挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

もっと聴きたかった

作者:鯨井あめ

私は、短い命を懸命に生きてきた。

ヒトの時間で数えれば、私の年齢は1ヵ月と半分、ほどらしい。しかし最も、その基準を知ったのは、私が大人になってから数日経ってからだから、おそらく私の命の灯は、いま、ゆらゆらと震えながら尽きようとしているのだろう。
しかしそれでも良いのだ。
私は満足している。
ヒトから見ればその人生のほんの一瞬の出来事かもしれぬが、私たちにとって2ヵ月生きるということは、長寿を全うしていることと同義なのである。これほど誇り高いことはないだろう。

私はゆっくりと息を吐いて、今夜もベランダの中へふわりと舞い込み、窓ガラスにへばりついた。かすかに漏れる音に胸が高鳴る。

『こんばんは、みなさん。いかがお過ごしですか。――今夜も始まりましたね。夜の文芸朗読』

窓の向こうで、ヒトの子が小さな機械のつまみをまわした。音がいっとう聞こえやすい。

『今晩は、暑い熱帯夜に送るこんな文芸作品です。有名な冒頭より始まる、美しい物語。――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。――川端康成の雪国です』

ああ、今日も美しい。言葉というのは、なぜこれほどまで私をつかんで離さないのか。
あの小さな機械、ラジオというそれから聴こえる彼の声は低く、しかし優しく、丁寧に言葉を紡いでゆく。
私は、このラジオというものにひどく心を惹かれているのだ。
ヒトは素晴らしいものを生み出して見せる。

『――向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」――』

あれはいつのことだったか。
まだ大人になって間もないころ、私は雨宿りのためにふらりと立ち寄ったここで、このラジオ番組、というものを耳にしたのだ。
初めての感覚だった。
音と言葉、それらが描く、遠く近い物語。ヒトでもないというのに、彼らの心の揺らぎはなぜか鮮明に見えて、いつの間にか、私は文芸の虜になっていた。
この番組は、毎日30分間だけ、夜が更けたころに流れる。
ここに住んでいる少年は、その30分間だけはラジオをテーブルに置き、ノートと教科書を開いて、耳を傾けながら勉強をする習慣があったらしかった。
あの日もし、雨が降っていなければ、私はこんな場所に来なかっただろう。なんて幸運だ。私はあの日の私を褒め称えたい気分である。
毎晩雨が降っていようと風が吹いていようと、私はここに来た。そしてこれを聴いている。
友は私を諫めた。「やめておけ、ヒトの世界に関わるな」と。友人たちは皆口をそろえて、「ヒトに近づくな」と言うのだ。「やつらは危ない。なんだって罪のない俺たちを殺そうと近づいてくるんだ」
しかし、ヒトはあんな素晴らしいものを作って見せる。新しい世界を私に教えてくれた。恐れるだけでは何も変わらないのだ。
ヒトに近づいたことで、私は友人たちが知らない言葉をたくさん知った。ただ生きているだけでは得られないような、抱けないような感情を覚え、私では一生体験できないような出来事に心を打たれた。
これほどまでに、私を大きくさせるものがあるだろうか?

私は少し身じろぎをして、窓の上のほうへ移動した。
ラジオはあの優しい声で、ユキグニ、とやらを読み進めていく。

『――「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです」悲しいほど美しい声であった――』

私は、この美しいものたちに、奇跡的にめぐり合わせたのだ。
幸せである。

   ●

何度目かの夜が過ぎ、ユキグニは丁寧にその終わりを迎えた。私は心の底からカワバタヤスナリというヒトへ拍手を送った。

『さてみなさん、実はリスナーさんからこんな手紙が届いています』

おや。リスナーから、手紙? 手紙とやらを私は知っているが、それは番組に送ってよいものだったのか。私も送りたい。聞きたい作品がたくさんあるのだ。

『「こんばんは。わたしは川端康成の作品が大好きです。DJさんが優しい声で朗読してくださって、本当にうれしかったです。もしこの次に読む作品が決まっていないのなら、このまま川端康成の伊豆の踊子を読んでいただけませんか? PN 小説大好きちゃん」。小説大好きちゃん、素晴らしいメッセージをありがとうございます』

