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羽化

作者:
 人間は、雑食動物だから不味いのだという。無論誰かが人を食った上でそんな意見を述べているのではないのだろうが、その見解には、概ね同意している。僕も一度、肉食のものを食べてみたことはあるが、美味いとは到底言えない味だった。彼らが食ったものの味が混ざった上、舌触りも不快だった。
 その点、蝶はいい。僕は花から花へと忙しなく飛び移る蝶を眺めながら、覚えず口元に笑みを浮かべた。ゆっくりと近付き、ストローのような口を伸ばしたところを見計らって、蝶の羽をそっと摘む。
 色鮮やかな羽の、すぐにでも破れてしまいそうな儚さが堪らない。細い胴体から薄い前翅をもぎ取り、舌の上に乗せる。蛾と違って鱗粉は薄いが、舌の上で蕩けてしまいそうな感触がよい。前翅を一枚飲み込み、次は後翅を取る。片翼となった蝶はあまりにアンバランスで、少し可哀そうに思えた。
 蜘蛛などはこの羽を残してしまったりするが、僕はそんな勿体無いことはしない。煌めく羽を四枚全て口に入れ、胃に収める。そうしてようやく、やわらかな胴体部分を食べる。好きなものは、最後に取っておくのだ。煌びやかな羽を失い、細い足をばたつかる蝶は、幼虫へ退行したようにさえ見えた。
 手足を力なく震わせる蝶は僕の手の上で、もがくだけもがく。蝶は蛾と違って目で世界を認識しているというが、実際はどのように見えるだろう。僕のことを、認識しているだろうか。そうだとしたら、それはすてきな事だと思う。
 芋虫のようになった胴体を、口に放り込む。やわらかな腹に歯を埋めると、唾液が止め処なく分泌される。生温い体液が流れ出し、唾液と交じり合って舌の上を流れて行く。かすかな苦味と、混じりけのない仄かな蜜の味が口いっぱいに広がると、酩酊したような錯覚にさえ陥る。
 やはり蝶は良い。昼間に出歩くしか捕える術がないから面倒だが、苦労に見合った満足感を僕に与えてくれる。
 蝶は一年じゅう手に入る訳でないから、僕の主食は専ら蛾の方だ。別段、蛾が嫌という訳ではない。むしろ彼らには蝶にないものを持っているから、また違った格別な味わいがある。
 蛾は殆どの個体が夜行性である為、体温を保つために蝶よりも濃い鱗粉を纏っている。あのぬるりとした舌触りが、僕を恍惚とさせる。腹部も蝶より遥かに肉厚で、噛みしめた時の感触が良い。幼虫は多くが毒を持っている為食べるには向かないが、代わりに成虫は素晴らしい。ものを食べない種類が多いから、余計な味がしない。毛の生えた触覚の舌触りもまた、心地が良い。
 そもそも蛾と蝶に明確な違いはない。毒がある方が蛾だの、色が綺麗な方が蝶だの、曖昧な識別方法はあるが、毒を持つ蝶はいるし、蛾でも昼行性の蛾は、目に鮮やかな色をしている。夜行性の蝶も存在するし、胴が太い蝶もいる。それぞれに違いはないのだ。だから、どちらも美味であると僕は思う。
 五頭ほど捕まえて胃袋に収めると、満腹になった。夏は良い。甘い蝶が沢山飛んでいるし、夜に出てくる蛾の数も、他の季節の非ではない。これで今年も、無事に越冬出来るだろう。
 このところ、体の色が少々濃くなってきているように感じる。日常的に鏡を見る訳ではないので、たまに見るとその違いがはっきりと分かる。手足の動きも、どことなく硬い。以前は狙いを定めればすぐに捕まえられたのだが、最近は五頭のうち一頭は失敗する。
 もしかしたら、食べた蛾の中にドクガが混じっていたのかも知れない。痒みを引き起こすだけだと思っていたが、食べてどうなるかは考えていなかった。
 僕は帰宅して早々、布団に潜り込んだ。全身が重い。体内で何かが蠢いているような感覚がある。丸呑みした蝶が、胃の中で暴れているのだろうか。そう思うと、少し可笑しい。
 体の表皮が、むず痒い。

