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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

一人の食卓

作者:名野創平
「赤ちゃんができたの」
 仕事を終えて帰宅した俺を出迎えた夏実(なつみ)は、そう言って頬を染めた。
「本当はね、安定期に入るまでは内緒にしておこうと思ってたの。妊娠初期って流産しやすいらしいから。――でも今日の検診で赤ちゃんの心臓が動いてるのを見たら黙っていられなくなって」
 普段着ることのないゆったりとしたワンピースを身にまとい、夢見心地な表情を浮かべた夏実が、まだ膨らみの目立たない腹部を慈しむように撫でている。その白い指が、生成りの生地の上でゆっくりと円を描くのを、俺は玄関のたたきに立ち尽くしたまま、ただ呆然と眺めていた。
「ほら見て、超音波写真。妊娠八週目だからまだ小さいけど、ちゃんと手足があるのよ」
 声を弾ませ、夏実はポケットから取り出した写真をこちらの目の高さに掲げた。
 黒い背景に、円弧を下にした扇形と白抜き文字が並んでいる。扇形に縁どられた不鮮明な白黒画像に写る小さな塊。それはまるで、ぽっかりと口を開けた暗い洞窟の壁に歪な形の達磨(だるま)がへばり付いているようだった。じっと見ていると、達磨の胴体部分から突き出た数本の短い突起がもぞもぞと動いた気がして、
「子供はまだ早いだろ、下ろしてくれないか!」
 俺はたまらず顔を背け、悲鳴とも怒声ともつかぬ声を張り上げた。
 一瞬の静寂。――どくん、と心臓が大きく跳ねた。はたと我に返り夏実に視線を戻すと、その双眸からすうっと光が消えるのが見えた。それは瞬きの間に、きらきらと輝く黒曜石がすすまみれの豆炭にすり替えられてしまったような急激な変化だった。けれど感情をなくした暗い瞳とは対照的に、薄紅色の唇は美しい弧を描いた状態のまま固まっている。そのちぐはぐな表情に得体の知れぬ恐ろしさを感じ、俺はごくりと唾を飲み込んだ。喉仏が痛いくらいに上下し、生温(なまぬる)い唾液の塊が不快感を伴って腹の底へと落ちて行く。
 重苦しい沈黙。夏実は笑顔を張り付かせたまま微動だにしない。対峙していると、皮膚の表面が(あぶ)られているようにじりじりと痛み、全身の毛穴からねっとりとした汗が滲んできた。額からこめかみを伝い、脂汗が顎から床へと滴り落ちる。
 不意に表の通りでクラクションが響いた。刹那、夏実の肢体が糸の切れた傀儡のようにぐらりと前方に傾いた。だが俺は、長く続いた膠着状態のせいで身動きひとつとることができなかった。彼女はそんな俺の傍らをすり抜けると、ちらりとも振り返ることなく部屋を出て行った。
 ドアの閉まる無機質な音が脳裏で反響し続ける。スカートの裾が翻る残像が視界の端から消えない。どのくらいそうしていただろうか。激しい喉の渇きを覚え、俺はもつれる足で台所へ向かった。
「あ……」
 戸口で立ち止まり、室内の様子に息を呑む。台所に据えられた食卓には真新しいベージュのテーブルクロスが掛けられ、所狭しと豪華な食事が並べられている。その中央に置かれた花瓶。そこに生けられた無数の小花をつけた白いカスミソウと大輪の赤いアネモネは、まるで羊水の中に浮かぶ胎児に見えた。



 俺は台所の床にへたり込んだまま、まんじりともせずに朝を迎え、始発電車で出勤した。日中は仕事に没頭することで昨夜の出来事を意識外へと追いやり、退社後は書店とコンビニをはしごして時間を潰した。午後九時。いつもなら夏実と二人で夕飯を食べている時間だ。
 けれど、家路を辿る足は鉛のように重く、一歩踏み出すごとに夏実の凍りついた笑顔がフラッシュバックする。今日一日で何度目かわからない溜め息が漏れた。息を吐くたびに体がずぶずぶと地面に沈み込んで行くようだった。
 のろのろと歩を進めながら思案する。まずは謝罪して、それから……。懐妊を喜ぶ彼女への俺の仕打ちは唾棄すべきものだった。自分自身、心底最低だと思う。だがしかしそれは偽らざる本音でもあった。社会人一年目の俺は自分のことで手一杯で、夏実と結婚し、子供を育てる余裕などなかった。現状に対する焦り、将来に対する不安、二人の人間の一生を背負う重圧。それらがもつれ合い、ぐるぐると脳内で渦を巻いている。結論がでない。夏実と顔を合わせるのが怖い……。

