表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

無謀剣 蹄

 町の外へと続く道を、馬久一太郎うまくいったろうは早足で歩いていた。

 顔はわずかに紅潮し、頭の中では母の言葉が何度も何度も繰り返されている。

 それに対して何だ、何だと小さな声で毒づきながら、一太郎は休まず脚を動かし続けていた。

 点在する家々や田畑の景色は遠くなり、周囲は少しずつ、人の手の入らぬ山野へと近づいてゆく。だが一太郎は構うことなく、ずんずんと進んだ。

「馬久家の再興が認められました」

 母はそう切り出した。

 昨年の夏以来、馬久家はおそらく、一家が立ってから今までになかったであろうほどの危機に瀕していた。一太郎の父である馬久一嘉内うまくいかないは馬方の御役目についていたのだが、今年の夏、一頭の馬が厩場から逃げ出すという騒ぎがあった。

 その際に厩場の役を担っていたのが父の一嘉内であった。悪いことは重なるもので、その馬は藩主のお気に入りの一頭でもあった。

 逃げた馬は近隣の里山に逃げ込み、捕えることは遂に叶わなかった。その事態の責めを負って、一太郎の父は腹を召す仕儀と相成ったのだった。

 本来ならそのまま取り潰されてもおかしくはない馬久家であった。が、事態の詳細が解明されるまで処分は留め置かれるということで、どっちつかずの状況のまま、年を越すこととなった。

 新たな年が来て、年頭に藩主より細々としたまつりごとに関する下知があった。その中にいくつかの恩赦が含まれており、馬久の名もそこに含まれていた、とのことであった。

 そうして、馬久家は残されることになったのだ。

 理由は様々にある。まず何より、いくら藩主のお気に入りの馬であったとはいえ、切腹は重すぎる、という意見は随所で大きかった。有事の際におろそかにはできぬ馬ではあるが、ここ数十年もの間、戦は絶えて久しい。常に戦に備えるのだ、という心持ちはすでに藩内にも薄く、それを声高に唱えたところで、意見に追従するものは少なかった。

 もう一つが、その日様子を窺いに来た父の上役が、出入りの際に柵を閉め忘れたのではないか、という疑いであった。

 その日、父の上役である吾巳大次郎わがみだいじろうが、見回りにやってきた。この見回りは定期的に行われており、ちょうどその日が訪れる日に当たっていたのだ。

 出迎えは不要とされているので、一嘉内はいつもどおりに馬の蹄を手入れしていた。そこに吾巳がやってきて、馬の育成具合や、変わったことがないか、などと言ったことを聞き取りし、厩場を見回ってから帰ったのだという。

 藩主お気に入りの馬が暴れ出し、厳重なはずの柵を容易く破って逃げ出したのは、その後のことだった。

 この件はかなり厳しく取り調べられたようであったが、一太郎や母のもとに詳しい話が伝えられることはなかった。ただ父と親しかった同僚たちから、そういう話を噂として漏れ聞いただけだ。

 そうして、恩赦の話だけが、唐突に舞い込んで来たのであった。

 それらをつなぎ合わせたうえで、上役の失態はあったのだ、と一太郎は考えた。それ以外に、納得の仕様がなかった。

 母は喜んでいた。だが、それでいいのか、という思いが一太郎にはある。

 武士というものの生き方に、一太郎は疑いを抱きはじめていた。

 父は上役の失態の責任を取り、腹を切らされた。それは武士であったからだ。そういう生き方を己もするべきなのか。

 したくない。一太郎ははっきりと、そう思っていた。

 それにもうひとつ。もしも一太郎が馬久の家を継げば、何事もない限り父と同じく馬方の御役目につくことになる。それが、一太郎はいやだった。

 誰にも言ったことはないが、一太郎は馬が苦手だ。いや、馬だけではない。鼠、牛、兎、蛇、とにかく生き物というものが、すこぶる苦手だった。人がいるところではできるだけ平然とし、表に出さないようにしているが、できるだけ近づきたくないし、触るなどとんでもないと思っていた。

 町にある黄表紙屋の御隠居などはその屋敷に猫を飼っているらしいが、一太郎にはとてもではないが考えられぬ話であった。

 いっそのことこのままお家取り潰しになればいい。そう願っていた。だが。

 馬久家は再興される。子は一太郎ひとりしかいない。父の代わりに一太郎は、近々御役目を継ぐことになるだろう。

 ともかくも、今の気持ちを抱いたまま、跡目を継ぐわけにはいかなかった。

 気づけば、身の回りのものをまとめ、家を飛び出していた。

 何かのあてがあったわけではない。ただただ衝動的に、そうしていたのだ。考えるよりも先に、情に任せて身体が動くたちで、そのことでこれまでにも失敗をいくつかやらかしていた。今回も、そういった考えなしの行動の一つだった。