 その少年は、一度も学校へ来た例がなかった。小学校には一週間に一度は登校していたというから、完全に登校拒否の状態となったのは、つい最近のことなのだろう。片親だというが、子供を無闇に甘やかさないで欲しいものだ。
 学校側からせっつかれ、私は嫌々彼の家へ行く事となった。カウンセラーがいないのだから、担任が行くしかないのは分かっている。しかし、新米教師が一人行ったところで、登校拒否児童の心を動かせるとは到底思えなかった。
 番地を確認しながら、地図を頼りに炎天下の中を歩く。既にびっしりと全身に汗をかいており、濡れたシャツが張り付く不快な感覚に、苛立ちが募る。駅から離れて、一時間ほど経っただろうか。地方の片田舎でもあるまいに、こんな遠くへ住居を構える必要がどこにあるのだろうと、私は呆れた。
 のどかな田園風景の中を更に進み、電柱を確認する。ようやく目当ての番地に近付いてきたようで、私はほっと胸を撫で下ろした。それにしても、こんなことならタクシーでも拾ってくれば良かった。まさかこんなに遠いとは、思わなかったのだ。
 小さな家の門柱に掲げられた表札に、目当ての名前が書かれているのを発見し、私は足を止めた。電柱の位置から考えれば、ここで間違いないだろう。
 古い家だ。母屋自体が狭ければ、庭も相当狭い。いや、庭一面に植えられた背の高い木々や、伸びっぱなしの雑草が狭く見せているだけなのかも知れない。荒れ放題の庭を見る限り、家人は不精な性質なのだろう。
 私は一つ深呼吸してから、呼び鈴を押した。少しの間の後、女性の声がインターホンから聞こえてくる。私が名乗ると、女性は慌てた様子で、少々お待ちくださいと言った。学校の人間が、事前に連絡を取っていた筈なのだが。
「すみません」
 突然肉声が聞こえたので、私は思わず肩を震わせた。錆びた門の向こう、家の中から痩せた女性が顔を出している。随分と疲れた顔をしているが、それもまあ、当然だろう。女手一つで育てていた息子が引き篭もってしまえば、疲れもする筈だ。
 このやつれた様子では、庭の手入れもまともに出来はしないだろう。私は少し、彼女に同情した。
「失礼します」
 自己紹介もそこそこに通されたリビングは、外よりは涼しいという程度だった。クーラーの効いた部屋を想像していた私は、それだけで落胆する。これでは汗も引かない。
 何より、床が滑る。靴下越しにでも、随分と長い間、掃除していないであろうことが分かった。
 ひどく喉が渇いていたが、出された麦茶に早速手を出すのも憚られた。私は女性が席に着くのを待って、口を開く。
「それで、息子さんの事なのですが……」
 やつれた女性は、深く項垂れて溜息を吐いた。見るからに痛々しい母親の様子を見て、申し訳ないような気分になる。
「電話口でも申し上げましたが、もうすぐ、出てくると思うのです」
 ぼそぼそと喋る彼女の声は、聞き取りづらかった。電話での会話の内容を聞かされていない私は、思わず眉をひそめる。
 ぷうん、と虫の羽音が聞こえた。
「出てくる、ですか?」
「はい。もうすぐなんです」
 女性はちらりと背後の扉を見て、私に向き直ったかと思えば、やはり俯いた。出てくるとは、息子がもうすぐ部屋から出てくる、という事なのだろうか。直接話が出来るなら、それに越したことはない。
 解けた氷が、グラスの中で涼やかな音を立てた。私はそれに誘われるように、麦茶を一口飲む。妙に苦かった。
「もう、さなぎになりましたから。もうすぐですよ」
 そう言って、母親は唇を歪めた。笑ったのだろうと推測したが、その表情は、とても笑顔とは呼べない不気味なものだった。室内は暑いというのに、背筋を寒気が走る。
 いや、生徒の保護者を不気味だなどと思ってはいけない。私はそう考え直し、居住まいを正す。
「さなぎとは……どういうことですか?」
 出来る限り静かに、私はそう言った。暗い笑みを浮かべる女性は、どこか嬉しそうに、目を細めた。
「そのままの意味ですよ」
 そのままの意味とは、どういう事なのだろう。何かの比喩だろうか。もしかしたら、子供は既に改心し、学校へ通う準備をしているということなのかも知れない。そうだったら、訪れたタイミングが悪かった。
 それにしても何故この部屋は、こうも蒸し暑いのだろう。手で仰ぐのも失礼に当たるような気がして、私はハンカチでそっと汗を拭う。先ほど飲んだ麦茶の苦味が、口の中に残っている。
「幼虫の期間が長くて本人も心配していたんですが、やっと、成虫になるのです」
「ええと、子供の成長が遅い、ということですか? それは精神的な……」
「でも、もうさなぎになりましたから。もうすぐですよ。少し時期は外れていますが、今年は冷夏だったから」
 がさ、と音がする。全身の毛穴から、どっと汗が噴き出した。
 女性はゆっくりと椅子から立ち上がり、背後の扉へ近付く。ドアノブに手を掛け、彼女はそうっとドアを開いた。しかし何かに気付いたように、ああ、と呟く。
「あら、もういない」
 背中を汗が伝っていく感触が、過敏になった神経を刺激する。開かれた扉の向こうには、ベッドが一つ見えた。その上には平たい掛け布団が置かれてあり、下には何もない。
 いや、何もないわけではなかった。掛け布団の下に、何かある。茶色いあれは、毛布か何かだろうか。見る限り、毛布のようでもない。この時期にあんな分厚い掛け布団を使った上、更に毛布を掛けるとは、正気の沙汰ではない。
 あれは何だ。乾いた茶色のあれは、一体何だ。
 がさりと、新聞紙で壁を擦ったような音が聞こえた。
 母親はきょろきょろと室内を見回し、ああ、と呟いた。私は思わず身を竦める。
「そんなところにいたのね。先生がいらしてるわよ」
 母親の視線は、斜め上を向いていた。何がいたというのだろうか。壁に何がいるというのだ。
 皮膚の下を、虫が這っているかのような寒気に襲われる。私は身動きが取れないまま、室内を見つめていた。
 額から、冷たい汗が滴り落ちる。母親はそっと手を伸ばし、壁に向かって何かを撫でるような仕草をした。そしてリビングへ戻ってくる。
 彼女の手に、粉のようなものが付着している。パールのような輝きを放つその粉は、私の目には蝶の鱗粉のように見えた。
 私はゆっくりと椅子を引き、そっと立ち上がる。母親が不思議そうに私を見ているが、私は部屋から目を逸らす事が出来なかった。開け放たれた扉の向こう、天井からはらはらと、何か白い粉のようなものが落ちる。
 がさり。

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