 はしごしてまで時間稼ぎをした帰宅は徒労に終わった。夏実は家に居なかった。ただ一度は戻ったようで、食事の用意がしてあった。
 冷蔵庫の二段目の棚に置かれた麻婆豆腐。ぴっちりとラップのかかった中華皿の下から、白い紙が半分顔を覗かせている。それを抜き取り、表に書かれている文字を読んだ。   
『お口に合うかわかりませんが、残さず全部食べてください』
 右上がりの癖のある筆跡。紛れもなく夏実のものだ。見慣れた文字で綴られた他人行儀な文面にちくりと胸が痛む。感傷的な気分になるのを、当然の報いだと自嘲し、俺は夏実の要望に応えるべく食事を摂ることにした。
 麻婆豆腐を電子レンジに入れると、静まり返った部屋にブゥーンと虫の羽音に似た動作音が響く。加熱調理がすむのを待つ間、再度置き手紙に視線を落とした。
 葉書サイズの白紙。黒いボールペンで記された一文の後に、
『5 46900』
 という数字が書き添えられている。電話番号だろうか。それともどこかの住所か。もしくはホテルのルームナンバー? いずれにせよ、これが夏実の居所を示す手懸かりには違いない。しかしすっかり臆病風に吹かれた俺は、彼女を捜すことを躊躇った。
 同じ歳の夏実とは大学時代から足掛け四年の付き合いになる。その期間、昨晩のような危機的状況に陥ることはおろか、喧嘩らしい喧嘩をしたことさえなかった。それはひとえに彼女の朗らかな性格によるところが大きかった。彼女はいつも笑っていた。俺はそんな彼女に甘えていたのだと今回の一件で痛感した。堕胎して欲しいと懇願すれば、許し、聞き入れてくれるのではないかと、どこか楽観的に考えていた。本当に愚かだ。そんなはずないのに――。
 ぱちん、ぱちん、と挽き肉の()ぜる音がする。やがて胡麻油の芳ばしい香りが漂い、高い電子音が鳴って調理が終わった。麻婆豆腐の他に春雨サラダと玉子スープ、炊飯器には炊き立てのご飯が用意してあった。
 ラップを剥がすと勢いよく湯気が立ち上り、香辛料の刺激が鼻腔をくすぐる。食欲をそそる豆板醤(とうばんじゃん)と唐辛子の赤いとろみ。粗挽き肉のからんだ豆腐を口に運ぶ。レンゲの上でふるふると震える絹ごし豆腐のつるりとした喉ごしと、粗挽き肉の食感がたまらない。大きさの異なる肉の粒はもちもちとした歯応えがあり、俺は瞬く間に完食した。

 夏実が家を出て行ってから二日目。帰宅すると冷蔵庫に豚の角煮が入っていた。昨日同様、置き手紙もあった。
『お肉、美味しい?』
 そして、
『0  45771』
 数字の羅列を眺めていると、これは一続きの数ではなく『0』と『45771』からなる、それぞれ独立した数なのではないかと思えてきた。二つの数の間隔が前回に比べ開いていたからだ。そうだとすると、昨日の数は『5』と『46900』だろうか。
「469……」
 その数に見覚えがある気がして我知らず呟いた。どこで目にしたのだったか。それはつい最近のことだったような――。
 その時、電子レンジが調理終了を告げ、思考は中断された。
 同棲生活一年にして初めて食卓に上った豚の角煮は絶品だった。飴色の肉の塊はてらてらとした油膜をまとい、絶妙な配分で層をなす脂肪と赤身は箸で挟むと軽く切れた。芥子を付けて頬張ると生姜のきいた甘辛いタレと肉汁が口いっぱいに溢れ、舌の上で脂身がとろりととけた。
 少し甘めの味付けは、自分の母のそれとよく似ていた。夏実は俺に秘密にしていたようだが、この部屋と実家が二駅という近距離にあることもあり、彼女は母に料理を教わりに実家に通っていたらしい。以前、めったに家に寄り付かない息子に母はそう言い、
「やっぱり女の子はいいわねぇ。なっちゃん早く家の娘になってくれないかしら」
 と、意味深長ににやりと笑った。あの時、俺はなんと答えたのか。ろくに返事もしなかったように思う。夏実は将来を見据えて行動を起こしていたというのに。
 自分の不甲斐なさに気が滅入った。