 どうしたものか、と隣の村へと続く街道を歩きながら考えはじめていた。いっそのことこのまま藩を出て、誰も知るものがいない土地で町人か農民として暮らすか。貧しくはあったが、本当の苦労というものをしたことがない一太郎は、お気楽にそんなことを夢想していた。

 そんなときのことだ。道の先が、何やら急に騒がしくなった。

 足を止める。曲がった道の先から、旅姿のものが幾人か、走ってこちらへと向かってくる。

 その中に、知った顔を認めた。周囲のものより目立つ赤い着物を着て、男の供をひとり連れている。父の上役であった吾巳大次郎の娘だ。親しいわけではないが、顔はよく知っていた。

 曲がり道の先で砂塵が巻きあがっている。暴れ馬だ、という叫びも聞こえた。

 砂煙の向こうから、それは姿を現した。

 馬だった。さほど大きい馬ではない。だが馬は高く嘶きを上げながら、道を右へ左へと迷走している。

 鞍は乗せられていない。が、綱はつけられていたので、どこかの飼い馬であることはわかった。

 それを目にした途端、一太郎の身は竦み、足は縫いとめられたかのように動かなくなった。

 馬は暴れながら、こちらへ近づいてきている。だが、それがわかっていながらも一太郎はまんじりとも動けなくなっていた。

 その左右を数人が駆け抜けてゆく。足の遅い吾巳家の娘とその供だけが、荒ぶる馬と立ち竦む一太郎の間に取り残されていた。

 娘と馬との間が縮まってゆく。どうも馬は娘を狙い、暴れているようだった。

 追いついた馬が前脚を高く持ち上げる。娘の悲鳴が一太郎の耳に届いた。

 気付けば、足が動いていた。駈け出しながら鯉口を切り、抜刀した。

 様々なことが頭をよぎっていた。父の敵ともいえる上役の娘である。このまま放っておいて、馬の蹄にかけられるのを見ていればいい。一太郎が手を下すわけではない。ただそこに居合わせただけのことだ。

 別のことも浮かんだ。だが吾巳家は、父が死んでからこちら、組屋敷でも肩身の狭い思いをしているとも聞いている。吾巳大次郎が原因であったのではないかという噂は、かなり広く流布されていて、今やそれが真実であろうとの認識ができつつあった。そんな中で、現状一切の責めを負っていない吾巳家は、周囲より白い目で見られている、というものだった。

 だがそのようなものとはお構いなしに、やはり一太郎の身体は、勝手に動いていた。

 悲鳴を聞いたとき。武士として己が守らねばならぬ。頭ではなくこころのうちがそう判じたのだ。

 娘たちの横を駈け過ぎると、着物が汚れるのも構わず、地面を転がって馬脚へ近づき、刀を振るった。

 そのまま転がりながら暴れ馬から離れる。馬は娘たちから逸れつつしばらく走ったが、一太郎を敵と認めたのか、こちらへと向き直った。

 動きを止めず、そのまま突進してくる。地に膝をついたまま、一太郎は右手を握りしめた。

 右手には転がったときに拾い上げた石が握り込んである。近づいてくる馬の脚をめがけて、それを放った。

 石つぶてが飛ぶ。過たずそれは、暴れ馬の脚を打った。

 馬は動きを止めない。一太郎は再び転がり、茂みの中へと逃げた。馬は街道を駆け抜け、砂煙をあげていたが、遂に四つの脚を折って止まった。

 一太郎は寝そべり、天を仰いでいた。

 父から聞いたことがあった。馬の蹄というのは本来頑丈なものなのだという。だが人に飼われ、同じ道を歩き、背に人や荷を載せるといったことを日々続けている馬のそれは、次第に脆弱になる。そういう話だった。

 そして脆くなった蹄は、わずかの傷を負っただけでも走れなくなることがあるのだという。

 だから一太郎は、馬の蹄を狙い、つぶてを放ったのだ。

 武士を捨てるつもりであった。だが一太郎を動かしたのは武士であるという覚悟であり、窮地を救ったのは、馬方であった父の言葉であった。

 娘が近寄ってくる。一太郎のことがわかっているのかいないのか、涙を流しながら頭を下げている。一太郎はそれに気付かぬふりをして、ただ寝そべり続けていた。

 ともかくも、次からはもそっとものを考えてから動くことにしようか。青い空を眺めながら、そんなことを思っていた。


(完)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