨をテーマに数人の作家さんが執筆されています。「雨小説」で検索して、他の先生方の作品も是非読んでみてください。

「ね、知ってた? 赤とんぼって、夏にも飛んでるんだよ」


 となりの席で、中沢可南子が山岸めぐみにそんなことを話しているのを、ぼくはカバンから教科書を取り出しながら聞いていた。

「ふ〜ん。……え、でも赤とんぼって秋の虫でしょ?」

「もちろん赤い赤とんぼは秋に飛んでるよ。でもね、赤くなる前の赤とんぼは、秋になる前から飛んでるんだよ」

「ふ〜ん……」

 可南子の言葉に、山岸は興味を示さなかった。



 可南子はときどき、なんでそんなことに興味を持つのかわからないようなことに興味を示し、その勢いのまま図書館で調べものをしたりすることがある。ふだんはそんなに本なんて読むようなタイプじゃないのにだ。

 部活には、入っていない。ぼくと同様帰宅部だ。ただ、以前デジカメで写真を撮るのがマイブームだとかなんとか話してるのを聞いたことはあった。


 中沢可南子という女子は、いわゆるぼくの、“気になる女の子”だ。



 * * *



 中沢可南子をはじめて見たのは今年の春。高校の入学式だ。でもそのときはまだぼくにとって可南子は全然特別な存在でもなんでもなかった。あえてそのときの第一印象を思い出すなら、「髪の毛がすごいさらさらしてるなぁ」って思ったくらいか。


 はじめて可南子と言葉を交わしたのは、それから1週間ほどしたときのことだった。


「ね、火村くん。ちょっと見て」

 朝、教室に入って席に着くなり、可南子にとなりの席からそう呼びかけられた。

 横を向くと可南子が

「い〜っ!」

 と云って歯をむき出していたのでぼくはぎょっとした。

「ね、これおかしくない? 今日からはじめるから、あんまり気にしないでね」

 そう云った可南子の歯には、歯の矯正用の金具がはまっていた。

「当分の間はこれ、装着してるから。でも、あんまりじろじろ見ないでね。よろしく」

 そう云ってにこっと笑うと、すぐに真顔に戻り、席を離れていった。



 家で国語の宿題をやっていて、「屈託がない」という言葉を出てきたとき、可南子の顔が浮かんだことがあった。

 いまだになぜだかわからないけど、そのときぼくはたしかに、自分の胸の中の淡い感情を自覚したのだった。



 * * *



 窓の外は八月下旬の、カンカン照りの青空だ。午後になってもその日ざしは弱まることを知らず、気温が高いままで教室の中のぼくたちを苛んだ。

 県内でも一番の進学校であるこの高校は、夏休みも補習が行われている。一年生であるぼく達も、例外ではない。

 八月の一日は長い。教室の外ではミンミンゼミがとぎれとぎれで声を張り上げている。

 ぼくは、外を見るふりをして、可南子を盗み見る。


 白い半袖の制服からのぞく、少し日に焼けた肌。濃紺のリボンタイをいじりながらノートをとっている。

 長いさらさらの髪は先週の土日に散髪したらしく、少し短くなっていた。

 

 盗み見は3秒ほどで終わらせる。それ以上長く見ていたら、さすがに気づかれてしまう。あとは横を見ることなく、微分積分の授業に集中した。



 今日の補習授業もこれで終わり、ぼくは教科書やノートをカバンにしまい、帰り支度をしていた。

 そこに、可南子は声をかけてきた。


「ね、火村くん、知ってた?“火”がね、男の人に宿ると“ヒコ”で、女の人に宿ると“ヒメ”なんだって」

「……へ? ど、どういう意味?」

「だから、男の人を表す彦って言葉も、姫って言葉も、どっちも“火”からきてるんだよ」

「……どこで聞いたの、そんな知識」

 ぼくは、努めて「あきれた」という口調にきこえるように留意して可南子に返事をした。……ほんとは可南子が話しかけてきてくれて、脈拍が速くなっていたんだけど。

「それでね、“火”が人間に宿るのが、“ヒト”なんだって。すごいよね。やっぱり人が動物と違うのは、火を使うか使わないかってことなんだよ」

 正直、話の内容にはそう興味はなかった。ただ、ぼくの名字が「火村」だから火にちなんだ由来話をしてくれたのかもという自意識過剰な勘ぐりをしてしまっていた。


 可南子の顔を、近くでまともに見ると、やっぱり……かわいい顔だなとか思ってしまう。顔も身体つきもあっさりしてるのに、下唇がちょっとふっくらしていて、しかもグロスなんかも塗ってつやつやしてるから、妙に色っぽいのだ。