 夏実が家を出て行ってから四日目。今日の夕飯はビーフシチューだった。
 大ぶりな具材に濃厚なシチューをからめて食す。こくのあるデミグラスソースが口腔を満たし、赤ワインの風味がふわりと鼻に抜けた。角切り肉は数回の咀嚼(そしゃく)でほろほろと繊維状にほぐれた。柔らかく煮込まれたそれは香草の効果か牛肉特有の乳臭さがなかった。
「ん?」
 皿が空になりかけたころ、歯になにやら硬い物が当たった。異物を指で摘まみ出して見ると、それは薄い板状の物体だった。シチューを拭って子細に観察する。白くて楕円形、牛の骨の破片だろうか。人の爪に似た形状が少々薄気味悪かったが、俺はそれを皿の縁に置いて残りを食べた。
 食器を片付け、置き手紙を再読する。
『お肉、食べてくれてありがとう』
 内容は毎回、肉に関することばかり。主菜だけでなく副菜と汁物も作っているにもかかわらず肉に限定されているのが疑問だ。しかしそれ以上に気になるのは文字の震えだった。二日目辺りから兆候が表れていたが、それが日増しに酷くなっている。どこか具合でも悪いのだろうか。ここ数日、自分も体調が優れない。風邪でも流行っているのかもしれない。
 文末の数字は、
『0  43868』

 夏実が家を出て行ってから七日目。今日の夕食はブリ大根だった。
 六日連続こってりした肉料理で食傷ぎみだったのと、ここ数日体調不良だったのでこれはありがたかった。ただ、置き手紙の文字はいよいよ乱れ、ミミズののたくったようなありさまだった。
『私たち三人、これからもずっと一緒よ』
 それでもかろうじて内容は読み取れた。三人、ずっと一緒、胸にずしりとくる。いつまでも結論を先送りにしてはおけない。いい加減はっきりさせなければ……。
 一つ息を吐き、箸を取る。半月切りの分厚い大根は、よく味が染みていそうなべっこう色で、箸で摘むと崩れるくらい柔らかい。大根を口に入れる。歯で大根の繊維を断ち切ると、ブリの旨味の溶け込んだダシがじわりと滲み――、ぐにゅりとした感触、次いで奥歯が硬いなにかを噛んだ。予想外の食感に顔を(しか)め、俺は口の中の物をすべて皿に吐き出した。
 歯形のついた大根に、潰れた目玉がめり込んでいた。ひっ、と喉が鳴る。皿の中をかき回すと、底の方からもう一つ目玉が出てきた。
 すっかり食欲の失せた俺は、料理を処分することにした。しかし、流しの三角コーナーやゴミ箱に捨てるのは気が咎める。それを見た夏実は当然、不愉快に思うだろう。
 極力、皿の端に寄せた二つの目玉を視界に入れないようにしながら、箸で大根を細かくする。皿の中身をトイレに流すと、細切れの大根とともに、二つの目玉がぐるぐると回転しながら吸い込まれて行った。