窓の奥で、ヒトの少年が「俺のじゃねーのかよ」と愚痴を言った。
そうやすやすと思い通りになるわけではない。私とてそうなのだ。今日食べようとした果実を隣からかっさらわれた。しかし怒らない。それも運命なのだ。

『せっかくですし、彼女のリクエスト通り、明日から伊豆の踊子を読んでいくことにしました。楽しみですね。みなさん、明日の夜も、めくるめく文芸の世界へお越しくださるのをお待ちしています。それでは、本日はこの辺で』

私は余韻にひたりつつ、窓から離れて月夜に飛び上がった。
良い月夜だ。
夏目漱石の有名な訳を思い出した。
私にとっては、『あなたは文芸のようだ』でも、それの訳文となりうるのだ。
それほどまでに、私の人生は文芸であふれている。

   ●

今晩も暑い。
窓にへばりつこうとした私は、驚いた。そこにあったのは穴だったからだ。
どうやらこの窓は、上部に小窓がついているらしい。横へ滑らせるとそこだけが開く仕組みなのだ。
長らく通っていたが、知らなかった。

部屋の中、少年がラジオを取り出し、つまみをまわしたところで、「あ、やべ」と言ったのが聞こえた。

「音量下げなきゃ。また母さんに怒られる」

音がすっと下がる。番組が始まったようだが、私のいるところではよく聴こえない。
なぜだ。なぜそんなことをするんだ。
私はゆっくりと小窓に近づいた。
ああ、ここなら聴こえやすい。

『こんばんは――』

優しい声。今日からは、カワバタヤスナリのイズノオドリコという作品が読まれる。とても楽しみなのだ。先日のユキグニは素晴らしい作品だった。その透明な文体に、私は酔いしれた。
美しすぎる。
言葉とは美しい。
ヒトの言葉とは、なぜかくも奇麗なのか。
なぜ私たちの言葉は――

『――道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。――』

ヒトの少年が、つまみを再びまわした。
まったく聴こえない。
なんてことだ。

『――私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんかすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。――』

私は小窓から中へ入る。
まぶしく暑い。

『――修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯(ほうば)の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚(みと)れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。――』

ぱっと飛んで、天井へ止まる。ああ、ここまでくれば、よく聴こえる。
ヒトの少年が私を見上げ、顔をゆがめた。

『――そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿(たど)りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで旅芸人の一行が休んでいたのだ。ーー』

ヒトの少年は、そこにあった紙の束をつかんで、くるりと丸めた。
何をしているのだろうか。
せっかくこうして、心に深く刺さる言葉を聴けるというのに。
彼はいつも座って、嬉しそうにラジオを聴いていたではないか。
少し不思議に思いながらも、私はその声と言葉に目を閉じる。
ああ、こうして、息をしながらこの番組の、この作品の世界に入ってしまうことが、何よりもの楽しみなのだ。

『――突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座蒲団を外して、裏返しに傍へ――』

風が空を切った音が聞こえた。
恐ろしいほどの衝撃が私を突き抜けた。
なんだ?
何もわからなくなった。

   ○

「ちょっと翔也しょうや! 何の音!?」

バンッとドアをあけた母さんに、俺はげんなりとした顔で、あとは捨てるだけだったプリントの束――今はハリセンを下ろし、「ちりとりとほうき」と言う。

「はあ?」
「ちりとりとほうき、はやく!」
「なんで」
「入ってきたから!」

俺の足元を見た母さんは、「ひっ」と小声で悲鳴をあげると、「待ってなさい」と階段を下りて行った。家族そろって苦手なんだよな。仕方がない。
プリントをゴミ箱に突っ込んで、俺はそれをにらみつける。

「最悪。窓からだ」

母さんが持ってきたほうきとちりとりを駆使して、俺はそれをベランダから下へ放り投げた。部屋に入ると、母さんが懇切丁寧に床を拭いてくれていた。

「はい。これでもう大丈夫ね。ああ気持ち悪い」
「うん、さんきゅ」

部屋を出て行った母さんを見送り、俺は机の上のラジオに耳を傾ける。
伊豆の踊子はかなり進んでしまっていた。
ちっくしょう。聞き逃しちまった。

「たかが蛾の分際で、邪魔してんじゃねーよ」

家の前を、車が通った音がした。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