「中沢さんは微分積分の授業を聞きながら、人の由来について考えてたの? あきれた。そっちの方がすごいと思うよ」

「なによ、いいこと教えてあげたのに。もう教えてあげないよそんな憎まれ口叩いてたら」

 しまった。本当にむくれてしまった。

 可南子は席を立って、どこかへ行ってしまった。



 外が少しうす暗くなってきたことに気がついた。

 窓から空を見ると、黒い雨雲が広がってきている。

 まずい。今日は傘持ってきてないんだった。早く帰らないと降られてしまう。

 ぼくは急いでカバンを持つと、教室を飛び出した。



 頭上に重い雲が覆ってきたと思ったら、あっという間に大粒の雨が激しく地面をたたき出した。


 夕立だ。


 まだ自分の家まではかなりの距離がある。が、もう商店街も通り過ぎてしまったので逃げ込む店も辺りにはない。

 土砂降りの夕立のなかを、ばしゃばしゃと水しぶきを上げながらぼくは走った。

 そうだ。この先に古本屋がある。あの古本屋は……火曜日が定休日だ。

 今日は火曜日。――とにかく、あそこの軒先にはひさしがあるから雨がしのげる。


 ぼくは、古本屋まで雨の中を駆け抜けた。



 古本屋の定休日はやはり火曜日だった。庇の下で、濡れた腕の雫をできる限り落とし、髪の毛を手の平ではたいて水しぶきを少しでも落とそうと無駄なあがきをした。

「いっ!」

 突然のまぶしい閃光!

 数秒後、雷が鳴った。


 びっくりした。

 間をおかず、再び黄色い光!

 豪雨で暗くなった世界が一瞬だけ雷光に照らされる。そして、雷鳴がとどろく。


 まいったな。

 雨は相変わらず勢いよく地面を叩き、しぶきを上げている。

 カバンの中の教科書が濡れるのが心配で――紙の天敵は火と水分だ――外に備え付けられている学生用のカバン置きの棚の上にカバンを置いた。


 ――と、雨音の中、人の気配が。


「――火村くん?」


 あっ、――この声。


「中沢さん。――家、こっちだっけ?」


 中沢可南子だった。驚いた。雷よりも驚いた。


「藤町だから。火村くんは?」

「常盤町。……方向、一緒なんだね」

 答えながら、心拍数が急上昇していくのがわかった。

 可南子も雨でびしょ濡れだった。

「……雨、ひどいね」

「かなり、ひどいね」

「…………」

 雨脚は、強さを増してきている。

「……まいったな。雨、ひどくなってきてるんじゃないかな」

「……うん、そうみたい」

「…………」

 雨のしぶきが撥ね、地面が白く霞んで見える。


 ぼくは、平静を装いながらも、ほとんど完璧に身動きができなかった。

 心拍数の上昇に伴い、体温も上がってきている。

 顔は、実はまっ赤だった。気づかれるかもしれないという恐れから、その焦りでさらにますます赤面に拍車がかかる。


 となりに、中沢可南子が立っている。


 大粒の雨の下を走ってきた可南子の髪は濡れてぺっしゃんこになり、白いシャツからも、濃紺のスカートからもしずくがしたたり落ちている。黒のローファーも、白い靴下もぐっしょりだ。

 少し日焼けした肌に浮かぶ水滴。小さくてきれいな手。

 女の子だからハンカチか小さいタオルぐらいは持ってるんだろうけど、少しぐらい拭いたところで焼け石に水と思っているのか、濡れたまま、そのままにしている。

 

 制服の白いシャツは、濡れて透けていた。

 シャツのむこうに、肌色が見える。胸の部分には、水色のブラジャーが透けて見えている。

 心臓が、ばくんばくん鳴っている。

 いけない。このままでは顔から火を噴くかもしれない。

 汗だくだった。幸い、その前からびしょ濡れだったので、今かいている尋常じゃない汗の量を看破される心配は少ないかもしれないが。

「……歯の矯正って、どのくらい時間かかんの?」

 沈黙に耐えきれなくなって、ぼくは思いついた話題を口にする。

「これ? けっこうかかるよ。なんだかんだで2年以上かかるって云われた」

 可南子は自分の口を指さしながら答えた。

「最初、痛かったんだ。もうね、痛さで勉強とかマジやる気がおきないくらい痛かった。3日くらいは意識朦朧って感じだったよ」


 土砂降りの中でも聞こえるよう、可南子は大きな声で話している。しかも、ちょっと身を寄せて話すから、――身体が、触れるし、顔が……近い。

「どうしてそんな無理して矯正とかすんの?」


 ぼくは心臓の音のうるささを懸命に無視しながら続けて尋ねた。

「あたし、歯並び悪いから」

 可南子はあっけらかんとそう答えた。

「ふ〜ん、そうなんだ。気づかんかった」

「気になるのよ、これでも年頃の女の子だかんね」

 そう云って可南子は自分の下唇を指でつまんで引っぱった。


 矯正の金具と、可南子の白い歯と、歯ぐきがのぞいている。ぼくの心臓の動悸がさらに強まった。こいつ、わざとやってるんじゃないだろうな……!