 翌日、俺は腹痛に耐えかねて会社を早退した。ここ数日、慢性的な鈍痛に悩まされていたのだが、いよいよ刺すような激痛に、脂汗を浮かべて帰宅した。すぐにでも病院へ行きたかったが、貴重品の管理は全て夏実に任せていたので保険証のありかがわからない。
 手当たりしだい部屋中の抽斗(ひきだし)を漁っていた俺は、寝室の鏡台の抽斗にしまわれていた用紙を目にして、
「あっ」
 と、思わず声を上げた。それは夏実の定期健康診断の診断書で、その体重の欄に『46.9kg』と記されていたからだ。置き手紙の『46900』という数字に見覚えがあったのはこれだったのだ。彼女が会社から貰ってきたのを一緒に見た記憶がある。
 46.9kgはgに換算すると46900g。その法則が正しければ、もう一方の数は5gということになる。
――嫌な予感がした。
 台所に置いてあった手紙の束を取って戻り、鏡台の左端から古い順に並べる。二日目は『0g』と『45771g』、三日目は『0g』と『44882g』。右へ行くごとに数が減っている。一つ目の数は5gが0gになった以降増減はみられないが、二つ目の数は1129g、889gと一日に1000g前後、五日で5471g減少していた。これが夏実の体重だとすると、減り方が尋常ではない。
 数字の羅列を追っていた視線が文字の上で止まる。
『お肉、美味しい?』
 置き手紙を読むたびに感じていた違和感。
『お肉、柔らかい?』
 なぜいつも肉のことばかり訊ねるのか。
『お肉、食べてくれてありがとう』
 なぜこうも毎日、味付けの濃い肉料理が続くのか。
 ふと顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。汗で額にへばり付いた前髪の隙間から、上目使いに凝視するその両眼には、怯えの色が浮かんでいる。
――これ以上、考えるな。
 青ざめ、強張った表情がそう告げている。自分自身それが最善であると理解している。だが一瞬でも疑念をいだいてしまうと、あとはもう坂道を転がるように加速度をつけ、思考は最悪な結論へと向かい落ちて行く。
 急激に減る体重、震える文字、連日食卓に上る肉料理、乳臭くない牛肉、人間の爪に似た破片、二つの眼球、しくしくと痛む腹――。
 ぐにゅ、ぐにゅ、と胃の粘膜が蠕動(ぜんどう)する。
 俺は悪心をこらえながら、居間のパソコンを立ち上げた。検索ボックスに『胎児 体重 八週目』とキーワードを入力しEnterキーを押す。瞬時に(おびただ)しい数の検索結果が表示された。
 頭蓋骨の中で喧しいくらいに警鐘が鳴り響いている。マウスを握る手が滑稽なくらいわななき、思うようにカーソルを合わせることができない。網膜に焼き付いた鏡の中の自分が唾を飛ばし、今すぐ電源を切れ、と喚いている。掌にじっとりと汗が滲む。見たくない、知りたくない、もう止めてくれ、と本能が抗っている。けれど俺の人差し指は、怯える俺を嘲笑うかのように小刻みに震え、左ボタンをクリックした。
 カチリと乾いた音が無情に響き、白黒画像がモニターに映し出された。ざらりとした質感のそれは、夏実が満面の笑みで俺に見せた超音波写真とよく似ていた。でこぼことした黒い断面にへばり付く、短い四肢の歪な達磨。長い時間直視していると今にも動きだしそうで、たまらず視線を外す。と、写真の下に記された文字が目に入った。妊娠八週目・頭臀長(とうでんちょう)約20mm・体重約5g。戦慄が走る。5g、置き手紙にあったのと同じ数。二日目には0gになった――。
 俺はトイレに駆け込み、便器に顔を突っ込んで嘔吐した。()えた臭いが鼻を突く。げえ、げえ、とえずく自分の呻き声でまた胃の内容物が込み上げてくる。引きも切らずに襲ってくる激しい吐き気で、内臓が裏返しになって口から出てきそうだ。胃酸と胆汁の刺激で、こめかみに(きり)を突き立てられるような鋭い痛みが走った。
 ひとしきり吐いて顔を上げると、便器の溜水面に浮かぶ吐瀉物が視界に入った。水にたゆたう固形物の間にもぞもぞと動くものがある。目を凝らすと、それは薄い皮膚に覆われた小さな手足だった。切り刻まれ、噛み千切られた肉塊がちゃぷちゃぷと水音を立てている。皮下の血管の透けて見える四肢は、ばらばらになった肢体を探し求めて水面を浮きつ沈みつ移動する。肉片と肉片がぶつかると、ぐちゅり、と粘液質な嫌な音を発しながら融合し、しだいに肉塊は大きくなっていった。けれどもそれは、頭も手足も指も目も本来の位置からは大きくはずれて、異形なものへと変容を遂げようとしていた。
 俺は半狂乱になって洗浄ハンドルを捻った。何度も何度も。轟音とともに勢いよく水が流れ、肉塊がもがくようにばたつきながら渦の中へと吸い込まれて行く。結合しそこなった数個の肉片も、吐瀉物も跡形もなく流れ去る。
 やがて便器の底が見え、俺は息を吐き、ハンドルから手を放した。サイフォン現象により、空になった便器に再び水が上がって来る。透き通った水が規定の量に達したころ、水底からぼごっ、ぼごっ、と嘔吐するような異音とともに赤黒い水が逆流して来た。溜水面でいくつもの気泡が弾け、血飛沫さながら辺りに飛び散った。俺が悲鳴を上げると、ひときわ大きな気泡がぱちんと弾け、白目のどろりとした眼球が二つ、恨めしそうにこちらを睨んだ。

 トントントン、とリズミカルな包丁の音がする。
「帰ってたのか」
 言って、俺は台所に立つ夏実を背後から抱きしめた。いつもなら恥ずかしがって身をよじる彼女が、なんの抵抗もみせない。気をよくしてさらに腕をからめる。
「今日は、あなたの好きな麻婆豆腐よ」
 夏実がくすぐったそうに笑う。
「ブロック肉を包丁で叩いて粗引き肉にすると、肉の粒の食感が楽しめて美味しいんだって」
「へえ、そうなんだ」
 俺は夏実の肩越しからまな板の上を覗き込んだ。細切れにされた肉片。赤身と脂肪が交ざり赤と白の(まだら)をなすその小山の中から、小指の爪ほどの小さな顔がこちらを仰視していた。薄い膜が張った濁った目の、片方は肉に埋もれて見えない。歯のない口が苦しげにぱくぱくと動いた。
「ひぃ」
 俺は夏実の体から飛び退いた。夏実がゆっくりと振り返る。白いエプロンの下腹部が赤黒く染まっている。ぽっかりと開いた穴。まるで暗い洞窟のようなそこからまな板の上に伸びる紐状の物体。
「どうしたの?」
 夏実が不思議そうに小首を傾げる。やがて彼女は俺の視線の先に気付くと、
「あら、いやだわ」
 くすくすと笑い、べったりと血糊にまみれた(へそ)の緒を、包丁でぶつりと切った。