 可南子の、ぷっくりした下唇が目に焼き付く。どこかで、何かがはずれる音を聞いたような気がした。


「…………金具、見せて」


 ぼくの手が、操られるように可南子の口元に伸びた。

 可南子は、ぼくの云った言葉の意味がわからなかった様子で、きょとんと、ぼくを見上げる。


 そっと、――ぼくの指が可南子の下唇に触れた。


「えっ――」

 可南子が小さい声でなにか云いかけたけど、ぼくの手は止まらず、可南子の唇を軽くつまむと、下の歯の金具をのぞかせるようにそっと動かした。可南子の身体がこわばるのがわかる。

「これって、金属じゃないんだ。――プラスチック?」

 自分の声じゃないような感覚――といったら大げさだが、なんだか、身体はすごく熱いのに、頭のどこか一部はすうっと冷えているような、そんな奇妙な感覚があった。

 ぼくは、可南子のやわらかい唇から指を離した。

「……ううん。セラミック」

 可南子がうつむいて、弱々しくそう答える。

 雨の雫に濡れた、きれいな肌色の頬。半開きの、口。うなじにくっついた普段はさらさらの髪の毛。


 キレイだ、と思った。

 あやうく、その言葉を口にするところだった。


 可南子はうつむいたまま、下唇を噛むと、上目づかいでぼくを見た。

 目が合う。ぼくも可南子も、そのまま動けなかった。


 数秒の時の流れが、永遠にも感じた。


 遠くで、かすかに雷鳴が聞こえる。


「――――あ」

 そのきれいな唇が、言葉を発した。


「――雨、弱まってきた」


 可南子の声の調子が戻っていた。

 さっきまですさまじかった雨脚は嘘のように弱まり、空が一気に明るくなってくる。

 減っていく雨粒、増してくる太陽の光――。

 その、一瞬として同じ風景ではない風景を、ぼくは可南子のとなりに突っ立ったまま見ていた。



 夕立が上がった。

 空は眩しさを取りもどし、雨に洗い流されて冷やされた地面は、すっきり蘇ったみたいに、すがすがしい生気を取りもどしたように感じた。


「やっと、帰れるね」

 可南子がそう云った。ぼくは「そうだね」と答えた。

 自宅の方向は一緒だったが、軒先から出た可南子はぼくを待たずに

「それじゃね。バイバイ」

 というと、先に歩き出した。

「ああ」

 ぼくは気の利かない返事でそれに答えた。


 涼しい風が吹いた。


 ぼくも雨宿りをした軒先を出て、可南子の後ろ姿を見送りながら、あとをついて歩き出した。


 可南子が、こっちを振り返った。

 ぼくらの距離は10メートルほど。可南子は大きな声で云った。


「火村くん。明日さ、微分積分教えてくんない?」


 そう云った可南子の表情が、ぼくにはたまらなく、かわいく見えた。

「うん、いいよ」

 ぼくがそう答えると、可南子は嬉しそうににっこり笑い、そしてそのあとは振り返らず小走りでぼくの前を帰っていった。


 気づくと、ツクツクボウシの声が雨上がりの帰り道に響いていて、太陽と反対の方向の空には、虹が架かっていた。


 トンボが飛んでいた。赤くはなかったが、可南子が話していてように、このトンボが秋になると赤く色づいて赤とんぼになるのかもしれない。


 ツクツクボウシの声が聞こえる中を、トンボが飛んでいる。


 指先には、可南子のやわらかい唇の感触が、残っている。


 いまぼくは、夏の終わりと秋のはじまりとが交わる瞬間を、歩いていた。





お読みいただきありがとうございました。企画に参加された作家の皆様、お疲れさまです!

今回初めて参加させていただいた本企画での執筆でしたが、テーマが「雨」というのを見た瞬間、夏の終わりの夕立の、雨宿りをする男の子と女の子というシチュエーションが浮かんできて、それをそのまま書いてみました。

大人になりはじめた、でもまだ幼さの残る男の子が、想いを寄せる女の子にはじめて触れる瞬間というのを表現してみたいと思い、そのシーンをクライマックスに持ってきました。

ご感想を、お聞かせください。よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 赤トンボの色の変化と恋心を重ねている点がなんとも言えない。 [一言] 最近小説を書かれていないようで残念です。
[一言] 表現が細かくて、分かりやすいですね。 思春期の気持ちも分かりやすいです。
[一言] 凄くドキドキしながら読みました。主人公の火村は結構大胆な人なんですね。自分はあんな事できないです。雨という背景もまた良いですね。 自分も同じ題材で小説を書いたのですが、やはり出来が違いますね…
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