 鼓膜をつんざく悲鳴で目が覚めた。かっと見開いた両眼に薄暗い天井が映る。俺は上半身を廊下、下半身をトイレに投げ出した格好で仰向けにひっくり返っていた。荒い呼吸が内耳にこだまし、破裂しそうに脈打つ心臓が肋骨を内側からみしみしと押し上げる。水を浴びたようにびっしょりと濡れた肌は、火照っているのに鳥肌が立っていた。
 夢と現実の境界が曖昧で頭が混乱していた。自分の内側から発せられる耳障りな音の向こうに耳を澄ます。物音一つ聞こえない静まり返った部屋。誰もいない。夏実は出て行ったっきり帰っていない。ならば今見たものは夢だ。
 そう安堵したのもつかの間、唐突に玄関の外で金属音が響いた。
 俺は息を呑み、硬直した体の中で唯一自由になる目玉を、恐る恐る玄関の方へと動かした。同時に、ドアのシリンダーに鍵が差し込まれる音がする。視線の先でゆっくりとサムターンが回転し、ドアが開いた。夕焼けにシルエットが浮かぶ。逆光で顔は見えない。
「あんた、なにしてんの?」
 呆れた口調が言い、玄関の灯りがついた。戸口に現れたのは夏実とは似ても似つかない小太りな女だった。
 女は朱色地に白い小花模様の風呂敷包みを抱え、足だけで器用に靴を脱ぐと、無遠慮に部屋に上がり込んだ。そうして、どすどすと床を踏み鳴らしてこちらに近付いて来ると、
「そんな所で寝てると風邪ひくわよ」
 一瞥を与え、勝手知ったる他人の家で、すぐさま廊下右手の台所へと姿を消した。
 俺は口元を拭って体を起こした。散々吐いて胃が空になったのか、吐き気はだいぶ治まっていた。それでもまだ乗り物酔いに似た胸のむかつきは続いている。俺は胃をさすりながら女の後を追った。
「母さん、どうして?」
 部屋の中央のテーブルで包みを(ほど)いている母の背中に問いかける。
「どうしてもこうしてもないわよ。夕飯持って来てあげたんじゃないの。感謝しなさいよ」
 母は振り返ることなくおざなりに答えた。風呂敷の結び目が相当固いらしく、それを解くのに全神経を傾けているふうだった。
「違う。どうして母さんがここの鍵を持ってるのか訊いてるんだ」
「なっちゃんに借りたのよ」
「夏実、そっちにいるのか」
「そうよ。それがなに? ――ああ、やっと解けた」
 包みの中には、両手鍋と惣菜の詰まった半透明のタッパーが積み重ねられていた。母は鍋をコンロへ運ぶと、おたまはどこかしらねえ、とひとりごちながら辺りを物色しはじめた。
「今までずっと母さんが料理を運んでくれてたの?」
「ずっとじゃないわよ。ええと、いつからだったかしら。――そんなこといちいち憶えちゃいないわねえ」
「そうか」
 食器乾燥機の中におたまを発見した母はコンロの火を点けた。バーナーを覗き込んで火力を調節している母に、俺はおずおずと尋ねた。
「……ところで、昨日のブリ大根、め……目玉が入ってたんだけど」
 言葉にしたとたん口の中に、目玉を噛み潰した瞬間の、あのゼラチン質のずるりとした食感が蘇った。ぶるりと身震いする。
「そりゃあ、魚のアラを煮てるんだから目玉の一つや二つ入ってるわよ。で? それがどうしたの」
「え、……いや、ちょっとグロテスクだったからさ」
 母のあまりにもあっけらかんとした態度に、魚の目玉に本気で怯えていた自分が恥ずかしくなった。
 そうだ。あれは魚の目玉に決まっているじゃないか。あれが人間の――夏実の眼球であるはずがない。俺はどうかしていたんだ。
「なに言ってんだか。魚の目玉を食べると頭が良くなるのよ。DNAだっけ?」
「それを言うならDHAだろ」
 いつもなら軽い苛立ちを覚える母の些細な言い間違いも、今は、身の毛がよだつ悪夢の中から日常へと引き戻してくれる救いの言葉に思えた。母と話していると、みぞおちの辺りに(おり)のように溜まった不快感が徐々に流れ落ちて行くのを感じる。
「あぁ、そうそう、それよそれ。そのDHなんたらが頭に良いらしいじゃないの。あんた馬鹿なんだから食べときなさいよ」
「なんだよ馬鹿って」
 俺は苦笑した。
「馬鹿じゃないの、なっちゃん泣かせて」
 軽口は一転し、母が強い口調で叱責した。
 確かに、俺は馬鹿だ。夏実を傷付けたばかりか、夏実がその胎児と自分の肉を俺に喰わせている、などという妄想に駆られていたのだから。自分の肉体を切り刻んで料理するなど愚かしいにもほどがある。第一、脚はともかく腕を切ってしまったら調理そのものができないではないか。今にして思えば、なぜそのようなおぞましい考えに至ったのか、我ながら理解に苦しむ。精神的に参っていたところへ体調不良も重なったものだから気が変になっていたのかもしれない。
「それで? なっちゃんのことどうするつもりなの」
 静かに言って、母が鍋の蓋を開けた。味噌に混じって葱と生姜の香りが漂う。子供の頃から嗅ぎ慣れた、母の豚汁の匂いだ。
 俺は決心した。
「一緒になるよ。俺と夏実とお腹の中の子と三人」
 そうだ、それがいい。最初からこうしていればよかったんだ。今すぐ夏実を迎えに行こう――。
「そう」
 母は満足気に深く頷くと、鍋の中身をぐるりとかき回し、
「よかったわねぇ、なっちゃん」
 低く囁いた。

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